朝鮮人街道



野洲近江八幡安土能登川彦根鳥居本
いこいの広場
日本紀行


織田信長の時代、近江の国を縦貫する中山道のうち、野洲から鳥居本宿までの間、城下安土をとおり、もっと琵琶湖に近くて、便利で景色のよい新しい幹線道路が造られた。その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に通ったことから、吉例の道として将軍上洛の際に使われるのが慣行となった。参勤交代にも使わせなかったこの吉道を、朝鮮からの慶賀使節団である朝鮮通信使にだけは使わせたのである。鳥居本から、高宮・愛知川・武佐と、淡々とした湖東平野をあるく中山道にくらべ、彦根・安土・近江八幡と、城下町や琵琶湖の水郷地帯など変化に富む朝鮮人街道の風景のあでやかさはどうであろう。朝鮮人街道の沿道に住む住民の密度の濃さはどうだろう。大きな湖をもたない朝鮮の人たちは琵琶湖にこよなくあこがれていた。

朝鮮通信使は二代将軍秀忠のとき慶長12年(1607)を初回として、その後約200年間に渡り都合12回来朝している。朝鮮通信使は釜山から海路、対馬を経て瀬戸内海にはいり、室津などによりつつ、大坂から淀川を遡上して京に入った。京からは陸路、中山道・美濃路・東海道をついで江戸に至ったのである。朝鮮人街道は中山道の守山宿をでて、野洲の行畑から分岐する。京を発った通信使の一行は守山宿で一泊したあと、近江八幡で昼の休憩をして彦根で泊まることを常としていた。中山道では500人を擁する大使節団を受け入れる宿場はなかったのではなかろうか。

朝鮮通信使を語るとき忘れてはならない近江人がいる。
雨森芳洲 (1668〜1755)といい、伊香郡高月町雨森の生まれ。木下順庵に儒学を学び、新井白石、室鳩巣らと並び木門十哲と呼ばれた。1689年対馬藩に仕え、中国・朝鮮語を修めて朝鮮外交に才腕を発揮、朝鮮通信使の応対役を務めている。彼の誠実、まじめな態度に朝鮮の高官も深い感銘を受けた逸話が伝わっている。朝鮮語会話や朝鮮との外交心得を示した本を書いた。墓は対馬厳原にある。



野洲

中山道と朝鮮人街道の分岐点に立っていた道標が、中山道をすこしもどった蓮照寺の境内に保管されている。「左はちまんみち」とあるのが別称「朝鮮人街道」である。

街道は野洲小学校の西側を
祇王井川に沿って進み、県道155号をくぐったところで、JR野洲き電区分所によって分断されている。久野部跨線橋で線路の西側にわたり、線路沿いの旧道にもどる。中ノ池川をわたり、つづいて祇王井川を渡るところで、川にそって轍がのこる細道がつづいている。いかにも旧道にみえ、たどっていくと生和(いくわ)神社の横で途絶えていた。集落の裏側をいく位置にあたり、単に農道の一部なのかもしれない。

生和神社による。小振りながら唐門の回廊をめぐらせた本殿は凛々しく気品がある姿だ。平安時代の草創で、鎌倉時代に冨波(とば)荘の領主鎌倉左衛門次郎が、祖先を氏神として祀ったとも伝えられている。冨波乙から冨波甲にうつる境が鍵の手をなしていて、角に長屋門を構えた立派な家が建っている。

落ち着いた冨波の町並みをぬけ永原地区に入る。近くに徳川家康が関ケ原合戦の後上洛の際に宿泊したという永原御殿の跡があるという。もうちょっと行けば中山道の守山宿か、草津までいけるのに、わざわざここに泊まったのはなにか訳でもあったのか。

祇王幼稚園からすこしいった左手に日本家屋の特徴をふんだんに取り入れたモデルハウスのような建物がある。向かいに近代的な建物の白井医院があるから、その本宅かもしれない。ともかく切り妻屋根には煙出し、低い二階の白壁には虫籠窓をきり、長屋つくりの一方には焼板に紅殻格子の塀を囲み、玄関をはさんで他方には出格子に駒寄せを配している。それでいて全体には簡素で、重々しいところがない住宅なのである。農家ではなくどちらかといえば商家に近い。道向かいの空き地の奥に永原下町自治会館があるが、その道路に面して由緒ありげな薬医門と一対の石灯籠、そして電柱には屋根を取り付けて半鐘が吊るしてある。廃寺跡か、もしここが宿場であったら本陣跡かと思われた。

祇王井川にはじまり、この辺りは学校、幼稚園のみならず郵便局の名前まで「祇王」である。平清盛のきまぐれに運命をもてあそばれた白拍子祗王は野洲の生まれであった。母、妹の祇女と共に京に出て白拍子となり、清盛の寵を得たのも束の間、加賀出身の新しい白拍子仏御前にとってかわられた。結局は仏御前ともども4人そろって仏門に入り念仏往生したこと、「平家物語」が語るところである。祗王井川は祗王が清盛に頼んでつくってもらったとか。

姉妹二人の菩提を弔うために村人が建てたという
祇王寺をたずねる。
江部交差点で県道2号を横切り、野洲北中学校の西側を北にあがると左手に妓王寺への案内標識がでてくる。一見城下町の路地を思わせるような整然とした家並みである。入っていくと徐々に集落の緊張がほぐれてきて、竹やぶの前に小さな寺があった。門は閉ざされていて誰も住んでいる気配がない。鍵は近所の人が管理しているらしく、そこをたずねるようにと指示書きがあった。いっそ開放しておけばいいのに、と思う人は多かろう。そこから県道32号をわたったところに
祇王屋敷跡がある。あたりはただ広い田園地帯である。二人はここで生まれた。ところで「ぎ」の字が「妓」であったり、「祇」であったりしているが、気にしなくていいことか。

街道に戻り、まっすぐな桜並木の贅沢な農道をいく。ちょうど田植えの時期で、耕運機が田植えにそなえて忙しく水をはった田んぼの土をならしている。家棟川を渡り小南集落にはいる。左手に茅葺の門を構えた農家の前を通り過ぎる。道は日野川の堤防にちかづくにつれて大きく左にカーブし、県道に合流して仁保橋をわたる。橋の架け替え工事が始まったばかりだ。橋に歩道はなく、白線の内側は肩幅より狭い。車には中央線に寄ってもらうしかなかった。新しい橋にはきっと分離された歩道がついていることだろう。

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近江八幡


野洲町から近江八幡市にはいり、すぐ堤防を左におりて十王町の物静かな町並みの中にはいっていく。新しい「朝鮮人街道」の石碑は、朝鮮通信使をむかえて400年を記念して昨年たてられたばかりである。つづく江頭町も土壁の建物がのこる旧街道らしい趣をたたえている。加茂町で県道に合流して小船木町で
白鳥川をわたる。日野川の仁保橋と対照的で、ここには歩道専用の橋が別に架けられている。

このあたりは昔琵琶湖に通じる水路があって米を積み出す船着場があった。歩道橋の袂にすえられた小さなモニュメントに当時の様子を伝える写真のレリーフパネルがはめ込まれている。写真は擬宝珠のある欄干を設けた橋から撮影されているようだ。白壁の土蔵には米俵が積み重ねられていたであろう。岸辺には数艘の田舟が泊まってみえる。背後にみえる家はモダンで、現今の住宅と変わりない。写真は昭和の時代よりも古いものではなさそうだ。パネル写真の左端に小さくみえる橋は、今も下流に架かっている橋に似ている。

反対側にももう一枚の写真レリーフがあり、川をゆく簡易屋形船は観光用であろうか、なかに客の姿が見える。川幅はひろく葦で組まれた生簀風のものがみえ、場所は河口付近か内湖であろう。一切の説明書きがないので、二枚の写真がそもそも白鳥川の風景かどうかもわからないが、水運の盛んであった小船木町のどこかにちがいない。日本の原風景が橋の袂にさりげなく残されていた。

ここから琵琶湖にむかって3kmほどいったところに、万葉集にも歌われた景勝の地、
水茎の岡がある。高さ147mの低い岡の頂上に、16世紀の初頭九里(くのり)氏によって水茎(すいけい)岡山城が築かれた。そこで室町幕府12代将軍足利義晴が生まれている。足利義晴は秀隣寺で朽木氏の世話になり、最後は坂本穴太(あのう)で病没した、近江に縁深い人物である。岡山は内湖にうかぶ島だったが、干拓により陸続きとなった。朝鮮人街道からも遠く比良山系を背に広がる田園の中にポツリと浮かぶ岡山を見ることができる。

白鳥川を渡って左に堤防を下り、
小船木町の集落を通り抜けた突き当たりに「右長命寺 左京みち」の道標がある。京みち/京街道は朝鮮人街道のこと。左の観音山に願成就寺がある。593年聖徳太子の勅により建立された。勅願寺48ケ所の最後に建立されたことから、願成就寺と号された。急な石階段を上り詰めると境内にちらばって3基の芭蕉句碑がある。それぞれに立て札がありそれによると芭蕉の没後100年ごとに建てられたようだ。必ずしも近江に関係する句ではない。

   100年忌  一声の江に横たふやほととぎす
   200年忌  比良三上雪さしわたせ鷺の橋
   300年忌  五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん


400年忌までまだ87年あるが、次の句は何だろう。誰が決めるのだろう。とりとめのないことを考えながら、急な石階段をよいしょ、よいしょと下りていった。

道標の前から西京街道商店街を東に進む。最初の交差点の右手に
本願寺八幡別院がある。築地塀の白漆喰がまぶしい。塀が高くて内の様子がうかがえない。見たければお金を払って入って来たら、と取りすましているように見える。守山宿を出た通信使の一行は八幡で昼食をとる。正使・副使・従事官ら三使以下、上、中官が八幡別院で、他は近くの正栄寺や商家に分宿した。


池田町4丁目の辻を右折して、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが手がけた一連の洋風住宅が集まっている一角を見に行く。モデルハウスだったというから今の住宅展示場である。スタイルはコロニアル調で、いずれの家も目地の太いレンガ塀で囲っているのが特徴的だ。


京街道商店街にもどる。アーケードは健在だが、半分以上の店が閉じていて、活気がない。
小幡町あたりから人出がめだつようになる。この辺に、五個荘の小幡商人が移り住んできた。遠隔地の独占的通商権を得て活躍してきた近江商人は、信長の楽市楽座設創設以降、交易拠点を基礎にして活動するようになった。天正13年(1585)豊臣秀次が八幡城を築き、信長の安土にならって城下に楽市楽座を設けてから、多くの商人が八幡へ移ってきたのである。

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新町が八幡商人の拠点であった。街道と交叉する角に、「左京街道 右町なみ 新町通り」と彫られた標石が立っている。その新町通りには八幡商人の本宅がならぶ。主人が江戸や大坂などの大店に滞在する一方で、商家の妻は本宅で留守を預かった。地元で採用した丁稚の教育も本宅の役目であった。


辻の南角は
旧伴庄右衛門家本家。伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といった。江戸日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商った。現存する建物は7代目伴庄右衛門能尹が文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建てたものである。明治時代になって当時の八幡町に譲渡され、小学校・役場・女学校・近江兄弟社図書館・近江八幡市立図書館を経て、平成16年より市立資料館の一部として公開されている。

道向かいにある郷土資料館は
西村太郎右衛門宅の跡地である。西村家は屋号を綿屋と称し、蚊帳・木綿を取り扱っていた。太郎右衛門は2代目嘉右衛門の次男として、慶長8年(1603)にこの地で生まれ、20歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へと旅立った。25年後帰国のため長崎まで帰ってくるが、鎖国により上陸が許されず、やむを得ず引返し安南の地で没した。 彼が、故郷への思いを託し絵師(菱川孫兵衛)に描かせた絵馬「安南渡海船額」が日牟礼八幡宮に奉納されている。

新町通りの両側は、板塀に見越しの松を配し、端正な出格子の商家が建ち並ぶ。右側の黒々とした住宅は
森五郎兵衛邸で、公開されていない。森家は伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商った。やがて江戸日本橋や大阪本町に店を構え呉服、太物などを扱った。昭和6年(1931)森五商店東京支店として、日本橋室町に7階建てのモダンなビル(森五ビル、現近三ビル)を建てた。昭和を代表する建築家、村野藤吾駆出し時の代表作である。その後森五商店は倒産し、近三商事と名をかえビルの管理会社として現在に至っている。道向かいの歴史民俗資料館は、森家の控宅である。

新町の中ほどに質素な木戸を構えているのは
西川利右衛門家本宅である。西川家は屋号を大文字屋と称し蚊帳や畳表を商い、江戸・大坂・京都に店を構えた。現在の居宅は3代目によって宝永3年(1706年)に建てられたものである。同家は昭和5年に途絶え、建物は市立資料館として公開されている。

新町通りをぬけると
八幡堀に出る。八幡城の掘割で、琵琶湖水運に活用され近江商人と城下町の発展を支えてきた。土蔵の白壁が深緑の水面に映り、両側の石垣から柳が垂れ、花菖蒲が見ごろをむかえている。ときおりご婦人方をのせた屋形船がのんびりと通り過ぎる。舟の速度が風情のペースに絶妙に調和していて、自分の急ぎ足を後ろめたく感じるのが不思議であった。

白雲橋で八幡堀を渡って
日牟礼八幡宮に寄る。大型バスから子供の団体がころがりでるように下りてきた。ノートをたずさえ、チームに分かれて与えられた史跡を見つけに行く宝探しが始まった。日牟礼神社は駐車場と集合場所でしかない。社務所の戸があいていて、中に「安南渡海船額」が展示されていた。重要文化財にしては気安い扱いで、もしかしたら展示品はコピーかもしれない。

通信使の行程にあわせて、少々長めのランチブレイクをとってしまった。街道にもどって道を急ごう。安土まで、旧道の道順を確かめる旅となる。

八幡の中心街仲屋町の交差点を右折する。角に近江肉の店が構えている。この町
「仲屋町」を「すわいちょう」と読む人は少ないだろう。

八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する「すあい」に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、「市助(いちすけ)町」とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助(ひとつやなぎいちすけ)直末が居住していたことに由来するといわれています。 近江八幡観光物産協会

仲屋町上の山岸鶏肉店で左折して上筋通りに入る。左手路地角に「旧朝鮮人街道 左 永原町通り」の道標が立っている。少し先の商家の木戸にアートが飾ってある。「角大」近江屋久右衛門と称して茨城県結城で醸造業を営んで財をなし
結城御三家といわれた近江商人、野間清六の分家である。建物は昭和5年に建築された京風数寄屋造りの町屋で、現在は「ボーダレス・アートギャラリーNO-MA」として公開されている。

通りをさらに東に進んでいくと
鍵之手町の辻に案内板が立っている。

鍵之手町 
朝鮮通信使が通った道『朝鮮人街道』がここで鍵のように曲がっていることによったと考えられます。八幡城下の東の入口あたりになり、高札場があった関係で旅籠屋が設けられていました。慶安年中(1648〜1652)には幕府代官により旅籠屋仲間を作ることを許されました。  近江八幡観光物産協会

その次のやや広い交差点を右折して
縄手町を南下する。音羽町をぬけて、県道2号に出たところに大きな常夜燈がある。このあたりに八幡城下の東口である木戸が設けられていたのだろう。県道を50mほどあるいてすぐに右の旧道に入り、三叉路を左にとって、県道26号を横切る。県道26号は武佐で八風街道(県道421号)につながる道である。

黒橋をわたり二股を右にとり、左折・右折をくりかえしながら広い道に出て、左折したあと鍵の手状に
西庄の集落に入っていく。水路脇の大きな常夜灯をみて、長命寺川を街道大橋でわたり、突き当りを右折して、高木神社の四辻を左折して、県道199号に乗る。東に走るJR東海道本線と併走するようにまっすぐな街道は長田町をぬけて安土町にはいっていく。

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安土

松原橋で山本川をわたり、つぎの十字路を右におれて踏み切りを渡ると、織田信長が近江・加賀両国の浄土宗本山として建てた浄巌寺がある。誰もいない閑散とした境内に、本堂、鐘楼、楼門が行儀よく自分の席についている。この地はもと佐々木六角氏頼が建てた慈恩寺の跡地であり、朱塗りの楼門は慈恩寺のものである。ロングスカートの女性のように、袴腰をつけた鐘楼の清楚な姿が印象的だった。

道は「この先とおりぬけは困難です」と書かれた立て看板から急に細くなっている。ここを左折して鍵の手にまがりそのまま安土駅前にでる。広場に信長の像がある。ここに限らず、駅前広場にある人物像をたくさん見てきたが、写真を撮りたいと思ったことがない。像のイメージが周囲の風景と場違いであることが多い上、像のできばえ、あるいは望遠レンズでのぞいた人物の顔自体が貧素なのだ。

途中、「常楽寺南」の交差点を右折して、佐々木氏の氏神である
沙沙貴神社に寄った。境内は掃き清められてすがすがしい。門柱の神社札の添え書きには宇多源氏、近江源氏、佐々木源氏と、しきりに源氏の流れであることを強調している。古代、狭々城山君(ささきやまのきみ)がこの地域を支配していたらしいが、中世になって宇多源氏を名乗る佐々木定綱が源頼朝より近江守護職に任じられてから、佐々木氏は近江最大の勢力を維持した。境内の一角に中山道の武佐宿にあった道標が移設されている。安永8年(1779)の古いもので、「佐々木大社道 是より19丁」とある。ここから武佐までおよそ2kmだ。長い回廊をしたがえて、古色豊かな茅葺の楼門が美しい。

安土駅前で左折して駅前通りの二筋目を右におれて、安土町公民館の前を通り、その先の辻(東南角に安土教会)を左折する。角に道標があり、正面に「朝鮮人街道」、左面に「常の浜」、右面には「安土城跡」と刻まれている。信号をこえて、角に活津彦根(イクツヒコネ)神社碑が建つ辻を右折し、道なりに左折すると、右手に
「セミナリオ跡」の案内標識がでてくる。鍵の手をした路地をすすんでいくと、安土城の外堀跡にも見える水路の船着場に出る。南側が小さな公園になっている。天正8年(1580)織田信長より下附された教会建設用地にイタリア人宣教師オルガンチノが日本最初のセミナリヨ(カトリック小神学校)を建てた。信長も時折おとずれて少年の弾くオルガンに聞きとれていたという。しかしわずか2年後、三階建ての壮麗な建物は明智光秀の侵攻にあって廃墟と化してしまった。

街道にもどり、右手に旧武家屋敷をみて、県道2号の「下豊浦北」交差点に出る。朝鮮人街道はここを右折して安土城跡にむかうのだが、ここで反対方向にすすんで
西の湖を見に行くことにした。内湖の一つで、近江八幡の水郷のはるか対岸にあたる。日は暮れようとしていて、夕映えは見られなかったが、曇り空の明かりが湖水に映えて、無彩色に近いひんやりとした水郷の景色もそれなりに美しかった。

県道にもどって
安土城跡に向かう。安土城址の碑から入っていくと、大きな駐車場の前に石塁が整備されていた。天守台や本丸跡への上り口は開門前で閉まっていて、柵からのぞくと整った石段が山中に消えている。城の正門は大手門だけであるのが普通だが、安土城の場合正面の石塁にもうけられた出入り口は4つあった。信長は自慢の城に天皇を迎えるべく、行幸用として余計に3つの門を用意したのだという。城は天正7年(1579)に完成したがわずか3年で、黄金にかがやく天守もろとも、安土城は焼失した。

街道は安土山の南裾をめぐりつつ
北腰越峠に上っていく。右側、東方に連なる山は繖(きぬがさ)山または観音寺山といい、佐々木六角氏の堅固な山城、観音寺城があった。
峠手前には
「近江風土記の丘」の石碑が建っていて、道を東にたどっていこと「信長の館」や「安土城考古博物館」に至る。

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能登川

峠で安土町から東近江市南須田町に入る。県道を左に分けて繖山すその旧街道をおりていくと、眼下に上下の東海道本線が合流し、能登川の町がひらけている。静かな須田の町並を進み、きぬがさ街道をくぐりぬけ、能登川町にはいってまもなく三叉路につきあたる。正面に20体もの小さな石仏が一列に並んでいる。右の小道は安楽寺に至る道で、朝鮮人街道は左折して鍵の手に右折していく。

山すそに
「繖峰三(さんぽさん)神社」の社碑と常夜灯が現れる。白木の鳥居の間からみる神社参道はまるで雨台風のあとの土砂崩れかのように、中央に溝をきざんで砂利が石段の形を無残に崩したままである。

一ヶ月ほど前、ここで近江の奇祭と言われる
伊庭の坂下(さかくだし)し祭があったばかりだ。毎年5月上旬、繖山の山腹にある繖峰三神社から麓の鳥居まで、急斜面の崖に足場を求めつつ、3基の神輿を氏子の若衆が引きずりおろす。崖はくずれて凹状の斜面をつくる。道路に流れ出た土砂は片付けられても、途中の傷跡はそのままに翌年を迎える。高校のとき伊庭に住む同級生宅をたずねたのが、坂下し祭りの本日で、この風景を白黒写真に撮るのが目的だった。

望湖神社参道前で左折して能登川踏み切りをわたり、旧道は次の十字路を右に曲がって能登川集落をぬけていくのだが、そのまま直進して
伊庭の集落をたずねることにした。高校同級生の家があったところだ。又、この地域を支配していた伊庭氏の本拠であり、さらに宗祇の出自地だともいわれる古くて由緒ある土地柄である。

集落の入口にあたるところに
大浜神社がある。境内の中央にデンと構えるのは仁王堂で、鎌倉時代前期の建立といわれている。かっては仏堂だったが今は神輿の倉庫として使われているという。茅葺入母屋造りの大屋根に象徴される簡素な美しさは日本美の典型のひとつといっていい。

集落内には伊庭内湖から引かれた水路がめぐらされ、ミニチュアの水車や舟が配された一角では鯉が放たれている。水路をたどっていくと
伊庭城址にたどりついた。建久年間(1190〜1199)、観音寺城主佐々木行実の四男高実が伊庭氏を名乗り、この地に城を築いた。 戦国時代の文亀2年(1502)に伊庭氏は主家六角氏に謀反を起こし没落する。その後江戸時代になって旗本三枝氏が城跡に陣屋を構えた。今は鯱のある公民館として使われている。隣は老人憩いの家である。チラッと除いてみたが同級生の影は見当たらなかった。

前庭に宗祇の句碑がある。 
  
  
かげすずし 山に重なる軒の松

和歌の西行、俳諧の芭蕉とともに日本三大漂白詩人といわれている室町時代の連歌師、
宗祗の出生地については、近江説・紀伊説の二つがあるようだが、最近の研究で近江伊庭がその最有力地であると分かってきた。なお没地については東海道箱根湯本であることに異論はない。

水路に沿ってなおもいくと集落をぬけて
伊庭内湖に到達する。大浜神社・繖峰三神社・望湖神社の御旅所になっている。坂下しの神輿はここまでやってくるようだ。内湖は大中湖の内側にあったが大中湖の干拓によって現在は大同川で琵琶湖に通じている。内湖のなかほど左岸は水車とカヌーランドとして開発され町おこしに一役かっている。水郷の風景にみとられていると、トンビが岸辺から飛び立った。

街道にもどり茅葺の屋根、弁柄の板塀、出格子など、旧街道の面影をのこす能登川のまちなかを行く。「能登川北」で県道2号に合流する。このあとの能登川の町は今風の町並みで、みるべきものはなく、足早に道順をおうことにする。

県道2号の「林」交差点を右折して能登川駅の南側で踏み切りをわたる。二筋目を左におれて、びわこ銀行につきあたったところを右折。
次の四辻を左折して能登川南小学校の西側の道を北へ進み、駅前の商店街、元町通りをまっすぐ通り抜ける。やがて道はJRで分断され、踏切をわたって県道2号と合流する。

八幡橋で愛知川を渡ると彦根市である。


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彦根

「上稲葉」交差点で下稲葉町と上稲葉町の境界を成して、くの字型に旧道がのこる。来迎川橋の袂に7体の小さな石仏が一列に並んでいる。のどかな田んぼのあぜ道に幼いこどもがしゃがみこんで、風を切って前を通り過ぎる車をあきもせず数えているようだ。来迎川は「不飲川(のまずがわ)」ともよばれ、中山道、愛知川宿の南口をよこぎっている。そこの説明板によれば、なんでもこの川の水を飲まないのは水源の池で平将門の首を洗ったためだという。

街道は田園地帯をひたすらまっすぐに延びている。
稲部町にきて街道沿いにややまとまった集落があり、土蔵をもつ民家がみられる。稲里町にはいり、山崎山の手前で右にカーブしていく県道とわかれて、旧道は山崎の集落にはいっていく。この寺の敷地にペットの霊園を造る計画がもちあがっているようで、住民の「ペット火葬場絶対反対」の立て看板がそこここにみられた。当事者の国昌寺は茅葺の屋根をかぶったままひっそりとして、沈黙を保っている。

国昌寺の一筋手前を左折し、山崎山の麓を右回りに巻くようにして、西清崎の集落へはいるところに「従是荒神道八丁」「奥山寺」と深く刻まれた道標がある。集落のおわりで左に折れ、北に真っ直ぐすすむと
荒神山の東山麓に天満天神宮がみえてくる。小さな集落の入口に、西清崎のと同じ道標がある。奈良時代、荒神山の頂上に行基が奥山寺を開創した。明治の神仏分離令により寺は廃され、荒神山神社として引き継がれた。

宇曽川の堤防にでた旧道は二股を左にはいり、すぐに天満橋にでる。左手山際に道標があり、「右 千手寺」「左 八まん」とある。千手寺はおなじ荒神山にある寺で、八まん道は朝鮮人街道を示す。天満橋で宇曽川を、続いて須越川を横川橋で渡る。すぐに山崎で分かれた県道2号と合流する。日夏町中沢交差点で県道は右折するが、旧道はそのまま直進して日夏集落の中を進んでいく。土蔵や古い建物が見られる久々の大きな集落である。四辻を水路に沿って右斜めにとる。「甘呂町東」交差点の手前に、最近整備されたものと思われる湧水のモニュメントがある。赤い鳥居を建て、「西国32番札所 観音正寺御用達ノ天然湧水」が地下から汲み上げられている。

「由来」書きがあるがもひとつよくわからない内容だった。

この天然水は二〇〇三年秋、当主掘削師水専門師により、長期にわたり水質調査をしたところ良質と知り西國三十二番札所観音正寺の湧き水でこの地を清め湧き出た水です。
鈴鹿連山での降雨、降雪など四季を通して豊かな木々、草花を育み、地層深く浸透浄化繰り返し、地下一〇三メートルより汲み上げた約四〇〇年前の水と伝えられています。
自然の大いなる力とミネラル分を多く含んだ天然湧き水です。
この夢見日夏の里「甘露閼加」の水は仏様、神様に供える清きおいしい飲料水であります。健康に良い天然水を毎日利用することが現代の養生順です。水道法四十六項目すべてクリアした水です。安心してご利用ください。」トミロン ミネラルウォーター

「甘呂町東」交差点を直進し、すぐ先の丁字路を右折する。湖東平野には古代の条里制による地割が今も残っており、このあたりも整然とした田園が広がっている。「堀町」交差点を左折し県道206号に乗り、犬上川を渡って宇尾町の町並みを抜けていく。

街道筋の雰囲気が漂う西今町をゆくと、「今西町南」交差点の右角に玉垣が設けられて、母乳地蔵尊が建つ池に、竹筒から
「十王村の水」が滾々と湧き出ている。五個荘の清水ケ鼻の水、醒井の水とともに湖東三名水の一つで、全国名水百選にも選ばれている。帽子をぬぎ、めがねと腕時計をはずし、快く冷たい名水を備えつけの杓で頭からかぶったあと、腹存分に飲んだ。生き返った心地がしてしばしそのまま足と体を休ませた。彦根市内はもうすぐだ。

沿道の景色が市街っぽくなってくる。芹川を渡ると市内の旧橋本町にはいる。歩道に建つ案内板が町の歴史を伝えている。

橋本町歴史
江戸時代、芹川(善利川)に唯一架かっていた橋のたもとに立地することから橋本町の町名が生まれた。
1603年(慶長8年)、津軽屋加藤与兵衛(佐和山城下から移住)や城下町西部の武家屋敷地域(藁屋町)から当町へ移住した町人等により城下町建設当初より町人の町として栄えて来ました。第一回朝鮮通信使、1607年(慶長12年)、復路の時は町並みとして出来上がっており、彦根城と並んで江戸時代の歴史を刻んできた町であります。この時の公儀朝鮮通信使案内書によれば橋本町は、家数50戸、男120人、女140人と記してあり、江戸時代260余年、当町を10回往来しております。
橋本町は早くから市が開かれ、1・6の市、2・7の市、3・8の市等、日替わりで賑やかであり、中仙道の高宮方面から彦根城下に入る道筋に位置することで、多くの旅人・文人が往来した町筋でもありました。

「銀座町」交差点を左折する。古くは
「久左の辻」とよばれた繁華街の中心地である。辻の古称は、藩政時代この界隈一帯を所領していた豪商、近藤久左衛門の名に由来している。古いたたずまいの店にまじって銀行、百貨店などがならぶ銀座街を200mほどいったところで右に折れ、中央一番街を北に進む。一筋目の左側奥に彦根の台所といわれた「市場商店街」のアーケード入口がみえ、脇に彦根城外濠虎の口の一つであった「高宮口御門跡」の碑が建っている。中山道高宮宿に通じる道の起点で、ここに番所があった。

ここからすこし西に移動して、
夢京橋キャッスルロードを散歩する。白壁、弁柄、黒格子、簾、紺暖簾など、城下町の町並みを再現した通りである。ここに来てやっと観光地彦根らしい人出を見た。この通りに面する宗安寺は、朝鮮通信使の上官が宿泊したところで、近江八幡の本願寺八幡別院に相当する。赤門とよばれる朱塗りの山門は、石田三成の居城であった左和山城の大手門を移築したものである。白壁の築地塀にそって赤門のすこし南側に小さめの黒門がある。朝鮮通信使のために特に建てられた門で高麗門ともよばれていた。通信使高官用の食料搬入門であったという。山門を通って運ぶにははばかれる食材があたったのであろう。

夢京橋キャッスルロードは彦根城中濠に架かる京橋で終わる。京橋をわたり、天守閣への入口表門橋にいたる道の右側に井伊藩の藩校があった。現在の彦根東高校である。高校1年の登校時、佐和口多聞櫓の枡形をぬけると、表門橋に人山ができていた。すわ大事件と、かき分けて前にでてみると、白いブラウスに紺の制服姿の小柄な少女がいた。「青い山脈」ロケ中の吉永小百合であった。下駄履きの高橋秀樹もいた。遠い昔の話である。

彦根城は天守をはじめ櫓、馬屋など城郭建築物が現存する数少ない城で、姫路城ほどのスケールはないが、周囲の環境と調和してまとまりのある美しい城である。時代劇のみならず映画のロケは多い。

いささかの感傷をふり切って街道にもどる。

中央一番街から、町人長屋を偲ばせる古い家並みの立花町にはいる。道は急に細くなって宗安寺に泊まった一行が、ここを通っていくのは大変であっただろうと思ったりした。街道は駅前通りを横切り市役所の西側を通って、船町で道がつきあたる一筋手前を右折する。

最初の四辻角に虫籠窓をきった白壁と紅殻格子が美しい絹屋の屋敷がある。江戸時代も終わりの頃、
絹屋半兵衛という男が京・大坂と彦根の間を行き来して、呉服と古着を商っていた。半兵衛は商売で京にいくたびに清水焼の魅力にとりつかれ、仲間をつのって彦根で焼き物を始めることになった。紆余曲折を経たのち、芸術文化に対して造詣が深かった十二代藩主井伊直亮から藩窯として援助をうけることになった。伊万里や九谷の名工を呼び寄せ高級品志向の名陶であったが、十三代藩主井伊直弼が桜田門外の変に倒れた後、湖東焼きの運命も終焉を迎える。彦根特産、「幻の湖東焼き」は60年の短命だった。

街道は地下道でJR琵琶湖線を潜り抜け、近江鉄道の踏切をこえたところで二股を左にとり、ゆるやかな上り坂にさしかかる。古沢町のこのあたりを松縄手といい、藩主の帰国に際し、鳥居本を過ぎてきた行列はここで態勢を整え、藩主は馬に乗り、仰々しく大名行列を組んで城下に入っていった。

瑞岳寺の前を通って国道8号を横断する。車道と歩道の
佐和山トンネルが二つ。その左側に旧道がのこっているが民家の先で消失していた。トンネルの北方400mほどの佐和山頂上近くに石田三成が五層の天守をもつ立派な城を構えていた。

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鳥居本

トンネルを抜けると鳥居本町である。国道8号を横切って右の県道239号を下りていく。朝鮮人街道という歴史の道のゴール直前でラブホテル街を通らなければならないのは不幸という他ない。東海道新幹線をくぐると、正面に中山道が見えてくる。右角に追分道標が建っている。「右彦根道」「左 中山道 京いせ」。太くて深い堂々とした文字である。
鳥居本宿はここから北に細長くのびている。

40年前、この宿場を北から通り抜けた。
私はそこで、赤玉神教丸本舗の建物を本陣と勘違いしている。本陣の写真は撮っていなかったようだ。今回、その穴埋めをしようとまずは本陣跡を探したが、建物はなく、ただ空しく跡地が残っていただけだった。


中山道はもいちど歩く。鳥居本のことはそのときくわしく書こう。

(2007年6月)

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