青梅街道 



半蔵門−内藤新宿中野田無小川(小平)東大和箱根ヶ崎青梅

いこいの広場
日本紀行



慶長11年(1606)、江戸城大改修のため徳川家康は八王子陣屋に詰める代官
大久保長安に、青梅の成木村で採れる石灰を供給するよう命じた。大久保長安は、石見銀山・佐渡金山をはじめとする鉱山開発、それに付随する交通網の整備一切を任されていた優秀な官僚である。同時期の新田開発・用水路開削・治水事業に活躍した伊奈忠次と双璧をなす。

長安はさっそく成木から江戸城まで石灰を運ぶ道を造った。これが成木街道、別名石灰街道・あく(灰汁)つけ街道である。このときの道は青梅を通っていなかった。成木から岩蔵(現・小曾木5丁目)、笹仁多峠をこえて箱根ヶ崎にでて、そこから残堀を経て東大和市駅の青梅橋で現在の青梅街道に入った。箱根ヶ崎と東大和間のルートは現在「江戸街道」、「桜街道」の名で呼ばれている。青梅橋からは小川−田無−中野−新宿と分かりやすい道である。その後江戸街道はさびれ、成木から東青梅を通って箱根ヶ崎に出、そこから狭山丘陵下の旧集落を通って奈良橋から南に折れて青梅橋にいたる道が整備された。その後も変遷をかさね、現在の主流は新青梅街道である。

本来ならば石灰が運ばれた流れに沿って、成木からはじめて江戸城でおわるのが本筋だが、いつものくせで、身近な場所から出発する。出発点は石灰が城内に運び込まれたであろう半蔵門。新宿までは甲州街道を利用する。

石灰輸送の需要が衰えるにつれ、青梅街道はその役割を奥多摩、さらには大菩薩峠をこえて甲州に至る甲州裏街道にシフトさせていった。甲州街道とは甲府の東にある
酒折2丁目山崎三差路で合流する。甲州街道にくらべ2里ほどの近道になった。

今回の旅は青梅を終点とする官道としての青梅街道である。

東青梅から上成木までの石灰ルートである成木街道は別に載せる。また、青梅以降、大菩薩峠を越える道はいつか青梅街道(甲州裏街道)として歩いてみたい。



四谷


半蔵門は江戸城の裏門にあたる。徳川家康はいざというとき、ここからまっしぐらに大久保長安のもと千人同心が待機する八王子まで逃げるつもりだった。この搦め手の安全を担う番町地区に腕の立つ腹心の家来を配備した。特に信用を置いていたのが伊賀忍者服部半蔵である。服部半蔵は伊賀組の組頭として門の近くに屋敷を与えられた。門の名は彼の名である。半蔵の墓が西念寺にある。

門の前から街道は西に向う。通りの名は標識に「麹町大通り」とあり、4丁目にその由来を記した案内板が立っている。名前の由来にとどまらず、この界隈の歴史を現在にいたるまで要領よく説明していた。

 この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路(こうじ)」がおおかったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向う「国府路(こうじ)」があったためともいわれています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室も見つかっています。
 現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624〜1644)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火余地(ひよけち)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政3年(1856)の絵図には、出雲松江藩松平家の上屋敷などが見られます。
 一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で1、2を争う呉服商の伊勢屋、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討ち入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。
 町内には井戸がたくさんあったようで、大正12年(1923)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。
 明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町4丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。         麹町4丁目町会

麹町の北側、外堀と内堀の間に広がっているのが
番町地区で、江戸城搦め手を警護する大番士の組屋敷が建てられ、高級旗本が住んでいた。彼らが買い物にでかけたところが麹町の町屋街である。明治維新後にはイギリス大使館が置かれ、高級官吏や文化人が住み着き、子弟教育のために有名学校が進出してきた。イギリス大使館のある一番町は千鳥ヶ淵に面していて春の花見シーズンになると歩道は人で埋まる。

四ツ谷駅にあった四谷見附は、江戸内外を区切る警護番所である。駅の東が枡形になっていて、街道はコの字型に一筋北の新四谷見附橋をわたり、左折して本筋に戻った。枡形と鉤の手を組み合わせて万全を期した。駅の北側に見附門の遺構である石垣が残る。


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内藤新宿

四谷4丁目の広い交差点に出る。現代の甲州街道である国道20号は新宿御苑の北側のトンネルをくぐっていく。二股の右をいく都道430号(新宿通り)が旧甲州街道である。しかし、新宿御苑の散策路を歩いていたとき、公園管理人の人が、散策路のすぐ北に走っている道が旧甲州街道だと教えてくれた。確かにそう書かれた道路標識が設けてある。現在の甲州街道である国道20号に対して旧甲州街道とよんでいる新宿通りよりも、さらに古い甲州街道ということか。道筋としては内藤家敷地の北端につくられた玉川上水の桜並木土手にあたる。その北側に町屋がひらかれ、やがて現新宿通りを挟んで開設された宿場に組み込まれていったということであろう。

四谷4丁目二股に四谷大木戸跡と玉川上水記念碑がある。四谷大木戸は甲州街道に設けられた江戸城下町の出入り口であり、その外側から現在の新宿3丁目交差点までが内藤新宿であった。内藤新宿はそもそも青梅街道が整備されたときにはなく、半蔵門を出て最初の宿は中野宿だった。内藤新宿は元禄11年(1698)に開設されたものである。

しかしもともと軍用道路を意図してつくられた街道に、旅で旅籠を利用する客はすくなく、もっぱら飯盛女の客引き行為が目に付いた。今の夜の歌舞伎町を思わせる光景ではないか。ついに元禄15年(1702)幕府公認本家本元の浅草吉原から文句が出て、享保3年(1718)内藤新宿はわずか20年で廃止される破目になった。将軍吉宗の享保の改革による風俗統制の犠牲になったとも考えられる。その後再三の再興願いが受け入れられて明和9年(1772)には宿場が再開された。

新宿2丁目に3つの寺がある。いずれも飯盛女という遊女にまつわる話がのこっている。
正受院太宗寺の閻魔堂に奪衣婆(だつえば)像がある。奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取り罪の軽重を計ったとされている。左膝を立てて座りあばら骨としわだらけの垂れ乳を露わにして、右手には死者からはぎとった衣を握っている奇怪な老婆である。衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰された。

成覚寺は宿場女郎の投げ込み寺で、境内には年季奉公中に死んだ飯盛女の共同墓碑である「子供合埋碑」と、内藤新宿の遊女と心中した男女を弔う旭地蔵がある。この地蔵はもともと今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立されたものだという。なさぬ仲の男女は玉川上水に身を投げて恋を成就したものと想像する。

太宗寺には閻魔堂のほか史跡が多い。また案内パネルの解説も宿場と街道の生い立ちから始めて、江戸名所図会や写真を添えて充実したものである。入口の右手に堂々とした銅造り地蔵がマンションを背に座っている。東海道や中山道でもみた
江戸六地蔵の一つである。江戸市中出入り口付近に造置され、旅人の安全を守った。

第1番(1708年): 品川寺 東海道    品川区南品川3-5-17
第2番(1710年): 東禅寺 奥州街道  台東区東浅草2-12-13
第3番(1712年): 太宗寺 甲州街道  新宿区新宿2-9-2
第4番(1714年): 真性寺 中山道    豊島区巣鴨3-21-21
第5番(1717年): 霊厳寺 水戸街道  江東区白河1-3-32
第6番(1720年): 永代寺 千葉街道   (地蔵は消滅)

墓地の奥に、伊那の高遠藩主をつとめた譜代大名
内藤家の墓所がある。徳川家康が入府した翌年の天正19年(1591)、内藤家の二代目当主内藤清成のとき、家康から「馬が一息で駆け巡るだけの範囲の土地をやろう」と言われ、代々木・千駄木・四谷・大久保にいたる広大な土地を手に入れ、そこに江戸屋敷(後、高遠藩中屋敷)を構えた。その後、気が引けて土地の一部を返上したり宿場の用地として提供したりしたが、まだありあまる広さだった。現在の新宿御苑はその一部である。今も内藤町として地名にのこり、宿場の名にも「内藤」が冠された。

甲州街道は新宿三丁目交差点を左折していき、直進するのが青梅街道である。交差点南角に円柱の新宿元標が設けられて歩道に
「新宿元標ここが追分」と題して円形のタイルに現代と江戸中期の街道地図と乗物や旅人が描かれている。このすこし手前に追分団子を売り物にしている店がある。早朝でまだ開いていなかった。

新宿駅東口広場に
馬水槽なるものがあった。明治34年にロンドン水槽協会から東京市に贈られたものだ。ライオンの口から水がでて、上の水槽で馬が飲み、こぼれ水を下の小さな受け皿で犬猫が飲む。人間は裏側で飲む。マロン色の御影石で動物の水飲み場としては上品な設備である。

新宿駅ガードにぶつかる。右方の大ガード下を通らずにそのまま直進してガード下の細い路地をくぐるのが旧道である。すぐに大きな
新都心歩道橋下交差点にでる。高層ビルが林立している。西新宿も立派になったものだ。

右手の常円寺入口に
便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)狂歌碑がある。わけのわからない名だが、江戸時代中期の狂歌師だという。

  
三度たく米さえこわしやはらかし、思うままにはならぬ世の中 

今は完全自動炊飯器で、印通りに水をいれさえすれば男でも美味い飯がたける、便利な世の中になった。

すぐ先の右手に
成子天神社がある。今日は仕事始め。背広姿のサラリーマンも社用初詣だ。神社の由緒書きにかえて「鳴子ウリ」の案内板が立ててある。徳川家は、元和年間(1615〜1624)に美濃の国真桑(マクワ)村から農民を呼び寄せ、ここ鳴子と府中でマクワウリを栽培させた。家康は美濃のマクワの味が忘れられなかったのだろう。近江では黄色いやや横長の甘いウリをたんに「マクワ」という。メロンより好きだ。特にタネをとった後のハラワタが美味い。

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中野

神田川をこえて中野区に入る。神田川に架かる橋の名は
淀橋。橋の袂に江戸名所図会入りの案内板がある。三代将軍家光のころ、中野に鈴木九郎という長者がいた。貪欲な人間で、財が溜まると地中に隠し、その際秘密保持のために手伝った下僕を殺して橋から神田川に投げ込んだ。その橋は「姿見ずの橋」と呼ばれるようになった。三代将軍家光が鷹狩りで通りかかったとき、その名前は不吉ということで京都の淀川に似ているからと淀橋と名づけたという。図会に長者の話は出てこない。

街道はゆるやかな坂を上り中央2丁目から3丁目にかけての旧中野宿にはいる。右手宝仙寺あたりが宿場の中心であろう。

宝仙寺は平安後期、奥州・後三年の役(1083〜87年)を平定して京へ凱旋の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するためここに一寺を建立したと伝えられる古刹である。残念ながら第二次大戦で大伽藍は焼失、境内の建物はみな新しい。その中で飛鳥様式の木造三重塔がひときわ目立った。

その前に奇妙な塚がある。よくみかける富士塚でもなく、近寄ってみると積み上げられているのは岩でなくで
石臼だった。神田川の水車でそば粉を挽いていた石臼が機械化で捨てられていたものである。

墓所には中野の開発者であり代々名主を勤めた
堀江家の墓がある。堀江家は16代で途絶え、家も残っていないが記録文書だけは「堀江家文書」として都立大学に保管されている。

街道も中央3丁目の慈眼寺あたりにくると近代的なビルが建ちならぶ中に、ふとなつかしいたたずまいの店屋が残っている。なかでも尾張屋商店は二階の戸袋が黒漆喰塗りで蔵造りを思わせ、庇付きの手摺が風情を醸している。一階店軒の裸電球と板看板の組み合わせも正月の飾り付けを得て、普段より華やかにみえる。

大銀杏があったという西町天神北野神社の先で中野区中央5丁目から杉並区高円寺南1丁目に入る。

環7通りをこえ梅里という風雅な地区にはいる。五日市街道入口交差点から二つ目の南に出ている道が
旧五日市街道(都道7号)である。五日市までおよそ10里の道で、若者の町吉祥寺のほか、成蹊、武蔵野、東京学芸、一ツ橋、津田塾などの大学のそばを通っていく。学生街道とでもいおうか、若返りそうな気分がする街道である。

旧街道は天沼陸橋信号のY字路を左にとる。その前に陸橋から線路を見下ろしながらしばし休憩をとる。これだけ線路が多ければ、電車一本では物足りない。3本現れたところで写真を一枚。

荻窪駅南側の旧道沿い、荻窪4丁目30にある藤沢ビル(旧アメックスビル)の南側に古い
馬屋門が残り「明治天皇荻窪御小休所」の碑が立っている。通りからみると長屋門ではないかと思うが建物の内側は空で、馬のかわりに車が留まっていた。新しいタイプの門をみた。

旧道は荻窪駅の東側で地下道にもぐり北口に出て、交通の激しい都道4号にもどる。

上荻3丁目で左の路地をのぞくと、大きな門を構えた家がみえた。近づいてみると冠木門から高々と黒板塀をめぐらせてある。表札に
「市川」とあった。大地主で昔は名主でもしていたのではないかと想像する。高い塀と繁った植え込みで中の様子がうかがえない。

荻窪警察署の向かいに
荻窪八幡神社がある。寛平年間(889〜897)の創建と伝えられる。境内には太田道灌が植えたと伝えられる樹齢500年を超す「道灌槇」が聳え立っている。

1kmほど先に今度は
井草八幡宮がある。朱塗りの豪華な楼門をくぐるとこちらには源頼朝が植えたという「頼朝公お手植えの松」(二代目)がある。寛文4年(1664)改築の社殿は回廊の奥にあり品格をそなえた重厚な造りである。

上井草四丁目の交差点左手角に
「開運地蔵尊」が立っている。ここから練馬区関町に入る。

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田無

「上石神井駅入口」交差点の先左手に
稲荷神社がある。「青梅街道と稲荷神社」と題した案内板があって、この付近は江戸時代中頃に開発され竹下新田と呼ばれていたとある。

沿道は見事な欅並木が続き景観から高層ビルの姿が消えた。並木の背後には広い敷地内に屋敷林をとりこんだ家並みが奥ゆかしく見え隠れする。そんな中におおらかな農家の風景を垣間見るのもこころをなごませる。ここまでの都会的景色から徐々に武蔵野的な風景に変わりつつある。

関町一丁目の交差点の先右手にあしもとが削られた
「関のかんかん地蔵」がある。カンカン地蔵をはさんで右側には享保14年(1729)の胎蔵大日如来、左側には寛保元年(1741)の勢至菩薩が並んでいる。カンカン地蔵をはじめてみたのは日光街道北千住でのことだった。そこでは無惨にも顔が削られてのっぺらぼうになっていた。石でたたくとご利益があるとのことだが、はじめはだれか悪戯坊主が遊びではじめたのではないかと、無邪気な想像をしたものだ。今でも「カンカン地蔵」の起源についてはなにも知らない。

関町交番前交差点をわたった右手、石神井西小学校の校門前に
青梅街道の石標と案内板が唐突に現れる。街道は西東京市(旧:保谷市+田無市)にはいり、「東伏見四丁目」交差点の二股を右に進んでいく。

「東伏見坂上」交差点手前右手は長いブロック塀がつづき、その一角に小祠があってなかには文政9年(1826)の大日如来が祀られているらしい。この広大な敷地は
保谷家の敷地である。保谷氏はこの地域を開発した郷士で、大地主であった。保谷家とは関係ないが、保谷市はメガネレンズでおなじみのHOYA(株)発祥の地である。

「東伏見」交差点を右にはいったところに
東伏見稲荷神社がある。昭和4年創建という新しい神社だ。由緒書きがないのも納得できる。この土地は小高い地形にあり、土豪保谷氏の館跡地だという説もある。

街道にもどり、
西武新宿線のガードをくぐって田無町にはいる。

富士街道(都道8号)との追分に享保8年(1723)の道標を兼ねた
柳沢庚申塔があり、「是より左ハあふめ(青梅)ミち」「是より右ハはんのふ(飯能)道」と刻まれている。

これはすぐ先の秩父道との追分(田無町1丁目交差点)にあったものが移転してきたもので、左青梅道が旧青梅街道(都道5号)、右飯能道とあるのは富士街道でなくて、現・所沢街道(都道4号)を意味する。説明板には「柳沢宿」とあるが「田無宿」の別称である。

秩父追分の三角地に旧旅籠田丸屋が三階建てビルの一階に田丸屋酒店として今も店を構えている。ここに柳沢庚申塔があった。

旧道にはいってすぐ右手に
田無神社の鳥居がたっている。参道はのぼりや出店でにぎやかだ。最初の出店がドネルケバブというトルコの焼肉だったのには驚いた。田無神社は鎌倉時代の創建で、青梅街道田無宿の開設とともに谷戸から当地に移ってきた。本殿は安政6年(1859)、拝殿は明治8年の建築である。規模は大きくないが銅版葺きの千鳥破風と唐破風が正面をみすえ、ふんだんな彫刻が施された風格ある社殿である。

道をはさんで
総持寺がある。本堂は嘉永3年(1850)の建築である。境内の妙見堂には名主下田半兵衛の木造が保管されている。下田家は江戸時代後期3代にわたって田無村の名主を勤めさまざまな善政を行なった名家とされる。

その
下田家住宅が田無町交差点のひとつ手前の路地を左に入ったところにある。高いブロック塀に囲まれて内側の建物をうかがうことはできないが、入母屋造りの屋根はかって茅葺の優美な姿をみせていただろうと想像するに難くない。

その先の駐車場空き地の隅に小さな木造の小屋が残されている。飢饉に備え稗を備蓄するために下田半兵衛が建てた板倉である。また、半兵衛は私有地1町歩を提供してそこから上がる小作料を老人の小遣いの原資とした。畑は
「養老畑」とよばれ、田無神社の裏手にあった。そこに建てられた標識が田無小学校の玄関前に保管されている。これらの下田半兵衛による善政を記した石碑が稗倉のそばに立っている。

旧街道は田無駅前通をぬけていく。町並みは戦災にあって古い建物はほとんどみかけなかった。

街道は田無宿の西出口、橋場交差点にさしかかる。玉川上水から枝分かれした田無用水が青梅街道を横切り、ここに橋が架けられていた。交差点の手前で左手に「ふれあいのこみち」、右手に「やすらぎのこみち」なる遊歩道がでているがこれが暗渠化された田無用水である。

交差点は三叉路になっており直進するのが青梅街道である。右斜めにでる道は成木往還(東京街道)とよばれ、八坂を経由し新青梅街道に合流して奈良橋庚申塚交差点で現青梅街道に交差している。目的地成木まで、現青梅街道をたどるのか、別の道筋があったのか知らない。成木往還との分岐点に真っ赤な防寒服をかぶった地蔵と庚申塔が並んでいる。

芝久保町に入り、中国ラーメン店の横に祠にはいった北芝久保庚申塔がある。延宝2年(1674)の古いもので、青面金剛のない古い作風を伝えている。

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小川(小平)

小平市に入り、かっての野中新田村を歩く。小川村が開発されるまでの青梅街道は、田無から青梅まで25kmの間、集落はおろか家一軒もない荒漠とした乾いた原野が続いていた。逃げ水の里とよばれた青梅街道最大の難所であった。

ケヤキ並木が残る街道右手に
武蔵野神社がある。野中新田の開発を請け負った上谷保村(現国立市)の円成院住職大堅と矢沢藤八らは、全開墾地を12等分し、その1つを社地と寺地にすることに決めた。享保9年(1724)、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として野中新田に遷宮したものである。 


西武新宿線の踏切をわたった先右手にある
小平ふるさと村に寄った。いくつかの古い建物が移築、復元され落ち着いた小公園になっている。開拓当時の復元農家はちょうど茅葺屋根の葺き替え中だった。下の方から新しい茅をたばねてグサッと差し込んでいく。その隣に建つ散髪したての茅葺入母屋造りの建物が小川村名主であった小川家の旧宅玄関棟である。

「小平消防署西」信号の手前左手に
平安院がある。享保年間に開かれた小川新田(現仲町)の名主小川弥市らの手によって、ここに移住してきた住民の菩提寺として元文4年(1739)に建立された。寺の前に立つ庚申塔にも願主として小川弥市の名が見える。小川村開発者小川九郎兵衛の家系であろうか。

交差点で仲町から小川町2丁目の旧小川村にはいる。道がそこから南側一車線分広くなっているのに気付く。ここから府中街道と交差する小川交差点までの約1.3kmの間が小川宿の
馬継場だった。広げられた街道の南側に馬を繋いだ。

右手農家の庭に屋根の赤トタンと一階ひさしの青トタンが藁下地を見せた土壁と奇妙な調和を保っている
魅力的な土蔵をみた。みほれてしまうほどに愛らしい建物である。

人形店
甲州屋は創業慶安3年(1650)という老舗である。紅白の提灯が一見居酒屋風だ。

すぐ先の「小平郵便局入口」丁字路角に「青梅街道」の案内板がある。

慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城にに運搬するために使われた道がこの青梅街道で、別名成木街道ともいわれた。この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4ヶ所に馬継場が置かれた。

新小平駅前に
「小平新田散歩」と題した案内板がある。旧街道および近隣の史跡を記した地図が分かりやすい。すぐ先の道(旧鎌倉街道)を南にすすむと津田塾大の東側を通って鎌倉橋で玉川上水を渡り五日市街道にでる。津田塾大の西側は府中街道が通っていて玉川上水を久右衛門橋でわたっている。久右衛門とは玉川上水の南側の新田を開発した地主らしい。

玉川上水を東にたどると一ツ橋大小平キャンパス前で五日市街道と合流する。その付近に旧小川水衛所跡があるそうな。玉川上水遊歩道は京都の哲学の道みたい感じがする。そこはかとなく旅心をくすぐられる所だ。青梅街道からの寄り道とするにはもったいない。いずれ五日市街道は小金井桜の花見を兼ねて、桜の季節にでも歩くことにしよう。

本題にもどって、その案内板に
「新田開発と小平の誕生」の解説がある。これも要を得ていて理解しやすい。
玉川上水、野火止用水の開通を契機に多摩郡岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛は、明暦2年(1656)小川村の開拓を始め、両用水の内側約7平方kmを開墾し、明暦3年小川村が誕生した。それまでは鎌倉、青梅、五日市の3つの街道が通じていたのみで荒漠たる原野であった。その後、享保時代(1716〜1735)に幕府の財政再建のため次々と新田開発が行なわれ、武蔵野原野はいくつかの親村を中心として約80ヶ村の新田が開拓され誕生した。小平村は明治22年(1889)小川村・小川新田・大沼新田・野中新田興右衛門組・野中新田善左衛門組、鈴木新田・廻り新田を合わせて誕生した。

青梅街道は二つの「小川町」信号交差点を通過して小川町2丁目から1丁目に入る。左手に立派な門構えの家が建つ。道は再び狭くなって2車線にもどり小平消防署西交差点から始まった
馬継場が終わる


府中街道が南北に鍵の手を作ってこの二つの交差点を通り過ぎてゆく。1丁目にはいり
西武国分寺線をこえたあたりから沿道は屋敷町の景観を呈してくる。武蔵野の雑木林をのこしたまま集落が作られたと思うほどに緑が豊かである。新東京自動車教習所のバス停の後ろにめぐらされた生垣の屋敷が旧小川村の名主だった小川家宅である。植え込みの隙間から垣間見る家自体は新しい建物であった。

「元中宿通り」と書かれた標識がふと目にはいった。はてはこのあたりが小川宿の中心であったかと路地を覗き込むとブロック塀と植木が真直ぐな道の両側に延びる閑静な住宅地があった。すこし入ってみると敷地の境を清涼な
小川用水が街道に並行して流れている。

小川宿も西端近く、旧上宿に小川寺(しょうせんじ)と小平神明宮が向かい合ってある。


平成11年に改築されたことを感じさせない歴史と風格をそなえた
山門をくぐると赤頭巾の六地蔵が迎える。通例似たり寄ったりの顔をならべるものだが、ここでは1人だけ数珠をもち都会的な顔立ちのイケメン地蔵が自分を意識した様子で目立っていた。

修業門をくぐると清楚な鐘楼が建つ。その奥にもう一つぶら下がる
梵鐘は小平市指定有形文化財で、貞享3年(1686)の鋳造である。第二次大戦中この梵鐘も供出されたが後一歩のところで命拾いをして生き残った。貞享3年は小川村が開拓されて30年後のことで、明暦の大火の復興特需もあって青梅街道は全盛期を迎えていた。墓地には小川村の開拓者小川九郎兵衛の墓がある。

小川寺の斜め向かいにある
小平明神宮は小川村の開拓がはじまって5年後の寛文元年(1661)に小川村の総鎮守として造営された。



小平上宿交差点の二股を左にとってすぐ左におれると白壁土蔵のうしろにケヤキの大木がそびえている。
竹内家が小川村開拓後まもない寛文年間に移住してきて、防風のために植えたもので樹齢は300年をこえる巨木である。垣根の内には入母屋造りの竹内宅が静かにたたずんでいる。


二股の右をいく街道にもどり、上宿集落をぬけると
青梅橋三差路交差点に出る。青梅まで20km、四谷まで25kmと、青梅街道のほぼ中間地点にあたる。玉川上水から分水された野火止用水を跨ぐ所に青梅橋が架けられていた。三差路脇に青梅橋の欄干が残されている。

街道は右にまがって西部拝島線ガードをくぐり、小平市から東大和市に入る。


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東大和・武蔵村山


青梅橋から次の箱根ヶ崎宿にはいるまでおよそ10kmの道のりがあり、その間に東大和と武蔵村山という武蔵野を代表するような二つの地域を通り抜ける。これを小川宿か箱根ヶ崎宿のいずれかに寄せてしまうには大きすぎるので、宿場はないが独立の区間として扱うことにした。

東大和市駅前広場で、青梅街道は
新旧二つの道筋に分れる。古くはここを左におれて残堀を経由して箱根ヶ崎に至った。かっては青梅橋から丸山台まで4kmにわたって千本桜とよばれる桜並木があり、道は桜街道(武蔵村山市では「江戸街道」)とよばれている。この道がいつのころか知らないが次第にさびれていき、かわって狭山丘陵下の旧集落を通る道(現在の青梅街道)が栄えるようになった。江戸街道は横田基地で分断され大きく消失している。ここではあえて旧道を求めず、現在の青梅街道を歩くことにした。

その前に、広場に立つ「東大和市のあゆみ」案内板を読んでいこう。

東大和市に人々が住み始めたのは、多摩湖遺跡群から発見された遺物によりますと、紀元前2万年から1万年の旧石器時代であろうと推測されています。一時期、人跡が途絶えましたが、7世紀ごろからは、人々が定住し始めました。17世紀に入ると、江戸城修復のために青梅街道が開通し、人馬の往来も激しくなり、また、野火止用水も完成し、17世紀末から18世紀初めにかけては、新田の開発が進められました。明治4年の廃藩置県制実施により、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水の7か村(後ヶ谷、宅部の2村は明治8年に合併し、狭山村となりました)は、初め神奈川県に属しましたが、明治26年に東京府へ編入されました。明治34年にはこの6か村の合併問題が起き、大正8年に大和村(戸数770戸)が誕生しました。村名は「大いに和すること」に由来しています。(中略)昭和45年10月1日には市制を施行し、名称を「東京の大和」ということから「東大和市」と改めました。

青梅橋から繁華な商店街をぬけ新青梅街道と交叉する
奈良橋庚申塚にさしかかる。交差点をみまわしてもそれらしい塚はない。角の交番で聞いてみると塚は新青梅街道建設の時に取り壊され庚申塔は奈良橋集落の雲性寺に移されたということだった。

北に進み、奈良橋交差点を左折してようやく旧街道らしい街並にはいってくる。さっそく
雲性寺によることにした。東海道箱根宿本陣の門をもらいうけたという山門の下に三基の石塔がならんでいる。どうやら中央が奈良橋庚申塔のようだ。そばに、別の庚申塔のことが書かれている案内板が立っていてまぎらわしい。

奈良橋庚申塔は享保16年(1731)の銘があり、台座は道標を兼ねていて、次のように刻まれているらしい。

     東 江戸道  北 くわんおん道  南 府中道   西 中藤 左 青梅

観音道とは雲性寺の観音堂のことか。中藤は武蔵村山市の青梅街道沿いの村である。
最後の「左青梅」の意味がよくわからない。

また、「東江戸道」とあるのが気になる。奈良橋庚申塚交差点を新青梅街道が東西に貫いているが、東に1kmいった所から右斜めに「江戸街道」がでていて、
九道の辻(現・八坂)を経てなぜか「東京街道」に名を変えて田無の橋場交差点で現在の青梅街道に合流しているのである。この道が青梅橋から直角に北進する現在の青梅街道より、もっと自然ですなおにまっすぐな道筋なのだ。ただ小川宿を通らない致命的な欠陥がある。小川村が開発される以前の成木街道であろうか。

「東江戸道」が旧成木街道であるとすれば「西中藤」がその西側の延長と考えるのが自然であろう。これは新青梅街道ではなく交番の西側から北西に向かう細道ではないかという気がしてならない。

結局、享保のころの青梅街道とは庚申塔の道標でいえば、どれにあたるのか、肝心な点があきらかにならなかった。とにかく今の青梅街道は「北 くわんおん道  南 府中道」にあたる。

雲性寺から街道にもどり西に進む。奈良橋川に架かる村山橋をわたると右手に内野医院があり街道沿いに
蔵敷(ぞうしき)高札場跡が残されている。慶長8年(1603)に建てられたもので、多摩地区に現存する高札場はここと府中高札場の二ヵ所のみだという。府中高札場が立派すぎたのか、ここの高札場は小ぶりに見える。

内野家は旧蔵敷村の名主で医院の裏には門付きの屋敷と石蔵が建っている。内野家には
「里正日誌」とよばれる文書が残されている。全66冊という膨大なもので、天正元年(1573)から明治6年(1873)までの300年間に及ぶ記録が編年的に編綴整理されているという貴重なものだ。そこには青梅街道、成木街道の変遷が記されているかもしれない。すくなくとも蔵敷にかぎらず狭山丘陵麓の村落は田無や小川村などの新田よりも古くから成立していたことがわかる。

芋窪1丁目の
豊鹿島神社は、芋窪村の鎮守として信仰を集めていた。外からは見えないが本殿は天文19年(1550)に再建されたもので都内に現存する最古で、唯一の室町時代神社建築であるという。

街道は武蔵村山市中藤地区にはいる。奈良橋庚申塔にあった「西 中藤」である。中藤4丁目で道はおおきく直角にまがり
大曲交差点に出る。ここで街道は右折するのだが、左にはまっすぐな道がつづいていて、どうしてその道をこなかったのかと、不思議に思った。その道を東に辿っていくと庚申塚があった交差点に出るのだ。未練を残したまま、西に向かって箱根ヶ崎をめざす。右折してすぐ左にはいる道は旧道だろう。

「水道事務所南」信号角に
薬師堂がある。天正18年(1590)に滝山城が落城の折、北条氏の家臣石川土佐守娘の持仏である薬師如来を祀ったという。

「かたくりの湯入口」交差点の先左手にある洋館風建物は
村山織物協同組合事務所で昭和3年の建築である。村山は江戸時代から昭和初期まで村山絣で知られる木綿織物の一大産地であった。その後次第に村山絣は衰退していき、かわって絹織物が生産の中心になっていった。事務所は全盛期に建てられたものである。

右手に長園寺をみて峰交差点の先で右にみじかく旧道が残っている。三つの越屋根をのせた民家が目を引いた。都道にもどる手前に宿の子育て地蔵尊がある。

その先すぐに再び右手の旧道にはいる。旧道入口に
赤稲荷が、出口には薬師堂が建つ。岸地区をぬけると西多摩郡瑞穂町にはいり、箱根ヶ崎宿が近づく。

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箱根ヶ崎

瑞穂町にはいるや右手に阿豆佐味(あずさみ)天神社の長い桜並木の参道が現れる。延喜式内の古社で、多摩八座の一つである。寛平4年(892年)青梅街道上総介高望王の創建と伝わる。享保年間(1716年〜1736年)当地の武士団頭領村山土佐守により社殿の修復が行われた。現在の社殿は明治27年に改修されたものである。

武蔵国多摩郡八座

阿伎留神社(あきる野市) 小野神社(多摩市・府中市) 布多天神社(調布市) 御嶽神社(青梅市)
阿豆佐味天神社(瑞穂町) 穴澤天神社(稲城市) 虎柏神社(青梅市) 青渭神社(調布市・青梅市・稲城市)

瑞穂町殿ヶ谷は中世期に村山郷と称せられ、坂東武士団武蔵七党(横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党)の一つ村山党(一族には金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏など)の本拠地であった。阿豆佐味天神社はこの地の産土神で村山氏の氏神社といわれる。

その先右にすこしはいったところに村山氏の菩提寺
福正寺がある。文保2年(1318)臨済宗の禅寺として開山された。堂々と構える山門をはいると明るい山の斜面に堂宇がならぶ。すぐ右手の鐘楼をみあげておどろいた。天井には彩色ゆたかな天女があでやかに泳いでいるではないか。中央にぶらさがっている梵鐘が無粋に見えた。

左手石段をあがっていくと美しい
観音堂がある。正面からよりも斜め横から眺めたほうがよい。三方入母屋撞木造りといわれる珍しい屋根造りで、天正15年(1587)村山土佐守義光が再建寄進した。

墓地手前に朱塗りの新しいミニチュア五重塔が建っている。奈良興福寺五重塔の七分の一に縮めて地元の工務店が建築、寄進したものだという。写真におさめるにはいい具合の大きさだ。

こぢんまりとした境内にそれぞれ個性豊かな建物が配置され、禅寺とは思えない親近感ある雰囲気に満ちている。山門だけがいかつかった。

街道が残堀川をまたぐ右手のプチパークに
吉野岳地蔵堂がたつ。

いよいよ旧箱根ヶ崎宿に入ってきた。二股に時計台が置かれている。さては追分道標かと近寄ってみたが、考えすぎだった。左の細道もとくに古道という感じではない。

明治5年創業の
会田漢方薬局が古い商家の佇まいをみせて角地を占めている。ここが宿場の中心だったようで、南北に走る日光街道と交差している。こんなところでまた新しい日光街道にであうとは思ってもみなかった。じつに多くの日光街道があるものだ。


なお、青梅橋から江戸街道を通ってきた旧青梅街道はここから二つ目南の十字路で日光街道にでて、ここで左折して現在の青梅街道に合流している。つまりこの交差点は新旧青梅街道と日光街道が交差する交通の要衝であった。旅籠は主に日光街道沿って建てられていて天保年間(1830年〜44年)には9軒の旅籠屋があったという。

青梅街道箱根ヶ崎宿を通る
日光街道は、八王子に住む千人同心が日光東照宮火番のため日光へ赴く道として整備された。寛文2年(1662)には頭1人・同心50人が、半年交代で10年に一度ずつ(50x2x10=1000で数が合う)日光に勤務することになり、毎年旧暦5月25日と11月25日に八王子を出発した。八王子を発って拝島、箱根ヶ崎、二本木、扇町屋(入間)、鶴ヶ島、坂戸、松山、行田、館林、佐野から、鹿沼を経て日光まで22宿、40里の行程だった。それを3泊4日でいったというから1日10里40kmの割合である。1日時速4km10時間相当の歩き旅は当時の平均的な値なのだろう。

ちなみに佐野は例幣使街道の宿場だから同心一行はそこで例幣使街道に合流したのではないか。佐野を含め日光まで13次だから八王子から佐野の間に9宿あった勘定になる。

日光街道をすこし北に歩いてみる。残堀川に架かる
大橋の親柱に小さな常夜燈が乗っている。慶応元年(1865)に橋のたもとに建てられたという常夜燈のオリジナルは狭山池公園に再建された。勿論あとで見にゆくつもり。

その先の交差点脇に「日光街道」の標識がたっている。箱根ヶ崎では青梅街道よりも日光街道のほうが扱われかたがよさそうだ。交差点を西にまわりこんで
円福寺を裏側から入っていく。大橋より一つ上流の橋は「宿西橋」といい、宿場のにおいがする。大橋場あたりが宿場の中心だったのかもしれない。

国道16号にでて北に400mほどいくと左の小山に
狭山神社がある。源朝家が永承年間(1046〜53)に奥州へ発つ際、この地で戦勝を祈願し箱根権現を勧請したと伝えられる。鬱蒼とした長い石段を上がると丘の上の本殿前に出る。境内に勝海舟揮毫による狭山茶場碑があるというので来たのに、気が公園の常夜燈にいっていて、結局見ずじまいにおわった。狭山茶は「色の静岡、香りの宇治、味の狭山」とよばれる三大銘茶のひとつで、すこしの葉でも濃い味がでるという経済的な茶だそうである。色香よりもカテキン目的の私に向いていそうだ。ただし、これは狭山の茶摘歌の文句らしいから割り引く必要がある。

山を降りると先ほどみた「日光街道」の標識とおなじしつらえで「飯能街道」とあった。入間市金古を経て飯能市にいたる12kmほどの道である。すぐそばに
狭山池公園がある。公園の大きな池は、古くから筥(はこ)の池と呼ばれ、箱根ヶ崎の地名由来のひとつでもある。古多摩川が作った窪地に雨がたまって大池になった。鎌倉時代の夫木集に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と詠まれている景勝地である。現在は残堀川の水源となっている。

池のほとりの赤鳥居のそばにお目当ての
常夜燈が立っていた。彫刻が施された台座に乗った立派な常夜燈である。関東大震災で倒壊し火袋を修復したとあるが、窓を塞いでしまっては燈明が見えないだろうに。できれば火袋を開けてやはり橋の袂に戻して欲しい。


街道にもどり宿場をでる。
JR八高線青梅街道踏切をわたると右手に岩藏街道がでている。この道が旧成木街道である。青梅をとおらず、七日市場から笹仁田峠を越え岩蔵温泉のある小曽木を経て成木に入っていた。青梅経由よりも直線的である。空に飛行機雲が多いのは横田基地の所為である。

岩蔵街道追分からまもなく、瑞穂松原交差点で新青梅街道と合流する。道は広く車は激しく沿道は店舗やファミレス・パチスロで賑々しく、都道5号は国道なみである。
やがて瑞穂町をでて青梅新町にはいる。新町9丁目から1丁目まで3kmにわたる青梅新町が長々とつづく。

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青梅

青梅新町境交差点から青梅市に入る。
工業団地入口交差点の先、畜産試験場前バス停付近はかつての
六道の辻で、青梅街道はここで成木から来た御用白土伝馬街道と交差していた。成木街道の旧道で、七日市場から今の岩蔵街道を通らずに原江戸道経由で小川村に向かったルートである。

新町桜株交差点の北東角には、道標を兼ねた庚申塔と馬頭観音が建っており、庚申塔には「右ハ江戸道」、馬頭観音には「左ハ川越道」と彫られている。自然石だろうが、粘土をこねたような不思議な形をしている。道しるべを分担しているのも面白い。となりに「桜株井戸跡」と刻まれた大理石の小さな角柱がある。青梅市にはいってから街道の歩道上に同様の井戸跡碑をいくつか見た。道路の拡幅工事で埋められた新田当時の井戸を記念するためのものであろう。

交差点を渡った角には新町土地区画整理事業の完成記念碑がたち、区画整理事業の前後の地図が示されている。以前には六道の辻に3本の道が交差している。十字路を斜めに交叉しているのが旧成木街道で、新田山公園と畜産試験場の真ん中を貫いて七日市場に通じていた。今は現青梅街道の1本が残るのみで、あとの2本は区画整理で消えてしまった。

御嶽神社入口交差点は旧青梅街道たる原江戸道と現青梅街道の合流点である。原江戸道はここで左折したのでなく、旧成木街道に接続していたと考えられる。地図によれば、今寺地区を通って藤橋城跡をへて笹仁田峠の手前に出る道が認められる。現青梅街道を横断して原江戸道にはいるルートがここと六道の辻と二つあったことになる。どちらかに新旧の順序があったのか、並存していたのか、知らない。

すぐ先右手に見えてくるのが
旧吉野家住宅である。慶長16年(1611)新田開発に着手した新町村の名主吉野織部之助の住宅で、安政2年(1855年)建築の萱葺き入母屋造である。茅葺の大きな屋根が見事だ。縁側の片隅でおばあさんが身動き一つせず街道の方向を見つめている。敷地に入っていくのがためらわれた。庭に立派な屋根付きのつるべ井戸が見える。

次の交差点角の公園に
鈴法寺(れいほうじ)跡の石碑が立つ。下総一月寺とともに全国に2ヶ寺しかなかった普化宗の本寺である。幸手の藤袴に創設され、川越の葦草村を経て慶長18年(1613)に当地に移転してきた。虚無僧でしられる普化宗を徳川幕府は庇護したが、治安上の問題から明治になって廃止された。

野上交差点で新町が終わる。このあたりから東青梅2丁目まで現青梅街道とは別の旧道筋があったが、区画整理で失われた。東青梅3丁目陸橋交差点で現青梅街道とわかれて右におれ
東青梅2丁目交差点で旧青梅街道が復活する。

ところで今気がついたのだが、箱根ヶ崎までは
「新青梅街道」に対してそれ以前の道筋として「現青梅街道」を使ってきたが、箱根ヶ崎の西で二つが合流してからは地図から「新青梅街道」が消えて単に「青梅街道」となっているのだ。そして青梅市街地にはいると「青梅街道」に対して古い意味で「旧青梅街道」が新たに使われている。青梅市民会館前で二つは合流して国道411号「青梅街道」となるのだが、これは「旧青梅街道」の延長に他ならない。用語の使用に整合性がない。

そのほかに既に見てきたとおり、残堀経由の「原江戸道」と「江戸街道」がある。これらがどこかで青梅街道を横切り旧成木街道につながっているのもたしかなのだ。

横田基地による部分消失は単純なもので、それ以前、江戸時代の期間中にも、石灰や人の流れは幾筋にも試され、変遷していったのであろう。一筋に決めつけたいのは後世の独善のような気がする。

東青梅2丁目交差点の角をJA西東京の巨大なビルが構え、その前に「ここから旧青梅街道」の標識が立っている。区画整理はここまでだったといわんばかりである。

右手に大きな三菱のマークを取り付けたコンクリート造りの建物はなんだろう。ブロック塀に政治家のポスターが貼り並べてあるので写真は撮らなかった。

JR青梅線の踏切手前で、右に成木街道がでている。これを「現成木街道」とよぼう。青梅街道以上にいくつもの古い成木街道あるいは御用白土伝馬街道がありそうだから。

道は勝沼、西分地区を進んで行く。古い佇まいをみせる商店や旅館が軒を連ねるようになってきて宿場の色が濃厚になってきた。街灯には青梅マラソンの歓迎フラッグがなびいている。昭和42年(1967)に始まった伝統ある日本最大の市民マラソンだが、2年前から始まった東京マラソンと時期的に競合することになった。

左手に白壁の見世蔵をみて
映画看板の街並住江町にはいっていく。ここは宿場というよりは昭和の映画街である。邦画・洋画をとりまぜて懐かしい映画看板が並ぶ。

一番の人気スポットは白黒二軒並んだ博物館であろう。左蔵造りが
赤塚不二夫会館「第三の男」の看板がかかっている。ウィーンの墓地の並木道を毅然と歩くアリダ・ヴァリ。最高のラスト・シーンである。隣の木造は昭和レトロ商品博物館で看板は「荒野の決闘」である。モニュメント・ヴァレーにつづく真直ぐな道。ジーンズショップには「キリマンジャロの雪」。

旧街道は本町、仲町、上町、下町、森下町と抜けて行き、映画看板はなくなっても宿場町の風情は続く。
宿場も終わりに近い場所に旧稲葉家住宅が保存されている。稲葉家は材木商で財をなし更には青梅縞の仲買問屋となり青梅宿の町年寄を勤める豪商となった。蔵造りの母屋は江戸末期の建物で、格子造りの一階に切られたくぐり戸を入り土間を通って裏庭にでた。十月桜の大木が花を咲かせている。枝一杯に花をつけてはいるが春にくらべれば花数がすくなく、それが寒々とした季節感にあっているのかもしれない。枝の隙間から塀越しにレンガ煙突が聳え立つ。隣は大多摩酒造である。


丁字路の先にある熊野神社は
旧森下陣屋跡である。八王子代官大久保長安が設置した陣屋で、本拠八王子陣屋の出張所として機能した。石灰街道の開設の際は、おそらくここから陣頭指揮がとられたのだろう。既に石灰を焼いていることが知られていた上成木村の木崎平次郎と川口弥太郎、それに北小曾木村の佐藤助十郎と野村庄七郎の4人を大久保長安はここに呼びつけたものと思われる。青梅街道の原点に立ち戻ったところでこの旅を終える。

帰路は青梅駅から電車にのる。上りホームを結ぶ地下道で、ダメ押しの映画看板が見送ってくれた。「鉄道員」「ティファニーで朝食を」、そして「終着駅」。家族、遊び、そして不倫の名画である。



(2009年1月)
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