八風街道-3 



田光−大矢知富田一色
いこいの広場
日本紀行

八風街道−1
八風街道−2


田光

田光は八風峠の三重県側最初の宿場で、滋賀県側の山上に対応する。集落の中心で
巡見街道と交叉する交通の要所であった。巡見街道とは一般的に江戸幕府の巡見使が通った道を意味するものだが、三重県では東海道亀山宿と中山道関ヶ原をむすぶ主要街道名として残された。


椋の大木がそびえるその交差点は
札の辻とよばれ、大規模な交易市場が開かれた。今も辻の北西角広場は交易市場跡として保存され、高札場、力石、三重県庁三重郡役所までの里程標などが集められている。広場の北端には多比鹿神社の石鳥居が建つ。

鳥居をぬけ田光川にかかる
多比鹿橋をわたると多比鹿神社に至る。参道としての多比鹿橋はかっては吊橋だった。田光川左岸にのびる丘陵に田光城があった。田光城は平安中期の頃田光隼則が築いたものと伝わる。戦国時代になると近江の佐々木高頼の四男高実が田光城を再興しこの地方を支配した。永禄11年(1568)信長に敗れ落城した。

その東端に式内社多比鹿神社が鎮座する。創祀年代は不詳だが、白木檜皮葺神明造りの本殿は二基の石燈籠とともに古びた趣を放っている。

巡見街道は辻から南北を覗くにとどめ、八風街道を東に向かうと左右に
町屋風の建物が往時の風情をとどめている。高い板塀袴を穿いた土蔵の漆喰部分には品のよい鏝絵がほどこされワンポイントアクセントとして粋な装飾になっている。八風街道を往来した近江商人の中には田光に常駐して商いを行う者もいたという。札の辻界隈の旅籠のなかにそんな常駐宿が混じっていたのだろう。当時の賑わいが偲ばれる。

街道は現代の巡見街道である国道306号を横切って二股を左に入る。分岐点にたつ傾いた
道標には「右 とみた四日市道」「左 くわな道」と刻まれている。「左桑名道」が旧八風街道である。道標は明治30年ごろの建立だとされる。
八風中学校の前を通る。素敵な校名だ。

小島

その先で菰野町小島に入り県道617号との交差点に出る。曲尺手状に右折してすぐ左の細道に入り、小島大橋の南袂で右折して早川酒造を通り過ぎる。
杉谷川をわたり県道616号に出て朝明(あさけ)川を八風橋で渡る。八風橋の北詰に倒れた道標があり上から覗き込むと「右 小島田口」「左 田光切畑八風越」とある。明治29年(1896)の建立で、田光の二股にあった道標と同時期のものであろう。「右 小島田口」が今来た旧街道で、「左 田光切畑八風越」は方向こそ八風街道そのものだが道としては田光道標にあった「右 とみた四日市道」(県道616号)に対応している新道だ。

八風橋は明治24年に架けられたもので、それ以前は徒歩で渡っていた。目下大規模な河川工事が進行中である。

永井

八風橋をわたると菰野町永井に入る。県道を右に分けて直進する。左手にポツンと一軒家がある。トタンで覆う前は整った茅葺の入母屋造りであったろうと思われる。

県道140号(ミルクロード)を渡って水路の東側の道を北にすすむと田園に孤立する森の中に
式内社井手神社がある。境内の左端に元禄12年(1699)に造られた石造りの掛樋が保存されている。頑丈な造りである。

その隣に葦の一群がある。伝説にある
片葉の葦である。長文の伝えばなしが掲示されていた。ここの葦が片葉しか生えないのは前の池に飛来する雁たちのせいであった。

交差点にもどり、最も手前の細道を東に入っていく。二三軒をすぎた左手の藪中に
福徳稲荷大神がある。大庄屋藤波家の屋敷の片隅にあったものがそのまま屋敷跡に残された。稲荷の由緒書きはそのまま藤波家の由緒書きになっている。もとは保々城主朝倉家の次男が当地に移り住んだもの。注目すべきは先にみたばかりの井手神社が藤波家の建立によるものだったことである。

右手に田中倚水記念碑なる大きな石碑がある。華道家であった藤波家第10世六郎兵衛盛義の高弟、田中倚水は全国を遊歴して華道を普及させた。

西信寺前を通り、土蔵が残る落ち着いた
永井の町並みを通りぬける。狐塚橋交差点で県道621号にのってすぐ、渡辺表具店の先の二股を右にはいる。この分岐点は「左が谷(さがたに)の辻」とよばれる。「左が谷」を「ぎっちょ」と読む人がいる。地元の人に聞くと、辻の読み方はいざ知らず、昔はここを流れていた川を「ぎっちょ川」と言っていたそうだ。

辻に建つ民家のブロック内に自然石の道標があり、「右 四日市道」「左 くわな道」とあった。「右四日市道」が旧八風街道である。田光東の道標では「左桑名道」が旧街道であった。八風街道の目的地として、桑名・四日市は必ずしも正確でなく、実際は両者の中間にある富田なのだ。換言すれば、どちらの道をとってもどこかで富田への修正が容易だともいえる。八風街道を旅する人は、この「桑名道」「四日市道」にこだわらないほうがよい。ただ右か左かをあらかじめ調べておく必要がある。

西村

街道はすぐ先で三重郡菰野町から四日市市西村町に入る。四方に田園がひろがるのどかな道がつづく。古い街道の証である道標類や石仏をみかけない。まとまった集落を通り抜けることもなく少々不安になってくる。

中野

中野町にはいってしばらくいくと専照寺の手前の道端に薄紫の花をつけた桐の木が一本たっていた。自然に生えたわけではなかろう。家具の材木としてしかなじみがなかった木がこんなに高貴な花を咲かせると知って、庭に欲しいと思っていた木なのだ。

専照寺の角で県道14号が横切る。この県道を北に進んで保々集落にある中野城跡をたずねる。県道を200mほどいった左手にがありその脇に道標があった。「左 四日市」「右 こもの」とある。

行円寺に向かってすすんでいくと手前に立派な門塀を構えた
天春(あまがす)家屋敷がある。天春家は元禄から明和年間にかけて大庄屋を勤めた家で、その敷地はかっての中野城跡だといわれる。永禄年間(1558〜1570)に、田原藤太郎秀郷の末裔赤堀藤太郎が築城し中野家と称したが、ほどなく信長によって滅ぼされた。

俵藤太郎の遺物とされる硯があるという行円寺鎧塚古墳などをみて専照寺にもどる。

街道を東に300mほど進んでいくと左手が二段にわかれる十字路にでる。左へ降りていく道は行円寺に通じる。右の旧街道にはいった左手に祠があり、扉をひらくと二体の
板地蔵が祀られていた。

街道は家並みをぬけて雑木林の中を下っていく。水路に差し掛かったところで死角から「こんにちは」と若い声がかかった。若い男女が叢の空き地に的をたてて弓をひいている。高校のアーチェリークラブだろう。妙な場所をみつけたものだ。

小牧

林をぬけると小牧町にはいり街道は保々工場団地にぶつかる。工場の北縁を迂回して国道365号バイパスを横切ったところで旧道が復活している。国道の東側に2本でているうちの南側の細道が旧道だ。

200mほどで五差路に出る。向かいの交点に安政7年(1860)建立の立派な
常夜燈が建つ。小牧神崎の辻とよばれるこの交差点は北へは多度、西は田光、南は上海老、東は四日市に通じる重要な分岐点で、周囲には茶屋・旅籠があってにぎわったという。辻にでるすこし手前に江戸時代の街道が残っているとのことたがその痕跡はなくなっていた。

札場

常夜燈の北側の道にうつるとすぐに札場町である。十字路左手に神明社跡をみて東にすすむ。あさけが丘団地をかすめて山城町の竹やぶ道をくだると県道64号に合流する。左におれて道なりに県道をたどると、源治橋信号で県道620号となり三岐鉄道を渡り桜神社の急な石段をみて
山城町並みを通り抜ける。ここからは朝明川三岐鉄道にはさまれた空間を東進する。川と田園の風景が広がる明るくのどかな道である。

萱生(かよう)

右手前方に小高い岡が見えてくる。頂上に見え隠れする建物は暁学園で、そこにはかって
萱生城があった。室町時代、春日部宗方が築城した。永禄11年(1568)、信長の攻撃を受けて落城した。寄っていかなかったが、城址碑のほか、土塁、井戸跡、空堀の遺構があるらしい。

中村

三岐鉄道暁学園前駅に近づいたところで中村町にはいる。このあたりは
古代東海道の朝明駅家比定地とされていた。近年大矢知町の久留倍官衙遺跡が朝明駅家跡ではないかという説が有力になっているようだ。朝明川堤防沿いの道を淡々と進む。

平津(へいづ)

平津にはいったところで、東名阪自動車道高架をかろうじて避ける姿で
神明社旧跡の石碑が建っている。

平津集落をとおりぬける。駅に近いもう一本南側の道のほうが集落の中心を通っているようで、そちらが旧街道ではないかと疑いながら歩いていくと左手に地蔵堂がある。格子扉を覗くと左脚をおろした
半跏地蔵が安置されていた。地蔵としては珍しい姿勢だ。下肢がやたらと大きく見えた。

街道はその先の二股を右にとって朝明川から離れていく。八郷小学校前に松並木がある。旧街道名残の並木と思いたいが特段の説明板はなかった。

山分

山分町にはいる。八風街道に加えて四日市方面から多度神社に参詣する道筋にあたり、古くて雰囲気のある家並みが見られる。山分町東端ちかくの逆Y字路は多度道追分で、富田から右の路地にはいって山分橋で朝明川をわたり多度神社に向かった。


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大矢知(おおやち)

大矢知町にはいってすぐ右手水路の土手に天保4年(1833)に建立された
常夜燈が建っている。土手は目立たない程度のふくらみしかないが、かって大矢知を水害から守るために築かれた堤防であった。

ここで大矢知駅の南側に寄り道をする。

それまで桑名藩領であった大矢知は文政6年(1823)武蔵国忍(おし)藩領となり、現在の大矢知興譲小学校の地に
忍藩の陣屋が置かれた。小学校東側の用水路界隈には土蔵や土壁の小屋などが年貢米を積んだ荷車が行き交った往時を偲ばせる。また道沿いの小学校グラウンドに残る松の木と土塁が陣屋の跡を物語っている。

その通りを南にむかって久留倍官衙遺跡を見て行くことにした。およそ1kmの寄り道である。ゆるい上り坂を歩いていく途中で「手延麺」の看板をだした製麺所をいくつか見た。大矢知は全国的に知られる
手延べそうめんの産地である。江戸時代、旅の僧侶が作り方を伝えたという。

ほどなく長倉神社の石鳥居と常夜燈が建つ分岐点にくる。ここを右折し
長倉神社前を通って坂を上りきると見晴らしのよい丘陵の頂上にでる。右手にあおい幼稚園、左は墓地になっている。その脇をはいると立ち入り禁止のロープ脇に久留倍官衙遺跡の説明板があった。

久留倍遺跡は国道1号北勢バイパス建設に伴う事前調査で発掘された弥生時代から中世までの複合遺跡である。政庁跡や正倉院の遺構などが確認され、古代伊勢国朝明郡の郡衙跡と考えられている。朝明郡衙には672年の壬申の乱に大海人皇子(後の天武天皇)が、740年には聖武天皇が立ち寄ったとされる。最近では古代東海道の朝明駅家跡であると考えられるようになった。

ロープ内にはいるとブルーシートに覆われた発掘現場が点在している。クローバー野原にコーンが並ぶ区域はこれからの調査予定地か。富田の町が一望でき古代道の駅にふさわしい歴史公園となるだろう。

小学校までもどり、そのまま北に進むと踏切をわたって郵便局のある十字路に出る。北東角に安政3年(1856)の
道標がある。西からきた八風街道はここで直角に北に折れた。当時は東側の道がない丁字路であった。道標の南面に刻まれた「左 たどみち」と北面がいう「右こもの道」は同じ西からの八風街道を示している。西面に「右四日市みち 左くわなみち」とあるようにここでも四日市と桑名は対立しており、八風街道はその中間を走っている証拠である。「左くわなみち」がこれから進む八風街道である。

北におれた街道はすぐに突き当たりを右折していく。曲尺手か。

真っ直ぐな道を東南に下ってバイパス高架下で複雑な交差点を渡って県道26号に合流する。直進方向に旧道らしい細い道がまっすぐに延びているがそれは旧道ではないらしい。

県道を500mほど進むと再びややこしい六叉路に出る。ここで県道と分かれて一本南の道に入る。車が通るに十分な広さを持つ道だが「車両通り抜け不可」の標識がたっている。すぐにそのわけが判明した。JR関西本線の踏切が極端に細いのだ。踏切の名が
「八風踏切」とあってうれしくなる。旧道にまちがいない。

これら二つの大きな交差点の間は「下さざらい町」という。礫井(さざらい)の字名が町名になった。

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富田一色


八風踏切を渡ってすぐの十字路が
旧東海道との交差点である。4隅を確認したが旧道の交差を示すような道標はみつけられなかった。南北に走る東海道にはいると見覚えのある風景があった。十字路を北にはいったすぐ右手が聖武天皇ゆかりの鏡が池跡である。

旧東海道を横断した旧八風街道は田村寺を左手にみて近鉄名古屋線をくぐった先の阿弥陀堂の角を左折して二筋目(県道26号の一筋手前)の丁字路を右折していく。周辺は富田市街地である。右手に
「八風公園」があった。名前の由来を記した立て札でもと思ったが何もなかった。しかし、滋賀県側にくらべて三重県側のほうに「八風街道」が強く意識されているような印象を受けた。

国道1号の手前に
出格子の民家があり、かすかに街道の残り香を放っている。

国道にでて南にすこし行った松原郵便局の角を右に入っていくと
聖武天皇社がある。このあたり一帯は万葉の時代に「吾の松原」と詠われた景勝地であった。海が国道1号あたりまで来ていたのだろう。若い松が植えられて「松原公園」として整備されている。

石鳥居の両側には小ぶりの石燈籠が石垣の上にずらりとならんでいる。天平12年(740)聖武天皇が伊勢国行幸のおり、この地に宿泊されたという。安貞元年(1227)その宿泊地、朝明頓宮跡に創建されたのが聖武天皇社である。境内にはその際に詠まれた歌の碑がある。


街道にもどる。国道1号を横切って路地をすすむと
現在の八風街道県道505号に合流する。商店街をぬけると終着点海運橋に到着する。大矢知に忍藩の陣屋が置かれて富田一色は年貢米の積み出し港となった。海運橋近くの運河沿いには陣屋河岸や酒蔵、倉庫などが建ち並び活況を呈したという。1988年、運河は海運橋の北側で締め切られた。

海運橋から海に向かって歩いていく。富田一色町には八風街道で最も古い家並みが残っていた。土蔵がつらなる一角はギャラリーとして再利用されている。その先には風情ある
鰹節卸商が今も商っている。見事な連子格子を施した家が立ち並び富田一色商人の繁栄振りを彷彿とさせる町並に見惚れるままに海岸防波堤にぶつかった。

一筋南にうつると門を通って海辺にでられる。運河をわたる鉄橋や突堤には大型クレーンが居並び近代的な港の景色には風情が感じられない。

町にもどる通りは広小路で正面突き当たりに飛鳥神社がある。両側の民家の多くは魚問屋であろうか、漆喰壁の建物が多く立派なウダツを上げる家もある。格子窓は標準仕様のようである。道路に面して縁台が立てかけてある家が多かった。バッタリのように据え付けられたものではない。日干し用の棚かもしれない。八風街道の旅を締めくくるにふさわしい趣ある通りであった。

(2010年5月)

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