八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、町名は商売の仲買を意味する「すあい」に因みますが、後には他の商人町と変わるところはありませんでした。また、「市助(いちすけ)町」とも呼ばれましたが、これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった一柳一助(ひとつやなぎいちすけ)直末が居住していたことに由来するといわれています。 近江八幡観光物産協会 |
鍵之手町 朝鮮通信使が通った道『朝鮮人街道』がここで鍵のように曲がっていることによったと考えられます。八幡城下の東の入口あたりになり、高札場があった関係で旅籠屋が設けられていました。慶安年中(1648〜1652)には幕府代官により旅籠屋仲間を作ることを許されました。 近江八幡観光物産協会 |
この天然水は二〇〇三年秋、当主掘削師水専門師により、長期にわたり水質調査をしたところ良質と知り西國三十二番札所観音正寺の湧き水でこの地を清め湧き出た水です。 鈴鹿連山での降雨、降雪など四季を通して豊かな木々、草花を育み、地層深く浸透浄化繰り返し、地下一〇三メートルより汲み上げた約四〇〇年前の水と伝えられています。 自然の大いなる力とミネラル分を多く含んだ天然湧き水です。 この夢見日夏の里「甘露閼加」の水は仏様、神様に供える清きおいしい飲料水であります。健康に良い天然水を毎日利用することが現代の養生順です。水道法四十六項目すべてクリアした水です。安心してご利用ください。」トミロン ミネラルウォーター |
橋本町歴史 江戸時代、芹川(善利川)に唯一架かっていた橋のたもとに立地することから橋本町の町名が生まれた。 1603年(慶長8年)、津軽屋加藤与兵衛(佐和山城下から移住)や城下町西部の武家屋敷地域(藁屋町)から当町へ移住した町人等により城下町建設当初より町人の町として栄えて来ました。第一回朝鮮通信使、1607年(慶長12年)、復路の時は町並みとして出来上がっており、彦根城と並んで江戸時代の歴史を刻んできた町であります。この時の公儀朝鮮通信使案内書によれば橋本町は、家数50戸、男120人、女140人と記してあり、江戸時代260余年、当町を10回往来しております。 橋本町は早くから市が開かれ、1・6の市、2・7の市、3・8の市等、日替わりで賑やかであり、中仙道の高宮方面から彦根城下に入る道筋に位置することで、多くの旅人・文人が往来した町筋でもありました。 |