宝仙寺 中央2丁目 中野区  東京都
堀江家の墓所
堀江家の起りは明らかではありませんが、12代重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前から同家の先祖、兵部という人が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は、中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以後も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。  昭和56年3月  中野区教育委員会