禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。 戦国時代、信長の寺院破壊の時に焼失し、その後、元文2年(1737)に上梁札(棟札)によると、四日市浜町の森本長八忠雅の喜捨により建立されたことが知られる。 また、村人たちによって兵火から守られた「本尊・千手観音像」は、文化3年(1806)の再建とみられる本堂内に今も安置され、頭体幹部は11世紀頃の制作であろうと思われている。 山門は、四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「マカラ」を上げる点などは、黄檗山宇治万福寺の諸堂にみられ、黄檗宗特有のもので、棟札より寛政12年(1800)の2月と判明し、細部絵様は本堂のものと一致している。
観音寺 小古曽2丁目 四日市市 三重県