稗倉 田無町2丁目 西東京市 東京都
天保9年(1838)建立 文久3年(1863)再建
天保4年から7年(1833〜36)にかけての大飢饉は言語を絶するものでした。田無村名主下田半兵衛は村に貯蔵していた稗を残らず拝借して救済に当てましたが、その補充ができないうちに次の凶作に見舞われるというありさまでした。天保9年(1838)半兵衛は凶作に備えて稗を蓄える方法を代官に願い出て、自分の庭に5百石入りの稗倉を自費で建てました。貯穀は、半兵衛ほか主な百姓39人で百両を出費し、それを貸付た利子で年々稗を蓄えるという方法でした。そして、倉が一杯になったあとは、干支にちなんで12分の1ずつ年々詰め替え、古穀を貧困者並びに火災・病難等の者に分配するというものでした。稗倉は文久3年(1863)に建て替えられ、その一部がここに残っています。また、谷戸町にもこの稗倉の一部が残っています。稗倉の外部は厚い板を上から落としこみ、晴雨によって外壁の板が伸縮して湿気を調節する板倉造りです。 昭和42年2月 西東京市教育委員会