八風街道-1 



武佐−八日市山上
いこいの広場
日本紀行

八風街道−2
八風街道−3


八風街道は中山道と東海道をむすぶ数ある道の一つである。中山道の武佐宿から八日市を経て鈴鹿山脈を八風峠で越え、東海道の桑名宿と四日市宿のほぼ中間地点に出る。東に向かえば桑名から江戸へ、西は四日市から伊勢神宮に通じる。近江中山道からは草津で東海道に出る方法と、五個荘から八日市、日野を経て土山で東海道に合流する近道もあったが、いずれも盗賊の出没する鈴鹿峠と、厳しい鈴鹿の関所を通らなければならず、商人をはじめとしてこれを嫌う人が多かった。

八風街道は私の生家の前を通る。正月の獅子舞や夏休みの盆踊りを村から村へと追いかけた故郷の道でもある。田植えの準備に忙しいゴールデンウィークにおこなわれた中学同級会の前日に、この究極のノスタルジア街道を歩いてきた。


武佐

JR近江八幡で近江鉄道に乗り換え武佐駅で降りる。駅前の道がそのまま旧中山道の曲の手である。すこし東に歩くと宿場の雰囲気にあふれた四辻に出る。右角に文政4年(1821)の道標がたっていて
「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれている。ここが八風街道の起点である。伊勢、水口、日野へは八日市で五個荘から南下してきた御代参街道を行く。八風街道といわないで伊勢道とよぶ人も多い。反対側の角には「安土浄巌院道」の石標があり、朝鮮人街道に通じる。

八風街道を歩き出す前に武佐の宿場を散歩した。武佐宿は愛知川宿と守山宿の間に設けられた中山道66番目(現八風街道である国道421号との交差点にある説明板では67番目とあった)の宿場で、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒あった。四辻の左角がその
本陣跡下川家宅で、古い門塀が残されている。

右手には江戸時代から続く旧旅籠の中村屋、宿役人をつとめた商家大橋家住宅など、格子や虫籠窓から宿場風情が漂ってくる。
  
レトロなポストを設置している武佐郵便局は伝馬所跡である。

これら武佐宿の史跡を案内する立て札が、当地の教育委員会でも観光協会でも何とか保存会でもなくて、1989年度武佐小学校卒業生たちの手によるものであるところが愛らしい。

国道421号との交差点には新しい常夜燈と大きな絵入りの武佐宿説明板が立っている。絵は一頭の象が街道をゆく姿で、享保13年(1728)輸入された象が大坂、京都、大津を経て武佐宿に一泊した時の様子だという。はじめて象が日本に上陸したのは応永15年(1408)若狭の小浜であった。その後、朝鮮通信使の来日に際しても象が行列に花を添えたという話も伝わっている。象が武佐の宿場街を練り歩いたとは知らなかった。

追分の辻にもどり、八風街道を歩き始めるや、沿道の家から出てきた一人の男性と挨拶を交わしたのが縁で、思わぬ特別講義を受けることになった。民家の隙間にのこる細い路地が
東山道であるというのだ。中世の中山道原道である。右の路地に案内された。畑道をとおりぬけ隣家の裏庭を横切って法性寺の前の舗装道にでる。近江鉄道の線路向こうの林中に工場が進出し、東山道は失われたという。そのほかにもいろいろと教わった。

「中山道」を「なかせんどう」と読むのはおかしい。これは湯桶読みである。
八風街道もおかしい。伊勢街道というべきだ。
近江鉄道はもともと近江八幡と現在の新八日市の間を走る湖南鉄道だった。
ところで、ここを湖南というのはおかしい。いうなら湖東鉄道ではないか、等々。

東山道の消失点を見つめる二人の前を、元湖南鉄道の黄色いワンマン電車がこころなしか遠慮がちに通り過ぎていった。

八風街道にもどり、武佐の町を後にする。
長光寺町交差点で国道421号を斜めに横切り、道は蛇砂川にそって東近江市に入りまもなく国道421号に合流する。標識に桑名まで60kmとある。この国道は冬季の通行止めと、幅2mに規制する無粋なコンクリートブロックで悪名高い石榑(いしぐれ)峠を越えていく。現在その「酷道」区間をくり貫くトンネル工事が進行中である。完成後の距離はぐっと縮まるであろう。旧八風街道はその南方にあって、黄和田町のエコロジー八風キャンプ場入口でわかれた後国道421号とは二度と会うことはない。

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八日市
 

沿道にはのびやかな田園風景がひろがってくる。水をはって田植えを待つ田に遠方の山が静かに映る。ちびまるこちゃんと中日新聞の全面広告をまとった一両電車が田圃の中をトコトコと走り抜けていく。左に旧道の端切れが残っていた。右には初代東屋一家、ヤクザ西村林次郎の墓がある。このあたりが万葉の時代から蒲生野と呼ばれている地域である。古代、染料・薬草として人気があった紫草が咲き乱れていた。

天智天皇が大津から大勢を引き連れて猟にあそんだという、古代朝廷の遊猟の地、蒲生野の中心地として船岡山が選ばれ、そこに象徴的な歌碑が建てられた。
   
   
茜さす 紫野行き 標野行き 野守りは見ずや 君が袖ふる(額田女王)
      紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも(大海人皇子)


詳しくは「近江紀行」に譲ろう。

街道は市辺駅前で左に大きく向きをかえ、小脇町で筏川にそった旧道にはいっていく。さいかち地蔵の前を通りまもなく斜めに交叉する
四ツ辻で左からやってきた安土街道と合流する。右に伸びている道は畑街道とよばれ中野で御代参街道と交叉したのちやがて八風街道にもどる。安土街道は安土と八日市金屋とを結ぶ古い道で、佐々木源氏の故郷を東西に横切っていた。

さいかち地蔵の横を北にたどると近江源氏(宇多源氏)
佐々木氏発祥の地、小脇の館跡に出る。建久元年(1190)源頼朝が泊まった記録がある。佐々木氏は鎌倉時代から戦国末期まで、一貫して近江の守護職にあった名族である。後、愛知川を境に高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡を継いだ京極氏と愛知川以南を領有する六角氏に分れた。氏名はそれぞれ館を有した京都の地名による。

旧道は太郎坊宮参道を横切る。「太郎坊」とは京都鞍馬の天狗次郎坊の兄で、蒲生野にそびえる標高350mの巨岩が露出した赤神山に住みついた。1400年前の開基と伝えられ、天照大神の子を祀る原始信仰の神社である。夫婦岩とよばれる巨岩の割れ目が名所になっている。田植え際を1週間後に控え、幟が参道を飾っていた。

山の裾までいったが岩にへばりついた社殿を見上げただけで引き返した。子供の頃夫婦岩の割れ目を通ったことがある。嘘をつくと岩が寄ってきて挟まれると聞いて、足早に通り抜けたものだ。高校の頃この近くに家庭教師で週に2回通っていた。教えていた女の子は高校進学後交通事故で亡くなった。近所の人に尋ねたら、一家は八日市の市内へ引っ越したということだった。家はみんな新しくなっていたが周りの風景はそのころとあまり変わっていないように思われた。

宿の集落にはいる。十字路角に
蛭子神社跡の碑が建ち、土地の歴史を語る案内板があった。このあたりは百済からの渡来人が定住した土地で、筏川は狛の長者が開発したものと伝えられる。神社の庭で八日に市がたつようになり、八日市と呼ばれるようになったという。狛の長者はまた、街道沿いに一里塚ならぬ1丁地蔵を建立して旅人の距離の目安とした。この丁石地蔵とよばれる石地蔵は路傍でなくて筏川の水際に建てられているのがおもしろい。

街道は田園地帯からようやく八日市市街地へとはいっていく。右手の道の奥に、うすれた緑色の箱型建物が見えた。近江鉄道の
新八日市駅舎で、無人駅になったいまも大正時代のたたずまいをそのまま保っている。新八日市駅は大正2年(1913)開業当時、湖南鉄道の本社屋兼「八日市口」というターミナル駅だった。昭和初期にはこの駅から沖野ケ原の飛行場まで3kmの飛行場線が敷設され戦時中は軍事輸送の拠点にもなった。終戦になって近江鉄道の八日市駅と結ばれ、駅名は「新八日市」と変えられた。ガランとした待合室で昼食をとる。黄色の電車が止まったが丸みをおびた木製の改札口を出入りする客は一人もいなかった。

そのまま新八日市の町並をぬけて踏み切りにいたる。旧道はここで途絶え、踏切の向こう側で筏川に面する民家の裏庭の一部になっていた。清水神社の前で川は暗渠となり旧道は小脇でわかれた新道に吸収される。

すぐ先で右から出てきた
御代参街道と交差し、八風街道は本町通りアーケード商店街にはいり二つ目の細い路地を右折していく。

この路地の北側に
市神神社がある。推古天皇元年(593)聖徳太子が大坂四天王寺を建立するため、八日市で屋根瓦を造らせた。小脇に居住していた渡来系技術者が活躍した。太子は推古天皇9年(601)の8の日にはじめて市場を開かせた。その後8の日を市日に定めたことから八日市の地名が起こったといわれている。境内には八日市の開祖聖徳太子が直立不動の姿で建ち、祠の中では蒲生野のアイドル額田王が膝をおって女性らしいポーズを作っていた。

左に出格子が美しい旧家があるかとおもえば右側はガード下のような商店街である。大通りの手前に創業1925年というレンガ造りのレトロな洋食レストラン
ABC食堂が今も営業を続けている。通りをよこぎり、津島神社の二又を右にとって金屋大通りに出る。昔ここにあった近江バスの駐車場には風物時代館が建っている。八風街道の旧道情報を求めて入ったところ、女性職員から隣の「かじ熊」を紹介された。虫籠窓に出窓のある昔ながらのかじ屋である。店先に入ると壁一面に紙で巻かれた鋸がならべられていた。もう営業はしていそうにない。

しばらくして品のよい御主人が出てこられた。八日市市内の旧道の道筋を聞く。御代参街道との交差点からまっすぐ大通り商店街を東に行くものと思っていたところ、本町通り商店街をかすめて迂回するような道筋が旧道であると教えてくれた。
「昔はそこをバスが通っていたのですよ」
小脇町−金屋間の安土街道と八風街道との関係についても聞いてみた。四つ辻以西の安土街道については同意されたが、四つ辻―金屋間の道については、「単なる農道でないか」という意見だった。新八日市駅前を通る近江鉄道沿いの道が旧八風街道だと言われた。

おいしいお茶をいただきながら1時間以上も長居してしまった。八日市の町のみならず、御園、玉緒村のことにも詳しかった。昭和26年、寒い12月18日の夜に起こった玉園中学北校舎全焼の火事では、消防団員として八日市からかけつけたのだと。火の粉が飛んでくる距離に住んでいた私は、メラメラと夜空を焦がす炎の無気味さを子供心によく覚えている。

毎年12月になるとバスに乗って、10大付録ではちきれそうな『少年画報』の正月号を買いにきた文栄堂は、本屋を廃業したが教科書だけは今でも扱っているという。バスと車と人が道を占領した往時の喧騒が嘘のような静かな大通り商店街を進んで、上ノ町交差点で右折する。
東本町通りには古びた三軒長屋風の家が残っていて真ん中の一階部分がくりぬかれて東本町会館の入口になっている。

八日市の全国的名物、大凧の記念館の前をとおりすぎ、東本町交差点で小脇以来離れていた国道421号に合流する。ファーストフード・レストラン、カーディーラー、パチスロパーラー、ガスステーションなど、ここまでの八風街道ではみかけなかった風景が現出した。なんともけばけばしい街道になったものである。

中世の時代、山越商人といわれた近江商人がキャラバンを組んでこの道を鈴鹿山脈めざして通っていったのである。東中野町の八日市南小学校前に山越商人の像が建っている。山越商人の実体は保内商人として知られる得珍保の下四郷の商人たちであった。鎌倉時代、比叡山延暦寺の僧得珍がやってきて愛知川から用水路を引きこの地一帯を開発した。「保」とは国から開発許可を得た未墾の地域のことをいう。得珍保には上四郷と下四郷があったが、灌漑条件の悪い下四郷では多くの者が商業に従事するようになった。保内商人は近江商人の原形、日本における商人の原形である。

札の辻にさしかかる。昔は「沖野」というバス停だった。いつ、どうして交通の要所でもなんでもないここが札の辻になったのか。八日市宿場からは2kmほどもはなれており、ここに高札場があったわけでもなかろう。

   陽光満つ沖野ヶ原に   萌ゆ草と優しさ競い   身に溢る生命と愛を  かぎろいの心豊けく   集いして育みゆかむ

わが思春期の学び舎玉園中学校の校歌第1番である。八風街道の南側に広がる草原の沖野ヶ原に我国最初の民間飛行場ができた。民俗行事として有名な大凧あげの会場でもある。

ライト兄弟がはじめて空を飛んでからわずか11年後の大正3年(1914)、兵庫県鳴尾競馬場にて日本で最初の民間人による飛行大会が開催された。愛知郡八木荘村の豊かな呉服商に生まれた28歳の荻田常三郎が2003mを飛んで高度部門で優勝したのである。常三郎は大会に参加するため、私財をつぎ込んでフランスに留学し免許をとり飛行機を買いこみフランス人飛行教官を伴って帰国してきたのだった。

大会の4ヶ月後、常三郎は郷里への凱旋飛行を計画し、沖野ヶ原に設けた臨時飛行場でテスト飛行を行なった。その後、八日市町長の音頭により飛行学校と本格的な民間飛行場の建設が決められた。話はとんとん拍子に進んで翌年に「沖野ヶ原飛行場」が完成したものの使い道がない。困った町長は軍の航空部隊誘致を計る。

大正9年(1920)陸軍「航空第3大隊」が新設され八日市への配備が決定した。名称も「八日市飛行場」と変えられた。以降変遷を経て終戦をむかえ、飛行場は進駐軍に引き渡された後、一部元の地主に返還されたほか、あとは外地からの引揚者に農地として払い下げられた。陸軍病院は五智町国立病院となり、兵舎の一部は玉園中学の校舎となった。私は黒ずんだ校舎板壁の前で卒業記念写真を撮っている。
札の辻をすぎたところ右手に建つ
「飛行第三連隊正門跡地」の石碑がわずかに当時の歴史を伝えている。

村田製作所の正門前を通る。八日市が積極的に工場誘致を始めた第1号的存在で、その後八風街道沿いに次々と近代的なハイテク工場が進出してきた。村田製作所は私が卒業した年に竣工し、同級生が一期生として就職した。

道はすぐ先の東沖野4丁目信号の二又を右にとり、次の妙法寺町中信号の二又を左にとる。十字路を右折すれば工場の向こうに玉園中学がある。八風街道を挟んで北側の神崎郡御園村と、南側の蒲生郡玉緒村の小学校が一つになって玉園中学となった。

旧道をはいっていくと右手に「ミッチー」の看板をかかげた旅館、美容院、食堂がある。美智子さんが皇太子妃になられたころに開業した。
旧国道に合流するところに八日市ロイヤルホテルがある。明日の同級会会場だ。
名神八日市IC出入り口の道路を横切る。
飛行場時代の陸軍病院がある。国立八日市病院といったものだが、今は国立滋賀病院と名が変わっている。いずれにしても、どうしてこんな田舎に国立病院があるのだろうと不思議に思ったものだ。院長、部長クラスが数年で転勤してくるごとにその子供が小学校に転入してきた。彼等のクラスには都会の匂いが漂った。休みの日は我々の専属仲間だ。官舎へ遊びに誘いに行くと玄関の戸が開いてまぶしいような若い母親が応対に出た。標準語をつかうべきかと固くなってしまった。あまり泥くさい遊びには誘わなかった。

五智町の二又を左にとる。30年ほど前に売り払った生家だ。二階のアルミサッシが新しくなっている程度で、紅殻塀は腐食がすすんでいるもののそのまま立ちながらえている。四つ辻の角にまるまった道標があり、「上村興福寺  五智如来道」と刻まれている。昔は上村といった。市制がひかれてから五智町となった。行基開創という古寺興福寺の五智如来は国宝である。この集落には非農家が集まり、隣の林田と合わせて郵便局・交番も備えた一種の商店街を形成しており、日常生活はほぼ用が足せた。

辻をすぎると左手に
御園小学校がある。毎朝辻に集合して集団登校するのだが、列が整った頃にはもう運動場に入っていた。自転車屋の隣の地蔵は毎年8月23日、周囲を色紙クサリで飾り立てその前で筵をひいて一晩明かした場所である。翌日のフィナーレはだいたいスイカ割りだった。

林田町にはいる。ここは農家と店屋が半々くらいだったろうか。魚屋、八百屋、散髪屋、かじ屋がそろっていてほぼ毎日買い物にきた。往復10分くらいの距離だ。廃止された郵便局と移転してしまった御園公民館の建物が往時のままの姿を保って残っている。いずれも横板サイディング壁の洋風箱型建物で、当時は茅葺か瓦屋根の集落にあってモダンな異彩を放っていた。

いささか自分史的になってしまった。道を急ごう。
旧道は国道421号に合流する。沿道の家並みはこれまでほど密でなくなってきた。田園の風景の中に大きな工場が混じってみえる。道端の水田に桜の花いかだがゆれていた。天の川にも見える。

御園町にはいって右斜めにのびる旧道に移る。集落の真ん中にある八幡神社で、「初老記念碑」のなかに二人の同級生の名前を見つけた。数え年42歳で神社に寄進した印しである。

車もほとんど通らないのんびりとした道をゆく。寺村新田、藤森をすぎて如来に入ると塀でかこった家並みが込んでくる。なかでも赤レンガ塀のなかに白壁のまぶしい土蔵を配する家は喜多酒造本家である。行政区では池田町になっているが、昔の集落名は如来であった。

集落をでるあたりに道が二つに分かれていて、間に道標がある。
「右 四日市 市原  甲津畑」  「左 桑名  山上  永源寺」と刻まれている。

右は甲津畑から根の平峠を越えて千草に至る
千草街道、左はこれから行く八風街道である。千草街道の起点がどこなのか知らないが、毎年4月下旬に甲津畑から千草まで、永源寺地区まちづくり協議会の主催で7時間15kmの千草越えウォーキングが行なわれている。そのおかげで道も整備され一人でもいける状態であるらしい。一方の八風街道は決して険しいというほどではないものの一人歩きは薦めないという地元観光協会の意見だった。次回はそれに挑戦することになるのだが仲間を募るか単独決行するか、悩ましい。

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山上 

如来をでると国道に合流し、青野町に入る。道は広くまっすぐに続いている。この町は愛知川上流にダムが建設されたとき、湖底に沈むことになった佐目、九居瀬、萱尾の住民が入植して開かれたものである。当初90戸だった町が150戸に増えた。街道左手にその歴史を記した記念碑が建てられている。鈴鹿山脈を背にして整然と区割りされた田園が広がっている。

かっては青野中学とよんでいた永源寺中学の先で青野町から山上町に入る。県道189号が分れた先で旧道は左の坂を下っていく。右手崖際にふるい芭蕉句碑がある。文化11年(1814)地元の俳人が芭蕉没後120年を記念して建てたものだ。どこで読んだものか知らない。

  
蝶鳥の しらぬはな(花)あり 秋の空

段丘を下りきり山上の町中へ入っていくと街道筋らしい家並みが続いている。旅籠風の古いたたずまいを見せる
「かどや」のガラス戸には「配達物は国道421号線通りの食事処『かどや』へ」と告げる張り紙があった。

山上は愛知川の谷口左岸に形成された集落で山村と平地の物資を交易し、八風峠を越えあるいはこれから向かう山越商人が泊まった宿場であった。又中世時代、東近江において佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示していた小倉氏の分家が城を構えた土地でもある。愛知郡小椋荘(現東近江市小倉町)を本拠としていた小倉氏は後、永禄7年(1564)内紛(小倉氏の乱)によって本家は蒲生郡佐久良に移り佐久良城を築いて本城とした。分家した小倉東家は本拠小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城,山田城、相谷城,九居瀬城,八尾山城等の支城を設けた。料理屋「ひのや」前の丁字路で右に坂を上がっていくと安養寺の石段脇に山上城の本丸跡を示す
「小倉山上城跡」の碑が立つ。

内乱によって小倉一族は衰退の道をたどり蒲生氏の傘下に下って余命を永らえた。江戸時代になって元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜り、山上城跡地に陣屋を設けた。愛知川にかかる紅葉橋の手前に
山上陣屋跡の碑がある。


紅葉橋はもと姿の良い吊橋であった。毎年秋には紅葉をもとめて御園小学校からおよそ8kmの道のりを歩く遠足があった。この吊橋がゴール直前の第4コーナーで、揺れ動く足元に不安を感じながらも心をときめかせたものである。上級生になると遠足からマラソンに切り替わった。織りなす錦に感動する余裕はなく、10分遅れでスタートした女子の先頭に追い越される屈辱を重ねていた。

橋を渡り終えると
永源寺の門前町高野町である。名物永源寺こんにゃくと、銘茶政所茶を売る店が目に付く。落ち着いた家並みをぬけ坂を下ると臨済宗永源寺派の大本山前に到着する。南北朝時代の康安元年(1361)、近江の守護職佐々木六角氏頼が寂室元光禅師をこの地に迎え、七堂伽藍を造立した。永源寺はもみじの名勝として知られている。秋は全山もみじに包まれ愛知川の流れを朱に染める。旦度橋の袂の出店で政所茶を一袋買ってバス停で八日市駅行きを待った。明日は同級会だ。

(2008年5月)
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