街道に戻り、まっすぐな桜並木の贅沢な農道をいく。ちょうど田植えの時期で、耕運機が田植えにそなえて忙しく水をはった田んぼの土をならしている。家棟川を渡り小南集落にはいる。左手に茅葺の門を構えた農家の前を通り過ぎる。道は日野川の堤防にちかづくにつれて大きく左にカーブし、県道に合流して仁保橋をわたる。橋の架け替え工事が始まったばかりだ。橋に歩道はなく、白線の内側は肩幅より狭い。車には中央線に寄ってもらうしかなかった。新しい橋にはきっと分離された歩道がついていることだろう。
道向かいにある郷土資料館は西村太郎右衛門宅の跡地である。西村家は屋号を綿屋と称し、蚊帳・木綿を取り扱っていた。太郎右衛門は2代目嘉右衛門の次男として、慶長8年(1603)にこの地で生まれ、20歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へと旅立った。25年後帰国のため長崎まで帰ってくるが、鎖国により上陸が許されず、やむを得ず引返し安南の地で没した。 彼が、故郷への思いを託し絵師(菱川孫兵衛)に描かせた絵馬「安南渡海船額」が日牟礼八幡宮に奉納されている。| 八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する「すあい」に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、「市助(いちすけ)町」とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助(ひとつやなぎいちすけ)直末が居住していたことに由来するといわれています。 近江八幡観光物産協会 |
| 鍵之手町 朝鮮通信使が通った道『朝鮮人街道』がここで鍵のように曲がっていることによったと考えられます。八幡城下の東の入口あたりになり、高札場があった関係で旅籠屋が設けられていました。慶安年中(1648〜1652)には幕府代官により旅籠屋仲間を作ることを許されました。 近江八幡観光物産協会 |
「上稲葉」交差点で下稲葉町と上稲葉町の境界を成して、くの字型に旧道がのこる。来迎川橋の袂に7体の小さな石仏が一列に並んでいる。のどかな田んぼのあぜ道に幼いこどもがしゃがみこんで、風を切って前を通り過ぎる車をあきもせず数えているようだ。来迎川は「不飲川(のまずがわ)」ともよばれ、中山道、愛知川宿の南口をよこぎっている。そこの説明板によれば、なんでもこの川の水を飲まないのは水源の池で平将門の首を洗ったためだという。| この天然水は二〇〇三年秋、当主掘削師水専門師により、長期にわたり水質調査をしたところ良質と知り西國三十二番札所観音正寺の湧き水でこの地を清め湧き出た水です。 鈴鹿連山での降雨、降雪など四季を通して豊かな木々、草花を育み、地層深く浸透浄化繰り返し、地下一〇三メートルより汲み上げた約四〇〇年前の水と伝えられています。 自然の大いなる力とミネラル分を多く含んだ天然湧き水です。 この夢見日夏の里「甘露閼加」の水は仏様、神様に供える清きおいしい飲料水であります。健康に良い天然水を毎日利用することが現代の養生順です。水道法四十六項目すべてクリアした水です。安心してご利用ください。」トミロン ミネラルウォーター |
| 橋本町歴史 江戸時代、芹川(善利川)に唯一架かっていた橋のたもとに立地することから橋本町の町名が生まれた。 1603年(慶長8年)、津軽屋加藤与兵衛(佐和山城下から移住)や城下町西部の武家屋敷地域(藁屋町)から当町へ移住した町人等により城下町建設当初より町人の町として栄えて来ました。第一回朝鮮通信使、1607年(慶長12年)、復路の時は町並みとして出来上がっており、彦根城と並んで江戸時代の歴史を刻んできた町であります。この時の公儀朝鮮通信使案内書によれば橋本町は、家数50戸、男120人、女140人と記してあり、江戸時代260余年、当町を10回往来しております。 橋本町は早くから市が開かれ、1・6の市、2・7の市、3・8の市等、日替わりで賑やかであり、中仙道の高宮方面から彦根城下に入る道筋に位置することで、多くの旅人・文人が往来した町筋でもありました。 |
「銀座町」交差点を左折する。古くは「久左の辻」とよばれた繁華街の中心地である。辻の古称は、藩政時代この界隈一帯を所領していた豪商、近藤久左衛門の名に由来している。古いたたずまいの店にまじって銀行、百貨店などがならぶ銀座街を200mほどいったところで右に折れ、中央一番街を北に進む。一筋目の左側奥に彦根の台所といわれた「市場商店街」のアーケード入口がみえ、脇に彦根城外濠虎の口の一つであった「高宮口御門跡」の碑が建っている。中山道高宮宿に通じる道の起点で、ここに番所があった。