左側には国境標柱が、右側には寝物語の里由来石碑がある。国境の集落は近江側の長久寺で、江戸時代は20軒ほどの家が建っていた。当時美濃側は数軒あった程度で、今も民家は長久寺に集中していて、岐阜側に集落はない。
柏原宿まで2.3kmを示す標識のそばに「水利と農村文化探に訪ルートマップ」のパネルがあって、内容はベンガラに集中していた。ベンガラの家は近江、とくに湖北に多く、岐阜には特殊な場合の他はみられないという。つまり、長久寺はベンガラ建築の東端だと紹介している。それを意識して歩いていると確かに多い。玄関まわりの木枠や塀、雨戸袋に酸化鉄の赤み色が目につく。
静まり返った長久寺の集落をぬけると楓の並木がつづく野瀬山裾ののどかな道がのびている。江戸時代は松並木であったが明治にはいって楓が植えられた。
柏原宿まで1.4kmの標識をすぎたところ、右手に「弘法大師御佗水」と刻まれていた石碑がある。かっては清水でも湧き出していたのだろう。
右に細い歩道がでていて、入り口に木標が倒れている。何か書かれているようだが読めない。古道跡だろうと歩いていくとまもなく街道碑が現れ、「長比(たけくらべ)城跡登り口」の道標が建つ丁字路に出た。長比城は元亀元年(1570)浅井長政が織田信長侵攻に備えて近江美濃国境に築いた要塞だが、浅井方の鎌刃城堀氏が寝返ったためあえなく信長勢の手に落ちた。
そのすぐ先に神明社参道鳥居があり、旧東山道が残っている。100mほどの山道を楽しんで水路の手前で中山道に出てJR野瀬踏切を越える。水路の向こう側にも道が続いている気配だが、歩ける状態でなかった。説明板にあった「北西に走る東山道は廃道」だろう。
JR貨物列車の通過を見届け、踏切をわたり線路沿いの道を進んで柏宿に入って行く。左手に柏宿の分間延絵図のパネル、右手に照手姫地蔵堂が現れる。堂内に長文の説明書きが掲げられている。内容は省く。堂の主人公は中央の背の高い地蔵で、笠掛地蔵は隣の低い地蔵である。もとは先ほど通ってきた神明神社鳥居付近にあった寺の本尊であった。
右手の古い民家が柏原宿東見付の跡で、柏原宿場の東出入口であった。
道路の中央に融雪管が敷設されている。近江の湖北は雪国である。
右手に「寺院跡 竜宝院遺跡」「秘仏安置 龍宝院跡」と意味ありげな石標が二本立っているがそれ以上の情報はなし。
八幡神社の境内に芭蕉句碑がある。奥の細道を成就した後大垣での句である。奥の細道では北国脇往還を通ってきており、柏原は通らなかった。
其まゝよ 月もたのまし 伊吹山 桃青
通りには宿場当時の屋号札を掲げた家が多い。旅籠と問屋が大半である。柏原宿では東西3軒ずつ計6軒の問屋があり、東西それぞれ10日に分けて交代した。旅籠は幕末で計22軒あったという。宿場の問屋の数は1、2軒が普通であることを考えると6軒は突出している。木曽川の水運と米原湊とを結ぶ陸路輸送の需要が高かったためといわれる。
右手郵便局の手前は脇本陣兼問屋の南部源右衛門家跡(現上田氏宅)である。南部本陣の別家だそうだ。間口は西隣の郵便局を合わせた広さであった。
その先は吉村問屋跡で映画監督吉村公三郎氏の実家である。公三郎氏の祖父は柏原最後の庄屋役、また父は大阪市助役、広島市長を勤めた名家である。家の前に柏原宿の詳しい解説と町割り図が建てられている。柏原宿は東町、市場町、今川町、西町の4町からなり、市場町が中心機能を果たした。
続いて南部辰右衛門が勤めた本陣跡がある。526坪の敷地に138坪の建坪であった。文久元年(1861)皇女和宮は大河の渡しや厳しい関所が多い東海道を避けて中山道を選び、ここ柏原宿本陣に宿泊した。本陣の建物はそれに合わせて建替えられたといわれる。中山道を別名「姫街道」ともよばれる理由の一つに和宮が通ったことが挙げられる。
宿場の中心を流れる市場川の手前に常夜灯が建つ場所が高札場であった。
その先左手に構える重厚な商家が伊吹艾で知られる伊吹堂亀屋左京家である。大きな福助人形とともに広重の絵にも描かれた。店構えは昭和41年(1966)中山道を歩いた時と変わっていないが、今はもう店先を公開していないらしい。福助も自由にみられなくなった。艾は湿気を嫌うため品質管理上そのように方針を変えたとのことである。全盛期には10軒ほどもあった艾屋は今この亀屋1軒のみとなった。私はお灸こそしなかったが、子供の頃艾で魚の目を焼いた記憶がある。
格子造りと虫籠窓の美しい造り酒屋跡の商家がつづく。宿内には4軒もの造り酒屋があった。
左手に白壁の櫓風の建物がある。立派な建物は艾屋の山根為蔵家で、明治34年(1901)柏原銀行を創立した。その手前に荷蔵跡の立札が立つ。ここに問屋で当日処理できなかった荷持を預かる荷蔵があった。
右手の西公園付近は御茶屋御殿跡である。将軍の上洛の際、休憩宿泊に利用された。本陣では不足というのか、将軍専用の施設で、元和9年(1623)に建設、元禄2年(1689)に閉鎖されるまでの間に家康、秀忠、家光が都合13回利用した。
左手の黒板塀造りの豪壮な屋敷は郷宿を営んでいた加藤家で、脇本陣と旅籠の中間にあたる宿で主に公用の庄屋等が利用した。
一連の充実した家並みを見てきた。格子、虫籠窓、駒寄など景観をよく維持した街づくりの熱意が伝わってくる。すべてが建て替えられた新しいものであるのが唯一残念ではあった。
その先に西見附があった。東見附から1.4km、柏原宿は長い大きな宿場であった。説明板はここが海抜174mで、彦根城は天守閣を2つ、大垣城だと6つ積み上げないとこの高さにはとどかないと、なぜか高度にこだわっている。彦根、大垣にとってはどうでもいいことだ。
右に北畠具行墓の案内板が立ち、古い道が延びている。北畠具行は後醍醐天皇に仕え倒幕計画に参加して捕らえられ元弘2年(1332)鎌倉に護送中この地で京極佐々木道誉に処刑された。
墓へは寄らずに先を進む。途中、東山道と九里半街道の解説板がある。ここに柏原宿だけでなくて関ケ原・今須・柏原・醒ケ井・番場の五宿には6、7軒と問屋場が多かった訳が明かされている。木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊(舟附、栗笠、烏江)に陸揚げされ、関ケ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。
米原湊は慶長8年(1603)、当時内湖の奥に開かれた新しい湊である。さらに中山道の番場宿と湊を結ぶ深坂道が切り拓かれ、彦根藩の三湊(長浜、松原、米原)の一つとして隆盛を極めた。この結果、以前から利用されてきた朝妻湊や長浜湊と湖上運送を巡って激しい争奪を引き起こすことになる。朝妻湊は醒ヶ井宿から貨物を廻そうとしたが失敗した。一方長浜湊とは、上方方面の荷物は米原湊へ、北陸方面は長浜湊へ出すことで折り合った。
山裾の道を歩きながら「鶯ヶ原」、「掃除丁場と並び松」の案内札を読み進む。
やがて道は薬師道標をみて、長沢(ながそ)集落をS字に通り抜けたところで道は二手に分かれ、分岐点に小川(こかわ)の関跡の碑が立つ。小川は「古川」「粉川」とも書き、東山道横川駅の横川が転訛して「こかわ」と称するようになったともいう。
右の道は杉林の中を通る旧東山道である。「館跡 小黒谷遺跡」ときされた標石があった。関屋の跡地であろう。あるいは関所自体はすこし西の方で、ここは横川駅家跡だとする説もある。
東山道が終わる丁字路角に「歴史街道 江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村(東地先)」「←旧中山道」と刻まれた道標があった。ここで柏原から梓河内へと移る。
丁字路を左折して旧中山道にもどる。
トップへ大きな自然石の街道碑があり、これより西にむかって梓集落内に東山道横川駅があったこと、松並木があって老松が12本残っていることを簡略に記している。
集落をぬけ、右に梓川、左に国道21号と挟まれてラブホテルと松並木の道を歩いていく。このあたりに東山道横川駅家があったことになっている。
三軒目のラブホテルリスボンに突き当たって左折し国道に合流する。
すぐに国道を離れて左の旧道に入る。
国道と名神高速の間を左に曲がっていくと左の擁壁下に一色の一里塚碑がある。このあたりは鶯ヶ端といって古代より景勝の地だったそうだ。西の方を望むと遥か山間に京の空が見えたというのは誇張としても、高台にあって見晴らしは良かったようである。今は高速道路の盛土と防音壁で何も見えない。
右手に小さな祠があって、金網を被せた水琴窟のような井戸がある。水は佛心水とよばれ旅人の喉を潤してきた。
坂道は下って枡形を経る。このあたりに東の見附が設けられていた。ここより西に約900mが醒ヶ井宿である。
暖かなベージュ色の土壁に虫籠窓を切った民家が軒を連ねている。連子格子も美しく腰板にベンガラを塗った町屋風の民家もみられ、古い家並みが懐かしさを感じさせる。
左に加茂神社の鳥居が現れ、その麓の石垣下から「居醒の清水」が滾々と湧き出ている。日本武尊が伊吹山の荒ぶる神を退治に来たとき、大蛇と化した山神の毒気にあたり瀕死の体でこの泉にたどりついた。清水で体を洗っているうちに正気をとりもどしたという神話に出てくる由緒ある名水である。
この泉が源流となって地蔵川が発している。湧き出ている場所に蟹石の札が立っていた。水の揺れで、どの石かはっきり見えない。蟹石の謂れがたわいない。岐阜県のとある泉に大きな蟹を見つけ、滋賀県醒井に持ち帰ってこの泉に放つと石になったと。
地蔵川の豊かな水流からして湧水は各所からでているものと思われる。清流は醒井の宿場をこの上なく情緒ある町に作り上げた。澄み切った川には梅花藻と呼ばれる清流にしか育たない水草が細い掌状の葉を流れに任せてなびかせている。7〜8月頃に梅の花に似た白い花を咲かせることからその名がついた。そのバイカモを住処にするのがハリヨという名の小魚で、限られた場所で1年という短い命を生きる。
地蔵川を石橋で跨いで家並みが続く。その1軒が料亭「樋口山」を営む本陣跡である。
隣に問屋場(旧川口家住宅)が資料館として公開されている。醒ヶ井宿には問屋が7軒あったという。柏原よりも多い。
地蔵川から右手に目を向けると、白壁のうだつが清々しいヤマキ醤油。
店先に大きな石灯籠をおき手摺付の二階がいかにも旅籠の趣を湛えている料亭は元旅籠の多々美屋。
その先に建つ門構えの屋敷は旧家江龍家で、「明治天皇御駐宙連輦所」の碑が立つ。
街道からすこし奥まったところに了徳寺。その左手に聳え立つのが葉に銀杏がつく「お葉付銀杏」である。
中山道は醒井大橋(地蔵川にかかる石橋)を渡る。橋の手前に高札場があった。川中に「十王」と刻まれた石燈籠が建っている。その奥に十王水とよぶ湧水がある。平安中期、天台宗高僧浄蔵がこの水源を開いた。近くに十王堂があったためこの名が付いた。
道は居醒橋を右に見てそのまま直進するが、橋を渡ってJR醒ヶ井駅への道中にあるヴォーリズ設計の旧醒ヶ井郵便局を見ていく。いつもながら奇をてらわない端正な建物である。
街道にもどる。少し行くと左手に醒ヶ井三水と言われた清水の三番目西行水が岩の根元の割れ目から湧き出している。湧水そのものに特徴はないが、泡子塚と称して石燈籠の周囲や岩の上に小さな地蔵が集められていて、岩には小さな五輪塔が置かれている。昔、この泉で休憩した西行に茶店の娘が恋をした。西行が飲み残した茶の泡を娘が飲むと懐妊し男子を産んだ。西行が再びここを訪れた時、娘からこの話を聞き「今一滴の泡変じてこれ児となる。もし我が子ならば元の泡に帰れ」と詠むと、児は元の泡になった。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てた。どう解釈するかは旅人の自由。
旧街道は醒井の家並みを離れて県道17号を渡る。道の右側(北側)は醒井、左(南側)は枝折という。昔は松並木が続き右側に六軒の茶屋が軒を連ねていた。醒井は大和郡山藩の飛地領、枝折は彦根藩領であった。大和郡山藩主柳沢は境界を明示するため自領側に同じ形の茶屋6軒を建てた。この「六軒茶屋」は中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれた。今はトタンで覆った茅葺の家が一軒残る。一本のかよわい松の木が風情を添えている。
街道は国道に合流し左折する。右側の大きな木の下に小さな祠があり傍に「一類狐魂等衆」と刻された石碑が立つ。説明板に記された由来がこれまた面白い。ある日、東の見付の石垣にもたれて、一人の旅の老人が「母親の乳をのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやると老人はおいしそうに飲み、目に涙を浮かべて「有り難うございました。本当の母親に会えたような気がします。懐に七十両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終えて、母親に抱かれて眠る子のように安らかに往生をとげた。以下略。
孤独死とみれば哀れ、悲し。究極のマザコンとみれば幼稚でかなりエロティック。これも旅人の解釈まかせ。
天野川支流の丹生川を渡る。橋の袂に「壬申の乱・横川の古戦場跡」の説明板があった。大海人皇子と大友皇子が激突、大友皇子が敗れた。
道は二股を右にとって河南集落に入る。左手に茶古い木造の建物がある。繊細な格子戸はベンガラ塗である。永らく空家であったものを中山道400周年記念事業として自治会が買取り「茶屋道館」として開館した。裏には蔵が二棟あり、持ち主はかなりな資産家だったと思われる。平屋にもみえる低い二階建ての理由は勉強になった。虫籠窓のある中二階の町屋造りとは違う、さらに低い二階建てなのである。
道は河南から樋口に入る。左側に清冽な疎水が流れ、水辺には花が植えこまれて花壇をなしている。美しく魅力的な集落である。
樋口は醒井と番場の間にあって立場を形成していた。立場茶屋では名物のあん餅饅頭が売られて人気があった。
樋口信号で国道を渡り三吉に入る。左手に田、森、民家、山並みがそろった日本の原風景が広がる。その森の八坂神社に石造りの九重の塔があるというので寄ってみた。集落や街道から離れた森の中に、鎌倉時代末期の造立という長身の石塔がひっそりと佇んでいた。
長屋門や庭とも見える畑を見ながら三吉集落をぬける。県道240号に突当り左折して名神高速道路の高架をくぐる。変則十字路角に久礼(くれ)一里塚跡がある。県道と分かれて右側の道が旧中山道で、まもなく番場宿に至る。
新緑の楓並木が続く山裾の道をたどっていくと、まもなく番場宿入り口で土蔵が迎えてくれる。山間の鄙びた宿場を予想していたが、土蔵の先は新しい家が連なるモダンな町並みだった。
右手に総板壁造りの平屋が「中山道番場宿よ!」と白書きした板看板を掛けている。出窓は昔のタバコ屋を思い出させる。結局この家が番場宿で見かけた唯一の古い建物だったと思う。
ベンガラの玄関と門がなつかしい家先にも問屋場跡の標石がある。
一里塚で分かれた県道240号にさしかかる。手前のポケットパークに宿場碑があり、交差点には「米原汽車汽船道」の指差道標が建っている。右手に脇本陣跡、問屋場跡が並ぶ。後ろの建物はいずれもモダンな家だ。
その先にベニカナメモチの生垣が見事な本陣跡がある。
その先の問屋場跡には明治天皇番場御小休所の碑が立つ。普通は本陣の仕事だが、ここでは問屋の方が威勢よかったか。
その先、つつじの植え込みがうつくしい民家も問屋場跡である。
宿場は1町10間、130m弱の短さである。中山道の中では最も小さな宿場であった。そこに6軒もの問屋場があったというから物流の盛んな様が想像できる。
小さな宿場の唯一の史跡が蓮華寺である。大きな案内標柱にしたがって左にはいり高速道路をくぐる。途中に玄関と塀をベンガラで塗り込めた民家が目についた。見越しの赤松のために塀の一部を切りこんで低くしてある。そこにもしっかり瓦屋根を付けているのがほほえましい。
菊の紋章を付けた勅門の脇から境内に入る。手前の溝に「血の川」の立札がある。元弘3年(1333)この本堂前で自刃した六波羅探題北条仲時以下432名の血がこの溝を流れた。
無人の箱に入場料300円を入れて432名の墓に向かう。石段を上がっていくと左の山の斜面に大小の五輪塔が三段にわかれてぎっしりと立ち並んでいる。集団自決として白虎隊の比ではない。
本堂の裏手にまわると高さ30mの一向杉と番場の忠太郎地蔵がある。「瞼の母」の主人公で架空の人物である。話の内容は知らない。五街道他の街道沿いにはヤクザを顕彰する碑が多々あり、実在人物と架空の人物が混在する。いずれも私には興味がない。
街道に戻り西番場に入る。家並みは番場宿よりも古く見える。実際、街道碑にあるように、西番場は中世時代東山道の宿駅であった。江戸時代になって米原湊が開設され、現在の県道240号の前身である米原道が開通すると、宿場機能は西から東の番場に移ってきた。但、古代東山道の駅家ではない。
東番場では見られなかった昭和時代の佇まいを見せる民家が残っている。ベンガラ、玄関わきに突き出た厠、おくどさん(竈)から出ている煙突、板壁、土壁等、故郷に帰ってきたような郷愁が漂う。
集落の出口に街道碑がある。ここから名神高速に沿って小摺針峠を越える。なだらかな坂で高速道路のトンネルの上を歩いて越えると彦根市である。
峠を下り始めるところ右手に小さな祠があってそばに泰平水と彫られた水槽に山側から石樋が突き出している。水は流れていなかった。
誰も通らない道を野生猿が三匹横切っていった。それぞれ手に食べ物を持っている。山に入っていった後を通り過ぎるとあたりにはペットボトルや弁当容器が散乱していた。高速道路のドライバーが投げ捨てたものとしか思えない。
坂を下りきったところで三叉路に出て右に折れる。角に二基の道標がある。いずれも新しい。三面に「中山 鳥居本」、「摺針峠 彦根」、そして「番場 醒井」とある。右におれるのは摺針峠を経て北から鳥居本へ入り彦根へ出る道である。左に折れても鳥居本へ東から入れる。
坂を上りつつ峠下の集落へ入ってきたかと思うとそのまま峠に出てしまった。家並みの中で峠を越える経験は少ない。峠の左の石段を上がったところに神明宮がある。鳥居前の琵琶湖を見下ろす絶景の場所に一軒の家が建つ。平成3年までこの場所に望湖堂という茶屋があった。彦根藩主が建てたもので本陣造りの立派な茶屋だった。
車道を下り始めると左に緑色の手摺を設けた山道がでている。「中山道」、「西国古道」と記した札が立ててある。中山道の旧道である。つづらに降りる車道を貫いて真っ直ぐに下る山道で、やっといつもの峠道を歩く気分になってきた。車道を横断するまでは手摺が必要なほど急な坂道だが、その後はなだらかな下り坂を道なりに降りていく。石橋あり、竹林あり、垂直にのびる杉木立ありの快適な道である。
疲れを感じることもなく里に下りてきた。下矢倉町といい、川縁に北国街道との追分道標が設置されている。右へいけば米原、長浜を経て北陸に至る。