この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路(こうじ)」がおおかったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向う「国府路(こうじ)」があったためともいわれています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室も見つかっています。 現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(1624〜1644)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火余地(ひよけち)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政3年(1856)の絵図には、出雲松江藩松平家の上屋敷などが見られます。 一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で1、2を争う呉服商の伊勢屋、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討ち入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。 町内には井戸がたくさんあったようで、大正12年(1923)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。 明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町4丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。 麹町4丁目町会 |
第1番(1708年): 品川寺 東海道 品川区南品川3-5-17 第2番(1710年): 東禅寺 奥州街道 台東区東浅草2-12-13 第3番(1712年): 太宗寺 甲州街道 新宿区新宿2-9-2 第4番(1714年): 真性寺 中山道 豊島区巣鴨3-21-21 第5番(1717年): 霊厳寺 水戸街道 江東区白河1-3-32 第6番(1720年): 永代寺 千葉街道 (地蔵は消滅) |
慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城にに運搬するために使われた道がこの青梅街道で、別名成木街道ともいわれた。この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4ヶ所に馬継場が置かれた。 |
玉川上水、野火止用水の開通を契機に多摩郡岸村(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛は、明暦2年(1656)小川村の開拓を始め、両用水の内側約7平方kmを開墾し、明暦3年小川村が誕生した。それまでは鎌倉、青梅、五日市の3つの街道が通じていたのみで荒漠たる原野であった。その後、享保時代(1716〜1735)に幕府の財政再建のため次々と新田開発が行なわれ、武蔵野原野はいくつかの親村を中心として約80ヶ村の新田が開拓され誕生した。小平村は明治22年(1889)小川村・小川新田・大沼新田・野中新田興右衛門組・野中新田善左衛門組、鈴木新田・廻り新田を合わせて誕生した。 |
東大和市に人々が住み始めたのは、多摩湖遺跡群から発見された遺物によりますと、紀元前2万年から1万年の旧石器時代であろうと推測されています。一時期、人跡が途絶えましたが、7世紀ごろからは、人々が定住し始めました。17世紀に入ると、江戸城修復のために青梅街道が開通し、人馬の往来も激しくなり、また、野火止用水も完成し、17世紀末から18世紀初めにかけては、新田の開発が進められました。明治4年の廃藩置県制実施により、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水の7か村(後ヶ谷、宅部の2村は明治8年に合併し、狭山村となりました)は、初め神奈川県に属しましたが、明治26年に東京府へ編入されました。明治34年にはこの6か村の合併問題が起き、大正8年に大和村(戸数770戸)が誕生しました。村名は「大いに和すること」に由来しています。(中略)昭和45年10月1日には市制を施行し、名称を「東京の大和」ということから「東大和市」と改めました。 |
阿伎留神社(あきる野市) | 小野神社(多摩市・府中市) | 布多天神社(調布市) | 御嶽神社(青梅市) |
阿豆佐味天神社(瑞穂町) | 穴澤天神社(稲城市) | 虎柏神社(青梅市) | 青渭神社(調布市・青梅市・稲城市) |