文明2年(1470)に田原美作守忠秀はこの地に城を築き浜田家と称した。忠秀は当時の赤堀城主田原肥前守景信の二男である。その祖先は藤原鎌足であり、9代の裔俵藤太秀郷の11世の孫に、豊前守景綱があり信濃に移り佐野佐野小次郎と祢した。景綱より8世の孫肥前守田原孫太郎景信は応永年代に上野国赤堀より伊勢の栗原に移り、地名を赤堀と改め城を築いた。景信はその長子景宗を羽津に、次男忠秀を浜田に、三男を赤堀に置いた。忠秀は築城の後、常磐の芝田町を通っていた東海道を城東に移し、東西に大道を通して市街を構成し市場を開いて今日の四日市の発展の基礎をつくった。浜田家は忠秀から紀伊守藤綱、遠江守元網と三代106年間続いたが、天正3年(1575)織田信長の伊勢侵攻により瀧田一益の大軍に対し百余騎にて大手門を開いて押し出し必死の戦いを挑んだが元網は負傷し城兵討たれる者多く、元網は子息重綱を脱出させた後、城に火をかけて切腹して果てた。天正3年6月6日のことで、ここに浜田城の歴史を閉じた。昭和51年2月16日  四日市市教育委員会撰 寄贈四日市ライオンズクラブ
浜田城跡 鵜森神社 鵜の森1丁目 四日市市 三重県