成木街道 



東青梅−黒沢成木5丁目上成木北小曾木

いこいの広場
日本紀行


慶長11年(1606)、江戸城大改修のため徳川家康は八王子陣屋に詰める代官大久保長安に、青梅の成木村で採れる石灰を供出するよう命じた。白亜の漆喰壁の材料として成木地区で石灰が生産されていることは既に知られていたのである。

1590年6月、小田原北条氏の支城であった八王子城が前田利家、上杉景勝率いる豊臣軍によって落城した際、一部の北条氏遺臣は成木に落ち延びた。その中で、上成木村の木崎平次郎・川口弥太郎、北小曾木村の佐藤助十郎・野村庄七郎等はそこで産出される石灰石を焼いて良質の消石灰の生産を始めていた。八王子代官大久保長安はさっそく4人を呼び出し御用石灰の供出を命じたのであった。

御用石灰は荷駄に積まれて、成木から荒漠とした武蔵野台地を横切って江戸へ運ばれた。石灰を運ぶ道は出発点の名をとって成木街道と呼ばれた。また石灰街道・あく(灰汁)つけ街道、白粉(おしろい)道、御用白土伝馬街道などと様々な名でよばれていたが、いずれも後には青梅街道と呼ばれるようになった。また成木街道の道筋も@岩蔵(現小曾木5丁目)−笹仁多峠−現岩蔵街道−箱根ヶ崎ルート、A岩蔵−笹仁多峠−青梅新道−江戸街道ルート、B成木−東青梅−現青梅街道−箱根ヶ崎ルートなどがある。

今回の旅はBを基本として東青梅から現成木街道を北上し、吹上トンネルをぬけた成木8丁目交差点で右にまがって、成木5丁目から成木川を遡上して上成木(成木7丁目)に至る。途中成木6丁目に木崎平次郎の窯跡を見る。

帰路は上成木から松ノ木トンネルをぬけ佐藤助十郎の窯跡佐藤塚を訪ねた後、北小曽木集落に残る石灰岩採掘場を見て成木8丁目交差点にもどる。成木・小曽木の石灰産地を一周する旅である。また同地区は林業の盛んな土地でもあった。切り出された材木は現成木街道から吹上峠を越えて東青梅の千ケ瀬河原まで運び、そこで筏を組んで多摩川を江戸まで流していった。江戸では「西の川から送られてくる良質の木材」として、「西川材」と呼ばれた。



東青梅


成木街道(都道28号)はJR東青梅駅の北西、旧青梅街道の
「成木街道入口」信号交差点から北へ分岐する。青梅四小学校北方の小山に三田氏の居城勝沼城址(師岡城址)がある。三田氏は室町時代から戦国時代にかけて勝沼城を本拠に羽村から奥多摩にかけて多摩川上流一帯を支配した豪族である。三田氏の滅亡後、勝沼城は北条氏の武将師岡将景の居城となったため師岡城とも呼ばれる。

根ヶ布(ねかぶ)バス停前から街道をはずれて北東に400mほど行ったところにある曹洞宗永平寺派の名刹
天寧寺に寄る。関所の冠木門かと思わせる簡素な惣門を抜け静かな参道をたどると堂々とした楼門造りの山門が立ちはだかる。山門を入るとさらに華麗な中雀門が控えその内側に法堂を中心に左側に僧堂、右側には庫裡が配置されて典型的な曹洞宗禅宗七堂伽藍を形成している。いずれの建物も江戸時代の建立で装飾的要素を抑えた品位ある佇まいである。寺の創立は天慶年間(938〜946)平将門の開創と伝えられ、室町時代文明年間(1469〜87)に当地の領主三田弾正忠政定によって再興された。

道は峠にむかって上り坂となる。諏訪神社前バス停付近右手に古びた石の鳥居がたち
虎柏神社の参道が山に向かって延びている。虎柏神社は延喜式内社に比定される古社で、小曽木郷の総社として江戸時代には諏訪明神社と称された。明治3年(1870)元の虎柏神社に改められた。当神社境域は社殿のほか江戸時代の石造物、古木が茂る境内林などが旧態をよくとどめ、神秘的な空間を形成している。

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黒沢・吹上トンネル

左手に住宅団地をみて峠をこえると、
黒沢二丁目交差点で小曽木街道と交差する。小曾木街道の標識をみると左からは都道53号で、交差点から右へは28号となっている。28号といえば東青梅からここまでたどって来た成木街道である。これから以北の成木街道は28号でなくて都道53号となる。どうして28号と53号を交差させないで直角に接するようにしたのか、変なことにしたものだ。

黒沢集落は茅葺の家がのこる静かな町並である。黒沢川をわたり集落をぬけると道は吹上峠へ向かう上り坂となる。峠を越える方法が4通りある。現成木街道である都道53号は平成元年に完成した
新吹上トンネルをぬける。最も低い位置に開削され、その結果604mと最も長い。新吹上トンネルに並行したすこし高い位置に長さ245mの吹上隧道が昭和28年に竣工した。さらにその上部に昭和トンネルの半分くらいの短いトンネルが明治37年に掘られた。一番古い明治トンネルである。江戸時代は明治トンネルの上部にある切通しの峠道を石灰を積んだ駄馬が通った。私はその中から明治トンネルを抜けていく計画である。

黒沢バス停脇から右に旧道が出ている。そのすこし手前からも右手の坂を上がって民家の前を通る旧道らしき道が延びていて、そこを通っていったのだが、軒先で出会った人に確認したところ、この道は私道で、旧道は現都道と私道の間の法面を通っていたのだということだった。旧道の道筋としてはバス停脇からの道が正しいことになる。舗装された林道風の道を進んで行くと左下に新吹上トンネル入口が見えてくる。
平成のトンネルだ。

さらに進むと一軒の人家が現れその脇で道がゲートで封鎖されていた。人が横向きに通れるほどの隙間から奥に入っていく。左下にこんどは昭和トンネルが見えてきた。トンネル入口の上部に資材置き場があって、その奥に赤煉瓦造りの
明治トンネルが控えている。予想していなかったことには、その口が鉄製の扉で完全密閉されているのだった。歯軋りしながら鉄扉の写真を撮っていると後ろから資材置き場で作業をしていたおじさんがよってきて訳を聞かせてくれた。

「夜中に若者がバイクでやってきて、それだけでも迷惑だのに(明治)トンネルの中で花火をやるんだよ。近所の迷惑になるからといっても止めない。市に言って閉鎖してもらったのだ」
「ひょっとして心霊写真とかいう連中じゃないですか」
「そうそう、インターネットで見てまねする若者がいるんだね」
「このまま帰るのも残念ですね。江戸時代の山道は残っていませんか」
「そこから尾根伝いの道がのこっていて、あそこの切通しに出られる。あそこが
だ。」
「向こう側に降りられますか」
「峠の向こう側は道がなくなっていて降りられない」

両手を使い這うようにして急な山道に入り込むと、そこからは両側に竜の髭が植えられた道が切り通しまで続いていた。明治トンネルが閉鎖されていたことがかえって最も古い道を歩く後押しをしてくれた。

おじさんとの会話ではふれなかったが、心霊写真云々については、既知のうわさがあることを知っていた。この資材置き場は元峠の茶屋があったところで、その後居酒屋として店を開いていた昭和の中頃殺人事件があったとのこと。その後不吉な出来事があいつぎ、この付近で撮った写真には不可解な映像が写るという風説が広がった。いわゆる心霊スポットとしてその筋ではよく知られた場所なのだそうである。

峠から引き返し、
昭和トンネルを抜けることにした。平成トンネル入口のすこし手前を右に入っていくと石造り風の古びた昭和トンネルが空しく口を開けている。利用する者もいない坑内を今も照らしつづけるナトリウム灯が妙に生々しく感じられた。出口が近づくにつれ早春のみずみずしい緑の中に桜の花が白く浮かび上がってくる。幾度も立ち止まり露出調整を繰返しながら次第にズームアップされていく一幅の絵を楽しんだ。

トンネルをでるとすぐ左手に道の痕跡が認められる。峠からの古道であろうか、それとも崩れた小沢か。そのすこし先に、おなじく左手にはっきりした山道が下ってきていた。
明治トンネルに通じる道である。細道を上っていくと途中にワナをしかけたようなワイヤーが道をはっている。ワイヤーの先をみとどけると、旧街道の法面に設けられた落石防止の網を引っ張るもので、山側の岩盤に打ち付けられた鉄杭に止められていた。沢に成りかけた窪みの上流に明治トンネルの成木側入口が見えてきた。水も通さぬとばかりに頑固に口が塞がれていることを見届ける。

少々トンネルにこだわりすぎた感がある。旧街道にもどり先を急ぐ。視界が広がり木々の間に成木8丁目交差点が見える。坂道は左へ曲がり、北小曾木川に架かる吹上橋でヘアピンカーブして坂を下って行く。沿道に植えられた桜が白っぽい花を満開にして絵に描いたような春の山道である。新道との合流点手前に
4体の石仏が並んでいる。

合流点は新吹上トンネル成木側入口のすぐそばで、トンネル入口左側の崖斜面には
「青梅街道発祥の地」、「江戸四ッ谷まで13里30丁」と書かれた看板が設けられていて、成木街道が元祖青梅街道であったことを示している。

交差点を左にとると北小曾木を経て佐藤塚に至る。成木街道は右に折れて北小曽木川に沿って進み成木五丁目の三差路に出る。左から下ってくる成木川に沿って遡上していく道が成木街道である。成木川は落合橋のすぐ下流で北小曽木川を吸収して東に向かい、成木4丁目から1丁目を経て埼玉県に入り入間川に注ぎ込んでいる。冒頭で触れた成木や小曽木地域で伐採された西川材は吹上峠から多摩川をくだったほか、成木5丁目から4丁目辺りで筏に組まれて、成木川−入間川−荒川をついで江戸木場まで運ばれていった。成木・北小曽木川は荒川水系である。

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成木5〜6丁目

成木街道は落合橋を渡らずに三差路を左折して都道53号を北上する。清志橋の先で右に
短い旧道が残っている。成木川と数軒の民家の間をぬけてすぐに都道にもどる。対岸にある市民センター前から川筋に沿って植えられた桜が美しい。都道をさけてS字状に蛇行してのびる成木川左岸の道がいかにも旧道のような趣があって歩きたくなってくるのだが、車のみならずどうも集落までも避けているようで、途中でであった古老にきくと、やはりこの道は農道であって街道はあくまで都道であるとのことだった。これからも基本的には都道に沿って集落が展開しており、数ヶ所で都道が人家を避けて端折った部分に旧道が残っているのみである。

平和橋手前左手に
慈福寺が建つ。境内に文政11年銘の道標があるが読み取れなかった。すこし先の右手に新福寺がある。本殿と薬師堂の間に記念碑があり裏側に由緒が彫られているのだが、あいにく判読できなかった。なんでも石灰焼き元祖4人組の一人川口弥太郎が建立したものと伝えられている。

成木5丁目もおわるあたり、左に農道につづく古い
久道橋(きゅうどうばし)と、街道には新しい同名の橋が架かる。かってはこの辺りに石灰焼きが行われた窯跡があったという。

滝成トンネル手前の和田下橋で成木5丁目から6丁目に移る。旧道は和田下橋を渡って右にまがって川沿いを迂回する。山が次第に迫ってきて、成木川と春の花木が織りなす里山の風景は世俗を離れた桃源郷を思わせる。

やがて6丁目の半ばあたりにさしかかり、右手の山裾に慈眼院が見える。このあたり一帯は木崎平次郎が石灰焼きを営んでいた場所で
成木石灰所久保遺跡」として保存されている。墓地には「木崎家之墓」がある。立ち入り禁止の道を山に向かって入っていくと谷川沿いに若干の空き地が認められ、このあたりに石灰石の石取場、石落し場、石打ち場、石を焼く窯跡、焼石にかける水をためておいた水場があったという。石灰産地を訪ねる旅にとって最初の実証的史蹟である。

街道は梅ヶ平を通り過ぎる。成木川に沿ったS字状の道はかっての旧街道であったのだろうか、今は奥多摩工業の専用作業道路となっている。現街道都道53号は蛇行する作業道を突き切るかたちで通り抜け、山間の成木7丁目にはいってくる。行き交う車は殆んどなく、時折爆音を上げて大型バイクが通り過ぎる。

折戸橋の手前で川に沿って右に入る道は奥多摩工業とは関係なさそうで
高土戸集落を通る旧来の街道であろう。川・木橋・道・家並み・桜・茶畑の景観が日本の原風景を残している。静かな道を進んで都道と合流した先の右手に上成木神社石柱が立っている。すこし入るや急激な坂道となって人家の前に留まった軽自動車が道を塞いでいる。軒下を通り抜け更に険しい傾斜の坂道と石段をたどって小さな社にたどりついた。狭い場所一杯に拝殿が建つ。明治の初期は所久保神社と称されていた。慈眼寺にあった遺跡の名と同じだ。

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上成木

街道は左へ大きく曲がり、まもなく左手川沿いに金網に囲まれて丸まった石柱が立っていて、
「高水山(たかみずさん)一の鳥居石跡」とある。高水山はここから西方2kmにある山で、江戸時代は高水山不動尊の信仰を集めていた。川向こうに古道があって高水山に通じていた。

いよいよ上成木集落に入ってきた。大指(おおさす)バス停先の
丁字路を左にとると松ノ木トンネルを抜けて佐藤塚に至る。この道筋は鎌倉街道山ノ道で、秩父から小沢峠をこえ、ここから青梅軍畑へ通じていた。青梅から八王子、高尾、町田を経て鎌倉に至る鎌倉古道である。成木街道はそのわずかな一部と重複しているのだ。

丁字路のすぐ先左手に
延命寺がある。簡素な四脚門の山門がひなびた山里の寺には似つかわしい。やがて街道は二股分岐点に到達する。分岐点に「高水山不動尊」「高水山獅子舞」の看板が立てかけられている。信仰とハイキングコースとして人気があるらしい。二股の左は小沢峠へ向う鎌倉古道の道筋で上成木集落の中を通り抜ける。現成木街道は右の都道を進んで小沢トンネルを抜けて埼玉県飯能市名栗に出る。

小沢トンネルを見届けようとまず右の坂道を上がっていった。道端で数人のおばさんたちが何かこねている。小麦色をした大豆であった。文字通りの手づくり味噌だという。

トンネル手前から右にでる道は旧小沢峠を越える道筋であるようだ。入口に「昭和49年小沢峠開通記念」碑があった。上成木橋から谷間の
上成木集落をみおろす眺めは素晴らしい。橋の下を鎌倉古道が走っていて、橋の右手で坂を駆け上がって旧小沢峠に至る道に合流している。

記念に鎌倉古道を歩いておこうと、二股までもどらずに斜面の農地を降りさせてもたった。清冽な成木川の両側に静まり返った家並みがつづく。菜の花が満開を迎えている。土蔵も小ぶりですがすがしい。
鎌倉古道はちょうど上成木橋の南下あたりで水道局浄水場に向かう都道202号と分かれて成木川をわたり橋の下を潜り抜ける。分岐点に道標を兼ねた出羽三山供養塔があった。寛政年間の鎌倉古道の査証でも刻まれていないかと石柱の4面を何度も調べたがなさそうだった。

成木川をわたると菜の花に飾られて三体の地蔵が並んでいる。細道は左にまがり上り坂となる。上成木橋の下をくぐった先で石段を登って橋の袂から出ている車道に合流する。もちろん昔は石段などなくて山道をそのまま小沢峠へと向かっていったのであろう。

鎌倉古道の散策はそこで打ち止め、平和に満ちた集落の家並みを楽しみながら二股にもどる。途中常福院入口に立派な「高水山参道入口」石標が立っている。「従是頂上マデ十八丁」とあった。約2kmである。川縁に門と土蔵を構える立派な家が目を引く。かっての名主といったところか。

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成木8丁目(北小曾木)

桃源郷のような上成木の散歩のなかですっかり石灰のことを忘れていた。成木街道をもどり延命寺の先で右折して松ノ木通りに入る。500mほどの松ノ木トンネルを抜ける。右手の山肌が大きくあらわになって盛んに木材が伐採されている。これで西川材の現場もみた。

やがて松ノ木通りは都道193号にぶつかる。左折すると北小曾木に向かい、右に折れていくのが鎌倉古道の道筋で軍畑に出る。丁字路角の1本杉の根元に2基の五輪塔があった。これが
佐藤塚とよばれ大久保長安に呼ばれた石灰焼きの1人佐藤助十郎の窯跡だといわれている。これで4人のうち野村庄七郎を除いて何らかの関連史蹟にめぐり合えることができた。残るは石灰の産出現場だ。それはまもなく現れた。

多摩ナンバーの大型トラックが行き交う道路の川向こうに大々的な採掘場が展開している。成木街道でも専用道路を持っていた
奥多摩工業の採掘場である。焼いてもいないしセメント工場でもなく、単に粉砕した石灰岩を搬出しているだけのようである。成木川沿いにはこのような現場はなかった。

夕倉という小さな集落を通り過ぎる。この村にあった農家の家(旧宮崎家住宅)が青梅釜の渕公園に移築保存されている。帰り途中に寄ったときは茅葺屋根の葺き替え工事中で家全体がブルーシートにすっぽり覆われて何も見えなかった。

終点北小曾木に到着する。ふれあいセンター(旧青梅市立第十小学校)の道路向かい、
観音山と呼ばれる山から良質の石灰岩が産出された。説明板が立っている。付近を覗き込むと石組みのような山肌が見られた。露出した石灰石を崩落防止のためにセメントで固めたようである。

かっては
北小曾木バス停辺りに窯が築かれ、焼かれた石灰はバス停横の自治会館の場所にあった蔵に保管されたという。

新旧の産出現場を確認したところで成木御用石灰の旅を終える。カメラを片付け足をさすっているうちにバスが来た。青梅の多摩川で花見でもして帰ろう。


(2009年4月)
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