矢橋道 



草津−矢橋

いこいの広場
日本紀行



矢橋道は、草津宿の東海道と中山道の合流点から南西に1km余り行ったところで東海道と分かれて、琵琶湖畔矢橋の渡に至る25町(約2.7km)の道である。矢橋から大津、石橋の渡までの湖上をあわせ、瀬田の唐橋経由の陸路に比べて2里ほどの短縮となった。「瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟に乗ろ」と、気の短い旅人は渡し舟を選んだ。その一方で、琵琶湖の船旅は比叡山から吹き下ろす突風(比叡おろし)で危険を伴った。室町時代の連歌師宗長は「武士(もののふ)の矢橋の舟は早くとも 急がば回れ瀬田の長橋」と警告している。それで皆は「瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅と餅を食いながらリスクとリターンを吟味した。



矢橋道の分岐点は広重の浮世絵にも描かれている。草津名物の姥が餅屋の角には寛政10年(1798)銘の立派な道標が建ち、「右やはせ道、これより廿五丁 大津へ船わ多し」と刻まれている。姥が餅屋は引っ越したが道標は今も健在であった。

路地をはいっていくと左手に
三体の石仏が並んだ小祠がある。その先三差路を直進するとJR線路で旧道は分断されている。通り過ごした三差路まで戻り、北に迂回して琵琶湖線のガードをくぐると森の中に若宮八満宮があり、「矢倉村と若宮八幡宮」と題した説明板が立っている。若宮八満宮の祭神、応神天皇が東国巡按の時、この地に兵庫を建て兵器を蔵したことから名づけられた兵庫村が矢倉村の前身であるという。

線路に沿った路地を南に進むと道は線路から離れて右に曲がっていく。そこが遮断された旧道の復活地点である。すぐ左手に正北向延命地蔵の小堂をみて道なりに進んでいくと新興住宅街の中に土蔵をもった農家があり、しだいに旧街道を歩いている気分になってきた。


犬矢来を設けた家が見られ街道の雰囲気がよくなってくる。その先右手に長屋門が現れ
「正光寺」の石柱と「矢橋道」の大きな案内板が立つ。ここの現地名は西矢倉3丁目であるが旧名は大塚のようだ。門をくぐると天満宮の石鳥居と社殿があるだけで、寺らしき建物が見当たらなかった。

光泉中・高校の前を通り橋を渡る。西方には黒い雲がかかった比叡山が望める。橋を渡ったすぐ左手に猿田彦神社がある。正光寺の案内板にあったようにここの旧地名は
川ノ下という。ここも虫篭窓の家が残る落ち着いた家並みである。

矢橋道は二股を右にとり左にとって県道18号を横断する。すぐに右折して水路沿いに西に向かうと矢橋中央交差点で県道42号に出る。交差点を直進しすぐ先で左斜めに入って行く道が旧道である。ここから終点矢橋渡し跡まで、旧街道が一筋に延びている。

右手に鞭崎神社御旅所がある。

まもなく丁字路角に三基の石柱が建っている。一番高い道標には
「これより山田あしうら道」、他の道標には「是よりあなむら道」とあるのが認められた。山田は矢橋の北にある山田町を指し、町内を流れる山寺河口に古くから湊があった。明治にはいって山田港と浜大津間に定期船(後の琵琶湖汽船)が運航され、湖上交通の主役は矢橋から山田に移った。

山田町からさらに北へいくと
穴村町、湖畔の志那町、守山宿の西方には芦浦観音寺で知られる葦浦町がある。いずれも中世から開けた集落であった。

沿道には格子造りや紅殻塗りの家並が見られ旧道筋の趣を残している。その一角、谷商店の庭に
「十王堂跡(梅川終焉の地)」と書かれた案内札が掛かっていた。添えられた地図にある十王堂跡がどこなのか、わからない。店の女主人に聞いてみると、その庭が十王堂跡だという。フェンスの鍵を開けて庭の中へ案内された。古木らしい梅の木が植えられている。小さな祠があった。

梅川とは現在の大阪市西区新町にあった遊郭槌屋の遊女。大和新口(にのくち)村(現橿原市新口町)の清八が大坂淡路町に養子に出て飛脚問屋亀屋忠兵衛を名乗る。宝永6年(1709)忠兵衛は客の為替金三百両の封を切り、この金子で遊女梅川を身請けした。罪を犯した二人は逃げ延びる途中に捕えられ、梅川は翌年に釈放。一方の忠兵衛は大坂千日前の刑場で露と消えた。梅川は矢橋の十王堂で忠兵衛の菩提を弔いつつ60余年の懺悔の日々をおくり清淨寺に葬られた。近松門左衛門はこれを題材に
『冥途の飛脚』を書いた。梅川がなぜ大坂から離れたこの矢橋で余生を送ることになったのかは知らない。

谷商店の向かいが
鞭崎神社である。天武天皇の命により壬申の乱から4年後の白鳳4年(676)に創建された。建久元年(1190)源頼朝が初めて上洛したとき当地を通過、矢橋浦にあった神社を馬上より鞭の嵜(さき)で指し尋ねたところ、村民が八幡宮であると応答したので、源頼朝は下馬し参拝した。以来、鞭嵜八幡宮というようになった。
表門は明治4年、膳所城南大門を移築したもので、国の重要文化財に指定されている。

浜街道(県道26号)との交差点角に、湖帆の郷のモニュメントが建ち、そばに設置された標識には、左手に梅川の菩提寺(清浄寺)、右手に梅川終焉の地(旧十王堂)と指している。青浄寺は交差点から一つ目の狭い路地(入口に飛び出し注意の子供の絵看板が出ている)を右に入った左手にある。境内に
梅川「梅室妙覚信女」の墓があった。安永元年(1772)、享年八十三歳。 

街道は矢橋集落の西端につきあたる。ここにも鞭崎神社御旅所の祠がある。その左脇をすすむと
矢橋港跡に着く。埋め立てられた港跡は矢橋公園として整備され、石積の突堤が復元されている。

右手石垣の上には
弘化3年(1846)の常夜燈が立っている。小型灯台のようにスリムな常夜燈である。

公園内には
「菜の花や みな出はらひし 矢走舟」という蕪村の句碑があった。説明文では菜の花の黄色と帆の白さと湖の青さを対比させ、遠方の比叡山を含めた春ののどかな港の風景に見立てている。芭蕉の句を思い出した。「行く春を近江の人と惜しみける」

矢橋公園の出口には矢橋帰帆の浮世絵と詳しい解説文を載せた案内板が立っている。広重の絵らしいがはじめて見る絵だ。

公園から湖畔道路を隔てて琵琶湖に出た。数隻の釣り船が繋留している。二人を乗せた一隻がゆったりと帰ってきた。まだ船泊りとしては機能しているようである。すぐ先に人工島(矢橋帰帆島)が造成され、西に向かっては見晴らしがさえぎられて、往時ののびやかな矢橋港沖の景観は失なわれてしまった。

(2010年3月)
トップへ