大津・志賀

湖南といっていた地域がいつからか大津・志賀と湖南と甲賀にわかれた。
大津・志賀の中心はいうまでもなく県庁所在地大津であるが、その土地の歴史は世界的に古い。穴太(あのう)といわれる土地で発掘された遺跡が語るところでは、四大文明に遅れること1500年、ギリシャ文明に1000年先立つ縄文後期の紀元前1400年のころ、すでに大集落が築かれ琵琶湖上を行き交いしていたらしい。今の坂本の地である。

まだ卑弥呼が云々されていた弥生時代の2世紀のころ、成務天皇の時代に志賀高穴穂宮がおかれたという。穴太と穴穂は同音で、この土地の人々は古代から石垣積みの技にたけ、穴太衆とよばれる技術集団をなしていた。
大津はまた、天智天皇の志賀大津宮、考謙天皇の保良宮の故地でもある。



雄松ヶ崎 

堅田に向かう途中に雄松ヶ崎がある。比良川河口の北側にあり、琵琶湖に張り出した約3kmにわたる白砂青松の眺めは素晴らしく、古くから風光明媚の地として知られている。琵琶湖八景にも、「涼風・雄松崎の白汀」として取り上げられた。琵琶湖周航の歌にもロマンティックな一節がある。

 
松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は  赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや

いまどきそんな純情な女性など――とは思いつつ、せめて雰囲気だけでも感じてみようと思った。現実は近江舞子リゾート地の浜にあって、そこへ出るには1200円の1日分の駐車料を払わねばならない。15分くらいのために24時間分払うのは不条理だと、他のことを考えずに1200円をけちってしまった。
ロマンティストになりきれていない。


堅田の浮御堂

この日の最後の訪問地、堅田の浮御堂に来た。時刻は4時半で、日はようやく傾いてはいるが、風景を黄金色に染めるにはなお早過ぎた。門は5時に閉ざされるのでそこでねばるわけにもいかない。山門は中国の寺にでてくるようなアーチ型をしている。境内には芭蕉句碑がふたつあった。ともに元禄4年(1691年)の作である。パンフレットから引用する。

近江八景の一つ堅田の落雁として有名な堅田の浮御堂は、びわ湖の最狭部に位置し、海門山満月寺と称する禅寺で京都紫野大徳寺に属する。昔一条天皇の長徳年間(九九五年頃)比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、びわ湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで「千仏閣」「千体仏堂」と称し湖上通船の安全と衆生済度を発願したに始まる。(中略)現在の浮御堂は昭和十二年の再建で「阿弥陀仏一千体」を安置して「千体仏」と称している。(中略)風景絶佳の地点で風花雪月それぞれの趣があり、境内の老松も閑寂な寺域にふさわしい。(後略)

 
錠明けて 月さし入れよ 浮御堂
 比良三上雪さしわたせ 鷺の橋


浮御堂に最初の光を当てるという中秋の名月は鏡山の上に登るらしいが、ここから鏡山を認めることはできなかった。三上山はかすんで見えた。小さいが近江富士と呼ばれるように姿はよい。

この他に次の句を挙げておかねばならない。芭蕉が堅田にきて体調を崩したときの句である。

  
 
病雁の 夜寒に落ちて 旅寝哉

真夏の浮御堂に落雁の趣を求めるのは難しいが、松と石灯篭と浮御堂と湖水を入れれば十二分に風情ある絵にはなる。

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雄琴  

その日は雄琴にとまることにした。もともと最澄が開いたと伝えられる歴史ある古い温泉地帯であった。その後いつからか滋賀県では唯一の、関西でも名だたる歓楽郷になった。初めて見た雄琴の町は意外なほど健康的で、わずかに大津よりにそれらしき一角があった。手招きでドライバーを誘う男が立っていた程度である。湖畔には琵琶湖グランドホテルや大手のレジャーホテルが威容を誇っている。

素泊まり4000円とある看板の旅館に泊った。
「お一人ですか」
「そうです」
「それでは五千円になります」
どういう計算になっているのかよくわからない。

二階にあがるとすき焼の甘い匂いが階段とホールに立ち込めていた。私は旅館を出て、国道沿いのラーメン屋で夕食をとった。


坂本・穴太 

朝7時に宿をでる。坂本の町は起きたばかりでまだ誰も歩いていなかった。
比叡山ケーブル乗り場近くの駐車場に車をとめて、滋賀門院跡と滋眼院を見ることにした。坂を降りていくと下から丸坊主頭にカッターシャツと黒ズボンの生徒の一団が上がって来た。夏休みであるはずだが、クラブ活動のためだろうか。
先頭の少年は私に近づくと、施しを受ける托鉢僧を想わせるように、立ち止まって深々と頭をさげて「おはようございます」と朝のあいさつを述べた。私もあいさつをかえし、ついでに「この近くに朝飯をたべられる食堂がないか」と聞いてみた。青々としたその少年は、ひとしきり考えた後で首をやや斜めにかしげて、「ないと思います」と深刻な面持ちで答えた。
顔にはニキビが散らばっていて、背は高く痩せている。卒業のあとは比叡の荒行に挑むのであろうか、少年の宿命に思いをいたしながら別れた。

比叡山の東麓にある坂本は延暦寺や日吉大社の門前町で、老僧のための里坊が点在している。高齢の僧は厳しい山の気候を避け、下に降りて里坊に住んだ。いずれも穴太衆による石垣を配している。自然の石を加工せずに積み上げるもので、石の面や角の使い方や大小の石の組合わせに特色をもつ。本格的な石垣をもつ最初の城といわれている安土城の他、大阪城、彦根城、金沢城の石積も彼らの作品である。

滋眼院の受付けはまだ開いていなかったが、建物と庭は勝手に入れる。滋眼院は徳川家光が滋眼大師天海の廟所として建てたものである。裏庭には高島郡の鵜川48体石仏から移した13体が、ようやく上がりきった朝日をあびて立ち並んでいた。

滋賀院門跡は代々の天台座主の住まいであったところで白壁は豪壮・堅牢な石積みで支えられている。平安時代に築かれたという、少しのゆるみや崩れをみせずに苔むしている石垣は穴太衆の傑作で、見事というほかない。


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日吉大社

赤い鳥居をくぐってしばらく坂をあがると西の受付がある。時計は8時をまわったところで、私が無人の受付けの前でためらっていると三人の家族連れと犬を連れた若者がやってきた。散歩の男性と犬は毎朝の日課のように当然のように中に入っていった。私は家族連れに
「入っていいのでしょうかねえ」と、同意を誘うと、躊躇なく
「いいのでしょっ。開いているから」と、母親らしい婦人が答えた。
確かに通行止めの柵は除けられている。私も後につづいて受付を素通りした。

すぐに日本最古の石橋と伝えられている日吉三橋が大宮川に架かっている。メインが大宮橋、そのすぐ横に欄干のない素朴な走井橋、そして10mほど東に二宮橋がある。

この地域一帯は古墳時代から存在した神域で、山そのものを神体として崇拝していた。
以下、資料からの要約である。

天智天皇が都を大津に移す時大和三輪山の地主神を勧請してこの地にまつった。最澄の死後、延暦寺の繁昌とともに神の数も増え、いつのころかに豊前宇佐八幡宮から八幡神が勧請され日 吉大社に奉られるようになった。多くの神を総称して山王大権現とよんでいたが明治の神仏分離により今の日吉大社とよぶようになった。全国に3800余りある日吉神社の総本宮である。平安末期、叡山の僧兵が日吉山王大権現の神輿をかついでは大挙京にくだり宮廷に強訴を繰り返した。『平家物語』にも登場してくるその神輿が安置されている。

広大な境内は文化財の宝庫で東西本宮の本殿は国宝である。百棟もの社殿の中には日光東照宮の雛形として建立された徳川家康をまつる極彩色の日吉東照宮もある。私は結局家族連れの後を追って西本宮だけを見るに終わった。入口に戻ると出勤したばかりの中年の婦人が受付に花を飾っているところであった。そのまま出るのもためらわれ、事情を話して入場料300円払うと丁重にお礼を言われた。



比叡山延暦寺 

賎ヶ岳の経験から9時になるのを待ってケーブル乗り場にいくと、ここは8時から運転していた。日本最長という2025mのケーブルに11分乗って上に着く。途中トンネルを二つぬける。アーチ状の暗いトンネルを縁として、明るい緑のなかを線路がまっすぐ延びる風景が美しかった。

ケーブルをおりて7分歩くと広場に着く。 坂本は30度を越えていたがここでは5度低い。冷気とはいかないまでも朝のさわやかな空気を実感できる。蝉の声はすでに盛んで、誰がつくのか鐘が低くひびき伝わってくる。谷は深くゆうに100mを超える。延暦寺は国宝の根本中道がある東塔、釈迦堂が立つ西塔、そしてよ横川中堂の横川の三塔からなる。ここは東塔で、根本中堂を中心とする比叡山のベースキャンプといった所である。

延暦寺は伝教大師最澄が延暦4年(785)比叡山頂に一乗止観院を建てたことに始まる。天台宗の総本山で、後に法然、親鸞、日蓮、栄西、道元などの鎌倉仏教の祖師を輩出した日本仏教の母山でもある。京都・滋賀にまたがる山内には200余りの建造物があり、一大聖域をなしている。絶大なる力を持っていたため時の権力者との争いが絶えなかった。織田信長による全山焼き打ちの後、秀吉や家康の保護をうけて復興を遂げた。

根本中堂は巨大な建造物である。参道の端に立って、ズームをいっぱいに広角にしても入りきらない。後ろに石段が続いているのを幸いに、二段ごとにファインダーを覗きながら上っていき、ちょうど踊り場にきたところでレンズにおさまった。
根本中堂は二重構造になっていて、外郭の建物のなかに講堂がある。撮影をおえて講堂をみようと、門をのぞくと「是より先撮影禁止」という張り紙があった。にわかに興味をそがれて引き戻すことにした。

土産売場は今開いたばかりで若いアルバイト学生風の男が縁台にシーツを敷いたり、日除けパラソルを立てたりしている最中であった。青い頭の修業僧がほうきやバケツを手にかいがいしく建物の間を歩き回って、こちらも開店準備中である。朝のひとしごとが終って急に空腹をおぼえた私は、だされたばかりの縁台に腰をおろした。特産葛餅というのぼりにつられて一皿注文し、デザートに宇治金時をたのんだ。葛餅は秋の七草のひとつである葛の根を煮て寒天状にしたものである。寒天より歯ごたえがあり、甘酸っぱいつゆとよく合った。宇治金時はふんだんにかき氷にふくませた宇治茶の渋味と、あんこのたっぷりとした甘味が口にひろがり、夏場の即効性の疲労回復剤としてはうってつけのメニューではなかろうか。

まだ準備に忙しい二人のあいだで場違いな会話が交わされているのが耳にはいった。
「この下で死体があがったて」
「やらしいなあ」
「じきに警察がくるわ」
好奇心が押さえきれず、そっとおばさんに
「自殺でもあったのですか」
と問いただすと、声をひそめて
「ようあるんですよ」
とだけ答えて自殺とも殺人とも言わなかった。それは警察が調べることである。

ケーブル乗り場に戻る途中、県警のパトカーが一台谷側にとまっており、道に一人と、深い谷にむかって降りていく二人の警官の姿をみかけた。
「あったか?」
「もうちょっとむこうや」
道にいた警察官が、谷にいる二人を見下ろしながらつぶやいている。
「百メートルはあるなあ」
緊迫感などどこにもないのは、おばさんが言ったように、ここではめずらしくもないのであろう。私も谷底を覗き込んだが木や草が深くて隙間に獣道が見えるだけだった。こんな場所で死体を見つけたのは誰なんだろう、という疑問が先にたった。
山村美紗なら即座に「延暦寺殺人事件」と題して一冊のミステリーを書き上げるのではないか、などと考えながら比叡山をあとにした。


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唐崎

坂本から穴太の町を通りぬけ、三井寺に行くまでに唐崎の松をみていくことにした。万葉集にも芭蕉にも唐崎という地名がずいぶんでてくる。韓崎、辛崎、あるいは可楽崎とも書かれている。地名からは朝鮮半島とのつながりを思わせる。「枕の草子」に湖畔の名勝として紹介され、室町時代の終わりに「唐崎の夜雨」として近江八景のひとつに選ばれた。どれほどの名勝であるのか、見ておきたかった。芭蕉の句でも名高い。

 
辛崎の 松は花より 朧にて

湖岸道路からすこし住宅街にはいりこんだ湖畔に浮御堂の境内とおなじほどの空き地があり、松の一群がある。現在の松は三代目で、芭蕉が見た二代目は幹周囲が9mもあり、枝は多数の支柱に支えられた天下の名木であったという。 最初の松はいつ植えられたか定かでないが、伝承では天智天皇の頃とも推古天皇の頃ともいわれている。

 行く春を 近江の人と 惜しみける

芭蕉の有名なこの句も、唐崎に舟を浮べて行く春を惜んだときのものである。

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三井寺 

三井寺は通称で、正しくは園城寺という。大友与多王が壬申の乱で自殺した父大友皇子を弔うため、長等山麓の自邸を寺地として寄進したという伝承をもつ。

三井寺は比叡山延暦寺と対立関係にある。
延暦寺では最澄なきあと、弟子の円仁と円珍との両派間で、天台座主をめぐる派閥抗争が生じた。862年、円珍は園城寺の別当職となりついで天台別院となった。円珍の死後、円珍派は山内から一掃され天台別院園城寺にうつった。以来天台宗寺門派の総本山として園城寺を拠点とした。

比叡山に残った円仁派は山門と称し、円珍派は寺門とよんで天台教団は二派に分裂したのである。以後園城寺は両派の抗争、源平の戦乱、南北朝の動乱にまきこまれその度に焼失と再興を繰り返してきた。

堂々と立ちはだかる仁王門をくぐって数段の石段を登ると、最初に金堂と三井の晩鐘にであう。鐘楼につるされているこの鐘は、慶長7年(1602)に「弁慶の引摺鐘」を摸して造られたものである。重さは2.25トン、除夜の鐘の百八煩悩に因んで鐘の上部には108個の突起がある。鐘は自由に突くことができて、子供たちが順番に突くのを父親がカメラにおさめていた。

鐘の音は延暦寺で聞いたものより甘く女性的に聞こえた。延暦寺の鐘の音はもっと低くて腹に響いたような気がする。大晦日に行われる除夜の鐘は毎年「行く年、来る年」の場面でおなじみである。形の平等院、銘の神護寺とともに、音の三井寺は日本三銘鐘といわれ、その音色の美しさは、「三井の晩鐘」として近江八景のひとつに数えられ、日本の音風景百選にも選ばれている。

金堂は均整のとれた威風堂々とした大建造物で、取りつく島がないように思われた。
金堂の西側に、豪華な屋根をいただく厠のような長方形の小屋がある。閼伽井屋(あかいや)とよばれるこの建物のなかは暗くて、強い日光に慣れた目にはなにがあるのかすぐには判らなかった。古くからの湧き水があるらしい。この霊泉が天智、天武、持統の三天皇の産湯に用いられたことから「御井(みい)」という通称が生まれたそうである。閼伽井とは仏前に供養する水をくむ井のこと。建物の正面上部に名匠左甚五郎の龍の彫刻があったことはあとで知った。旅の後で案内書を読んで、悔やむことがよくある。

そこから石段をすこし上がったところに弁慶の引摺鐘が納められている堂がある。目のあたりにする鐘は大きい。下方部は手垢で黒光っている。鐘の一部が削られていて弁慶が比叡山までこれを引き摺っていった証拠であるらしい。

昔プロレスに夢中になっていた子供の頃、カナダから来たグレイト・アントニオという大男がいた。腰に鎖をつけたままリングにあがり、ただビクともせずに体当たりを受けるだけの芸であったが、リング外では4トン積トラックを、2台であったか3台であったか、肩にかけたロープで引っ張るというパフォーマンスを披露した。

そのことを思い出して、弁慶が釣り鐘を引き摺る様を想像していた。車輪があるのとないのでは比較にならない。それにしても比叡山までは遠い。しかもあの山上まで引き上げるとは頼もしい。ちなみにこの鐘は、俵藤太(後述)が三上山のムカデを瀬田川から射って退治したお礼に、竜神より貰ったものをこの寺に寄進したものだそうだ。伝説はスケールが大きいほど理屈をこねる必要がなくなって楽しい。

鐘の隣に弁慶鍋と呼ばれる半分こわれた馬鹿でかい鍋が展示されている。円周は鐘よりも大きかったかもしれない。なぜか弁慶は愛される人物である。牛若丸と五条大橋で出会っていなければただの比叡の荒法師に過ぎなかった。狭い堂内を一周する間、可愛らしい案内テープが流されていた。高校生くらいの少女の声で、滋賀方言そのままでやさしくけなげに鐘や鍋の説明をしている。職業的でない抑揚が小学校の学芸会をみているようで、どんな伝説も信じたくなるようにいとおしく感じられた。

三井寺は広大な伽藍コンプレックスである。案内図には一時間では見尽くせないほどの建物がある。その中から西国14番札所とある観音堂をみていくことにした。10分ほど歩かねばならない。
観音堂は静寂な金堂に比べると人の匂いが発散していた。美観をそこなう札や籤の類が所かまわず貼り付けられている。休憩所からは大津市街と琵琶湖が見渡せる。展望場所として人気がある。私のみた景観は、遠景の琵琶湖はかすみ、近景の町並みは新旧大小の建物が雑然と入り混じっていて、絶景とは言いがたかった。

帰り道の土産物屋に「大津絵の店」という立て札が目にはいって、10枚入りのセットと近江八景の版画セットを買った。この近くに大津絵の店の本舗があり寄っていくつもりだった。

どの寺院でもそうだが私はどうも仏像をまじめに鑑賞しようとする姿勢がない。多くが国宝級の文化財で、芸術的価値があることは承知している。ただ、宗教心がないことに加え、仁王像を除いて殆どが眠っているような無表情な顔で、仏の個体識別ができないのだ。猿でも個々に見分けられるという話しを聞くと、自分の無関心が恥ずかしい。
その結果、建物の写真を撮っただけですべてを見たつもりになっている。場所の雰囲気だけで満足している素朴な観光客である。

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大津絵 

徳川初期、大津逢坂の関のあたりに無名の画工が軒を並べ、東海道を往来する旅の客に信仰の対象として仏画を描き売ったのがその始まりである。大胆豪快な線は棟方志功の版画を思わせる。
1691年(元禄4年)の正月、義仲寺に隠遁していた芭蕉が


 
大津絵の筆の始めは何仏

と詠んでいる。仏画は以降、時代の変遷とともに諷刺、人物風俗、また和歌等を添えた道訓的な図等世俗絵に移っていき、構図も定型化していった。素朴で力強い線と単調な色彩、洒脱な描法が古典的な味わいを醸し出す。大津絵の画題は百数十種あるといわれているが、最も広く親しまれたものを選んで「大津絵十種」とよんでいる。

「鬼の念仏」は大津絵の代表的な図柄で、鬼のような心を持っていながら口先だけで念仏をとなえて奉加帳を捧げて喜捨を乞う偽善者の姿を描いたものである。
「藤娘」は藤をかざす素朴な美人図。鬼の念仏と共に大津絵の代表格だそうだ。



義仲寺 

湖岸道路から細い住宅街を入っていく。その道は旧東海道だというから、30余年前旧中山道を歩いた時通ったはずだが、夜に入り京へ急ぐあまり義仲寺を見なかった。
住宅が密集していて駐車場もなく、軒先のわずかな空き地に車を止めてなかにはいった。受付けでもらった案内書には20をこえる俳句があって、それらの句碑が庭でかくれんぼうをしているようにある。すべてが芭蕉の句というのではない。
案内書をたよりに芭蕉の句碑に直行して写真におさめた。まず資料館の前に、代表作の一つである句碑があった。


 
行く春をあふみの人とおしみける

奥まった所に墓が三つ並んでいる。
手前のいかにも人目を避けるようにあるのが義仲の側室、
巴御前の墓である。義仲の死後その墓所に草庵を結び密かに墓を守る尼僧がいた。里人はいぶかしがったがその女性は「われは名もなき女性(にょしょう)」というだけで、身を明かそうとしない。尼の死後その庵はいつしか無名庵と呼ばれるようになった。中をのぞこうとしたが玄関の戸には鍵がかかっていて引くことができなかった。芭蕉はこの無名庵が気に入って「骸は木曽塚に送るべし」と遺言したのであった。

巴御前の墓の隣が義仲の墓で、武将らしく立派なものであった。
芭蕉は木曾義仲のファンであった。次ぎの句は無名庵での作である。


 
木曽の情 雪や生えぬく 春の草

一番奥が、自然石のままの芭蕉の墓である。有名人の墓にしては貧弱な感じがしないでもないが、これが芭蕉の趣味なのであろう。木々の陰に隠れるようにある。その側に芭蕉最後の創作の句碑があった。

 
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

墓の前方には小さな池がしつらえてあって、その奥に芭蕉の名句の碑があった。笈の小文の旅に出る前の江戸にて詠んだ句であるが、池を造ったからにはこの句をほうっておくわけにはいかないとみえる。

 
古池や蛙飛び込む水の音

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石山寺 

膳所から北進、瀬田の唐橋を左手にみて右折し、瀬田川沿いに石山寺へ向かう。
三井寺にまけない広い駐車場と多くの土産売り場やレストランがある。車を出ようとすると店から女将らしき女性が出て来て私を呼び込んでいる。商魂は三井寺よりも盛んである。石山寺も三井寺も小学校の旅行できただけで、まったく記憶から消えていた。

大きな山門、東大門には仁王が睨みをきかせていた。木造のみごとな彫刻である。左手の仁王は顔が削られていてのっぺらぼうだったように思う。ここも三井寺と同じように全寺域は広大である。山寺である分だけ歩くのにさらに骨が折れる。本堂で紫式部に挨拶をして月見亭から芭蕉の気分を味わうだけにした。

石山寺からみる琵琶湖に映える秋の月の美しさは「石山の秋月」として近江八景の一つである。木曽姨捨の「田毎の月」、土佐の高知の桂浜と並んで日本三名月とも言われた。芭蕉が南近江に滞在中は、旧暦8月15日になると欠かさず石山にきて観月の句会を楽しんだ。瀬田川流域はまた源氏蛍の名所でもある。芭蕉はここの蛍も大好きで、梅雨時になるとここを訪れては船をうかべて蛍見をしている。

大きな硅灰石のかたまりの上に1194年建立という日本最古の多宝塔が見下ろすように立っている。硅灰石は石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触しその熱作用のために変質したもので、通常は大理石となる。左右は紅葉が傾きかけた日の光をあびて黄緑色に輝いている。ここも指折りの紅葉の名所である。
マミヤを取り付けて三脚をいじっていると、ベンチで休んでいた品のよい老夫婦が声をかけてきた。
「写真が好きなんですね」
「ええ」
「いいご趣味で。どちらから?」
「埼玉から。生れは滋賀ですが……。この年になると坂はきついですね。あそこまではとても登れない」
「60ですか」
「54です」
「若いですね。うらやましい。私は74で、家内は68ですよ」
「お元気ですね、とてもそんなにはみえません。私もまだまだ旅行できるのですね」
「私たちは毎年旅行してます。ヨーロッパは全部行きました」
「ヨーロッパはいいですね。歴史があって……。アメリカは?」
「アメリカはまだ行ってません」
「そうですね。歴史はないし……。――ただ広いのがいいですよ。アメリカもいってみて下さい」

二人をあとに残して本堂に向った。紫式部がそこで『源氏物語』の構想を練ったという「源氏の間」が本堂の中にある。近年、室町時代以前のものという紫式部の肖像画が石山寺で見つかったという。
網の向こうの三畳ほどの薄暗い狭い部屋に、小柄な女性が空ろなまなざしをこちらにむけていた。その後ろにさらに小柄な侍女が控えている。源氏物語の筋書きを練っているというよりは囚われの身であるように見えた。夫をなくしたのが1001年、紫式部が32歳の時。その後まもなく物語を書き始めた。私を見つめる女性はたしかに三十代の容貌をしていた。

 
独り尼 藁屋すげなし 白つつじ

芭蕉が石山寺に参詣して源氏の間を見たときの句といわれている。私が見た紫式部は芭蕉のときもいたのだろうか。

堂内も薄暗く、奥に立派な仏像がみえる。カメラを構えようと思ったが「堂内撮影禁止」という標示に気付いて止めた。これも私が仏像になじめない言い訳である。

石段を登って多宝塔を間近に見る。丸みをおびて優美である。さらに坂を登ると道はふたてにわかれて左は「恋のみち」とあった。源氏物語にちなんだ源氏苑や紫式部の像に至る。二台のカメラがやけに重たくて、恋のみちは諦めた。

右は帰り道で、すぐに月見亭があった。芭蕉がみた仲秋の名月はここからの眺めだったのであろう。木々の合間から瀬田川を見下ろすと四人の学生がボートを漕いでいくのが見えた。

 
名月は ふたつ過ぎても 瀬田の月

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瀬田の唐橋

唐橋の西端に「俵藤太 百足退治伝承の地」の石碑が立ってある。まだ新しそうだ。
 
(前略)藤太は承平年間(931―38)、瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で 困っていた老翁(竜神)の願いを聞きいれ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で見事に退治した(後略)
 
35年前の中山道旅行でみた石碑の内容よりは簡略になっている。日付をみると平成9年となっており建ったばかりのものであった。そのごほうびに藤太がもらったのが弁慶の釣り鐘ということにつながっていく。俵藤太(幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田秀郷といわれた)、本名藤原秀郷は藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の子孫と伝えられている。生没年不詳。平安中期の武将で下野国(栃木県佐野市)を本拠に勢力を広げ、940年に平貞盛とともに平将門の乱を鎮圧した。朝廷での地位も高く名門武家の一人に数えられている。本拠は関東だが朝廷との行き来の中で瀬田の唐橋を渡ったのだろう。そこで竜神が待ち受けるほど有名な武将だったということらしい。

唐橋から西南を見渡すと川べりに旅館が立ち並び屋形船がいくつも繋がれている。芭蕉が月や蛍を愛でながら酒を楽しんだのはここから出る屋形船の上でのことだったのであろう。

 
五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋
 
この螢 田毎の月に くらべみん
 
蛍見や 船頭酔うて おぼつかな


瀬田の唐橋は大津・志賀の旅の終点(東からみれば起点)である。ここから東は「湖南」に入るのであるがまだ肌にピンと来ない。大津、瀬田などこれまでが湖南でなかったかといえば嘘である。

2000年8月)
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