淀橋 新宿/中野区 東京都
「淀橋」の名は江戸時代の三代将軍徳川家光がなづけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれています。江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降、その名が定まったそうです。      淀橋水車  「江戸名所図会」より
淀ばしは、成子と中野との間にわたせり。大橋・小橋ありて、橋よりこなたに水車回転(まわ)れるゆゑに、山城の淀川に準(なぞら)へて、淀橋と名付くべき台命ありしより、名となすといへり。大橋の下を流るるは神田の上水堀なり。