壬生通り(日光西街道)



小山(喜沢)
飯塚壬生楡木奈佐原鹿沼文挟板橋今市

いこいの広場
日本紀行



壬生通(道)は日光西街道とも呼ばれ、日光街道(奥州街道)の喜沢から北西に折れる街道で、飯塚、壬生を経て楡木(にれぎ)で日光例幣使街道と合流し、今市で日光街道と結ばれる。喜沢から今市まで、宇都宮経由の日光街道よりも二里ほど近道である。室の八島に寄りたかった芭蕉は奥の細道の旅で、この道をたどって日光入りした。



喜沢

大きな5差路にさしかかりようやく
喜沢の追分にやってきた。左にすぐ国道4号線の十字路が続いている。日光街道は5差路を直進し(渡った直後に右の細道にはいっていくのだが)、左斜め前に進んでいくのが日光壬生通りである。鋭角の分岐点にいくつかの石碑が置かれている。先に見た観音堂の地蔵菩薩も前はここにいた。

追分の三角地帯は元禄8年創業という、和菓子の老舗蛸屋の敷地である。水を打った店先がすがすがしい。左奥にはなにやら美術館がある。店の道路脇に黒大理石の道標があった。はっきり「奥州街道」と読み取れる。

壬生街道(県道18号)は早々に小山ゴルフコースの真中を突っ切って進む。その7番ホールの奥に壬生街道最初の
「一里塚」が残っていた。林の中に倒れそうな標柱が1本、地面はわずかながらに盛り上がっている。一里塚というより墓のようだ。



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飯塚

扶桑丁字路交差点を左折し、半田橋で姿川をわたる。二股を右にとり県道18号が真直ぐにのびている。二股の根もとから右に出ている細道はいかにも旧街道の風情だが単なる農道のようだ。

まもなく右手の塚上に七面大明神、左手に妙典寺がでてくる。飯塚宿の入口である。
飯塚宿は、承応3年(1654)に伝馬宿になった。集落のすぐ西を思川がながれ、かっては河岸として賑わった。今はほとんど宿場の面影すらない。わずかに門構えや屋根の立派な家が散見される。

ガスステーションのおじさんに宿場について話をきくことができた。ガスステーションのすぐ南隣、よろずやの前の
谷田貝宅が脇本陣だったという。本陣については数軒手前、街道左手の空地になっているところが鈴木家跡地だそうだ。別れ際に「あそこを芭蕉が通っていった」と、すぐ先の天満宮の方向を指差した。曾良が「飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、小クラ川(現思川)川原ヲ通リ」と日記に記していることを知ってのことだろう。

台林寺が天満宮と隣合ってある。台林寺の決して広くはない庭に工夫をこらして趣ある庭園に仕立ててある。庭師の仕事というより住職の愛情あふれる思い入れを感じさせた。芭蕉の足跡を期待して天満宮の北隣の道を入ってみたが、河原におりるところで道は藪に閉ざされていた。

台林寺の向かいに
摩利支天尊古墳の案内標識が立っている。入っていくと摩利支天尊古墳前の駐車場にはこの付近の史跡・古墳案内図が建てられていた。「しもつけの国風土記の丘」と名づけられたこの辺り一帯は、大小の古墳群や下野国分寺跡、国分尼寺跡、飯塚一里塚、紫式部の墓、博物館などをまとめた広大な歴史公園となっている。奈良の郊外をおもわせるような古い匂いが漂う里だ。蜘蛛の巣とやぶ蚊を打ち払いながら摩利支天尊古墳に登る。森は暗く気味悪い。

街道にもどり、真っ直ぐに走る18号を進むと道の両側にこぶのような盛り上がりがでてくる。
飯塚一里塚は、道の両側に塚が残っている貴重な例だとされている。行き交う車も少なく道路を自由に横断して写真を撮ることができた。植えたばかりの苗木が暑さにまけて弱々しい。30年もすれば立派な塚に成長しているだろう。

しもつけの国風土記の丘の一角にある
紫式部の墓に寄る。墓は鬱蒼とした森の中にあって分かりにくい。通じる道は車幅いっぱいで、半ばぬかるみだった。本来は遊歩道で、車両は入いれないのだろうと思う。苔むしてずんぐりした墓石を撮ろうと近づくと、近くにとまっていた、若い2人連れを乗せた軽自動車が出ていった。紫式部は基本的に関西の人間だと理解している。どうしてこんな所に、と思っていた疑問も、環境庁・栃木県連名の説明札で解けた。伝承というようなものではない。

この塔は五輪の塔で鎌倉時代の様式であり、この地方の豪族が供養塔として建立したものと言われています。−−この付近は『紫』という地名であることから、源氏物語の作者である紫式部の墓と、言われるようになったと思われます。

森が終り、開放的な田園がひろがるところに
下野国分尼寺跡がある。入口に淡墨桜の大木が立って、その背後は150m四方に及ぶ伽藍跡である。丸い礎石が点々とある。国分寺とともに8世紀の半ば天平、聖武天皇の時代に建てられた。国分寺には塔があるが尼寺に塔は認められなかった。

国分尼寺から街道にもどる途中、右手に
国分寺跡がある。遺跡は広い空き地の東端にある。まだ発掘作業が完了していないのか、空き地は車進入禁止だ。南大門跡の標識の背後にある一段高い基壇は七重の塔跡である。尼寺には許されなかった。

壬生に向う前に
下野国庁跡に寄っていくことにした。花見ヶ岡交差点で県道44号にのり大光寺橋で思川を渡る。最初の交差点を左折して1.2kmほど南にいくと右手に国庁跡の案内標識がたっている。下野の国府については諸説があって確定していなかったが昭和54年この場所から前殿、東西脇殿、南門からなる国庁城が発掘された。跡地には前殿が復元されている。

この地は
古代東山道が通っていた道筋にあたり真っ直ぐに東に向かっていた。下野国分寺、尼寺を経て日光東往還沿いの下野薬師寺で北に方向を変えている。

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壬生

街道に戻り壬生に向かう。工場地帯を通り抜けて黒川に架かる御成橋をわたると壬生宿である。

壬生町に入ってまもなく左手に
壬生の一里塚が現れる。榎が大きく育っていて、今までのなかでもっとも一里塚らしい。日本橋から数えて23里(約92km)にあたる。ここが壬生宿の入口にあたっていたのだろう、壬生の城主は
将軍の日光社参の際はここで出迎えた

東武線の踏切をわたり、二差路を右にとって壬生宿のメインストリート
「蘭学通り」にはいっていく。通りがなにか垢抜けしていてすっきりしているなと思えば、風景を乱す元凶である電柱と電線がなかった。それにかえてガス燈風の街灯と蘭学通りの旗が街道の両側を飾って美しい。

壬生藩主の鳥居忠挙はこの地に蘭学を導入し、多くの蘭学者を輩出した。特に19世紀の天保時代、二宮尊徳の主治医でもあり壬生藩鳥居家に藩医として仕えていた蘭方医斎藤玄昌は名高い。斎藤玄昌は種痘を積極的に取り入れ予防衛生に献身した。また、解剖記録「解体正図」を残している。

壬生宿は、古い門構えの家や蔵を残す魅力的な街並である。右手、松本医院の奥に
松本脇本陣の城門のように重厚な門が構えている。門内をうかがうと左手に土蔵が二軒、松の木の陰に古い建物がたたずんでいた。

一軒おいてその北隣も堅固な門をかまえ甍の重なりが美しい
旧家である。板塀にクリスマスの飾り付けがまだ残ったままだ。

同じ側の吉田屋鮮魚店の二階は見事な千本格子である。

壬生通り街道の左側に移って、
旧本陣松本家は足利銀行の手前の石川化粧品店と増田輪業の間を左に入った突き当たりにある。増田輪業の南側の路地にもブロック塀に「松本」の表札がかかり、細い路地をはいっていくと奥に古い門が残っている。大木の根もとで柴犬が番をしていた。

壬生町役場交差点の先、通町には右側にどっしりとした見世蔵が、左手には風情ある門付き五軒長屋がそれぞれ店を開いている。
石崎家の長屋門だそうだが、これを門というには長屋が立派過ぎる。

壬生町役場交差点を500mほど西に入ったところに
壬生城跡がある。壬生城は室町時代のなかぱ、文明年間(1469〜86)に2代壬生綱重によって築かれた。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより壬生氏滅亡後、数回の城主交代を経て正徳2年(1712)、近江国水口から鳥居忠英が入封してきた。以後明治維新まで鳥居氏の支配が続く。壬生特産の瓢箪は鳥居氏が水口からもたらしたもの。 

街道を挟んで城址公園と反対側、黒川のほとりに
雄琴神社がある。初代壬生氏である小槻胤業の祖今雄は近江栗太郡小槻の出。温泉で知られる雄琴を支配し、雄琴神社に祀られた。壬生に移ってきた小槻胤業が、そこから今雄の霊を分祀してこの地にあった藤森神社に合祀、名前も雄琴神社と改めたものである。随身門が豪華華麗である。壬生はおおいに近江と親しい。

神社裏の
黒川にかかる吊り橋からは、男体山をはじめ雪をいただいた日光連山のすばらしい眺めが楽しめる。

黒川東岸にある2つの古墳に寄る。車塚古墳牛塚古墳が道路を隔てて並んでいる。農家に隣接している車塚古墳は、円形の盛土に囲まれた大円墳で、墳丘南側には巨大な凝灰岩でつくられた横穴式石室が開口している。凝灰岩の代表例が「大谷石」で、車塚石室は大谷石最古の使用例として知られる。

街道にもどり、大師町南交差点を左折して国道352号に乗る。上田街道入口信号の先を左に入った所に
常楽寺がある。
寛正3年(1462)壬生初代城主壬生胤業が創建した曹洞宗の古刹である。1712年以降は鳥居家の菩提寺として護持されてきた。墓地には壬生家歴代の墓や鳥居家の墓がある。


その先右手に壬生寺がある。「慈覚大師誕生地」の看板が貼り付けられた山門をぬけると広々とした境内の真ん中に樹齢350年というイチョウの大木が聳え立っている。延暦13年(794)最澄の高弟で後の天台座主慈覚大師円仁がこの地で生まれた。大師堂の西側に産湯の井が残っている。竹樋から流れ出る水はいまでも霊水として体によいとされている。なお生誕の地は他に、例幣使街道の犬伏宿と富田宿の中間あたり、岩船町にもある。

街道は壬生の町をはなれ右にカーブして北西に向かう。北関東自動車道のガードをくぐったすぐの交差点角にセブン・イレブンがある。店の裏側の田んぼに頭だけ出して隠れている
金売吉次の墓がある。芭蕉も「奥の細道」でこの墓を見たと、曾良は記している。源義経が追われて奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次はここで病死したという。彼は奥州平泉に出る砂金を京で売りさばいて儲けた。

数10メートル先の左側に稲葉一里塚の榎がでてくる。日本橋から24里目の塚である。

稲葉、羽生田、七ツ石を通り過ぎ、北赤塚町の家並みがいったん途切れたあたりの左手田圃の中にこんもりとした塚が横たわっている。この前方後円墳は付近に散在していた多数の古墳郡の中心的存在であった。なおこの塚には義経の冠が埋められたので
冠塚(かぶりづか)とも判官塚とも呼ばれている。稲葉で見た金売り吉次の墓とあわせて、壬生通りは義経紀行の道でもあるようだ。

その先、農道が左にわかれる切り通しの入口に江戸から25里目の
北赤塚一里塚がある。国道より一段高い歩道は旧街道跡だろうか。たどっていくと林中の愛宕神社をすぎて北赤塚町の北端で国道にもどった。

前方に断片的な
杉並木があらわれる。

東北自動車道をくぐると、先に例幣使街道との合流点が見えてきた。

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楡木

楡木で日光例幣使街道(国道293号)と壬生通(国道352号)が合流する。追分にはガードレールに守られて古い道標が残っているが、「右 中仙道 左 江戸道」と刻まれた文字は摩耗がはげしい。

合流点から楡木宿である。宿場の面影をもとめて歩くが、1、2軒古めかしい家をみつけただけで、いわゆる本陣・問屋場・高札場などの手がかりとなる情報をみかけなかった。

楡木町交差点をこえた郵便局付近が宿場の中心だったようである。向かいに本陣があったといわれている。蔵造りの家がそうだろうか。


右手に
成就院をみて楡木宿をおわる。
杉並木の名残の一本杉がようやく旧街道であることを知らせてくれる。

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奈佐原

楡木宿と次の鹿沼宿の間宿として奈佐原宿があった。楡木からは街並がつづいており、どこから奈佐原にはいったのか区切りがわかりにくい。バス停の名前でようやく判明する。

この町も楡木と同様、家並みからかって宿場であったことを想像するのはむずかしい。一軒、由緒ありそうな旧家風の家があった。冠木門に屋根をおいた棟門をかまえ、黒塀越しに赤松と大谷石の蔵がみえる。

右手の古びた家の脇に
「奈佐原文楽用具収蔵庫」の標識がたっている。路地をはいっていくと左の空き地に石造りの文楽用具収蔵庫がある。江戸時代にはじまった奈佐原文楽は衰退の後、明治になって上方の支援を受けて再興され、今は国選択無形民族文化財に指定されている。

奈佐原を過ぎ、樅山郵便局の前を左におれて赤子の泣き相撲で知られる
生子(いきこ)神社に寄っていく。東部日光線踏切を越えていくと杉木立の中にある。参道の階段をあがっていくと境内に土俵がしつらえてあった。東屋は朱塗りの柱に入母屋造りの立派なものである。江戸時代から子供相撲がおこなわれていたが明治になってから幼児の泣き相撲(実態は泣かせ相撲)に発展していった。毎年秋の例祭におこなわれ、必ずテレビニュースで報じられる。

大門宿という気になる地名の集落をとおりぬけていよいよ鹿沼市内に入っていく。


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鹿沼

「新鹿沼駅前」交差点で街道は二手に分かれる。右が旧来からの道で
田町通り、左は鹿沼宿が整備されるときに造成された新道、内町通りである。約2kmにわたって鹿沼宿は二筋にわかれ、継立業務は、月のはじめ20日までを内町通りが、のこり10日を田町通りが担当した。両方をあるいてみたが、古いはずの田町通りには見るべきものがなく、宿場の主流は現在国道となっている内町通りにある。

分岐点は
鳥居跡(とりいど)と呼ばれ、小さな祠と鳥居と、「旧一ノ鳥居跡」の石標がある。奈良時代、勝道上人が日光開山後この場所に4本の榎を植えたと伝えられ、後鎌倉時代になって源頼朝はここに日光山の遠鳥居を建てた。日光山の神領の広さを思い知らされる。

国道293・352号(標識には双方の表記がある)である内町通りをゆくと右手に面白い屋根造りの中野酒店が、左手には
雲竜寺が端正な門を構えている。門前に「鈴木石橋 山口安良 先生菩提所」と刻まれた石碑が立っている。ともに当地出身の儒学者で、鈴木石橋が開いた麗沢之舎という私塾の門下生に寛政の三奇人の1人蒲生君平がいる。鈴木石橋家は本陣を勤める家柄であった。

石橋交差点手前右手の
鈴木内科がその本陣跡である。通りに面して「鈴木石橋先生旧居」の碑が立つ。医院は現代的建物だが、その奥には赤松に隠れるように黒壁の土蔵があり、旧本陣の片鱗を見せていた。

石橋町交差点を左におれて東武線を越えたところにある
光太寺は奥の細道紀行で芭蕉が一泊した所である。山の中腹にある本堂の左側には「芭蕉の笠塚」が小高く盛られ、「芭蕉居士 嵐雪居士」と彫られた墓碑が建っている。芭蕉がこの寺に着いた日は朝から小雨が続いていた。翌日の日光詣でにそなえて、江戸からもってきた雨漏りのする古笠を捨て新しい笠に替えた。芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したのが「笠塚」である。次の二句は芭蕉がこの地で詠んだものとされる。当時光太寺は無住であり、鐘つく者もいなかった。

 
鐘つかぬ里はなにをか春の暮れ
 
入相のなにも聞こえず春の暮れ

街道にもどり北に進む。仲町屋台公園に、屋根を二層に重ねたほどの低い二階建てで、白壁土蔵造りの「仲町屋台会館」がある。入ってみると、部屋の全スペースを占めてこの町自慢の
白木彫刻屋台が展示されていた。

繊細な木彫り彫刻で飾られた豪華絢爛な屋台だ。白木の超高級霊柩車を連想させた。鹿沼には幕府の華美禁止令をものともせずに創られた屋台が30台ほどもあるという。絢爛とは贅沢できらびやかで華やかであること。「スゴイ」けれど美とは異なる。むしろ手を加えない自然さを称える伝統的な日本美に反する観念でさえある。その究極を日光東照宮で見る。

市役所前交差点を左折して市役所裏側にある
御殿山公園によってみる。小高い岡にのぼると頂上には野球グラウンドになっていて、その奥に忠霊塔と大きな宝筐印塔があるだけで、鹿沼城址であることの標識類は見当たらなかった。鹿沼城は天文元年(1532)鹿沼に進出してきた壬生綱房が築いたものである。これに先立つ大永3年(1523)、宇都宮氏と皆川氏との川原田合戦で、皆川氏を援けた壬生綱房が鹿沼を占領した。

市役所前交差点にもどる。ここで国道293号は東に去って国道121・352号となり、この二つは延々日光までもくっついていく。じつは、すこし前の下材木町交差点で国道293・352号に121号が合流して3本の国道が一つになっていたのだ。道路標識に3つの番号が併記される珍しい区間である。

泉町で田町通りが国道に合流して宿場は終わる。左手に塩舐め地蔵があるが、それより隣の民家の方が目を引いた。御成橋で黒川をわたり鍵の手状に北にむかって文挟宿をめざす。

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文挟(ふばさみ)

御成橋から国道を北へ5キロほど進むと小倉(こぐら)で日光市に入り、待望の杉並木の景観が現れてくる。並木の起点に「例幣使杉並木街道」の標柱と、松平正綱の嫡男正信が建立したという
並木寄進碑が立つ。

「下野国日光山山菅橋より、同国同郡小倉村・同国河内郡大沢村・同国同郡大桑村に至り、二十余年をへて、路辺の左右並びに山中十余里に杉を植え、もって東照宮に寄進し奉る 慶安元年(1648年)4月17日、従五位下松平右衛門太夫源正綱」

松平正綱(1939年に川越城主)が50歳で相模玉縄2万2千石の大名となった寛永2年(1625年)、主君への報恩と日光東照宮創建を記念して紀州熊野の杉苗20万本の中から2万4300本を日光、会津西、例弊使3街道の両側及び日光山内に植樹し、東照宮に寄進した。現在も、1万3000本以上が生育しており、日光街道だけでも17km、3街道では総延長35kmにも及ぶ世界最大級の並木である。

その由緒を刻んだ寄進碑が慶安元年(1648)に各街道杉並木入り口と並木終点の神橋畔に建てられた。日光街道並木の起点大沢、会津西街道並木の起点大桑、そして例弊使街道杉並木の起点小倉である。いずれも杉並木とともに特別史跡に指定されている。

待望の杉並木を歩こうと思うのだが、歩道は30cmほどの幅で白線が引かれているだけで、しかも杉の枯葉が両側に吹き溜まっていて歩きづらい。最大の欠点は両側の並木の根元が垂直の土手をなしていることにある。とっさに身を避ける余地がないのだ。世界遺産にしては車に寛大すぎる。幸いここは並木の外側に遊歩道が備わっていた。究極的にはバイパスを整備して街道は歩行者と自転車に限るべきであろう。

ところどころで並木道の外辺に生活する住民や企業のアクセスのために土手を削って左右に道が出ている。その一つをたどると、
鹿沼土の養生場だった。あたかも野菜のハウス栽培のように、明るい黄土色した軽土がビニールハウスの中に広げられていた。商品になるまでには粒の選別があるはずだ。


並木がとぎれたところで左に延命地蔵堂がある。文挟宿の入口にあたる。といっても町並はどこにでもあるような風景である。ただ一つ、JAの3軒先、
田辺商店は問屋跡であって、今でも、屋根看板に「問屋」と書かれている。

田辺商店の道向かいに本陣があった。今ある家はおなじく田邊姓だが、本陣も田邊家だったかどうか、知らない。いずれにしても建物は建て替えられているのだから
本陣跡地ということにしておこう。

道が再び杉並木に入る手前に二荒神社があり、そばに
「郷倉」がある。江戸時代、大飢饉が起るたびに大量の餓死者がでた。そこで村民が共同で食料備蓄倉庫を建てた。


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板橋


郷倉から3kmほど進んだところ左手杉林の中に二段になった石組みが残っている。城跡のようにもみえ、あるいは街道をまたぐ橋脚台跡のようにも見える。何の案内板もないから史跡ではなさそうである。

そのすぐ先で並木が途切れた空間に、二つの国道標識や「レストラン例幣使」の看板が立ち、小代から板橋地区にはいる。ゆるやかなS字カーブの曲がり角に「三本石」の石碑と小さな祠が並び、その隣が
板橋一里塚である。標柱には江戸日本橋から27里とある一方で脇に歴史講座と称する小さな立て札があってそこには「板橋の一里塚は江戸より丁度30里である。ちなみに楡木の南赤塚一里塚は25里となっている」と、あたかも標柱の27里を訂正するかのような言い振りである。確かに地図で赤塚からここまでの国道距離をはかってみると22kmとでた。2里(8km)はありえない。赤塚から小倉までの間に、消滅している一里塚が奈佐原、鹿沼、そして武子富岡にあった。

ほどなく、杉並木が途切れ板橋の集落にはいっていく。文挟よりも宿場跡らしい雰囲気がのこっている。左手の福田氏宅が
脇本陣跡である。おばあさんにたずねると昔の家は先月取り壊したばかりとのこと。そのあとに新築基礎工事ができあがっていた。

右手の立派な松の木がある田邊宅は板橋宿の名主で
脇本陣・問屋を兼ねていた。

その先空き地に
本陣大貫氏宅があった。広い空き地の奥に小堂がみえる。背後の山は板橋城があった城山である。同盟軍壬生氏のために北条氏から派遣されていた客将板橋将監(しょうげん)の城である。もとは日光山の里坊で、日光山の遊城坊が設けた館であった。板橋氏は壬生氏の滅亡とともに滅びたが名だけは地名として残していった。

板橋交差点から街道は鍵の手にまがって杉並木の坂をあがっていく。曲がり角右手に二階建ての愛らしい家が建っている。一階は店のようで、胴長の二階をみると昔の旅籠のようでもある。肌色の壁がやさしく、すこし反り返った入母屋の屋根がスカートを広げたようにはれやかで、集落からはなれて一軒ツンとすましている。

いよいよ杉並木も佳境にはいる。杉の根もとは道の歩行者よりも高い。もともと街道の並木部分を盛り上げて造成したのか、もとは平だった並木道の道路だけを次第に掘り下げた結果なのかしらない。この高低差が場所によって深浅があり、あるいは全くなかったりするところを見ると、道路整備の変遷の結果一部が切り通しのようになったのであろう。内側に歩道をつくる余地はない。やがて中央線すらなくなる区間がでてくる。小型車でさえ、すれ違いに大変だ。

左に道がでる丁字路右手に
地震坂の立て札がある。管理者が日光東照宮であるところがおもしろい。国道は政府でも杉並木は日光山ということか。昭和24年12月の大地震で杉並木が地すべりして街道ごと西に移動してしまった。いわれてみると道はいびつに左にねじれ、車道の上下線が二筋にわかれ、並木道の東側土手が西側より高い。

合流したのち中央線がなくなる最狭隘部を最徐行して歩く。二つの国道番号を付けた標識のあたりから日光道の下を通る区間が結構な上り坂になっている。昔はさらに急な難所だったようで、
十石(じっこく)坂と呼ばれている。日光東照宮造営の時、大石鳥居を運ぶ人夫たちに食べさせた米が十石に及んだ。

鬱蒼としてそびえていた杉並木がいくぶん疎になってきて明るさがましてきた。
「特別保護地域」をすぎて「保護地域」にはいったものと思う。木立の間に民家がみえるようになるともう一段ダウングレイドされて単に「普通地域」となる。文化庁の官僚がきめたのか、東照宮の神官がきめたのか、この打算がおもしろい。

やがて壬生通り最後の
室瀬一里塚が現れる。杉の根もとの土盛が他よりやや大きいという程度の塚で、標識がなければ分からないかもしれない。標識には板橋一里塚を受けて江戸より28里目とあるが、例の「歴史講座」では31里となる。

JR日光線が近くを走る。街道は田川を渡り、集落にはいる。「保護地域」も終わってもう「普通地域」だ。

今しばらく杉並木の余韻をたのしみながら、尚立派な個々の杉の木に感心している。今まで各地を歩くたびに、いろいろな巨木、古木をみてきた。国指定からはじまり、市町村指定特別天然記念物として保護されている大木は多くがスギ、ケヤキ、イチョウである。そのうちスギに関していえば、13000本といわれる日光杉並木の一本一本が各地の天然記念物に匹敵するのだ。13000本をここで集中管理していれば、他は(屋久島のよな特別なものを除いて)要らないのではないか、などと打算的な考えを抱いてしまった。日光杉並木も、景観による保護地域、普通地域の区別はともかく、個々のスギの木の管理に当たっては差別をしないでもらいたい。

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今市

考えているうちに今市の小倉町交差点に来てしまった。壬生通りは宇都宮から来た日光街道(国道119号)と合流する。分岐点には赤いキャップに赤いよだれかけ姿の大きな追分地蔵が足組みして瞑想にふけっていた。境内の一角に
「右 かぬま 左 うつの宮道」と刻まれた道標がある。

これから日光まで国道はどうするのかしらん。国道121号も352号も譲る気配はない。ましてや本道たる日光街道119号が引き下がるわけがない。トリプルナンバーの国道がアンカー区間を誇らしげに併走するのであろう。

2009年1月)