西近江路−1 



大津下坂本衣川(堅田)和邇木戸(志賀)北小松
いこいの広場
日本紀行

西近江路−2

西近江路−3


司馬遼太郎が『街道をゆく』シリーズの最初に選んだ道が「湖西のみち」だった。みずから「この国が好きである」という近江の、琵琶湖西岸を旅したのは昭和45年(1970)、粉雪舞う12月のことである。大津から湖岸沿いに安曇川町まで北上し、そこから西に移動して朽木の興聖寺を訪ねた。「日本紀行」的に言えば西近江路を安曇川町までたどり、そこから鯖街道(彼のいう朽木街道)へ移ったことになる。湖西は近江の中でも鄙びた地域である。彼が北小松でみた「軒は低く、紅殻格子が古び、厠のとびらまで紅殻が塗られて」いる民家が40年近く経った今もまだどこかに残っているような気がしてならない。

「北国海道」ともよばれる西近江路の原形は古代七道の一つである北陸道にある。平安時代に現在の逢坂に関所が設けられる以前、最初の関所は小関峠にあった。古道の東山道、東海道、北陸道はともに小関峠を越え、大津に入ったところで東にむかう東山道・東海道と北に向かう北陸道の二手に分れていた。近代の東海道で京都三条から山科に向かい、京阪四ノ宮駅付近に古代の小関越えの道が北に出ていた。その後現在の地に関所がおかれるようになったころには東山道・東海道は逢坂峠をこえて大津にはいり、他方北陸道は四ノ宮駅からすこし東にいったところ(横木1丁目)で北に分れていた。今その三叉路には「小関越」・「三井寺観音道」と刻まれた道標が建っている。東海道が逢坂越えになったのちも小関越えの道はよく利用されていたようで、芭蕉が野ざらし紀行で伏見から大津に向かう途中、「山路来て 何やらゆかし 菫草」と詠んだのは小関峠付近であった。

北陸道には近江では
穴太(大津市穴太)、和邇(大津市和邇中)、三尾(高島市安曇川町三尾里)、鞆結(マキノ町)に駅家が設けられていた。これから歩く西近江路は近代の東海道大津宿から分岐している近代の北陸道である。西近江路は穴太の東方を通るが、和邇と三尾は西近江路の宿場でもある。その後マキノで海津に向かう西近江路に対し、北陸道はまっすぐ北上し黒河川にそって敦賀に出ていた。

現在の西近江路は国道161号として、旧道と相交差しながら敦賀まで続いている。最後の部分は疋田で国道8号に合流。京都から新潟までを結ぶ幹線道路としては国道8号こそが古代の北陸道に匹敵するが、国道8号は湖東廻りである点で、湖西をいった北陸道と異なっている。

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大津 

西近江路は東海道大津宿の
札の辻から始まる。京町1丁目と中央1丁目の境の京町通りを西進してきた旧東海道は国道161号にぶつかって左に折れ逢坂山に向かう。その交差点南西角に高札場があった。今は道標のほか大津市道路元標があり、幹線道路の起点としてふさわしい。

札の辻交差点から西へ進んでいく。左手に古びた屋根付きの板看板を掲げた店がある。江戸時代、膳所藩の御用料亭を勤めていた老舗が明治になって
鮒寿司専門店としてここに分家した。店に入ってみた。まともなサイズだと一尾1万円する。この世で一番好きな食べ物だが、簡単には手が出ない。

道は突き当たりを右に曲がる。左角の家は花登筐の生家である。昭和30年代半ばの人気テレビ番組「番頭はんと丁稚どん」の作者である。テレビがカラーになったころですべての番組が面白かったなかでも花登筐の上方人情喜劇は人気が高かった。

道は
北国町通りにはいる。最近まで街道に沿って上北国町、中北国町、下北国町があった。すぐ左手に細い道がでているが、これが山科横木で東海道と分れた小関越の大津側出口である。

次の路地を左にいくと朱色の楼門が鮮やかな
長等神杜に出る。このあたりに大津絵の工房を二軒みた。大津絵は江戸時代に逢坂の関あたりに無名の画工が軒を並べ、東海道を往来する旅の客に信仰の対象として仏画を描き売ったのがその始まりであるとされる。仏画は以降、時代の変遷とともに諷刺、人物風俗など世俗絵に移っていき構図も定型化していった。素朴で力強い線と単調な色彩が特徴の大津絵の中でも最も広く親しまれているのが「鬼の念仏」と「藤娘」であろう。

長等神杜は三井寺園城寺の鎮守社である。右側の石段を登ると三井寺観音堂に至る。三井寺はむしろ晩鐘や弁慶の引摺鐘のほうがよく知られている。街道にもどり虫籠窓と出格子に象徴される古い家並みをのこす北国町通りを進む。一筋右側には旧名柴田町という遊郭があったが、今その面影はない。旧町名の説明標柱がある。「北国
道」とあり、中山道から分れて長浜から湖北を通っていく「北国道」ではない。

道は
琵琶湖第一疎水をわたる。橋の名は「北国橋」で、札の辻以来「北国」が強く意識されていて「西近江路」の文字はみなけなかった気がする。北国橋より一筋西の橋からは直線の疎水の奥に石造りの第一トンネル東口の端正な姿がよく見える。桜の季節はさらに優美な景色であろう。琵琶湖疎水は明治18年(1885)に着工、23年に完成した。京都、大阪に飲料水を供給したのみならず、日本最初の営業用水力発電所が建設され、その電力で日本で初めて京都・伏見間に市電が走った。

街道はその先の交差点で右折し大門通りを湖岸に向かう。疎水口はヨットハーバーになっていて新三保ヶ崎橋の北たもとの岬公園に
琵琶湖周航の歌の記念碑が建っている。明治26年、旧制三高ボート部がここから初めての琵琶湖周航に出発し、以後毎年の恒例行事となって昭和15年ころまで行われた。三保ケ崎から時計回りに4泊5日をかけ、雄松・今津・竹生島・長浜・彦根・長命寺によって三保ケ崎に帰ってくる。琵琶湖周航の歌については、それが作られた場所である今津で、より詳しい情報が得られるであろう。

新三保ヶ崎橋の南袂からは桜の花びらの中に「三」の文字をおいた三高の校章を描いた小屋がみえる。
「三高&神陵ヨットクラブ」と称する京大ヨット部の艇庫だが、その前は三高端艇部(ボート部)のものだった。現在のボート部艇庫は瀬田川にある。

観音寺西交差点にもどる。江若鉄道軌道跡の遊歩道「大津絵の道」入口に文政10年の道標が建っていて「左三井寺観音道」「右山王唐崎道」と刻まれている。左は大門通りのことで、右がこれからすすむ西近江路旧道である。

道標前から
観音寺の静かな町並みにはいる。町名はここに江戸時代琵琶湖を航行する船を統括していた船奉行観音寺家の屋敷があったことに由来する。熊野川を渡ると尾花川の集落に入る。東側に琵琶湖競艇場がある。かっては民家の裏側がすぐ琵琶湖で、住民は漁業と舟運で生計を立てていた。道路に面した家が斜めに建てられ隣家と鋸の歯状に出入りをなしている。鋸状家並み、稲妻型道路、斜交(はすかい)屋敷などと呼ばれるものである。

道は不動川を渡り「皇子が丘東」交差点で国道161号に合流する。柳が崎交差点に新しい「神宮道」の道標と向かい側に漏刻(水時計)の碑がある。この広い東西の道を西にすすむと近江神宮の正面に出る。祭神は他ならぬ天智天皇である。近江神宮のすぐ南、錦織2丁目に667年近江大津京が設営され、翌年天智天皇が即位した。大海人皇子、額田王等を伴って蒲生野に遊んだのはこの頃である。

左に琵琶湖競輪場をみて、右手には陸上自衛隊大津駐屯地の広いグラウンドが続く。鉄柵の内側では隊員が銃を肩にかけて行進していた。湖岸の道をすすむと
「唐崎1丁目南」交差点にさしかかる。左にいく道は滋賀里から志賀越(山中越)の古道に通じ、志賀峠(新しくは田ノ谷峠)を越えて山中、北白川、京大時計台の下を横切り京の七口の一つ荒神口に至る。志賀の山越えとして知られる歌枕である。

行さきは 雪のふぶきに とぢこめて 雲に分け入る 志賀の山越え (風雅)       京極為兼
梓弓 春の山辺を 越えくれば 道もさりあへず 花ぞ散りける (古今115)    紀貫之
山がはに 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり (古今303・百)  春道列樹
白雪の ところもわかず 降りしけば 巌にも咲く 花とこそ見れ (古今324)    紀秋岑
朝かぜに うばらかをりて 時鳥 なくや卯月の 志賀の山越             蓮月尼
むすぶての しづくににごる 山の井の あかでも人にわかれぬるかな (古今404)  紀貫之

すぐ先の二又を右にとると唐崎神社の参道に出る。角の電柱脇に上が欠け下が埋もれた白髪神社道標がある。各面に「天保七年」「白髪」「京都」の刻字が読み取れる。赤レンガ色のてれ境内には近江八景の一つ「唐崎の夜雨」で知られる唐崎の松がある。古くから多くの歌人に好まれていた。鳥居の前に構える店は御手洗(みたらし)団子の老舗「寺田物産」だ。唐崎神社の神事御手洗祭で、神社から3本一組の青・黄・赤の串団子が与えられた。後団子作りが門前の店に任され、常時御手洗団子として売られるようになった。

楽浪の 志賀の辛崎 さき幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ (万) 柿本人麻呂
やすみしし 我大王の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎 (万) 舎人吉年
夜もすがら 浦漕ぐ舟は 跡もなし 月ぞのこれる 志賀のからさき (新古今) 宜秋門院丹後
浪の花 沖から咲きて 散り来めり 水の春とは 風やなるらむ (古今) 伊勢
天地を 嘆き乞ひのみ祈 幸くあらば また反り見む 志賀の唐崎 (万)
氷ゐし 志賀の唐崎 うちとけて さざ浪よする 春風ぞ吹く (詞花) 大江匡房
夜の雨に 音をゆづりて 夕風を よそにそだてる 唐崎の松 (近江八景) 近衛政家
われならで 誰かは植ゑむ 一つ松 心して吹け 志賀の浦風 (常山紀談)  明智光秀
よる波の いつつの色は 緑なる 松にも残る しがの唐崎  (新千載集) 慈円
唐崎の 松は扇の要にて 漕ぎ行く船は 墨絵なりけり (古今) 紀貫之

芭蕉も野ざらし紀行で小関越えで近江に入ったのちすぐに唐崎に寄ったとみえる。

   辛崎の 松は花より 朧(おぼろ)にて


松の裾に隠れて芭蕉句碑が立っている。唐崎は辛崎、韓崎、可楽崎とも書かれた。楽浪といい、近くの穴太といい、このあたりは大いなる渡来人の里であった。

芭蕉は奥の細道から帰ってきた元禄2年、上野に帰省してその足で近江にやってきた。翌年の春、唐崎を再訪して親しい友人と船遊びを楽しんだ。

   行く春を 近江の人と 惜しみける

春の近江の野は一面菜の花の絨毯で敷きつめられて美しい。船を浮かべて、仲間で春の景観の国自慢でもしあったのであろう。

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下坂本 

旧道は国道にでてすぐに四ッ谷信号の二又で再び左の旧道にはいっていく。左手にどこまでが一軒なのか区切りのよくつかない
板塀の民家がある。複雑な瓦屋根の形が目を引いた。町は下阪本である。比叡山の表玄関として発達した。静かな旧四ッ谷町の集落のなかほどにある志津若宮神社では祭りの準備が整いつつある。

四ツ谷川を越え旧柳町にはいる。虫籠窓と白壁、出格子、それにうだつを控えめにあげた家が散見される。ゴミ一つない清潔な道路を行き交う人もなく町は静かである。

四ツ谷川を西にたどると北陸道の京から最初の駅家
穴太に通じる。技術系渡来人の里で、石積に通じていた。自然の石を加工せずに積み上げるもので、石の面や角の使い方や大小の石の組合わせに特色をもつ。本格的な石垣をもつ最初の城といわれている安土城の他、大阪城、彦根城、金沢城の石積も彼らの作品である。

柳町自治会館のある丁字路の右方向をのぞくと湖畔に赤い鳥居が立っている。国道を渡って
七本柳とよばれる浜辺に出ると小さな入り江をなしていて鳥居は水中に立ち船着場のゲートを兼ねている。毎年4月に行なわれる日吉山王祭の船渡御ではここから御輿を乗せた船が出発し、唐崎の沖合まで渡御し比叡辻の若宮神社裏の船着き場まで運ばれる。

東南寺川をわたった右手に
坂本城跡の石碑がある。比叡山の門前町として、また北国海道と坂本港を控える水陸交通の要衝として坂本の重要性に目をつけた織田信長は、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ち後、この地に坂本城を築き明智光秀を住まわせた。琵琶湖岸に天守と小天守をもつ水城で、宣教師ルイス・フロイスをして天下の名城安土城につぐ豪壮華麗さと賞賛させた。天正14年(1586)拠点が大津城にうつされて廃城となった短命の名城である。

下阪本3丁目は
旧大道町で、廃城となった坂本城の掘りを埋めて大道を造った。民家の玄関先に「浜坂本」「西近江路」と刻んだ石標が建てられている。このあたりにも趣ある家が多い。歩を進めていくと「両杜の辻」にさしかかる。左折して松の馬場通りをはいっていくと道をはさんで酒井神社(北両社)と 両社神社(南両社)が向かいあって並んでいる。この二社はかって一社であった。両本殿とも元和6年(1620)旧坂本城主浅野長吉の孫で、広島藩主の浅野長晟が寄進したもので、共に一間社流造のこぢんまりとした社殿である。

酒井神社の境内には両社の辻にあった二つの石標が保管されている。一つは宝暦八年(1758)の道標で、半分以上が埋もれているが「右北国海道」「左ひえい山 日吉山王」と刻まれているらしい。近くに明治29年(1896)9月12日の「琵琶湖洪水石標」があり、4m近い水位が記録された。この9年後瀬田川に南郷洗堰が完成した。

下阪本4丁目を通り抜け藤ノ木川をわたった下阪本5丁目信号で国道161号を斜めに横切り、下阪本6丁目の大宮川をわたったところで
比叡辻に出る。西にのびる道は日吉大社の表参道であり、また比叡山延暦寺にのぼるケーブル乗り場に通じる道でもある。西近江路と琵琶湖岸に連結し、全国にちらばる延暦寺の荘園からの産物が湖上・陸上を経てここに集積した。

辻の東側に建つ若宮神社の裏側は船着場で、山王祭では七本柳を出発し唐崎までの船渡御を終えた神輿がここで下船して、真直ぐに日吉大社へ還御する。

旧道が国道に合流するすこし手前の左手、国道の比叡辻交差点の西側に
聖衆来迎寺がある。延暦9年(790)に最澄が開いたという古刹で、白壁の美しい参道をすすみ坂本城の城門を移した山門をくぐると本堂の見事な大屋根が目を奪う。本堂に隣接する客殿は寛永16年(1639)の建築で、柿葺の清楚なたたずまいを見せる国の重要文化財である。

道は国道に合流したのち、大宮川、高橋川をわたって「苗鹿(のうか)3丁目」信号で左の旧道に入る。旧道入口に堂々とした立派な
常夜燈がある。弘化4年(1847)に建てられた。まもなく右手に那波加神社があり、由緒札に苗鹿の地名由来が記されていた。

老翁となった天太玉命(アメノフトダマノミコト)の農事を鹿が助け、苗(稲)を鹿が背負って運んだ

問題はなぜ鹿が老翁を助けたかだ。

旧道は一路
雄琴の温泉街へと向かう。国道に最接近したところで再び離れ、国道に並行してつづく山手の道を行く。沿道は住宅も混じる古い温泉街といった感じで、湖畔に開かれた歓楽街のけばけばしさはどこにも感じられなかった。雄琴温泉は伝教大師の開湯といわれるほどの古湯で景勝にもめぐまれ、関西の奥座敷として人気が高かった。

国道の東側湖畔沿いに発展したソープランドは人工湯で、雄琴温泉と何の関係も持たない。当初雄琴温泉の集客に貢献した面もあるが、その後風俗店の悪イメージが修学旅行をはじめ家族旅行客等を失う結果となった。

雄琴神社の前を通り雄琴川をわたってまもなく国道161号に合流し衣川に入る。

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衣川(堅田) 


国道の西側は衣川1丁目、東側は堅田1丁目となっている。江戸時代、
衣川は西近江路の宿場として伝馬2頭、宿駕籠1艇がおかれていた。民家がつづく国道沿いではあるが、宿場の面影を求めるのは無理なようだった。湖西線の西側には近江遷都に先立って豪壮な大伽藍が造営されたといわれる衣川廃寺跡や、文暦元年(1234)に山内義重が築いた衣川城跡などの史跡があるが寄らなかった。ここの見所はやはり堅田にある。

天神川橋を渡り仰木口交差点で旧道は左に入っていくのだが、反対に右に折れて本堅田に寄っていく。道なりに湖畔に向かってすすんでいくと、桝形のような辻に出た。左手に町家造りの
「湖族の郷資料館」がある。平安時代この地が京都下鴨神社に鮮魚を進上する御厨(みくりや)に指定されると、朝廷から琵琶湖の漁業権と自由通行権を保証され、中世には堺に匹敵する自治都市を形成した。琵琶湖に君臨した堅田衆は湖族とも呼ばれた。「湖族」という語が「海賊」を連想させないでもないが決して「湖賊」ではない。

左の路地奥にある
本福寺は蓮如と芭蕉ゆかりの寺である。
応仁の乱で本願寺を追われた蓮如は堅田湖族を頼ってこの寺に3年身を寄せ再起を計った。
元禄3年(1690)、芭蕉は近江に入り浸っていた。9月、本福寺第11世住職千那に招かれて堅田に遊んだ。あいにく風邪で体調を崩していて近江八景の一つ堅田の落雁にひっかけて一句詠んだものである。

  
病雁の 夜寒に落ちて 旅寝哉

境内には多くの句碑があってどれが芭蕉のものかわからない。居合わせた土地の人にきくと本堂の裏にあるという。裏にもいくつかあってどれも読めない。一番それらしき立派な石碑を撮って帰ったがどうやら違ったようだ。

湖畔の
浮御堂に来る。ここは近江紀行でよっているので省き道を北に向かう。旧堅田港に道標と三島由紀夫文学碑があった。道標は1814年に渡し舟仲間が建立したもので、「右大津さか本」「左かたヽ舟わたし」「すく北国海道」「文化十一追甲戌年 渡舟仲間」としなやかに刻まれている。「左堅田舟渡」が本命のようだ。

文学碑は昭和39年に『群像』に連載された「絹と明察」からとられたものである。

「桟橋につく。左方の繁みから、浮御堂の瓦屋根が、その微妙な反りによって、四方へ白銀の反射を放っている。…町長の先導で、一行は窄い堅田の町をとおって、浮御堂のほうへ歩き出した…。ほとんど蘆におおわれた川面にかかる小橋をわたる。蘆のあいだに破船が傾き、その淦が日にきらめき、橋をわたる人の黒っぽい背広や黒のお座敷着は、袂の家の烈しいカンナや葉鶏頭の赤によく映った。(中略)一行は軒先に午後の日ざしが当った古風な郵便局の前をとおった。まだ去らぬ燕の巣も軒にあって、乱れた藁の影を壁に映していた。その道を突き当たって、左折すると、そこがもう浮御堂である。」

細い路地を更に北に進むと古びた駒寄が風情を醸しだす旧家が現れる。中世堅田豪族の一つである
居初(いそめ)家邸宅である。琵琶湖沿いに湖東の連山を借景にした枯山水の名園、天然図画亭は名高い。

その先が
堅田漁港である。船溜まりの向こうに「微妙に反った浮御堂の屋根瓦」が小さく見える。右手湖畔には高い石垣のうえに茅葺入母屋造りの家がみえた。石垣と茅葺建物の間に天然図画亭の枯山水が築かれているのであろう。

芭蕉句碑がある。元禄3年の句である。湖畔を散策していてふと漁師の小屋を覗いてみたのだろう。いくらか体調は回復したのかな?

  海士(あま)の屋は小海老にまじるいとど哉 


本堅田(1、2丁目)の魅力ある浜屋敷町の散歩を終え、内湖大橋から国道にでて仰木道交差点までもどる。交差点を西に入ると旧道が右にまがって延びている。
二股に榎の大樹と白髪大明神道標が立っている。雰囲気としては一里塚だ。道標は天保7年のもので、唐崎神社入口にあったものと同じで、これからも見る。

堅田駅交番前に「志賀廼家淡海(しがのやたんかい)」の碑がある。堅田出身の喜劇役者で、後に松竹新喜劇で人気を博した。碑には藤山寛美も名を連ねている。

駅前ロータリーの東側に二人の少年像が建つ
「湖族の郷」碑があり湖族についての詳しい説明板があった。

街道をすこしすすんだところの「郡農協前」バス停脇に
「旧北国海道一里塚 一本松跡」と書かれた石標が立っている。西近江路としての一里塚を見るのはこれがはじめてではなかろうか。ここの一里塚が真であるなら、仰木口の榎木は一里塚ではないことになる。

街道は国道に合流した後真野川をわたり真野の集落に入る。真野の浜は名高い歌枕の地である。橋をこえて右におれ河口まで穏やかで緑豊かな真野川堤防をゆく。土手には桜が並木をつくりその間には花が植えられて川岸を飾っている。向かいの住人のさりげない心遣いであろう。浜からは琵琶湖大橋の水平線上におぼろげな近江富士が見えた。

雲はらふ 比良のあらしに 月さえて 氷かさぬる 真野のうら波 (流布本経信集) 源経信
ひざかりは あそびてゆかん 影もよし 真野のはぎはら 風たちにけり 源俊頼
うづら鳴く 真野の入江の はま風に を花なみよる 秋の夕暮 (金葉) 源俊頼
近江路や まのの浜べに 駒とめて 比良の高ねの 花をみるかな (続新古今130 源頼政

誰もいない浜辺を歩いていくと道傍で両足を大きくひろげ、人目もはばからずに股間を舐めている猫に出会った。近づいても、カメラを構えても身を正そうという気は一向になさそうで、ますます足を高くあげるふうでさえあった。

真野浜水泳場、漁港をたどって国道に合流する。真野川大橋からここまで西近江路を端折ったことになるが、国道であることだし何も見失うものはなかったと思う。 国道は湖西線小野駅の東をかすめて北上する。

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和邇(小野) 

国道小野交差点から左の旧道にはいる。湖西線高架をくぐると二股の左手に
「外交始祖大徳冠小野妹子墓 是より三丁余」と記された大正8年の道標がある。右が西近江路。左にとって小野妹子の墓をたずねる。道なりにすすんでいくと小高い丘の周囲を開発した新しい住宅地区街路に突き当たる。そこを右折しすぐに左折して住宅地の縁を上がっていくと唐臼山古墳公園に至る。説明板に妹子の墓と考えられている石室が露出しているとあったが、見当たらなかった。

丘の頂に
妹子神社がある。小野妹子は推古15年(607)聖徳太子の命を受け我国最初の外交使節として隋煬帝に派遣された。帰国後まもなく南淵請安らの留学生を伴い再度隋に渡る。大陸文化の導入に貢献した功績に対し冠位十二階の最高位である大徳位が与えられた。
頂の東側にまわると琵琶湖が見渡せる。湖西線の電車がちらりと見えた。

街道にもどり小野集落の中をすすむ。道の両側に比良からの山水が流れ、落ち着いた町並である。ここは古代の名族小野氏の本貫の地である。山科の大津街道(京街道)と醍醐街道との分岐点にも小野という地名があり、もっぱら小野小町が住んだところとして人気がある。小野氏一族の本拠でもあったといわれているが、西近江の小野はもっとスケールが大きくて奥が深い。集落のなかほどに
道風神社がある。小野道風(894〜966)は小野篁の甥にあたり、藤原佐理・藤原行成とともに三蹟といわれた書家である。

茅葺の農家ばったり床机を備えた町家の家並みをみながら、集落の終わり上品寺の脇を左に入ると
小野神社と小野篁神社が並んでいる。石段の上に現れるのが国の重要文化財小野篁神社で、境内の奥に控えるのが小野一族の氏神小野神社である。小野篁(802〜852)は平安時代初期の漢学者であり歌人であるが、一風変わった人物としてのエピソードが多い。遣唐副使として派遣される際のイザコザで隠岐に流される羽目になったときに詠んだ歌が百人一首に選ばれている。その歌碑があった。

  
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟

小野一族の系図が示されている。小野氏の祖は第30代敏達天皇で、その子春日皇子の子が小野妹子。5代を経て篁が現れその甥に道風、孫に小町がいる、という関係になっている。感心すべきは妹子以下篁まですべてが高級官僚か学者・歌人であったということだ。こんな華々しい系図板を小野郷の人たちは意気揚々と建てたことだろう。

和邇川をわたって和邇中にはいる。古道北陸道の駅家が設けられた場所であり西近江路の宿場でもあった所だ。町並をすすむと十字路の中心に注連縄がめぐらされ
「榎」の一字が大きく刻まれた自然石碑が立っている。かってここに榎の大木がそびえていて、人々は和邇宿を榎宿と呼んでいた。明治百年を記念して昭和43年に建立されたものである。

傍に昭和50年建立の新しい道標がある。「途中大原八瀬京都道」とあり、交差点を西に折れると伊香立途中町で鯖街道に出る。「途中」は地名であって副詞ではない。

ちょうど和邇小学生の登校時刻であった。小学校を越えた所に二股があり、左の旧道をとると常夜燈にならんで
「北国海道 大津 五里余 白髭 五里」と刻まれた道標が建っている。ここが大津と白髪神社とのほぼ中間地点であると言っている。

旧道は次の四つ辻で右におれ和邇駅南の高架手前で右から来る広い道路に合流する。その道にのって駅東口を斜めに横ぎり、国道161号との合流手前で大将軍神社を左からまわりこむような
短い旧道を通って国道161号の中浜交差点に出る。標識には「高島27km 敦賀68km」とある。

中浜会議所前に青年会による北国海道(西近江路)の旧道道筋を示した地図が掲げられていた。高城の常夜燈から中浜交差点までの図で、道幅は160〜230cmで長さは920mとある。旧道は常夜燈から大谷川にそって野妻橋をわたり東におれて国道の手前で北にまがり大将軍神社の左の道にでていた。今その道は残っていない。

和邇浜にでてみた。北をのぞむと比良の山並みが大きく迫ってきていることに気付く。これから北に進むに連れて比良山系は琵琶湖にせまり、司馬遼太郎は「車が湖に押しやられそうなあやうさをおぼえ」たという。蓬莱浜にそって国道をあるく。ここでは山はまだそれほどまでに来ていない。

なだらかな裾野を湖西線の電車が音も無く走っていった。

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木戸(志賀)
 

街道は蓬莱浜のヨットハーバーを右手に見ながら北上しJR湖西線をくぐったところで南船路の
八所神社前を通っていく。由緒書の住所には滋賀郡木戸村大字南船路字宮ノ後とある。蓬莱駅西口をかすめ八屋戸川をわたってまもなく、明治3年創業という石材店の脇を左に入っていく。この付近からは古くから比良山系の良質な石が産出され、それを扱う石工が多くいた。木戸石とよばれ、逢坂山の東海道に敷かれた車石はここから供出されたものである。

集落入口の二股に「左京大津」と刻まれた自然石の道標がある。くの字の200mたらずの短い旧道だが一本の柿の木のためだけに残された
石垣や、芍薬・石楠花にタヌキを配した愛らしい庭など、微笑をさそう集落であった。

国道合流点に三体の地蔵、その裏に昭和52年、文政2年の新旧二基の道標が並んでいる。

国道は比良山系の裾が湖岸への斜面につながる等高線を縫っている。琵琶湖側は
棚田に整地され田植えの準備が整っていた。湖西線の高架がその美観を横真一文字に損ねている。電車を見られるのがせめてもの慰みだ。

街道は左の
林道に入っていく。杉木立のなかに涼しげなシャガが群生している。道は古道の趣だ。蓬莱山びわこバレーに通じる道路をよこぎって進んでいくと志賀清林の墓の前にでる。

木戸の出身清林は奈良時代の横綱にあたる強者で、聖武天皇の勅令をうけ相撲の儀式作法の準則をつくり相撲技48手をあみ出した。突く・蹴る・殴るの3技を禁手とし、手を使う「投げ」・足をつかう「かけ」・腰をつかう「ひねり」・頭をつかう「そり」の4手に各々12手の決まり手を設定し48手とした。これまでの生死をかけた原始的な格闘技から進化して、現代の相撲技の基礎が築かれた。

古道の風情はここで途切れる。旧道は清林パークの手前から国道を斜めによこぎって東側に出て弧をえがくように再び国道の西側にでて木戸川につきあたる。旧道は対岸のラーメン店裏側に続いている。木戸川橋で迂回して旧道にもどり西近江路の
旧木戸宿に向かう。狭い路地をすすんでいくと志賀町立ふれあいセンターのあるややおおきな十字路にでる。

交差点角に明治31年(1898)の背の高い樹下神社標と宝暦9年(1759)建立の小さな西方寺道標が並びたっている。このあたりが旧木戸宿の中心だったのだろう。中世には山城が築かれたと伝えられ木戸は北国海道中部の要塞であった。地名も小規模な関所を示唆する木戸に由来する。左におれていくと
樹下神社。日吉大社の摂社で、木戸地区には他にも樹下神社がいくつかある。

道なりに木戸集落をぬけて国道に合流する。景色が広がって湖畔近くに志賀駅がみえる。左方山側は比良山系の中心部というべき地域で蓬莱山北側のびわこバレーから北に、比良山の本峰比良岳、鳥谷山、堂満岳、釈迦岳と続く。冬はスキー、年間を通して登山で賑わうリゾート地である。堂満岳は別名暮雪山ともよばれ、近江八景「比良の暮雪」が描かれたところだ。

比良山系から見下ろす琵琶湖の絶景、比良から吹きおろす山風と雪、松の浦から雄松ヶ崎にかけての比良の浦が格好の歌題となって、志賀地方は近江を代表する歌枕であった。

桜さく 比良の山かぜ 吹くままに 花になりゆく 志賀のうら浪 (新古・千載) 九条良経
にほの海 春は霞の 志賀の波 花に吹きなす 比良の山風 (家集) 俊成卿女
漕ぎ出でて 月はながめむ さざなみや 志賀津の浦は 山の端ちかし (家集) 源頼政
楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ (万1715)
なかなかに 君に恋ひずは 比良の浦の 海人ならましを 玉藻刈りつつ (万) ―
我が船は 比良の湊に 榜ぎ泊てむ 沖へなさか離り さ夜更けにけり (万) 高市黒人
比良のみなとの 朝ごほり 棹にくだくる 音のさやけさ (続後拾遺474) 顕昭
雪ふるる 比良の高嶺の 夕暮れは 花の盛りに すぐる春かな (近江八景)近衛政家
大比叡や をひえのおくの さざなみの 比良の高根ぞ 霞みそめたる 香川景樹
見わたせば 比良の高根に 雪消えて 若菜つむべく 野はなりにけり (続後撰) 平兼盛
花さそふ 比良の山風 吹きにけり こぎゆく舟の 跡見ゆるまで (新古今) 宮内卿
楽浪や 志賀の浦わの 水の面に 氷吹きしく 比良の山風 (壬二集) 藤原家隆
峰寒き 比良の山おろし 雪散りて 汀吹きしく 比良の山風 (飛鳥井集) 藤原雅経

街道は大川をわたり荒川の集落を通りぬけ大物交差点の予告信号のあるところで左の旧道に入る。大物集落の途中の十字路で右におれ国道を横断して親鸞ゆかりの超専寺に寄る。茅葺の農家をみたほか何もなかった。旧道の辻にもどる。西の方向に樹下神社がある。大物集落をぬけ国道に合流してしばらくいくと比良駅に通じる広い道路の左側にも
樹下神社があった。よくあるものだ。

比良登山口交差点から近江舞子手前の旧道入口までの街道を省き、しばらく浜辺をゆく。交差点を右折すると湖西線の手前の電柱傍に
「北国海道」の指差し道標が立っている。比良の港で降りた人を街道に導く為のものであろう。
JR高架をくぐり二股道を左にとり湖岸沿いにアンツーカー色のサイクリングロードをたどっていくと南小松にはいる。近江舞子で知られる琵琶湖最大級の海水浴場が広がっている。

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北小松 

企業の保養所やマリーンクラブ、民宿などが浜辺の道に続く中、近江舞子の浜に出た。砂は細かく暖かいベージュ色をしている。か細い水の流れが波打ち際の砂をけずって形ばかりの段丘をつくり細波をおこして湖にそそいでいる。これでも一端の河口である。

やがて本格的な旅館も建ち、松並木の中に
名勝雄松ヶ崎の石標が現れた。三保ケ崎を出た旧制三高ボート部の最初の寄港地である。白砂青松の浜で、琵琶湖周航の歌の2番目にある椿の森を探してみたがどうやらこれは創作のようだ。

琵琶湖八景「雄松崎白汀」碑がでてくる。室町時代の大津を中心とする近江八景に対し昭和24年に定められた琵琶湖八景はひろく琵琶湖を一周している。

煙雨・比叡の樹林、涼風・雄松崎の白汀、暁霧・海津大崎の岩礁、新雪・賤ヶ岳の大観、
新緑・竹生島の沈影、月明・彦根の湖城、春色・安土八幡の水郷、夕陽・瀬田石山の清流


万葉歌碑が道端にある。

  
ささ波の比良の都のかり庵に尾花乱れて秋風そ吹く  万葉集より

比良の都がここ小松のことなのか、あるいは大津京の別名なのか、知らない。

湖上に沖ノ島の影が浮かぶ。松の木陰に若者の姿が見えてきた。二人連れから数人のグループ、最後はバスできた集団だった。臨湖学校としても人気のあるキャンプ場である。1916年8月、日本で初めてボーイスカウトがキャンプを張った。遠い昔の夏の日々が蘇る。

2kmほどの浜辺を寄り道して近江舞子駅から国道にでてサラダ館の南、旧道入口までもどる。北に向きをかえて国道から左の旧道にはいっていく。畑中にポツリとたつ自然石の燈籠、同じく民家脇にたつ自然石の石塔。ベレー帽をかぶったような五輪塔まがいに見える。前面と室内まで花に囲まれた幸せそうな小地蔵など。石材はいずれも木戸石だろうか。

南小松のなごやかな集落半ばに
白髭神社道標が立つ二股を左にとって、ひどく高い天井川(家棟川)をこえて西方寺前信号で国道に合流する。

街道はすぐに左の旧道にはいる。今度は田圃を縫っていく
農道である。途中に猪よけの有刺電線が張られ、4本の電線をはずして通り抜ける。夜間は電気が流れるようになっている。林を通りぬけ大堂川をわたり両側の有刺電線にはさまれた農道をすすんで北小松に入っていく。

やがて農道の十字に交わる地点に
「楊梅の里」と深く刻まれた土地整理事業記念碑が立っている。北小松駅の北西方向に1kmあまり行ったところに落差76mの県下一美しいとされる楊梅の滝がある。室町幕府の13代将軍足利義輝が滝を楊梅(ヤマモモ)の大木に見立てて名付けた。

田の中の道をしばらく進むとやがて滝川をこえた先でJR高架をくぐり国道に合流、最初の交差点の左は鳥居があってその奥に
樹下神社がある。一間造りの社が二社あって牛が寝そべっているのはどちらかが天満宮だ。

交差点の先の二股を右にとって北小松の集落に入っていく。湖畔近くで丁字路を左折すると
鍵の手の名残らしき屈折を経て集落の中心街を北上する。

高札場や問屋跡などの標識はないが、港町を兼ねた西近江路の宿場があった所である。水産加工関係の店が多い。

家並みを抜けるころ右手に北小松の漁港があった。小さな港である。その先で旧道は国道にもどる。司馬遼太郎がみたという厠のとびらまで紅殻が塗られている民家を見つけることは出来なかった。

国道をすこし行って山が湖に迫るところに常夜灯や石仏群とともに岩除地蔵がまつられた石祠がある。

北方を臨むと比良の山が美しい傾斜を描きながら湖に落ち込んでいる。その先の湖中には肉眼ではみえないほどの突起があって、白髭神社の鳥居が立っているはずである。

(2008年5月)

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