中山道近江路−1 



柏原−醒ヶ井番場鳥居本高宮豊郷愛知川五個荘
いこいの広場
日本紀行
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柏原

美濃・近江の国境を越える。境は幅50cmほどの小さな溝である。この溝をはさんで美濃側に両国屋、近江側に亀屋という旅籠屋が軒を並べていた。それぞれの旅籠に泊まった客は壁越しに寝ながら隣の国の人と話しができたという。常盤御前や静御前もここに泊まったという。

左側には国境標柱が、右側には寝物語の里由来石碑がある。国境の集落は近江側の長久寺で、江戸時代は20軒ほどの家が建っていた。当時美濃側は数軒あった程度で、今も民家は長久寺に集中していて、岐阜側に集落はない。

柏原宿まで2.3kmを示す標識のそばに「水利と農村文化探に訪ルートマップ」のパネルがあって、内容はベンガラに集中していた。ベンガラの家は近江、とくに湖北に多く、岐阜には特殊な場合の他はみられないという。つまり、長久寺はベンガラ建築の東端だと紹介している。それを意識して歩いていると確かに多い。玄関まわりの木枠や塀、雨戸袋に酸化鉄の赤み色が目につく。

静まり返った長久寺の集落をぬけると楓の並木がつづく野瀬山裾ののどかな道がのびている。江戸時代は松並木であったが明治にはいって楓が植えられた。

柏原宿まで1.4kmの標識をすぎたところ、右手に「弘法大師御佗水」と刻まれていた石碑がある。かっては清水でも湧き出していたのだろう。

右に細い歩道がでていて、入り口に木標が倒れている。何か書かれているようだが読めない。古道跡だろうと歩いていくとまもなく街道碑が現れ、「長比(たけくらべ)城跡登り口」の道標が建つ丁字路に出た。長比城は元亀元年(1570)浅井長政が織田信長侵攻に備えて近江美濃国境に築いた要塞だが、浅井方の鎌刃城堀氏が寝返ったためあえなく信長勢の手に落ちた。

そのすぐ先に神明社参道鳥居があり、旧東山道が残っている。100mほどの山道を楽しんで水路の手前で中山道に出てJR野瀬踏切を越える。水路の向こう側にも道が続いている気配だが、歩ける状態でなかった。説明板にあった「北西に走る東山道は廃道」だろう。

JR貨物列車の通過を見届け、踏切をわたり線路沿いの道を進んで柏宿に入って行く。左手に柏宿の分間延絵図のパネル、右手に照手姫地蔵堂が現れる。堂内に長文の説明書きが掲げられている。内容は省く。堂の主人公は中央の背の高い地蔵で、笠掛地蔵は隣の低い地蔵である。もとは先ほど通ってきた神明神社鳥居付近にあった寺の本尊であった。

右手の古い民家が柏原宿東見付の跡で、柏原宿場の東出入口であった。 

道路の中央に融雪管が敷設されている。近江の湖北は雪国である。

右手に「寺院跡 竜宝院遺跡」「秘仏安置 龍宝院跡」と意味ありげな石標が二本立っているがそれ以上の情報はなし。

八幡神社の境内に芭蕉句碑がある。奥の細道を成就した後大垣での句である。奥の細道では北国脇往還を通ってきており、柏原は通らなかった。

   其まゝよ 月もたのまし 伊吹山 桃青

通りには宿場当時の屋号札を掲げた家が多い。旅籠と問屋が大半である。柏原宿では東西3軒ずつ計6軒の問屋があり、東西それぞれ10日に分けて交代した。旅籠は幕末で計22軒あったという。宿場の問屋の数は1、2軒が普通であることを考えると6軒は突出している。木曽川の水運と米原湊とを結ぶ陸路輸送の需要が高かったためといわれる。

右手郵便局の手前は脇本陣兼問屋の南部源右衛門家跡(現上田氏宅)である。南部本陣の別家だそうだ。間口は西隣の郵便局を合わせた広さであった。

その先は吉村問屋跡で映画監督吉村公三郎氏の実家である。公三郎氏の祖父は柏原最後の庄屋役、また父は大阪市助役、広島市長を勤めた名家である。家の前に柏原宿の詳しい解説と町割り図が建てられている。柏原宿は東町、市場町、今川町、西町の4町からなり、市場町が中心機能を果たした。

続いて南部辰右衛門が勤めた本陣跡がある。526坪の敷地に138坪の建坪であった。文久元年(1861)皇女和宮は大河の渡しや厳しい関所が多い東海道を避けて中山道を選び、ここ柏原宿本陣に宿泊した。本陣の建物はそれに合わせて建替えられたといわれる。中山道を別名「姫街道」ともよばれる理由の一つに和宮が通ったことが挙げられる。

宿場の中心を流れる市場川の手前に常夜灯が建つ場所が高札場であった。

その先左手に構える重厚な商家が伊吹艾で知られる伊吹堂亀屋左京家である。大きな福助人形とともに広重の絵にも描かれた。店構えは昭和41年(1966)中山道を歩いた時と変わっていないが、今はもう店先を公開していないらしい。福助も自由にみられなくなった。艾は湿気を嫌うため品質管理上そのように方針を変えたとのことである。全盛期には10軒ほどもあった艾屋は今この亀屋1軒のみとなった。私はお灸こそしなかったが、子供の頃艾で魚の目を焼いた記憶がある。

格子造りと虫籠窓の美しい造り酒屋跡の商家がつづく。宿内には4軒もの造り酒屋があった。

左手に白壁の櫓風の建物がある。立派な建物は艾屋の山根為蔵家で、明治34年(1901)柏原銀行を創立した。その手前に荷蔵跡の立札が立つ。ここに問屋で当日処理できなかった荷持を預かる荷蔵があった。

右手の西公園付近は御茶屋御殿跡である。将軍の上洛の際、休憩宿泊に利用された。本陣では不足というのか、将軍専用の施設で、元和9年(1623)に建設、元禄2年(1689)に閉鎖されるまでの間に家康、秀忠、家光が都合13回利用した。

左手の黒板塀造りの豪壮な屋敷は郷宿を営んでいた加藤家で、脇本陣と旅籠の中間にあたる宿で主に公用の庄屋等が利用した。

一連の充実した家並みを見てきた。格子、虫籠窓、駒寄など景観をよく維持した街づくりの熱意が伝わってくる。すべてが建て替えられた新しいものであるのが唯一残念ではあった。

中井川橋をわった先の左手に一里塚が復元されている。

その先に西見附があった。東見附から1.4km、柏原宿は長い大きな宿場であった。説明板はここが海抜174mで、彦根城は天守閣を2つ、大垣城だと6つ積み上げないとこの高さにはとどかないと、なぜか高度にこだわっている。彦根、大垣にとってはどうでもいいことだ。

街道は並び松と呼ばれる松並木の道をたどる。

右に北畠具行墓の案内板が立ち、古い道が延びている。北畠具行は後醍醐天皇に仕え倒幕計画に参加して捕らえられ元弘2年(1332)鎌倉に護送中この地で京極佐々木道誉に処刑された。

墓へは寄らずに先を進む。途中、東山道と九里半街道の解説板がある。ここに柏原宿だけでなくて関ケ原・今須・柏原・醒ケ井・番場の五宿には6、7軒と問屋場が多かった訳が明かされている。木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊(舟附、栗笠、烏江)に陸揚げされ、関ケ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。

米原湊は慶長8年(1603)、当時内湖の奥に開かれた新しい湊である。さらに中山道の番場宿と湊を結ぶ深坂道が切り拓かれ、彦根藩の三湊(長浜、松原、米原)の一つとして隆盛を極めた。この結果、以前から利用されてきた朝妻湊や長浜湊と湖上運送を巡って激しい争奪を引き起こすことになる。朝妻湊は醒ヶ井宿から貨物を廻そうとしたが失敗した。一方長浜湊とは、上方方面の荷物は米原湊へ、北陸方面は長浜湊へ出すことで折り合った。

山裾の道を歩きながら「鶯ヶ原」「掃除丁場と並び松」の案内札を読み進む。

やがて道は薬師道標をみて、長沢(ながそ)集落をS字に通り抜けたところで道は二手に分かれ、分岐点に小川(こかわ)の関跡の碑が立つ。小川は「古川」「粉川」とも書き、東山道横川駅の横川が転訛して「こかわ」と称するようになったともいう。

右の道は杉林の中を通る旧東山道である。「館跡 小黒谷遺跡」ときされた標石があった。関屋の跡地であろう。あるいは関所自体はすこし西の方で、ここは横川駅家跡だとする説もある。

東山道が終わる丁字路角に「歴史街道 江戸後期 旗本西郷氏領 梓河内村(東地先)」「←旧中山道」と刻まれた道標があった。ここで柏原から梓河内へと移る。

丁字路を左折して旧中山道にもどる。

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醒ヶ井 

梓集落に入ると「墓跡 黒谷遺跡」の石標がある。辺りを見廻しても遺跡らしいものはないようだ。

大きな自然石の街道碑があり、これより西にむかって集落内に東山道横川駅があったこと、松並木があって老松が12本残っていることを簡略に記している。

集落をぬけ、右に梓川、左に国道21号と挟まれてラブホテルと松並木の道を歩いていく。このあたりに東山道横川駅家があったことになっている。

三軒目のラブホテルリスボンに突き当たって左折し国道に合流する。

すぐに国道を離れて左の旧道に入る。

国道と名神高速の間を左に曲がっていくと左の擁壁下に一色の一里塚碑がある。このあたりは鶯ヶ端といって古代より景勝の地だったそうだ。西の方を望むと遥か山間に京の空が見えたというのは誇張としても、高台にあって見晴らしは良かったようである。今は高速道路の盛土と防音壁で何も見えない。

右手に小さな祠があって、金網を被せた水琴窟のような井戸がある。水は佛心水とよばれ旅人の喉を潤してきた。

坂道は下って枡形を経る。このあたりに東の見附が設けられていた。ここより西に約900mが醒ヶ井宿である。

暖かなベージュ色の土壁に虫籠窓を切った民家が軒を連ねている。連子格子も美しく腰板にベンガラを塗った町屋風の民家もみられ、古い家並みが懐かしさを感じさせる。

左に加茂神社の鳥居が現れ、その麓の石垣下から「居醒の清水」が滾々と湧き出ている。日本武尊が伊吹山の荒ぶる神を退治に来たとき、大蛇と化した山神の毒気にあたり瀕死の体でこの泉にたどりついた。清水で体を洗っているうちに正気をとりもどしたという神話に出てくる由緒ある名水である。

この泉が源流となって地蔵川が発している。湧き出ている場所に蟹石の札が立っていた。水の揺れで、どの石かはっきり見えない。蟹石の謂れがたわいない。岐阜県のとある泉に大きな蟹を見つけ、滋賀県醒井に持ち帰ってこの泉に放つと石になったと。

地蔵川の豊かな水流からして湧水は各所からでているものと思われる。清流は醒井の宿場をこの上なく情緒ある町に作り上げた。澄み切った川には梅花藻と呼ばれる清流にしか育たない水草が細い掌状の葉を流れに任せてなびかせている。7〜8月頃に梅の花に似た白い花を咲かせることからその名がついた。そのバイカモを住処にするのがハリヨという名の小魚で、限られた場所で1年という短い命を生きる。

地蔵川を石橋で跨いで家並みが続く。その1軒が料亭「樋口山」を営む本陣跡である。

隣に問屋場(旧川口家住宅)が資料館として公開されている。醒ヶ井宿には問屋が7軒あったという。柏原よりも多い。

地蔵川から右手に目を向けると、白壁のうだつが清々しいヤマキ醤油

店先に大きな石灯籠をおき手摺付の二階がいかにも旅籠の趣を湛えている料亭は元旅籠の多々美屋。

その先に建つ門構えの屋敷は旧家江龍家で、「明治天皇御駐宙連輦所」の碑が立つ。

街道からすこし奥まったところに了徳寺。その左手に聳え立つのが葉に銀杏がつく「お葉付銀杏」である。

中山道は醒井大橋(地蔵川にかかる石橋)を渡る。橋の手前に高札場があった。川中に「十王」と刻まれた石燈籠が建っている。その奥に十王水とよぶ湧水がある。平安中期、天台宗高僧浄蔵がこの水源を開いた。近くに十王堂があったためこの名が付いた。

道は居醒橋を右に見てそのまま直進するが、橋を渡ってJR醒ヶ井駅への道中にあるヴォーリズ設計の旧醒ヶ井郵便局を見ていく。いつもながら奇をてらわない端正な建物である。

街道にもどる。少し行くと左手に醒ヶ井三水と言われた清水の三番目西行水が岩の根元の割れ目から湧き出している。湧水そのものに特徴はないが、泡子塚と称して石燈籠の周囲や岩の上に小さな地蔵が集められていて、岩には小さな五輪塔が置かれている。昔、この泉で休憩した西行に茶店の娘が恋をした。西行が飲み残した茶の泡を娘が飲むと懐妊し男子を産んだ。西行が再びここを訪れた時、娘からこの話を聞き「今一滴の泡変じてこれ児となる。もし我が子ならば元の泡に帰れ」と詠むと、児は元の泡になった。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てた。どう解釈するかは旅人の自由。

旧街道は醒井の家並みを離れて県道17号を渡る。道の右側(北側)は醒井、左(南側)は枝折という。昔は松並木が続き右側に六軒の茶屋が軒を連ねていた。醒井は大和郡山藩の飛地領、枝折は彦根藩領であった。大和郡山藩主柳沢は境界を明示するため自領側に同じ形の茶屋6軒を建てた。この「六軒茶屋」は中山道の名所となり、安藤広重の浮世絵にも描かれた。今はトタンで覆った茅葺の家が一軒残る。一本のかよわい松の木が風情を添えている。

街道は国道に合流し左折する。右側の大きな木の下に小さな祠があり傍に「一類狐魂等衆」と刻された石碑が立つ。説明板に記された由来がこれまた面白い。ある日、東の見付の石垣にもたれて、一人の旅の老人が「母親の乳をのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやると老人はおいしそうに飲み、目に涙を浮かべて「有り難うございました。本当の母親に会えたような気がします。懐に七十両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終えて、母親に抱かれて眠る子のように安らかに往生をとげた。以下略。

孤独死とみれば哀れ、悲し。究極のマザコンとみれば幼稚でかなりエロティック。これも旅人の解釈まかせ。

天野川支流の丹生川を渡る。橋の袂に「壬申の乱・横川の古戦場跡」の説明板があった。大海人皇子と大友皇子が激突、大友皇子が敗れた。

道は二股を右にとって河南集落に入る。左手に茶古い木造の建物がある。繊細な格子戸はベンガラ塗である。永らく空家であったものを中山道400周年記念事業として自治会が買取り「茶屋道館」として開館した。裏には蔵が二棟あり、持ち主はかなりな資産家だったと思われる。平屋にもみえる低い二階建ての理由は勉強になった。虫籠窓のある中二階の町屋造りとは違う、さらに低い二階建てなのである。

道は河南から樋口に入る。左側に清冽な疎水が流れ、水辺には花が植えこまれて花壇をなしている。美しく魅力的な集落である。
樋口は醒井と番場の間にあって立場を形成していた。
立場茶屋では名物のあん餅饅頭が売られて人気があった。

樋口信号で国道を渡り三吉に入る。左手に田、森、民家、山並みがそろった日本の原風景が広がる。その森の八坂神社に石造りの九重の塔があるというので寄ってみた。集落や街道から離れた森の中に、鎌倉時代末期の造立という長身の石塔がひっそりと佇んでいた。

長屋門や庭とも見える畑を見ながら三吉集落をぬける。県道240号に突当り左折して名神高速道路の高架をくぐる。変則十字路角に久礼(くれ)一里塚跡がある。県道と分かれて右側の道が旧中山道で、まもなく番場宿に至る。

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番場
 

新緑の楓並木が続く山裾の道をたどっていくと、まもなく番場宿入り口で土蔵が迎えてくれる。山間の鄙びた宿場を予想していたが、土蔵の先は新しい家が連なるモダンな町並みだった。

さっそく問屋場跡がでてくる。家屋は新しい。

右手に総板壁造りの平屋が「中山道番場宿よ!」と白書きした板看板を掛けている。出窓は昔のタバコ屋を思い出させる。結局この家が番場宿で見かけた唯一の古い建物だったと思う。

ベンガラの玄関と門がなつかしい家先にも問屋場跡の標石がある。

一里塚で分かれた県道240号にさしかかる。手前のポケットパークに宿場碑があり、交差点には「米原汽車汽船道」の指差道標が建っている。

ここからおよそ3kmで米原駅に至る。明治22年に米原駅が開設された。駅の東側は北国街道米原宿で、江戸時代初期、内湖の奥にあたるここに米原湊が開かれた。それまで古代より湖上輸送の要衝として、また天野川河口の湊として遊女が多いことでもしられた歌枕朝妻湊は以降衰退の一途をたどる。番場宿は中山道と朝妻湊、その後米原湊をつなぐ陸運中継地として繁栄した。柏原、醒井と共にここにも多くの問屋があったのはそのためと言われる。


県道をわたり宿場の中心街にくる。

右手に脇本陣跡、問屋場跡が並ぶ。後ろの建物はいずれもモダンな家だ。

その先にベニカナメモチの生垣が見事な本陣跡がある。

その先の問屋場跡には明治天皇番場御小休所の碑が立つ。普通は本陣の仕事だが、ここでは問屋の方が威勢よかったか。

その先、つつじの植え込みがうつくしい民家も問屋場跡である。

宿場は1町10間、130m弱の短さである。中山道の中では最も小さな宿場であった。そこに6軒もの問屋場があったというから物流の盛んな様が想像できる。

小さな宿場の唯一の史跡が蓮華寺である。大きな案内標柱にしたがって左にはいり高速道路をくぐる。途中に玄関と塀をベンガラで塗り込めた民家が目についた。見越しの赤松のために塀の一部を切りこんで低くしてある。そこにもしっかり瓦屋根を付けているのがほほえましい。

菊の紋章を付けた勅門の脇から境内に入る。手前の溝に「血の川」の立札がある。元弘3年(1333)この本堂前で自刃した六波羅探題北条仲時以下432名の血がこの溝を流れた。

無人の箱に入場料300円を入れて432名の墓に向かう。石段を上がっていくと左の山の斜面に大小の五輪塔が三段にわかれてぎっしりと立ち並んでいる。集団自決として白虎隊の比ではない。

本堂の裏手にまわると高さ30mの一向杉番場の忠太郎地蔵がある。「瞼の母」の主人公で架空の人物である。話の内容は知らない。五街道他の街道沿いにはヤクザを顕彰する碑が多々あり、実在人物と架空の人物が混在する。いずれも私には興味がない。

街道に戻り西番場に入る。家並みは番場宿よりも古く見える。実際、街道碑にあるように、西番場は中世時代東山道の宿駅であった。江戸時代になって米原湊が開設され、現在の県道240号の前身である米原道が開通すると、宿場機能は西から東の番場に移ってきた。但、古代東山道の駅家ではない。

東番場では見られなかった昭和時代の佇まいを見せる民家が残っている。ベンガラ、玄関わきに突き出た厠、おくどさん(竈)から出ている煙突、板壁、土壁等、故郷に帰ってきたような郷愁が漂う。

集落の出口に街道碑がある。ここから名神高速に沿って小摺針峠を越える。なだらかな坂で高速道路のトンネルの上を歩いて越えると彦根市である。


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鳥居本
 

峠を下り始めるところ右手に小さな祠があってそばに泰平水と彫られた水槽に山側から石樋が突き出している。水は流れていなかった。

誰も通らない道を野生が三匹横切っていった。それぞれ手に食べ物を持っている。山に入っていった後を通り過ぎるとあたりにはペットボトルや弁当容器が散乱していた。高速道路のドライバーが投げ捨てたものとしか思えない。


坂を下りきったところで三叉路に出て右に折れる。角に二基の道標がある。いずれも新しい。三面に「中山 鳥居本」、「摺針峠 彦根」、そして「番場 醒井」とある。右におれるのは摺針峠を経て北から鳥居本へ入り彦根へ出る道である。左に折れても鳥居本へ東から入れる。

坂を上りつつ峠下の集落へ入ってきたかと思うとそのままに出てしまった。家並みの中で峠を越える経験は少ない。峠の左の石段を上がったところに神明宮がある。鳥居前の琵琶湖を見下ろす絶景の場所に一軒の家が建つ。平成3年までこの場所に望湖堂という茶屋があった。彦根藩主が建てたもので本陣造りの立派な茶屋だった。

車道を下り始めると左に緑色の手摺を設けた山道がでている。「中山道」、「西国古道」と記した札が立ててある。中山道の旧道である。つづらに降りる車道を貫いて真っ直ぐに下る山道で、やっといつもの峠道を歩く気分になってきた。車道を横断するまでは手摺が必要なほど急な坂道だが、その後はなだらかな下り坂を道なりに降りていく。石橋あり、竹林あり、垂直にのびる杉木立ありの快適な道である。

疲れを感じることもなく里に下りてきた。下矢倉町といい、川縁に北国街道との追分道標が設置されている。右へいけば米原、長浜を経て北陸に至る。

左にいくのが中山道だがすぐに川に分断された。鎖をまたいでその先の橋をわたり国道にでる。すぐ左の旧道にもどったところで、「おいでやす」のモニュメントが出迎える。
高い三基の柱の頂には笈を背負った行商人、虚無僧、その間でキセルをふかして座っている小太りの男が居る。

町の入り口付近に数本の松が残っている。
松並木の名残である。道が右にカーブするあたりにかっては日無神社の鳥居が街道に跨って建っていた。鳥居本の宿名はそれに由来する。

集落にはいるや左手に虫籠窓に連子格子の古い
町屋がのこり、入口前に鳥居本宿の案内札が立てられている。その先には苔むした茅葺の家がのこされていて、「棒屋跡」の札があった。屋号に違いないが、何の棒だろう。天秤棒か荷車の柄か、真っ直ぐの木具なら何でもか。

左に直角に折れる角に駒寄せで囲まれた立派な門構えの旧家が建つ。明治天皇小休所の碑が立つこの家をてっきり本陣と思ったものだ。門に続く蔵造りの店は
赤玉神教丸で知られる有川薬局本舗である。創業は万治元年(1658)で、赤玉神教丸は万病に効くといわれ江戸時代には道中薬として評判が高く、東海道石部の「和中散」と人気を二分した。

ここで街道から離れて角の路地を直進し国道の北側にある
上品寺に寄った。鐘楼脇に「法海坊舊跡」の標石がある。法海坊は第七代住職了海で、荒廃した寺を再興しようと江戸市中を托鉢して回り、吉原の遊女らの帰依を受けて鐘を建立した。梵鐘には遊女の名前が多数刻まれている。法海坊は魅力的な坊主だったようだ。

国道向かいに土蔵の一群が見える。有川家の敷地内であろうか。

国道に面して近江鉄道鳥居本駅が建つ。腰折れ屋根を持つ素朴な洋風建築で、昭和6年(1931)開業当時のたたずまいを残している。

有川薬局本舗の角に戻って街道を歩きなおす。連子格子、土壁にうだつを上げる古い家などが宿場の面影を色濃く残して情緒ある家並みが続く。

右手に「道中合羽所」の木看板をぶらさげた
木綿屋がある。看板の形は合羽だと後で気づいた。鳥居本は道中合羽の製造販売で知られ最盛期には20軒を越える店があった。柿渋を使用し保温、防水に優れた道中合羽をこの宿で買い求める旅人が多かった。木綿屋は創業天保3年(1832)の老舗である。

その斜め向かいに少し奥まって一見場違いな洋風の家がある。ここが鳥居本宿の
寺村本陣跡である。寺村家は東山道の駅家を引き継ぐ小野宿でも本陣を勤めていた旧家で、宿場が鳥居本に移るに伴ってここに移転してきた。137坪の屋敷を構えていたが昭和12年(1937)に取り壊されヴォーリズの設計による和洋折衷の洋館に建て直された。門の扉だけが今も小屋の扉として残されている。

その南隣が高橋脇本陣兼問屋場で、木綿屋の南隣にあった沢山脇本陣ははやくに廃業した。

この辺りが宿場の中心をなしていて、高札場が丁字路角にあった。

左手に再び合羽の形をした黄色地の木看板を見つけた。今度は屋根付き看板で一階屋根に取り付けられた立派なものである。一面に
「包紙紐荷造材料 松本宇之助」、他面に「松本商店」と書かれている。看板の姿は45年前と同じであったが、当時は「縄莚(なわむしろ)荷造材料」と書かれていた。もとは合羽所であったが、後に荷造り材料を作る店にかわった。しかも荷造り材料は「縄筵」から「包紙紐」にかわるなど、時代の変遷がみられて興味深い。

宿場の終わるあたり、丁字路角に「左中山道 右彦根道」と刻まれた道標が立つ。右に出ている道は朝鮮人街道と呼ばれ、鳥居本から彦根、安土を通り野洲で中山道に合流するまでの約10里の迂回道が琵琶湖寄りに造られた。朝鮮からの慶賀使節団である朝鮮通信使は城下や水郷を通る風光に富むこの街道を歩いていった。

道は鳥居本の町を抜け、のどかな田畑の中を進んで小野町に入る。草地が広がるなかに
「ここは小野町 古宿」と記された標識があった。小野町は街道の左側に疎水が流れる静かな集落である。ここは鳥居本が中山道の宿場になる以前の宿場であった。いわゆる古代東山道の駅家は鳥籠と考えられており、小野はその後中世から近世にかけて整備された宿場の一つであろう。鳥居本宿本陣の寺村家はこの町の出身である。

集落をぬけると
小町塚とよばれる祠がある。祀られているのは阿弥陀如来坐像が彫られた石仏であるが、この地に伝わる小町伝説にかけて小町地蔵として親しまれている。説明版には小町のことと共にこの地が東山道の駅家(うまや)であったことに力点が置かれていた。『十六夜日記』には阿仏尼が京都から鎌倉へ向かう途中、小野宿に宿泊したとある。もうすこし先の鳥籠駅との関係は今後の宿題としておこう。

新幹線のガードをくぐった先にも草地に
「十所谷(とどころたに) 往時の宿場」と記された標識がある。先に見た「ここは小野町 古宿」とセットになっているようだ。ただしここは原町で小野町と鳥籠山とのほぼ中間にあたる。鳥籠駅家の広域概念としてこの地に比定することは可能であろう。

左手に「俳人五老井 森川許六」の道標がある。芭蕉の高弟であった彦根藩士
許六が居住した場所である。許六は本名森川百仲といい彦根藩士、通称は五助という。桃隣の紹介で元禄5年8月に芭蕉の門を叩いた。芭蕉最晩年の弟子でありながら「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。許六の名は彼が六芸全てに優れていたということで芭蕉が命名したと言われている。許六はまた狩野派の画技に通じ、「柴門の辞」にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。彦根藩の菩提寺である竜潭寺方丈の襖絵を残している。両人は師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたようである。

その先、原八幡神社の境内に
「昼寝塚」と「白髪塚」の二つの石碑がある。双方とも磨耗が激しくて読めない。右側が「昼寝塚」だそうで、芭蕉の句「ひるかほにひるねせうものとこのやま」が刻まれている。休息する床と鳥籠山(とこのやま)をかけている。隣の「白髪塚」には「恥ながら残す白髪の秋の風」と刻まれ、陸奥の俳人祇川居士の句である。

名神高速道彦根IC導入路手前の丁字路角に天保15年(1844)銘の
「天寧寺 五百らかん 七丁餘」と大きく刻まれた道標がある。

国道306号正法寺町信号手前左手に
多賀道常夜燈と道標群がある。常夜燈は多賀大社東参詣近道のしるべとして慶応3年(1867)に建立された。ここから国道306号を東に1里余りたどると多賀大社に至る。

中山道はここより県道528号となる。
芹川に架かる大堀橋手前左手にこんもりとした
鞍掛山(大堀山)が見えてくる。橋を渡った右手にも雑木林の高み(亀甲山)がある。万葉の歌枕鳥籠山はこのいずれかではないかと考えられているが定説はない。大堀山は鞍掛山の別名で同じ鳥籠(床)山だとする説もある。単に歌枕の地であるばかりでなく、古代東山道の鳥籠駅家の比定地としても鳥籠の地のシンボルである鳥籠(床)山の在り処は重要である。

  近江路の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のこの頃は 恋ひつつもあらむ  (万)斉明天皇
  犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名のらすな   (万) ―
  あだに散る 露の枕に ふし侘びて 鶉鳴くなり 床の山風       (新古今)俊成卿女


不知哉川(いさやがわ)は芹川の古名。

橋を渡った道路際に石柱が立ち、正面に「中山道旧跡 床の山」、右側面には「鳥籠山につきましては往々異説がありますが旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立しました」とあり、左側面は芭蕉の昼寝塚にあった「ひるかほにひるねせうものとこのやま」の句が刻まれていた。

すぐ先丁字路角に「是より多賀みち」の道標が立っている。県道544号に合流し芹川左岸を遡上して多賀大社に至る。

街道の右手は
石清水神社である。石段の途中右手に「扇塚」がある。井伊藩の手厚い保護を受けた能楽喜多流(北流)の9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち享和元年(1801)彦根を去り江戸に帰るとき、門人たちの所望に応じて記念に「面と扇」をあたえた。その面影を残すために、門人たちはこの地に古能愛用の能面と扇を埋めて塚を建てた。面塚はなくなって扇塚だけが残っている。

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高宮 

近江鉄道踏み切りの手前に高宮宿の北出入り口を示す標柱と竿の高い常夜燈が立つ。

踏切を越え県道224号との交差点角に大北地蔵が祀られている。眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身といわれているこの地蔵は彩色木彫りのめずらしいものである。

高宮宿場街にはいってくる。土壁のうだつをあげた古い家並みが残る高宮宿は宿駅制定以前より多賀神社への門前町として栄えていた。この地の特産品である麻布は「近江上布」と称され、室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていた。

その仲買問屋であった
布惣(布屋堤惣平)跡が高宮神社の向かいに残っている。黒壁に切られた虫籠窓が目を引く重厚な町屋は当時7棟の蔵を持ち、それらを一杯に満たす量の麻布を年12回も回転させたという。高宮の経済力を象徴する存在である。今も裏に当時の蔵が5棟残り、建物は「座・楽庵」として再利用されている。

右手鳥居をくぐり長い参道を進んで
高宮神社による。創建は鎌倉末期と推定されている。本殿は延宝6年(1678)の建立、古くは山王権現と称し日吉社領に起因するものであったが、明治5年に村名により高宮神社と改称された。

新之木川を越える。用水のような細い流れの両際に土壁と船板塀の民家が接近して建ち、情緒ある風景を呈していた。

右手の
馬場提灯屋が看板代わりに「中山道 高宮宿」と書いた大きな提灯を吊っている他、出窓にもいまどき祭りにしか使われないような大小の提灯が展示されている。ポスターのひこにゃんも一役買っているようだ。ちなみに馬場家は高宮きっての豪商であった。本家がどうなったのかしらないが、ここはその分家かもしれない。

信号交差点の東側に
多賀大社一の鳥居が堂々と建ち、その脇に高さ6mの大きな常夜燈と道標、句碑などがある。鳥居は高さ11m、柱間8mの花崗岩製である。約3kmの表参道は多賀道とも呼ばれた。寛永8年(1631)将軍秀忠の病気平癒祈願のため、春日局の代参が行なわれた折、彦根藩がこの道の整備を行った。

多賀大社は古事記にもある古社で、伊勢神宮の祭神天照大神の両親伊耶那岐大神(いざなきのおおかみ)と伊耶那美大神(いざなみのおおかみ)を祀ることから「お伊勢参らばお多賀へまいれお伊勢お多賀の子でござる」と歌われている。春日局が多賀大社と伊勢神宮に詣でた際、両社を結ぶ近道として整備されたのが御代参街道で、五個荘で中山道から分岐して八日市、日野の蒲生野を駆け抜けて東海道土山宿に出ている。

道標には「是より多賀道三十町」、句碑は芭蕉の門人で大津の医者であった尚白の句で「みちばたに多賀の鳥居の寒さかな 尚白」と刻まれている。

右手に駒寄せを巡らせ二階は虫籠窓の黒壁、一階は繊細な連子格子を備えた町屋が建ち、前に「俳聖芭蕉翁旧跡 
紙子塚」の石碑がある。小林家住宅である。何を営んでいた商家であったかわからないが、高宮宿の有力商人であったにちがいない。貞享元年(1684)芭蕉は彦根の門人季由を訪ねた折に、当地の円照寺(住職は慈雲)に滞在した。

李由とは彦根市平田の浄土宗光明遍照寺(明照寺)の住職河野通賢で、蕉門入門のため、元禄4年(1691)5月に京都嵯峨野の落柿舎で「嵯峨日記」を執筆中の芭蕉を訪ねた。芭蕉は同じ年の10月、江戸への帰途の途中に明照寺に立ち寄っている。

芭蕉の滞在中、寺に来客があり慈雲は芭蕉の接待を小林猪兵衛忠淳に頼んだ。忠淳は芭蕉を単なる旅の僧と思い古い紙子(紙で作った寝巻のような着物)を用意した。

芭蕉はその夜、寒さに耐え横になる自分の姿を
「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。翌日慈雲から客は芭蕉だと聞かされ忠淳は大変恐縮し早速新しい紙子を贈り、その古い紙子を壷に入れて庭に埋めた。芭蕉の没後、忠淳は碑を建てて紙子塚と名づけたという。

どこまでが史実か知らないが芭蕉が高宮に宿泊したことは信じておきたい。ただ、芭蕉が李由を弟子にする7年前に、すでに泊まりにいくほど親しかったかについては疑問が残る。高宮宿泊の年が貞享元年(1684)であるなら、それは野ざらし紀行の旅の途次であったわけで、他になにか記録が残っていてもよさそうに思えるのだが。

旅を急ごう。

右手、ふれあいの館が問屋場を兼ねていた脇本陣跡である。街灯柱に
「ふれあいの館 脇本陣跡」と書かれた表札が掛けられている。建物自体は新しく、残念ながらシャッターが降りていて木曽街道浮世絵を見るだけに終わった。これが小林家なのか塩谷家なのか知らない。このあたりが高札場でもあった。

その先左手の表門が遺存されている建物は
小林本陣跡である。本陣は小林太左衛門家が勤め、幕末には小林嘉十郎家が勤めた。門と白壁の塀が面影を残しているが45年前の写真と見比べると、瓦も壁も新しいものに変わっているようだ。

右手に、明応7年(1498)建立の
円照寺がある。山門に「明治天皇行在聖跡」と刻まれた石柱が立っている。本堂前に玉垣に囲われて、家康が大阪の陣遠征途上に腰掛けたといわれる石があった。

高宮宿を出て、犬上川にかかる高宮橋を渡る。橋袂に
「むちんばし」と刻まれた石柱が立つ。天保のはじめ、彦根藩はこの地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに資金を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれた。藤野は橋向こう、豊郷の富豪、小林と馬場は高宮の豪商である。本陣の小林家、馬場提灯店の馬場家に通じる家柄であろう。

街道は法士(ほうぜ)町を経て葛籠(つづら)町に入る。 まばらながら松並木が残っている。鳥居本の松並木よりも長い。葛籠集落の家々は白壁が美しく、船板塀も見受けられてしっとりとした町並みである。

集落を抜けると鳥居本宿手前にあったものと対をなすモニュメントが「またおいでやす」(come back again)と別れを告げる。中央には小太りの男に代わって杖を手にした粋な旅の女性が立っている。

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豊郷 

道は彦根市から犬上郡豊郷町に入る。古代からこの土地を犬上君とよばれる豪族が支配していた。なかでも犬上御田鍬は、614年に遣隋使として、また630年には遣唐使として派遣された有能者であったという。

四十九院信号交差点から県道542号に乗る。四十九院という地名は僧行基がこの地に天四十九の寺院を建立したことに由来する。 この交差点から西に1kmほど離れた所に阿自岐神社がある。日本国の創世期応神天皇(270−310)の時代に、百済から渡って来た阿自岐氏がこの安食(あんじき)の郷に定着したという。ここに限らずこの時期朝鮮半島から多数の知識人、技術者集団が畿内に渡来してきた。


豊郷小学校は昭和12年に、丸紅の番頭だった古川鉄治郎の寄付によってボーリズが東洋一といわれた鉄筋コンクリートの校舎を建てたものである。新校舎の建設にあたり、取壊し派と保存派の対立は町長のリコール問題にまで発展した。かってはまぶしいような白亜の建物であったろう校舎も今は薄汚れをみせて、両翼を地上に休める老鳥をおもわせる寂しさを漂わせていた。

街道をへだてた田んぼのそばに弓矢を天に向けたモニュメントをみつけた。
「やりこの郷」と書いた看板が興味をそそる。昔干ばつに苦しんだ農民が、阿自岐神社に祈願したところ「安食南にある大木から矢をはなてば、矢の落ちたるところから水がわく」とのお告げがあり、その通り矢を放ち地面にささった矢を抜くと清水が湧き出した。この矢を射た大木を「矢射り木」と言い、なまって「やりこ」となった。 あじきといい、やりこといい、古代の響きが伝わってくることばである。

集落の家並みにはいるとバス停の場所に
「一里塚の郷」の石標がたっている。もう少し先の交差点あたりに一里塚があったらしい。豊郷は中山道にあって、高宮宿と愛知川宿の間の宿だった。背後に見えるそれらしき盛土は演出だろう。そばにあるのは延応元年(1239)、京都の男山八幡宮から勧請したという八幡神社である。境内は那須与一の次男・石畠民武大輔宗信が築いた那須城の跡地であるらしい。

静かなたたずまいの町並みを歩いていくと、豊郷を代表する近江商人伊藤家関係の史跡がつづいて登場する。まず初代丸紅社長となった第7代
伊藤長兵衛家屋敷跡と彫られた顕彰碑が豊郷病院の駐車場の石垣台に建っている。昭和元年(1925年)、彼は多額の資金と敷地を寄付して「豊郷病院」を創設した。鉄筋コンクリート造りで左右対称な両翼をもつ箱型建物は、その11年後に同社専務が建てた豊郷小学校の建物を小ぶりにしたよう相似形になっていて、親子と思うほど似ている。

次に見えるのが黒塀に見越しの松を配した
伊藤忠兵衛の生家である。塀の内側には白壁土蔵が垣間見える。屋敷自体は切妻屋根で豪商の実家としては簡素なたたずまいだ。ここに生まれた2代目伊藤忠兵衛は初代伊藤忠商事社長に就任した。初代伊藤忠兵衛は6代伊藤長兵衛の弟で、伊藤長兵衛家の分家にあたる。

その先右手に「又十屋敷」の大きな看板が見えてくる。屋敷の前に一里塚跡の石柱が置かれている。ここにもう一人の近江商人が住んでいた。名は
藤野喜兵衛、屋号を又十という。藤野喜兵衛は、江戸時代から明治時代にかけて、蝦夷に渡り根室を中心とする道東・千島の漁場を開拓して財をなした。藤野家は昭和の初めに北海道に移住し、残された屋敷が「会豊館」として維持されている。休館日に拘わらず、前庭を掃除していた管理人のおじさんが館内を案内してくれた。晩年の藤野氏は彦根藩主井伊直弼と懇意にしており、直弼は藤野邸に宿泊している。玄関をあがると正面に、直弼から拝領したという鎧が飾ってあった。裏には「松前庭園」とよばれている立派な庭がある。この屋敷は天保飢饉のとき窮民救済の一策として二代目四郎兵衛が建てたもので「飢饉普請」といわれるものである。自分の屋敷のほかに、近くの日吉山千樹寺の改築も行った。また犬上川に「むちん橋」を架けた発起人のひとりでもある。

千樹寺の参道入口に「江州音頭発祥の地」という石碑が建っている。じつはちょうど40年に中山道を歩いたときにこの場所に立っており、はがれた土蔵と舗装工事中の参道の写真が残っていた。江州音頭の起源は天正14年(1586)に遡る。観音堂再建を祝う余興に、地元の老若男女が経文の二、三句を節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて円陣を作り躍ったのがはじまりと伝えられる。弘化3年にも火災にあって、このとき
藤野四郎兵衛は飢餓普請として観音堂を改築した。

道は宇曽川にかかり歌詰橋を渡って愛知川宿に向かう。

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愛知川
 

川をわたって堤防を右に入ったところの案内板に、「宇曽川」と「歌詰橋」という二つの一風変わった名前の由来が書かれている。「宇曽」は舟運の「運槽」から来たといい、「歌詰」は平将門伝説からきていて、藤原秀郷を追っかけてきた将門の首が、秀郷に歌一首を問われ、歌に詰まった将門の首は橋上に落ちたという。怨念の出会いでも形に雅をわすれない日本という美しい国の伝説だ。

まもなく、街道をすこし東にはずれたところに
「山塚古墳」がある。「将門塚」とも呼ばれているようで、歌に詰まって恥をかいた将門の首塚かもしれない。発掘調査はしていないが、掘れば貴重な副葬品がでてくるだろう、とのんびりしたものだ。絵本からぬき出てきたようなかわいい萱葺きの農家が道をへだてて建っている。周囲の瓦葺家屋がなければ古代住居の復元かとも錯覚しそうな、古墳の隣家にふさわしい佇まいであった。

愛知川宿にはいる手前は
沓掛地区で、ここは五個荘小幡、八日市保内、蒲生石塔とともに四本商人とよばれた中世近江商人の拠点であった。四本商人は八風・千草両街道を通って鈴鹿山脈を越え伊勢と通商していたため、山越商人ともよばれている。

沓掛信号の先の二股を右にとって中宿にはいり、木戸を模ったアーチの下を通っていくと左の角地に広大な敷地を板塀でめぐらせた屋敷が見えてくる。
「近江商人亭」という料亭だが、東京日本橋に本社をかまえる婦人服卸商社、「田源」の創始者田中源治の本宅である。

境川という小さな水路際に地蔵堂があり「愛知川宿北入口」と書かれた新しい石標がある。この川が神崎郡と愛知郡の境目で、地蔵は
郡分(こうりわけ)地蔵と呼ばれている。川に沿って小さな石仏が並んでいる。

通りはいよいよ町の中心にはいってきたようだ。交差点に
ポケットパークがあり、「高宮宿2里、武佐宿2里半」と刻んだ道標と、歌川広重の木曽街道にある「恵智川」「むちんはし」の絵が記念碑に描かれている。愛知川宿は、愛知川の渡し場として設けられた東山道時代からの宿駅で、江戸時代に中山道の66番目の宿場町として整備された。

八幡神社あたりが宿場の中心地だったのだろう。参道入口の常夜燈の脇に、高札場跡の石標があるほか、付近に脇本陣、問屋があった跡をしめす標石柱が建ててある。いずれも最近整備されたようで新しいものだ。

洋館の日本生命の建物が
本陣跡だ。本陣は弘世(ひろせ)家が勤めた。初代助三郎は享保年間弘世市左衛家より分かれて彦根で酒造りを業とした。6代助市は酒造りの傍ら仙台から九州にいたって行商する。養子7代助三郎も養父に従って行商し、商才を発揮。維新後、近江地方の学校建設、国立銀行(第34銀行、第133銀行)・鉄道(関西鉄道、大阪鉄道)の創業に活躍、さらに日本生命保険会社を設立した。

歩をすすめていくと旅籠然とした建物があらわれた。屋根つき提灯には堂々とした墨字で「恵智川宿 旅籠竹の子屋平八」と書かれている。宝暦8年(1758)創業の元旅籠「竹の子屋」である。明治天皇が気に入って二度も立ち寄った。記念の明治天皇御聖蹟碑が立つ。4代目平八のとき「鯉のあめ煮」でしられる料理旅館として
「竹平(たけへい)楼」に改称、現在7代目に受け継がれている。

街道はこの先で不飲川(のまずがわ)をわたり南口をでて国道に合流する。不飲川も将門伝説と関係があるらしく、川の水を飲まないのはなんでも水源の池で首を洗ったためといわれている。

国道8号との合流点に一里塚跡碑がたっている。

国道をしばらくすすむと愛知川に架かる御幸橋に着く。「無賃橋」といわれた昔の木橋は少し上流、近江鉄道の鉄橋あたりに架かっていた。高宮宿の南、犬上川に架かる橋も「むちん橋」といわれており、地元有力者による出資で建設された無料の橋につけられる愛称のようだ。

「御幸橋」は明治11年天皇巡幸にあたり車馬が通れるように架け替えられたのを記念して名付けられた。橋の袂に弘化3年(1846)建立の大きな常夜灯が建っている。対岸、五個荘小幡の堤防にも常夜灯があり、それらを結んで「無賃橋」があった。


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五個荘は中山道に沿ってあり、愛知川を挟んで愛知川宿と対峙している。正式な宿場ではないが、増水で川を渡れないときは旅人に宿を貸す旅籠もあったであろう。

御幸橋をわたったところを土手沿いに左に折れると、文政8年(1825)の大きな常夜燈のふもとから中山道の旧道が南にのび、すぐ先で八日市・日野・土山に至る
御代参街道の旧道が左に分岐している。

このあたりが五個荘小幡で、近江商人の発祥の地ともいうべき場所である。また小幡人形の産地としても知られる。小幡人形は伏見人形を源とする土人形で、当地では『小幡でこ』と呼ばれて3百年の伝統を誇っている。最盛期には数軒あったといわれる窯元は現在9代
細居源吾家一軒のみとなった。その細居家がすぐ右手にあった。外観は普通の民家でショーウインドウに人形が飾ってなかったら見過ごしてしまうところだった。見学は受け付けていないようである。

近江鉄道踏切をわたり、ほどなく変則四差路に差し掛かる。左におれると五箇荘駅、左斜めにで出ているのが新しい
御代参街道である。角に「左 いせ ひの 八日市 みち」「右 京みち」と太く刻まれた道標が立っている。中山道はそこを直進し、次の二股を右に取る。角地がポケットパークになっていて、「太神宮」「村中安全」と刻まれたまだ新しい常夜燈が建っていた。

街道は市役所支所の前に出て左折していくが、ここで街道から離れて五個荘商人の里を散策することにした。常時公開されている4家の本宅を巡る。

まず小幡から一番近い距離に
藤井彦四郎邸がある。広い前庭の片隅に天秤棒をかつぐ近江商人像が立っていた。藤井彦四郎 ( 1876〜1956)は明治35年(1902)に兄4代目善助と呉服・太物を商う藤井西陣店を開く。同40年に絹糸や人造絹糸を扱う藤井糸店となり、兄が政界に出たため社長となる。不況期も「現状維持は退歩なり」をモットーに経営し、五光商会・共同毛糸紡績などの会社をおこし、中国にも進出した。

中山道からさらに西南方向にはなれて、舟板塀と白壁をめぐらした土蔵屋敷がつらなる
金堂地区がある。重要伝統的建造物群保存地区という肩書きをもつ町並みには鯉をはなした水流にそって商人の本宅が深閑と並ぶ。土産物屋ひとつなく、路地は掃いて清めたように清潔であった。

その一画に三軒の商家が集まって公開されている。私小説家
外村繁邸とその本家外村宇兵衛邸、そして昭和初期朝鮮にて三中井百貨店を経営し中江準五郎の本宅である。

外村家は代々篤農家だったが、五代目興左衛門( 外与 1682〜1765)は農業だけでは一家の繁栄はないと考え、19歳の時から持ち下り商いを始め農間期に近江麻布を姫路・大坂・堺などに行商した。試行を重ね荷物の運送に馬や飛脚を利用する大型行商に取組んだ。

元禄13年(1700)に大和郡山に出店し
、桐生、足利にも進出。大和郡山藩より、苗字帯刀を許され外村与左衛門と名乗る。後の総合繊維商社外与の創業祖となった。外村一族からは外村宇兵衛家(外宇)・外村市郎兵衛(外市)・外宗など多くの商家が生まれている。昭和期作家外村繁家は外村宇兵衛家の分家である。
どこの家にも奥座敷に古雛と、小幡人形が飾ってあった。

金堂から川並に足を伸ばす。ここ
に塚本定右衛門 ( 紅屋 )の生家がある。初代塚本定右衛門は、「小町紅」をもって東日本への行商を始めた。甲府を行商の中心地に選び、文化9年(1812)には小間物問屋を開き「かせがずにぶらぶらしてはなりませぬ、一文銭もたのむ身なれば」の短冊を風鈴にして商売に励んだといわれている。二代目定右衛門は嘉永4年(1851)26歳で家督を継ぎ、営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」へ転換。明治5年(1872)に東京日本橋に出店し、繊維商社ツカモト株式会社の基礎を築いた。ツカモトは父の勤めていた会社である。2代目塚本定右衛門が死んだ1905年(明治38年)の3年後、10歳だった父は丁稚として日本橋へ上京した。居宅は聚心庵として年一回秋分の日に公開されている。同サイトの動画は優れものである。

現代の近江商人、
ワコールの塚本幸一も川並の出身である。生まれは仙台であるが両親とも滋賀県の出身という生粋の近江商人の家庭に育った。近江八幡商業学校を卒業、戦後の1946年、ビルマの激戦地から復員して個人で和江商事を創業、装身具などの行商を始めた。1949年、和江商事株式会社を設立し1957年、ワコール株式会社となる。1967年、本社を京都市に移転。その後アジア各地や米国に進出、女性下着のトップブランドを確立し世界で有数の女性下着メーカーとなる。豊かになった日本が20世紀の後半を迎えるにあたり、繊細で美しい日本人女性の下着に期待した彼のロマンと先見の明は鋭かったといわざるをえない。

ワコールは「乳房文化研究会」の事務局を勤める。決していかがわしいものではない。その証に、「乳房」を「ちぶさ」とは読まずに「にゅうぼう」と読ませる。―私は美学的にも情緒的にも訓読みのほうが好きだが―。 医者や研究者が主なメンバーで、乳房を医学、美学、比較文化学、歴史学、心理学等の角度から学際的に研究しようとするユニークな団体である。過去の研究発表テーマを一覧したが、なかなか楽しいものであった。ミロのビーナスを見るにつけ、乳房ほど気高く美しく魅惑的な部分はない。なぜそう感じるのかわからないところが魅力的なのだ。

余談が過ぎた。中山道にもどる。

茅葺屋根を覆ったトタンが赤さびている民家の軒先に
「野々村洋服店」の文字が読み取れる。自転車の後ろにバッタリ床几を見つけた。昔の繁栄が偲ばれる。

茅葺屋根がのこる家並みを歩いていくと左手のポケットパークに大きな「中山道分間延絵図」が展示された看板がある。

その先右手の洋館は旧郵便局、その向かいに大きな釣鐘を門前に置いた
西沢梵鐘鋳造所がある。門の中には出荷を待つ二個の梵鐘が青いシーツで覆われて置かれていた。他では絶えてしまった江戸時代以来の伝統的手法を守っているという。鐘の位置は45年前の写真と変わりないが、塀は礎石ともに改築されていた。

信号交差点の先左手に「明治天皇北町御小休所」の碑が立つ。向かいは
市田太郎兵衛宅で内門脇に「明治天皇御聖蹟」の碑があった。明治11年北陸東海巡幸の際その往還に天皇が休息した場所で、二つの碑は同じことを言っているのであろう。

すぐ先に「萬松園」の表札がかかる白壁土蔵を持った京風町屋がある。呉服商の
市田庄兵衛宅で、市田太郎兵衛家の分家であった。現在の市田株式会社の祖である市田弥一郎(1843〜1906)は、彦根の紙・荒物商に生まれ、市田弥惣右衛門の養嗣子になった。東海道に荒物・呉服類を行商し明治7年(1874)、東京日本橋に京呉服卸問屋を開店したのが市田株式会社の母体である。晩年は、京都南禅寺に市田對龍山荘を営み、風月や芸術を愛したという。市田庄兵衛・市田太郎兵衛と市田弥一郎の関係はどういうものか、知りたいところである。

右手に美しい入母屋藁葺屋根の旧家が建っている。
「ういろうや」といい、ういろうを売っていた。脇には「金毘羅大権現」と刻まれたすんなりとした常夜燈が立つ。

その先左手には水路を石橋が跨いでやはり立派な茅葺屋根の屋敷がある。造りがいくらか複雑で大きい。今も
「片山半兵衛」の表札が掛かっている。江戸初期の麻布問屋で、大名・公家が休息したという立場本陣のような格式ある家柄だった。郵便受け、ミルク受けがあるところをみると今も人が住んでいるようである。

五箇荘は実に多くの茅葺家屋を残している町である。宿場でもないのにずいぶんと時間をかけてしまった。近江商人という個人的興味を優先させたせいもある。

道が国道に合流する地点に道中合羽に笠をかぶり、天秤棒を担いだ近江商人像が見送ってくれた。

旧街道は国道で分断され、国道の反対側に旧道が続いている。山裾の集落清水鼻地区に入ったところ左手の民家の入口に「左 えちがわ」「中山道 六十八番宿跡」「右 むさ」と三面に刻んだ道標があった。正面の「六十八番宿跡」意味がよくわからない。中山道69次の68番目は草津宿である。刻字も新しく見えて、個人の建てたものだろう。

右手に湖東三名水の一つ、
清水鼻の名水が今も絶え間なく流れ出ている。清水鼻は南の篠原、北の鳥籠の間に設けられた古代東山道の駅家(うまや)であった。古い記録に神崎郡には高屋・神崎・神主・垣見・小社・小幡・馬家の七郷があったとされる。その馬家郷がここ清水鼻を中心とする地域であった。交通の要衝にふさわしい清水が旅人の疲れを癒した。

山際に建つ
竹格子の民家をみながら東近江市五箇荘から近江八幡市安土町に入る。かっての神崎郡・蒲生郡の郡境である。


(2013年5月)

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