小野篁(802〜852)は平安時代の漢学者であり歌人で小野小町の祖父にあたる。一風変わった人物としてのエピソードが多く、遣唐副使として派遣される際のトラブルで隠岐に流される羽目になった。そのときに詠んだ歌が百人一首に選ばれている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟
後に赦され平安京へ帰り、官職に復帰するが反骨精神旺盛な野人魂は変わらなかった。古道北陸道の駅家があったとされる西近江路の和邇(小野)には小野氏一族を祀る小野神社にならんで小野篁神社がある。
ふと左の路地に目をやると可愛らし双体道祖神があった。癒しの野仏だ。
街道はやがて綣(へそ)という妙な地名の地区に入る。臍でなくて綣である。この地では布を織るための糸づくりが盛んで、植物繊維から糸を紡ぐとき糸を巻き取った球状の物を「へそ」と言ったことから「糸」を「巻」くの二字を一字にして「綣」となったと言われているらしい。それはともかく私的には、「綣」と書かれてもまずなんと読むのかわからない。道路標識に「へそ」と仮名やローマ字で書かれていると、まず「臍」と連想する。ということで、説明された「糸を巻く」ことに思いをいたす術がない。
大きな大宝公園の森が現れる。その中に「綣」の説明板や大きな芭蕉の句碑がある。
へそむらの まだ麦青し 春のくれ
最初の4文字を他の地名にかえれば、全国どこでも芭蕉並みの句が作れると思った。そばの説明碑にも「この句は芭蕉の句の存疑の部に入れられていて」とあり、芭蕉の作とは認知されていなかった。
大宝神社は、その名のとおり大宝年間(701〜704)に創建された神社である。入り口の立派な築地付の四脚門は享保3年(1718)宮中から寄進されたものである。築地は定規筋と呼ぶ白色の横筋を入れる筋塀(すじべい)で、その本数で格式が決められていた。最高位は5本筋で、大宝神社の築地はそれに該当する。
本殿は改修工事中で青シートに覆われていた。隣接する境内社稲田姫社は小ぶりながら檜皮葺きの愛らしい社殿である。
栗東駅前通との交差点手前、小学校向かいに街道の雰囲気を残す連子格子造りの民家が見られた。
トップへ左手に伊砂砂神社がある。街道沿いの石垣は鎌倉時代の古いものだそうだ。本殿は応仁2年(1468)の建立で国指定重要文化財である。拝殿は瓦葺の入母屋造りで、四方を高欄がめぐり細身の柱が繊細さを強調して洗練された美しさを放っている。
旧中山道はまっすぐアーケード商店街に入って行く。アーケードが途切れた県道143号との交差点を左に入るとすぐ覚善寺の門前に「右東海道」「左中仙道」と深く刻まれた道標がある。明治19年(1886)に草津川隧道が出来たのを機会に、東海道が県道143号に付け替えられ、この交差点に道標が建てられた。1966年の旅では境内の中に保管中だったが、現在は門前に移されている。
街道にもどり目の前の隧道をくぐる。トンネルは明治19年に開通したもので、江戸時代は草津川の渡しがあった。トンネル脇から堤防に上がると説明板があって、浮世絵に描かれた草津川の渡しが載せられている。渡しとはどぶに渡した板みたいな橋で、女性でも数歩で渡れる小さなものである。渡しの復元として、そのちっちゃな板が公園の中央に掘った溝に渡してあった。
待望の草津追分にでる。南北に貫く中山道に、東海道が東から突きあたる形になっている。角に立つ追分道標は文化13年の建立年、木製火袋、高さ3.9mとさっき堤防にあった横町道標と同じである。書体が少しちがうのと、こちらの寄進者は飛脚問屋等多数に上っている。覚善寺の道標よりも70年古い。
「右 東海道いせみち 左 中山道美のぢ」
追分からすぐ右手が高名な草津宿本陣である。草津には本陣が田中七左衛門と田中九蔵の二軒があった。田中七左衛門は材木屋を経営していたため、「木屋本陣」と呼ばれていた。むかしのままの遺構を残す国指定史蹟である。あいにく休館日であった。やはり44年前の写真と見比べている。こちらは形が変わっていない。旅行記には本陣跡は公民館になっていて前では易者が店を出していたとある。現在公民館は追分南西角に移った。
本陣の先左手のおみやげ処が仙台屋茂八脇本陣跡で、その先にもう一つの本陣田中九蔵家跡があり手書きの説明札が下がっている。篤姫が泊ったこと、跡地は草津小学校の前身、知新学校が建てられたことなど。
「道灌」の酒樽がならぶ太田酒造がある。白壁酒蔵の間を入っていくと現場の人にであった。「レンガ煙突が見えませんが」と訪ねると「あれはどこも使ってなくて、ただ記念に残しているだけなんですよ。地震があると危険なのでうちは取り壊しました」。太田酒造は太田道灌の末裔が創業した造り酒屋で草津宿の問屋場職を兼ねていた。
正面玄関前に「草津宿と政所」の説明立札があり向かいの側溝蓋に「問屋場・貫目改所」のタイル絵があった。
建物は昭和初期のものだが虫籠窓、格子窓をのこす「八百久」の建物をみて立木神社による。ここに県下最古の道標がある。細い石柱に「右は東海道伊勢道」「左は中山道お多賀道」「延宝8庚申年(1680)」(共に現代語表示)とあり、これこそ草津追分道標のオリジナルである。
曲尺手の名残を経て草津川に架かる矢倉橋にでる。草津宿の南出入口で橋の袂に黒門があった。
橋を渡り、駒寄・虫籠窓のある古川酒店の先の信号を過ぎると右手瓢泉堂前に矢橋道道標がある。
この矢橋道を3kmほどいくと近江八景の一つである矢橋帰帆の渡に着く。
武士(もののふ)のやばせの船は早くとも いそがば廻れ瀬田の唐橋
と詠われ、「急がば回れ」の語源となった。広重の絵に描かれていた角の姥が餅屋は国道1号沿いに移転し、今は瓢泉堂という瓢箪屋が店を構えている。
矢倉南信号で国道1号を斜めに渡って細い路地に入ると道路整備で取り残されたような一角に東屋が設けられた上北池公園があり、そこに野路一里塚跡の碑があった。
ここでJR南草津駅の西側に寄り道する。野路は古代東山道の道筋にあたっており、駅の西に広がる野路岡田遺跡からは「馬道」と呼ばれる古道跡が発掘された。野路宿の駅家跡ではないかと考えられている。そんな発掘遺跡を探して歩き回ったが辺りは大規模に再開発された地域になっており整然と区画された新しい並木道がのびているだけであった。ようやく事情を知る人にめぐりあい、発掘現場は埋めもどされたこと、遺跡に関する解説パネルが南草津駅南側の地下道にあることを教わった。そのトンネルに通じている新しい道路こそが馬道の道筋であったようである。
トンネルをくぐって東に進むと野路南交差点で国道1号に出た。一里塚跡までもどって道路を隔てたはす向かいに続く旧道に入る。教善寺前に「草津歴史街道」の説明板があった。これによると東海道は「草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。」とある。これは明治19年、トンネルができると同時に新しい東海道が付け替えられ、栗東市新屋敷から草津覚善寺角の大路井まで約900mの新東海道(現在の県道143号)を意味している。これで覚善寺(当時は中山道沿いにあった)にある明治道標(大路井道標ともいう)の意味が明らかになった。
右手遠藤宅に「平清宗の胴塚」なるものがあるという。同家当主による説明板があった。資料では胴塚に五輪塔があるはずだが、庭をくまなく覗いてみたが見当たらず、塀の脇に壊れた石塔の部分がころがっていた。倒壊したのかもしれない。清宗はたしか宗盛とともに鏡宿の南に埋められていたはずである。
平清宗(1170から1185) 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。「吾妻鏡」に「至る野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家 当主遠藤 勉 |
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。 謡曲史跡保存会 |
日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。 |