八風街道-2 



相谷−八風峠
いこいの広場
日本紀行

八風街道−1
八風街道−3


相谷

旦度(たんど)橋の北詰、永源寺参道入口に永源寺の説明板がある。

開 山 寂室元光禅師
 永原寺の開山、寂室元光禅師は美作国高田村(現岡山県勝山町)で、正応3年(1290)に生まれられた。13才の時京都東福寺の無為昭元禅師について御勉強ののち、鎌倉の禅興寺で約翁徳倹禅師のもとで修行された。禅師28才の時、南禅寺に寧一山国師に招かれた。寧一山は宋国の台州生まれ、道を求めてやまない寂室は遂に元国へ渡航、禅師31才の時である。 中国で7ケ年、天目山の中峯和尚をはじめ各地で修行、嘉暦元年37才の時、長州室津へお帰りになり、以後、吉備、甲斐、遠州等各地で雲水生活を続けられたが、佐々木氏頼の願に依り、中国の天目山に似た当地に康安元年(1361)永源寺を創建された。 永源寺町教育委員会

旦度橋で愛知川を渡る。江戸時代より架けられていた板橋は最初
谷戸橋とよばれていたがその後旦渡橋に改称された。現在のの表記は昭和46年(1971)橋が架け替えられた際の手違いによるものらしい。ちょうど10年前の秋、紅葉の真盛りの中を永源寺から木地師の里蛭谷を訪れた。政所周辺の山間にかっては小椋千軒、筒井千軒、藤川千軒といわれた木地師の里があったという。それ以来、木地師という職人集団に興味を抱くようになった。蛭谷は小椋姓一色であった。どこかに筒井姓、藤川姓で固まった集落があるのではないか。今回の旅でその糸口をつかめればと期待していた。

寄り道としての永源寺、蛭谷についてはその訪問記を「近江紀行」に譲り、今回は旦度橋を渡って八風街道を進むことにする。橋から愛知川上流の緑色した豊かな流れを眺める。川を境に北側が永源寺高野町、南側が永源寺相谷(あいだに)に分かれている。橋を渡って国道421号に合流する。

ここで思いがけないニュースが飛び込んできた。この旅行記を書いている5月29日の夜7時NHKニュースで東近江相谷の名が流れたのである。滋賀県東近江市相谷町の集落遺跡・
熊原遺跡から縄文時代草創期(約1万3千年前)とみられる国内最古級の土偶が出土したのだ。指先ほどの小さな女性像型だが、乳房や腰のくびれが明瞭に表現されている。

2009年7月より始まった圃場整備工事に伴う調査で同年12月、縄文時代の土器棺墓14基などの遺構が出土した。一帯は鈴鹿山脈と湖東平野を結ぶ愛知川上流域で、東海地方で作られたとみられる石鏃や磨製石斧などの遺物も見つかったことから、他地域との交流の拠点的な集落だった可能性があるとされている。まさに東海と近江をつなぐ八風街道にふさわしい遺跡ではないか。今回の旅行準備時点では相谷にそのように魅力的な遺跡が発見されていることなど知らなかった。旦度橋南詰からわずか200mほど南に行ったところの熊原神社付近である。

旦度橋南詰から100mほど東に歩くと永源寺車庫バス停の先で道が二手に分かれる。右は国道421号、左が旧八風街道で
相谷集落に入っていく。相谷は永源寺ダムの下流に残された集落で、その一部は湖底に沈んだ。弁柄板塀の家、ウダツを設けた古民家、茅葺屋根の宝珠禅寺など懐かしい山里の風景が残っている。集落の家並みが終わるころ、道は二股に分かれる。右は坂を上がって国道に合流する。旧道はそのまま進んで永源寺ダムの下部に設けられた鉄製の扉に突き当たる。かっての八風街道は集落ともども湖底に沈んでしまったのである。

永源寺ダムは昭和47年(1972)に完成、愛知川中下流域に灌漑用水を確保した。反面、中下流の水流が激減し、丸い石ころに敷きつめられた河原は草むら村と化し子供の時代に遊んだ泳ぎ場がなくなってしまった。
二股にもどって国道421号に出る。

すぐに永源寺ダムの堰提に着く。鎖で閉ざされていて歩行者も進入できない様子であった。ダム湖畔に小公園が設けられ、傍に大きな説明板が建っている。永源寺ダム建設の計画は1952年に始まったが、213世帯の水没を伴うことから根強い反対運動が続き完成るするまで20年を要した。水没世帯の多くは青野に移住した。ダム湖畔に点在する集落は遠く離れた青野を選ばず先祖伝来の土地の近くに残った人達であろう。

佐目(さめ)

新しい相谷第一トンネルを抜け、旧国道の相谷隧道をくぐると10軒ばかりの佐目集落に入る。集落入口に津島社の小祠があり、その前の地蔵台石に
「右 八日市 左 畑」と刻まれている。地蔵の建立時期は不明であるが、津島社は明治時代のものらしい。

集落をぬけるとダム湖畔に墓地が見えてくる。佐目村の墓地を移設したのであろう。古いままの木の墓標が湖底に眠る先祖を追慕してたちつくしている。そこからすこし控えたところに「先祖代々之墓」と同じ書体で刻まれた新しい墓石が横一列に並ぶ。河合、青木、大西などの家名が読み取れる。また崖ぶちには多くの石仏が集められていた。

今政権がかわって全国のダム計画が見直されているところである。先祖代々の土地をはなれ移転を決めた水没地住民の、ダム建設中止に対する思いは複雑なものであろう。

永源寺ダム建設にあたっては湖をめぐって桜が植えられた。5月にはいってもまだ花をつけた桜が残っていて、単調になりがちな新緑の風景にわずかながらアクセントをつけている。



萱尾(かやお)

佐目橋で左目子谷を渡ると萱尾町である。昭和44年、ダム湖のくびれた舌状の山麓に宅地が造成され、青野に移らなかった7軒が小さな萱尾集落を形成した。真新しい集会所の脇に昭和43年10月に建立された「祖胤逓伝(そいんていでん)の碑」が建つ。萱尾村の歴史を文徳帝より説き起こし断腸の思いで祖蹟を国に委ねたと、痛切な懐祖の念を記している。

萱尾集落の北はずれに渓雲寺がある。昔は萱尾村人のすべてを檀家としていた。今は御堂があるだけで住人の気配はない。

その先、ダム湖がしだいに先細ってくるあたりに湖畔に向かって
大滝神社の参道が出てくる。立派な石鳥居をくぐると杉木立の中に清楚な白木造りの社殿がひっそりと佇んでいる。愛知川を挟んだ愛知・神崎両郡(現在は共に東近江市)に渡って広く信仰を集めていた。社名にある大滝はすぐ先の国道右手に音を立てて流れ落ちている。昔は岩上から滝つぼに飛び込む神事が行われていたという。大滝は萱尾滝とも称され、愛知川の源として景勝の地であったという。

神社前の湖畔は永源寺ダムに流れ込んできた流木の集積場になっているようで、キャンプ用の薪に利用する人が多いらしく、流木を拾い集める三人の若者とであった。

九居瀬

越渓橋で対岸にわたり九居瀬町に入る。愛知川北岸に位置していた九居瀬町はその全域が水没し、住民はすべて青野に移住して村はなくなった。地名だけが残されている。越渓橋からみる愛知川渓谷は江戸時代からの景勝地であった。今はまだダム湖の延長であって、深々とした緑色の澱みがV字型の谷間に延びている。

橋をわたると「名水京の水6km」の標識と「ちょこっとバス」の小代バス停がある。運行一日4本、料金200円一律、乗降地点自由というシステムになっている。

国道の法面を穿って
石仏が祀られている。


政所

愛知川右岸にそって黒谷、葦原谷を越えると政所にはいる。国道の谷側に移動して愛知川を見下ろすと、もはやダム湖の面影は消えて清冽な流れが白くまぶしい石河原を下っていくのが見えた。

政所は奥永源寺の中心をなす町で宇治とともに銘茶の産地として知られる。「宇治は茶所 茶は政所」と歌われ、政所茶は朝廷にも献上された銘茶である。

稲荷大明神の向かいに木地師の里小椋ろくろ工房が、その先右手には茅葺の水車小屋を配した古民家山荘があって観光地らしい雰囲気になってきた。旧街道は国道と分かれて二股を左におれて県道34号に入る。

如来堂の家並みがつきたあたりに
藤川谷が愛知川に注ぎ落ちる。

山側に設けられた細い石段の入口に
「日本コバ→」と記された如来道登山口標識が立つ。藤川谷に沿った登山道をいくと標高934mの日本コバに達する。藤川谷を直接遡行するコースも人気があるようだ。珍しいコバという名前の由来については「日本一の木場(こば)」という説と、山頂まで途中に休憩所(コバ)を2回(2本)経るという説があるらしい。前者に賛同したい。この谷のどこかにかって藤川千軒といわれた木地師集落があったのだ。遺跡としてなにかが残っているわけではない。木場と木地師が結びつくにふさわしい場所だという気がするだけである。藤川谷こそもしかしたら私のはるかなルーツの地かもしれないという思いもある。

藤川谷が注ぐ対岸の川原は永源寺キャンプ場で、GWを野外ですごす若者が数組見えた。ここをはじめとして愛知川渓流にそって多くのキャンプ場が設けられており、夏休みシーズンは大変な賑わいを見せる。

御池川にかかる金堂橋の手前から御池川右岸に沿った道が分岐しており入口に
「コセチ谷←」の標識があった。御池川の渓流に沿って4km行った蛭谷、更にそこから3km先の君ヶ畑は木地師発祥の地として知られ、全国から木地師が集まり、小椋千軒(蛭谷、君ヶ畑)、筒井千軒、こせち千軒(政所川西、コセチ谷)、藤川千軒(藤川谷)などとよばれる大集落を形成していった。蛭谷は今でも小椋姓ばかりである。

蓼畑(たてはた)

旧街道は御池川をわたってすぐの丁字路を右折して
渓勢橋を渡り愛知川左岸にある蓼畑集落で国道421号に戻る。大正12年に政所中畑と蓼畑が渓勢橋で結ばれた。茶畑の奥に正円寺の鐘楼と本堂が小さく見える。手前農家のトタン屋根はかっての茅葺屋根であろう。背景の新緑はやや霞
がかって山里の風景は幽玄でさえあった。

黄和田

国道は大きく右にカーブしたあと蓼畑橋で愛知川右岸に移る。そこから国道とわかれて
黄和田集落を南にぬけていく道が旧八風街道である。集落をぬけたところ右手に日枝神社がある。由緒書によれば惟喬親王が日吉大社分霊を勧請して創建したと伝わる。明治維新までは山王大権現と称していたが現在の日枝神社に改称された。

街道沿いに
善光寺如来と刻まれた石仏を小さな祠が両側からはさんでいる。苔むした石祠が街道の古さを物語っているようだ。

黄和田は八風街道要衝の地として重要視され南北朝時代に小倉氏によって八風街道を見下ろす山裾に城が築かれた。その後室町時代には京極家の内紛に敗れた京極大膳大夫政高とその子京極治部少輔材宗が黄和田城に逃れている。

大善寺の北側にある辻を左におれて坂道をたどると一風変わった地蔵堂の右手に嶽(がく)登山道を兼ねて城跡への道がでている。満開の八重桜の下を山中にはいっていくと雛壇状に築かれた石垣が残っていた。一番高い所に
「京極黄檗(きはだ)城址」の石碑があることを知らなかった。
 
黄和田町から対岸の杠葉尾(ゆずりお)町にかけての愛知川河原には黄和田、松原、深山のキャンプ場が寄り添っていて、若者や家族連れのキャンパーがのんびりと川遊びに興じている。遠い子供のころの記憶がよみがえってくる。

杠葉尾(ゆずりお)

丁字路を左折して
杠葉尾集落に入る。近江側の八風街道最後の集落である。須谷川をわたり静かな山村をとおりぬける。春日神社には樹齢400年樹高38mという杉の大木がそびえたち、社殿の前には二頭の鹿と立てられたばかりの献灯が境内の静寂を引き立てている。祭りが近いのだろうか。

家並みのおわるころ、二股に
「左 いせ」と刻まれた石標があった。どちらに行ってもすぐに合流するのだが、左側が正規の道筋だと教えているようである。

道は国道421号に出て、左折し神崎川を渡る。現在ここから八風谷入口の八風谷橋までの間約3kmの区間で大規模な
改修工事が大詰めを迎えている。八風橋からは三重県までを貫く4157mのトンネルが完成していて、悪名高い石榑峠越えの「酷道」がその汚名を返上する日も近い。

杠葉尾から約1km街道の緩やかな勾配を上がっていくと新道の南側に取り残された旧国道に名水
「京の水」がある。10年前に訪れた時は車の止め場所に往生したものである。新国道との間は土盛がされている。緑地と駐車場を整備して新八風街道の名所として大いに宣伝すればよいと思う。

部分完成した新道と旧来の国道をぬって、愛知川の分岐点(むしろ合流点)にきた。左側を国道421号に沿って茶屋川が、八風街道に沿った流れが愛知川の源流をなす八風谷である。両者が合流して愛知川となる。国道421号は現在ここで通行止めとなっていた。


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八風峠


八風谷橋を渡って八風峠に向かう街道に入る。登山届投函箱に入山届けを放り込む。

山名:八風峠、入山日:2010年5月4日、下山予定日:同左、パーティー人数:1人。

この先に最後のキャンプ場、エコロジー八風キャンプ場がある。キャンプ場を過ぎ舗装された林道で二箇所の砂防ダムの間を通って谷の左岸へ移る。まもなく車止めのゲートにぶつかった。ここからは
王子製紙の社有林につき無断入林禁止とある。ということは八風街道は私有地を行くということになるのか。土地は県か国のもので、立木だけが社有というのか。胸の高まりがいくらか沈んでいくのを覚えた。ここで中学同級生の車を降りる。実は昨日の同級会でかねてから千草街道を歩こうと話していた田原氏が永源寺車庫から車で行けるところまで付き合ってくれることになっていた。「猪狩をやっているかもしれないから撃たれないように」とアドバイスを受けた。「磁石はもってる?」「非常食は?」と心配してくれるが答えは「もってない」の一言。
「よく一人でいくね」「今晩のホテルは四日市にとってるから、行くしかない」

しばらく林道を登っていくと左手に「八風峠はここから」という
入口標識をみつけた。林道はまだ谷沿いに続いているがやがて八風谷とは分かれてセンコー(仙香)谷に向かうことになっている。八風街道は基本的に八風谷の右岸にあるのだ。山にはいると「200mPost」なる標識が設置されている。東近江市山岳遭難対策協議会が平成20年10月に設置したもので、峠まで200mごとに設けてあるという。心強い同伴者を得た気分になった。これを一番目として峠まで12個のポストが設置されている。つまり峠まで2200mという計算になる。北緯、東経も記されているがGPS機能がない私の携帯では猫に小判である。

早速
谷を渉って右岸に移動する。林中にちょとした空間があり人が住んだ跡をにおわせる遺留物がちらばっていた。湿地にかけられた板橋が街道だろうと、谷から離れて山中の踏み跡をたどっていった。どんどん高みに上がり、左に深い谷がみえてくる。

ようやく間違いであろうと思われ、元にもどることにした。ここにはかって製紙会社の作業小屋があったようだ。その林道を行ったようである。街道は
小屋の跡地の谷側を通り抜けてあくまで谷に沿っていた。

踏み跡をさぐっていくと、幸いに
2番目の200mポストにであった。そのすぐ先右手に防砂堰が見えてくる。対岸には林道がみえる。ここまで林道をきてこの堰を渡る手はあったということだ。2番目の200mポストには八風谷レスキューポイントー1も付いている。119番にいえばヘリコプターでここに直行してくれるシステムになっているのだろう。ますます心強い。

これといった踏み跡のない疎らな杉木立の中を進んでいくと、何の遺構か、
石垣の崩れたような遺物があらわれた。何であろうと人工の遺物は街道跡の印である。

まもなく次の
砂防堰堤が現れた。やはり向こうに林道が見える。河原は渓流とはおもわれない穏やかな砂地で、キャンプさえできそうである。このあたりから谷沿いにはっきりとした踏み跡が認められ、安心して歩くことができるようになった。堰を右手に見過ごすとすぐに3番目の200mポストがあった。「レスキューポイント−2」を兼ねている。どうにか他の街道で経験した峠越えのテンポにちかくなってきたようだ。河原におりて谷水で喉をうるおす余裕もでてきた。

気分をよくして街道跡をたどる。
「八風峠直進 仙香谷・赤坂谷 右折」と記された標識が出てくる。林道が八風谷と分かれて南下していく地点である。もう八風谷の左岸に林道を見ることはない。注意深く谷の分岐点を探していたつもりだが、結局どこで赤坂谷への道や沢が分かれていたのか、わからずじまいでおわった。

4番目のポストにであう。

道はところどころで沢と接しながら小岩をつたうようにすすむ。

小さな支沢をまたいで進むうちにすこし沢から離れた山道に
5番目のポストを見つけた。ようやく標高700mを越えた。入口が標高623mだったからたいして上がってはいない。

歩を進めていくと道の中央に
重ね石がある。その後ろの枝にはリボンが結ばれている。

気を強くして歩いていくうち倒木の手前で
6番目のポストにであう。入口から1kmの地点である。

再び小さな涸沢をわたったところで
「八風峠」の標識が立っていた。その10m先には「レスキューポイントー3」がある。

道はいぜんとして沢沿いにかろうじてその跡を残している。石場脇の道が欠落した場所に丸太橋が架けられていた。登山道としてメンテされている証拠であろう。

次第に藪がきつくなってきた。密度はないが笹幹が太くて強く、手で払える柔物でない。

やがて
7番目のポストにたどり着く。標高は758m。まだ1kmほど歩いて200mほど上がらねばならない。

左右からかぶさってくる枝をくぐり笹幹をかきわけつつ進んでいくと
青色のリボンに出会えた。

道は沢に出たり離れたりしつつ踏み跡は次第に怪しげになってくる。沢は水流こそほとんどないが反対に茂みが谷芯まで侵出して、進行の困難さは藪道とかわらない。ついに沢遡行を断念せざるをえない場所にきた。

その後、どういう道をたどったのかよく覚えていない。沢から離れて山側へ登っていくと道らしき跡が復活している。しかし8番目のポストはついに見ることなく笹に遮られて道を失った。ここでも、元に戻るべきだった。あくまでポストは沢つたいにあったのだろう。這って進めばたどりつけたのかもしれない。

この時点で私はポストをあきらめ、尾根を目指すことに決めた。尾根に出て右にいけば八風峠にでるはずである。カメラと帽子をリュックにしまい込み、木の枝をつかんで体を持ち上げ、岩登りの体であった。一歩ごとに足元を固めながら休む。眼前に空があるのが何よりの慰めであった。あそこが尾根だ。

ようやく登りつめた尾根は樹木と笹薮に覆われて、今ままでの道となんら変わりないものだった。南へ数十メートルいってあきらめ、北に返して100mほど。いずれもそれ以上進める状態でない。皮ひとつでつながっているような尾根さえあった。踏めば崩れる砂地である。右側の山腹におりて迂回するうち、木の隙間に沢が見えた。枯葉の堆積した斜面は軟弱で足を支えない。滑り台よろしく尻で滑り降りる。見上げると美しい涸れ沢である。空との接点は峠にも見える。これが八風谷であれば、どこかに9番目か10番目の200mポストがあるのではないか。

結局ポストに出会うことなく沢を離れて尾根にもどった。4500分の1の地図は用意してきたが、現在地を確認する道具を持っていなかったことが悔やまれた。田原氏が「磁石はもってるか」と尋ねたわけが今わかった。太陽だけでは不十分だったのだ。

八風峠は断念して、三重県側に降りることに決めた。下へ下へと降りていけばどこか人里に出られるだろうという大雑把な考えである。谷芯をくだっていくと沢の源頭が現れ、その両側を行き来しつつ下っていく。登りよりも体力は10分の1以下で済むように感じられる。小滝が現れ出した。岸に踏み跡はない。岩伝いに沢下りを敢行。靴はずぶ濡れになった。半時間ほど下っただろうか、登山道らしき跡を発見、あとはルンルン気分である。リュックをおろし、谷水を飲んで靴下を絞る。

下山をつづけると道に200mポストがあるではないか。おやおや、滋賀・三重両県で統一したフォマットを使用するなど、粋なはからいだな。レスキューポイントまで同じだ。すこしおかしいと近づいてみると、「東近江市」の文字がある。この沢は八風谷だったのだ。

確かに反対側に下りたはずだが、滋賀県側に戻っていたのだ。キツネにつままれた敗北感を味わいながら山を下り、田原氏に乗せてもらった道を歩いてもどり、杠葉尾で「ちょこっとバス」を2時間待った。その時話しかけてきた地元のおばさんが言ったものだ。「戻ってこられたからよかったですよ。うちの主人も山で仕事することがおおいのだけど、『ひとつ谷を間違えたらたいへんなことになる』とよく言ってます」

谷はいくつもある。その数だけ尾根もあるのだということをその時知った。

山上から八日市−貴生川−柘植−亀山と乗り継いで四日市に予約していたホテルにたどり着いた時は10時をまわっていた。

近江側からの八風峠越えは古道歩きではなく、まったくの登山である。しかも標識と整備が不十分な登山道である。三重県側からの八風峠登りは勾配は急だが整備された道だと聞いている。今度はそれで行こう。峠から近江側への下り道跡が見つかれば400mほど降りてみよう。果たして12、11、10番目のポストにめぐり会えるか。

(2010年5月)
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