高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。 関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。 関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した問ロ11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。  『東海道宿付大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。 明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治10年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含めすべてが撤去されたことがわかります。 この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿業内ボランティアの会」、「関町観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。以下略 平成16年3月 関町教育委員会
関宿高札場  関町中町 亀山市 三重県