養老田碑・養老畑碑 田無町2、4丁目 西東京市 東京都
養老田碑 稗倉
この碑には、江戸時代後期の凶作相次ぐ時代に、田無村名主下田半兵衛富宅(とみいえ)の行った善政を、子孫に伝えるための碑文が刻まれています。名主半兵衛富宅の出自、村民を思う人柄が記され、また、安政元年(1854)に養老畑を開き、「惜しみて施さざれば天に報ゆる所以に非ざる也」と、村内の生活困窮人や老人、往来で行き倒れた人らを保護したことや、29年間にわたって周辺41力村の寄せ場名主を務め、その間、訴訟が頻発する関東の農村で、幕府の法廷を煩わせるようなことがなかったことなどが書かれています。 碑文は、幕末の著名な儒学者安井息軒によるもので、田無村の学者賀陽済の筆によるものです。安政年間(1854〜59)に建てられたものと推定されています。昭和45年7月 西東京市教育委員会
養老畑碑 小学校正門内
この石碑は、養老畑が「設けられた場所(現在の田無神社の裏手付近)に標識として、安政元年(1854)ごろに建てられたものです。江戸時代の後期は、相次いで飢饉に見舞われるなどの天候不順で凶作が続いたため、農民の生活は苦しいものでした。これを憂いた田無村名主下田半兵衛富宅は、安政元年、自分の所有地1町歩(約1ヘクタール)を提供し「養老畑」と名づけました。この土地を村民に小作に出し、そこからあがる作徳を村内の70歳以上の老人に小遣いとして与えました。この養老畑は、明治元年(1868)に廃止されるまで続けられました。養老畑の由来は、養老田碑に記録されていますが、現代の福祉行政の先駆と見られる名主による善政でした。この碑の筆跡は田無村の学者賀陽玄雪が書いたものと考えられています。 昭和45年7月 西東京市教育委員会