五日市街道 



梅里−吉祥寺千川・玉川上水砂川二宮伊奈五日市

いこいの広場
日本紀行



地下鉄丸ノ内線新高円寺駅一番出口を出てすぐ西の信号交差点が都道7号、青梅街道から分かれる旧五日市街道の起点である。あきる野市JR五日市線終点武蔵五日市駅までの道を五日市街道という。途中、横田基地が旧街道筋を分断した結果大きな迂回を余儀なくされる他、基本的に都道7号と重なっている。五日市街道は大名行列が通ったいわゆる参勤交代路ではない。したがって一里塚もなければ問屋場、本陣といった官制宿場特有の施設もなかった。そんな五日市街道をよくまとめた説明板が街道を歩いてまもない尾崎橋の手前に設けられている。前書きとしてその全文を先取りすることにしよう。

この前の道は、五日市街道です。五日市街道は地下鉄新高円寺駅近くで青梅街道から分れ、松庵一丁目を通り武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。 江戸時代初期は伊奈道とよばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。 その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などいろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。
 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約4.4m)程で挟く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(14.4m)とあります。これは三ヵ村が、新田開発により開村された寛文(1661〜1672)初年の頃、道幅を拡けたものと考えられます。
明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約52km(杉並区内約8km)が都道(主要地方道杉並五日市線)に指定されています。 
武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。 
 平成10年3月  杉並区教育委員会


梅里−吉祥寺


新高円寺駅の東側にある青梅街道交差点「五日市街道入口」は新道入口である。旧道はすぐに新道に合流する。地下鉄駅に急ぐ通勤客の人並みに逆行して居住地区と商店街が同居する都道7号を西に向かう。成田東3丁目信号の先で左斜めに入っていく旧道が残っている。これから都道7号を筋違い気味に4回斜め交差しながら旧街道の
「七曲り」をたどっていく。

@100mほどの弓なりの道を経て都道を横切り「加冨山米店」の西側の道を入る。「白幡の坂」をくだっていくと右手に
三体の石仏が祀られている。向かって右から元禄11年(1698)の地蔵、宝暦10年(1760)の馬頭観音、宝暦3年(1753)の地蔵と、いずれも古いものだ。
A 一旦都道に出て尾崎橋をわたる。手前に冒頭で引用した五日市街道の説明板が建っている。橋を渡ったところで右に入り、突き当りを左折する。都道に出る手前右手に法昌寺がある。入口に
道標を兼ねた石橋供養塔(文久4年(1864)があり、「東江戸道」と刻まれている。
B 都道を横切って旧道に入り、最初の丁字路を右折して杉並成田西局の西側で都道に出る。
C 信号交差点を渡り、青山自動車工場の前の道に入る。突き当たりを左折して再び都道に出る。道筋がすこしずれて反対側の旧道に入る。入ったところで二股にわかれているが、右側に入っていく道が旧街道である。
D 住宅地に入り込み、左にまがった先の丁字路を右に折れる。右手は空き地のようだ。成田西2丁目19と2丁目20の間の細い路地をすすむと100m余りで都道に出て七曲を終わる。合流点の右手石段の上に宝永5年(1708)の庚申塔が残っている。

高井戸境バス停先の信号五叉路で旧道は50mほど左に入り、逆Y字路を鋭角に右折して都道に戻るらしい。なぜこうなのかさっぱり分からない。合流点の三角地帯に
五日市街道の碑が設けられていて、尾崎橋のものとほぼ同文の説明板が立っている。こちらは平成15年版で、尾崎橋より5年新らしい。

街道碑脇の概略図上で現在地として小さなくの字が標示されているのはこの旧道を指しているのか。あらためて地図をながめてみると、五差路を左折して逆Y字路を通り過ごしてそのままルネイズム浜田山プロフォルトの交差点まですすむと、最後の七曲りの成田西2丁目19で右折しないで直進する道と交差する。この二つの道が描く大きな鈍角のくの字が旧道ではないかという気がしてきた。何の根拠もない、ただの地図上の想像である。

環八通りを越え宮前一丁目左手丁字路角に
二基の庚申塔が祠に保存されている。延宝6年(1678)と元禄9年(1696)の古いもので、共に青面金剛と、不見・不聞・不言の三猿が彫られた典型的な庚申塔である。この辺りはかって大宮前新田といわれ寛文年間に砂川道(五日市街道)沿いの新田村として開村した。手向けられた紫の小花が控えめに二基の石塔を飾っている。ムラサキハナナ(紫花菜)といって、この先街道のいたるところで見かけることになる。

大宮前体育館のあたりから街道の右側にケヤキの並木が始まり、ここまで都会の生活道だった五日市街道にも武蔵野の風情が漂い始めてきた。昭和初期の佇まいをのこす鮮魚屋「魚鐘」の隣、ケヤキ並木の中に
大宮前春日神社がある。春日神社は旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(1658〜1660)に農民井口八郎右衛門の勧請によって創建された。井口家は大宮前新田開墾の名主を勤めた家柄で、春日神社の西隣にある慈宏寺は寛文12年(1672)、井口杢右衛門の開基といわれる。

春日神社の境内には文久2年(1862)の石燈籠、明治時代の大小鹿の石像2対と、多くの小判鏡餅型の力石が並べられている。力石にはそれぞれ重さがしるされているようで、一番手前の石には七拾貫目(262.5gk)と刻まれていた。263kgといえば重量挙げ世界記録(ジャーク263kg)と同じであり、あるいは最重量日本人力士として人気上昇中の山本山と同じ重さ(小錦は285kgだった)である。他所で一つ、二つを見たことはあるが、これほど多くのしかも整然とした力石をみるのははじめてであった。

街道は西荻窪駅の南側にさしかかり五日市通り商店街を進んでいく。

杉並区も終わりに近いところに旧松庵村の鎮守、
西高井戸松庵稲荷神社がある。松庵村は万治年間(1658〜1660)に松庵という医者が開いた。

松庵小学校前交差点で杉並区から武蔵野市に入る。若者の町として活気ある吉祥寺がすぐ先にある。この町がかって五日市街道の宿場であったのか、どうか知らない。吉祥寺南町で中央線のガードをくぐり駅前の繁華街にむかって歩いていくと、街道の北側に本宿という地名が残っているが、それが宿場であったことの名残かどうか出合った古老に尋ねても判然としなかった。

「吉祥寺」は長禄2年(1458)太田道潅が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりとされる。天正19年(1591)に現在の水道橋に移ったが、明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地駒込に再建された。万治2年(1659)、明暦の大火で罹災した吉祥寺門前町の住民が武蔵野に移住してきて荒地を開墾したのが吉祥寺村である。

吉祥寺本町1丁目の左手、マンション北側に樹高30mの東京都指定天然記念物「吉祥寺旧本宿のケヤキ」がそびえている。東京都教育委員会の説明板にもケヤキを宿場と結びつける記述はなかった。

垢抜けした商店街を進んで行くと交差点角に吉祥寺村の鎮守
武蔵野八幡宮がある。入口左手に2mもの大きな道標が立っている。「神田御上水 井之頭辨財天」への道を示すもので、側面に「これよりみち」とだけある簡潔さがおもしろい。また参道にはJAの江戸・東京の農業シリーズとして、「吉祥寺ウド」の案内板がたっていた。

成蹊学園に至り、正門入口から見事な欅並木が植えられている。まだ葉を落としたままのケヤキの枝ぶりは巨大な竹箒を逆さまにして並べたような景観である。2ヶ月もすれば鬱蒼とした新緑にかわるのであろう。成蹊学園の移転は吉祥寺の町を今の姿に変える大きな転機となった。
街道は武蔵野中央交差点で曲尺手状につながっている三鷹・中央通りと交差する。中央通りをのぞくと桜並木が今にも満開の装いだった。

関前3丁目信号をこえ武蔵野大学前交差点の手前の信号右手角に
「御門訴事件記念碑」が立っている。明治3年、県から布達された社倉制度に門訴した当時の名主井口忠左衛門が非業の死を遂げたことを記したものである。飢饉に備えるための貯穀制度といえば青梅街道田無で、名主下田半兵衛の稗倉をみてきたばかりだし、その前壬生通りを歩きなおしたときには文挟で「郷倉」をみた。前者は名主による善政として、後者は農民の自発的な運営として取り上げられていた。ここ関前村はこのアイデアに名主が率先して反対したのだという。江戸時代と明治時代の違いがこの差になったのか、興味がある。

碑の裏側にその
井口家がある。井口屋米店の看板と市議会議員のポスターが貼ってある小屋を回りこんで長屋門らしき建物をくぐりぬけて中庭にはいると「井口家の大ツバキ」「井口家のサンシュユ」と題した二つの武蔵野市教育委員会の案内板が立っている。ということはこの場所までは公開されているのだろう。説明によるといずれも樹齢200年を越える大木とあるが、多くの植え込みの中でそれを判別するのは難しかった。御門訴事件記念碑を含めてこの一角は井口家宣伝臭がきつい。

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千川・玉川上水

武蔵野大学前で街道は左におれて千川上水に沿った静かな遊歩道をゆく。交差点の右側、千川上水渕に金網に囲まれて石橋供養塔がある。武蔵野大学の正門左手に「東江戸道」「左すな川道」と五日市街道の道筋をしめす道標を兼ねた大きな文字庚申塔が建っている。

ここから境橋まで
千川上水の両側に一方通行の車道が走るが、北側が都道7号で五日市街道筋である。あえて車道を行かず上水にそった遊歩道をあるく。ケヤキ並木が続く千川上水の緑はまだ淡い。それらの根元をかざるのは可憐なムラサキハナナである。スミレを大きくした風情だ。千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水して造られた。境橋の手前にある玉川上水からの取水口に「千川上水清流の復活」碑が、また境橋の東側には「玉川上水の碑」が建っている。

玉川上水は武蔵野台地を潤すとともに江戸に飲み水を供給する目的で開削された上水路第1号である。五日市街道は千川上水のケヤキ並木から玉川上水の桜並木に沿って西進する。桜並木の内側流域には常緑樹が多く、また渕も深く千川上水にくらべ成熟した趣を呈している。境橋から小川水衛所跡までの約6kmが大正13年名勝小金井サクラとして指定された。

関野橋の手前に「さくら折へからす」と彫られた
「桜樹接種記」の碑がある。玉川上水提にはじめて桜が植えられたのは元文2年(1737)頃で、その後嘉永3年(1850)に各村の持ち場に数百本を植え足した。田無村もその一つで、碑は田無村の名主下田半兵衛が建てたものである。

右手に都立
小金井公園が現れる。パンジーで飾られた入口の桜並木はまだ3分咲きの状態だ。「江戸東京たてもの園前」の信号でもう一度公園を覗いてみる。こちらの「桜の園」は大勢の花見客で賑わっている。桜はほぼ満開だった。

上水桜堤にもどりすこしいくと小金井橋の手前に
「お成りの松」がある。元文年間(1736〜1741)に川崎平右衛門が中心になって玉川上水の堤に桜が植えられ、後年見事に成長し江戸近郊でも有数の桜の名所となった。天保15年(1844)後の第13代将軍家定が観桜に訪れ、これを記念して後に里人が黒松を植えたという。説明板にある目通り幹囲2.7mのクロマツはなく、若木が育ちつつあった。

小金井橋を渡ると今度は
「名勝小金井櫻」の案内板がある。川崎平右衛門が植えたこと、後の第13代将軍家定の観桜のことのほか明治天皇一家も行啓したことなどが書かれている。

小金井橋交差点をこえた右手に茅葺きの山門をもつ
海岸寺がある。山門は天明3年(1783)の築で鎌倉式が取り入れられた。参道入口に小金井桜樹碑がある。文化7年(1810)に建てられたもので、碑文は小金井桜植樹の由来にはじまり、川崎平右衛門の功績をたたえ、武蔵八景の一つ「金橋の桜花」はこの地であると述べている。

海岸寺の街道向かいに
「行幸松」とその碑がある。明治16年明治天皇が観桜された記念に松が植えられたものである。

ここまで、小金井桜に関する史蹟と案内板が多かった。いささかくたびれてくる。

五日市街道・都道7号は喜平橋で玉川上水の南側に移る。北側のように車道と上水堤歩道を隔てる柵がなく、車道に沿った普通の歩道に近い風景となる。上水の流れは一段と低くなって崖渕に桜の根株が露出している。やがて商大橋にさしかかる。商大とは現一橋大学のことで小平国際キャンパスの南方にあたる。橋の南袂に
「名勝小金井(サクラ)」の案内板がある。この説明文が最も網羅的で、小金井サクラ並木を締めくくるにふさわしい。

道はこの先で三つに分かれる。直進するのが現五日市街道の都道7号、やや右にはいるのが旧街道である。玉川上水沿いに延びる道は玉川上水通りで、すこし入った右手に名勝小金井の終点
旧小川水衛所跡がある。さらにそのままいくと津田塾大の南側に出る。

旧街道の右手に長い塀をめぐらせ屋敷林の中に趣のあるたたずまいを見せるのは
「いろりの里四季亭」という料亭だ。入口のメニューをチラッとみたがリュックを背負った者が入るようなところではなさそうだった。

旧道はすぐに突き当たりを左折して都道に合流する。右手の生垣にかくれるように
三体の石仏がある。薄汚れた前掛けが似合う古びた石仏にもそれぞれに花が供えられていて、住人の人柄が偲ばれるようで癒される風景であった。


街道は上水本町交差点で府中街道を横切り国分寺市にはいるや
西武国分寺線の黄色い電車が走ってきた。沿道に武蔵野の面影が復活しケヤキ並木が断続的につづくなかに、蔵持ちの大きな農家や植木農園が散見される。街道の南側は地名も並木町である。

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砂川


瞬く間に国分寺市を通り抜け立川市にはいってくる。気分的にかなり西方に来た感じがしてくる。若葉町団地入口交差点の先右手に道標を兼ねた
地蔵が祠に祀られている。寛保元年(1741)砂川十番組が砂川前新田として開拓された頃の建立だが、昭和20年代に盗難にあい再建されたものだという。いわれてみれば地蔵の顔だちがいやにモダンで、キャップのかぶり方にもかすかに半身にかまえたような立ち姿にも、どこかファッションモデルを思わせる粋さを発散している。

ここは砂川十番で、この先天王橋までの5.5kmにわたり、砂川一番まで続いていく。青梅街道で、青梅新町9丁目から延々3kmにわたって1丁目まで歩いていったのを思い出した。ここはその倍近くの大規模新田開発だった。砂川新田の開発は寛永4年(1627)より現在の砂川三番付近からはじまり三段階を経て今の十番まで広がっていった。

沿道には大らかな農家の佇まいが春のなごやかな空気に調和して、広々とした武蔵野をゆく街道の雰囲気を高めている。なかでもひときわ端正な蔵が目をひいた。両側に桃色と紅色の花木をしたがえ、みずからは青の帽子に純白の衣をまとい折り目正しい袴をつけて傾き始めた西日を受けて輝いている。整いすぎた原風景とでもいおうか。

砂川七番で芋窪街道の上を
多摩モノレールが音もなく走っている。

砂川五番から四番にかけて人家のまばらな区間がある。横田基地に移転するまで米軍立川基地があったところである。基地拡張に反対する砂川闘争は日米安保条約の合憲性をめぐる憲法問題に発展した。大学紛争がはなばなしかった昭和30年代中頃の話である。

砂川四番にはいり、右手に
阿豆佐味(あずさみ)天神社がある。寛文6年(1629)、砂川新田開発に伴って創建された。18世紀中頃に建てられたという本殿は拝殿の後ろの覆殿に納められている。神社に来るたびに思うことだが、今まで本殿をまともに鑑賞したためしがない。いつも拝殿の建物をみて感動したり落胆したりしている。寺で本尊をみずに本堂の造りだけを見て帰るのに似ている。

砂川三番の左手に
流泉寺がある。砂川新田の開発はこの地域から始まった。そのころの開墾に携わった人々の菩提寺として慶安3年(1650)に建立された。境内の奥に居並ぶ羅漢石仏は表情が豊かで面白い。概してだらしない姿勢でいいかげんな感じのおじさんたちのなかで、独り眼鏡をかけたまじめ人間がいた。居眠ったりあくびをしたりの仲間を無視して優等生然として本を読んでいるようである。よほどの堅物とみた。

流泉寺の道むかいにかっての砂川村名主
砂川家(江戸時代の村野家が明治にはいって砂川家に改称)の屋敷がある。街道にそった玉石積と生垣の内側に欅が聳え立っている。アプローチを入っていくと玉川上水から引いた砂川分水に石橋が架かりその向こうに両袖に潜り戸を付けた立派な切妻造り冠木門が構えている。17世紀はじめに新田開発をおこして以来400年近い歴史を誇る名家である。

砂川家の西側の道を北にはいっていくと玉川上水に架かる
見影橋に出る。場所的には砂川家の屋敷裏にあたることから「旦那橋」とも呼ばれた。ここから砂川家専用の水路が引かれ、当時の砂川家当主源五右衛門の名をとって「源五右衛門分水」とよばれた。水は自邸庭園の鑑賞用流水に用いられるとともに水田耕作にも利用された。屋敷と玉川上水の間にある見影公園はその水田跡だ。橋の下には今もその取水口が残っているという。玉川上水の満開の桜並木と、西武拝島線の電車に気をとられ、取水口の記録写真を撮るのを忘れた。

街道にもどり
砂川二番に向かう。このあたりも蔵をもつ立派な家が見られる落ち着いた家並みである。

ようやく砂川一番にたどりついた。残堀川を渡ると天王橋交差点にさしかかる。旧道は最初の信号を直進して突き当たりを右折して天王橋で玉川上水を渡る。橋の西側、上水堤の柵内に「玉水分派」云々と刻まれた石標があるが何なのか分からなかった。

街道は
天王橋を渡って左手斜めに折れる。西武拝島線のガードをくぐり松中団地南交差点をこえたあたりからケヤキ並木が現れる。この辺り現地名は西砂町であるが、かっては街道の北側は殿ヶ谷新田、南側は宮沢新田だった。それにこだわるかのように西砂町宮沢交差点の手前で街道をはさんで右に殿ヶ谷公会堂が、左に宮沢公会堂があり、交差点から北に向かう道には「殿ヶ谷街道」、南側には「宮沢中央通り」の道路標識が取り付けてある。

立川西砂郵便局の先で道は二股に分かれる。横田基地を避けるために左におれていく都道7号に対し、旧道は基地に向かって直進する。この旧道部分は
「西砂街道」と呼ばれている。旧道の両側には見事な欅並木が残っている。

右手に享保3年(1718)創建の殿ヶ谷新田鎮守阿豆佐味天神社がある。境内に明和元年(1764)の庚申塔に並んである文化6年(1809)の馬頭観音には仲里新田・宮澤新田・殿谷新田の名が連名で刻まれている。神社隣の
林泉寺から西が中里新田である。


真直ぐにのびる旧道はまもなく
横田基地にぶつかる。金網フェンスと「テロゲリラ警戒中」の立て看板が旅の気分を一掃した。左におれるところをかっては旧道がまっすぐ突き抜けていた。小さなゲートにも軍服の兵士が警戒を怠らない。上空にヘリコプターが爆音を立てている。

フェンスの向こうに白い
冨士山が見えた。前景が何であれ富士の姿は美しい。金網にカメラをくっつけて数枚撮る間にも、どこかで監視カメラに不審な姿が捕らえられて今にもライフルの玉が飛んでくるのではと思ったりもした。なるべく貧相な格好をしてゲート前を通り過ぎた。

熊川武蔵野信号で都道7号に合流し基地の南側を通り国道16号に乗って北上して、第五ゲート前で国道とわかれ都道7号として西に向かう。直通にくらべ1.6kmの遠回りを余儀なくされた。

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二宮


JR八高線の砂川街道踏切を越えた右手、福生市民会館の前に「右江戸 左きよと」と彫られた道しるべを見て、JR青梅線牛浜踏切で青梅行きの電車を撮り、新奥多摩街道を横切った先で玉川上水に架かる
牛浜橋をわたる。高い街灯つきの親柱を備えた趣ある橋である。橋から眺める玉川上水の風景も美しい。ここでもムラサキハナナが一役買っている。

都道7号はこの先奥多摩街道を横切り坂を下って福生第七小学校の南で右折して多摩橋に向かうが、旧道はそのまま直進して
多摩川へ降りていく。堤防に植えられた桜が満開で河川敷の多摩川中央公園は大勢の行楽客で一杯だった。ユキヤナギが咲き誇る公園にシートを広げてピクニックランチを楽しんでいる。

土手から降りたところに
「史蹟石濱渡津跡」の碑があった。そばの標柱には「牛浜渡津跡」とある。ここが五日市街道の渡し場で、対岸の地名をとって森山の渡しともいわれた。石浜の渡しは太平記にでてくる石浜の戦いの古戦場ではないかといわれている。

多摩川の水際まで降りていってミックスサンドを食べながら下流にみえる鉄橋を監視する。しばらくして左方向から
JR五日市線の電車が現れた。シルバーの車体にオレンジの横線をいれた軽快な電車である。河原にふりそそぐ暖かい春の日差しが心地よい。


渡し場を後にして、多摩橋を渡るとあきる野市である。街道は左にカーブしながら急な坂を登っていくと
二宮本宿の信号に出る。二宮宿は五日市街道の宿場で、本宿と北側に平行してあった北宿からなっていたという。町並は新しく昔をしのばせるものは皆無であった。本宿という地名が宿場の名残であるなら、吉祥寺本宿も同じと考えたい。

二宮神社前交差点を左にはいった丘の上に二宮神社がある。武蔵総社六所宮(現大国魂神社)の神座の第二次にあるため二宮と呼ばれた。由緒書きには藤原秀郷、源頼朝、北条氏政、徳川家康等の崇敬を受けたとされている。

ゆるやかな坂を上りきると二宮集落をぬけ広々とした秋留台が広がる。街道の左右は大規模に区画整理された畑地で、細分化されてその多くが
市民菜園に貸し出されているようである。農家の整った畑にくらべ、時々やってきては趣味仕事に手入れをしていく作業場は農具や野菜ゴミが散乱していて一目で素人畑とわかる容貌だ。「この場所はゴミ捨て場ではありません」と書かれた立て札には微笑んでしまった。

右手に秋留台公園が続く。道は明るい台地をまっすぐのびている。地平線近くに低く山並みが台地を囲んでいる。秋留野市街地にはいる。秋川駅前を通過して左にカーブし、五日市線の踏切を渡り圏央道をくぐる。下代継と上代継の境あたりで左に旧道がのこっている。ホームセンターの脇をとおりぬけると都道の向こう側に50mほどの旧道の延長が民家の前をかすめて都道に戻っている。

少し先の信号交差点で再び右斜めに上がっていく旧道がある。都道を見下ろしながら淵上交差点を迂回するようにしてその先の都道に下りて行く。

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伊奈

原店(はらみせ)交差点の右手、石垣の上に享保16年銘の庚申塔などの石塔をみて、山田交差点の手前で旧道は右斜めに入っていく。すぐに武蔵増戸駅に通じる南北の道を横切って
旧伊奈宿集落に入っていく。伊奈宿は東の新宿と西の上宿とからなっていた。旧街道の面影をのこす家並みの中をすすんでいくと、左に折れる道とややくねってそのまま延びる道に分れる。曲尺手状に左折して都道に合流する道筋が旧道らしいが、まっすぐ行く道も捨てがたく、結局二つとも歩く羽目になった。左折して都道に出ると向かい側に新宿会館がある。新宿は東の伊奈宿である。

戻って、まっすぐすすむと増戸小・中学校の前をとおりすぎて増戸会館前で坂を降りる。会館前でであったおばさんに旧街道の道筋を尋ねると確信を持って「この道が旧道ですよ」と今来た道を指差した。いずれにしても二つの間で歴史的情報を失うものはなかったようだ。

増戸会館から降りたところに「塩地蔵尊千日堂跡」の石柱が立っている。この辺りから西が上宿のようだ。都道の左側を歩いていくと上宿自治会館の標識が立っていて、その隣家の庭先に
伊奈の市神が小さな石造りの祠に祀られている。この石は地元産の砂岩で伊奈石とよばれ、鎌倉期に信州伊奈谷の石工たちがこの地にやってきて石臼、石塔、墓石など多くの石造物に加工した。江戸城修築の際には伊奈の石工たちが動員された。

伊奈集落は江戸時代にはいってから拓かれた多くの武蔵野新田とは異なり、中世には形成されていた古い村落である。伝承では平安時代の末期に信州伊奈谷から12人がこの地に移り住んで村を開いたという。江戸時代には毎月六の日に市が立ち、農具・衣類・木炭・伊奈石加工品などが取り引きされて賑わった。その後木炭の需要が高まるにつれより山手の五日市村に押されるようになった。六日市に対抗してその前日の五日に市を立てるとはえげつない考えである。いつしか街道の名も伊奈道から五日市道にかわっていった。

旧道は新秋川橋東の信号で広い道路から分れ右の坂道を下りていく。右手に現れる岩走神社は信州伊奈郡出身の住人の一人が信州から勧請したと伝わる。神社の向かい側から秋川の谷に降りていく道が
旧街道である。秋川の清冽な流れの北岸に沿って静かにたたずむ横沢集落は五日市街道随一の風景である。ここに千本格子の旅籠一軒でも残っていればと思わざるを得ない。

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五日市

旧道は行き止り手前で右に坂を上がって車道に戻り、五日市橋信号で現五日市街道を横切り、時宗正光寺の前を右折し道なりに進んで都道に出る。左手に終点JR武蔵五日市駅が見える。

五日市街道都道7号の終点そのものは道路標識があるだけのあっけないものだったが、五日市宿場自体はここから西にむかって檜原街道(都道33号)に沿って形成されていた。ちなみに駅前から東に向かう道は秋川街道(都道31号)で、青梅映画看板の街並住江町三差路で旧青梅街道に合流する。

檜原街道を西に歩いていくと、僅かながらところどころに古い建物が残っていた。尊古斎、栗原呉服店、燃料問屋青木屋などである。警察署の横を右に入ったところに旧市倉家住宅が保存されている。江戸時代末期の一般的な農家である。入母屋造りで均整のとれた清楚な佇まいである。前庭にまわると大きな伊奈石が展示されていた。

街道にもどり歩をすすめていると道の反対側に
ゴミ屋敷があった。今までにも他の街道でみなかったわけではないがその土地の名誉のために写真の掲載はやめていた。今回、記念に一枚のこしておく。ゴミ屋敷の建物自体は案外まともな家が多いのが興味深い。ゴミを集める性癖は貧困からきたものでないらしい。収集趣味の対象がゴミというだけなのだ。

小中野交差点あたりが五日市宿の西端である。道が二股にわかれ左の風情あふれる細道が旧檜原街道で、秋川渓谷沿いに
黒茶屋の和風建物が並んでいる。中心の母屋は江戸時代の庄屋屋敷を移築したものだそうだ。深い渓谷に下りて行く風景の中に竹林と淡い桜の花と東屋が一幅の絵にしあげていた。

最後の訪問先はおまけである。
「野崎酒造」がなんとなく聞き覚えのある名に思えて、てっきり近江商人の造り酒屋だろうと早合点してしまった。旧檜原街道が都道にもどる少し手前の右側に造り酒屋の象徴である杉玉と高い煙突が見えてきた。門をくぐり店にはいる。出てこられた奥さんに訪ねると、創業者は越後の杜氏だということだった。明治17年創業で現在5代目だという。家での打ち上げ用に中瓶生酒を買って帰った。「これは生ですから早く飲んでください」と言われている。

(2009年4月)
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