大津街道 



山科追分−小野−深草

いこいの広場
日本紀行



大津街道は伏見から小野を経て大津にいたる道だが山梨の髭茶屋追分からは東海道と合流して大津宿に向かう。東海道の視点からみれば、山科追分から蹴上をへて三条大橋でおわる東海道53次を、1615年の大坂夏の陣以降、家康が伏見経由で大坂まで延長した東海道57次の最終区間の一部にあたる。

街道の名からすれば伏見を起点に歩くのが筋だが、ここでは東海道の延長部分として追分から伏見に向かって歩くことにした。

大津市追分町の名神高速の下で旧東海道は国道1号と分れて左に入っていく。200mほど進んだところで道が二手に分かれ、旧東海道はそのまま直進し、大津街道が左にはじまる。街道の右側は大津市追分町、左側は京都市山科区髭茶屋屋敷町である。分岐点に
追分道標があり、「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と書かれている。大津街道もここからみれば伏見街道である。

沿道には、土壁に虫籠窓の民家など古い家並みが残っている。音羽病院の前から左にまがり、ラブホテルやパチンコなどが並ぶけばけばしいコーナーで国道1号を地下道で潜り、山科川を音羽橋でこえて山科大塚交差点で再び国道1号を横断する。東海道新幹線ガード手前の民家の前に古い道標が立っている。「左大津道 右宇治道」とある。左はまさに大津街道だが、右宇治道とあるのは、このルートが元来の奈良街道であったことを示している。

現在も府道35号(後につづく36号とも)でみる標識は京街道でも伏見街道でも、大津街道でもなく、
「奈良街道」とある。古く東海道、東山道、北陸道など東からきた旅人は京に入らず山科、宇治経由で大和に向かった。現在の京都から伏見観月橋経由の幹線道路である国道24号は秀吉が伏見の南に広がる巨椋池湿地帯に堤を築いて整備した新しい奈良街道である。

新幹線をくぐって立派な門構えの前にある「北大塚」バス停の先に、
「皇塚」と刻まれた石碑が石垣に囲まれた塚上に立っている。大塚・王塚・皇塚などとも呼ばれ6世紀ころの円墳跡で桓武天皇陵とも伝えられる。このあたりの地名「大塚」はこれにちなんだものらしい。

西鶴『好色五人女』巻三の主人公、おさんと茂兵衛の墓があるという
宝迎寺の前を通る。長屋門風の珍しい山門だが、入り口が柵でふさがれていて、勝手に出入りできそうになかった。舞台は四条室町の大経師屋。亭主の出張中に人妻おさんと手代茂兵衛の間でちょっとした手違いがあってそれが抜き差しならぬ不倫に発展した。逃避行の先、丹波柏原にも二人の墓があるという。ここ宝迎寺の墓の由来については知らない。

築地塀をめぐらせた風情ある民家が残る大塚・大宅地区を通っていく。「大宅甲ノ辻」バス停の奥に「岩屋神社のお旅所」の大きなきな石碑があり、その先右手に裸になった榎木の大木がそびえる
大宅一里塚がある。説明板にははっきり「東海道から分岐した奈良街道の一里塚」と記されていて、「京街道」の意識が薄い。ここから東海道との分岐点までは3kmすこしで一里にはたりない。東海道の一里塚を引き継いでいるとすれば123番目の大谷一里塚からとなるが地図で計かれば4.4kmとすこし長い。およそその中間で、道筋の変遷を考えれば、どちらかであったのだろう。

名神高速のガードを潜り、山科警察署前の信号のある丁字路交差点で右斜め前の旧道に入る。旧道の雰囲気をのこす住宅街をぬけると高川の十字路にさしかかる。京街道(東海道)はここを右折していくが、直進する道は
旧奈良街道で宇治に向かう。醍醐寺前を通るので醍醐街道ともよばれる。高川をわたって醍醐街道にはいったところに小野御霊町というちょっと気になる町がある。隣接してある「小町センター」とあいまって、ここは小野小町にゆかりある土地らしい。

このあたり小野郷は小野氏一族が栄えたところで、仁明天皇の更衣だった小野小町も宮中を退いた後この地で過ごしたとされている。その場所へ小町会いたさに毎夜1里をこえる道のりを通ってきた男がいる。次の宿場伏見にすむ深草少将で、100日間通い続けたら契りを結んでもよいといわれていた。満願直前の99夜目に、運悪く深く積もった雪の夜道で凍死したとも、大事な日に体調をくずして代役を送ったのがバレたともいわれている。能作家の創作だがなんとも惨めな男の話ではある。どこかにモデルとなったまめな男がいたのかもしれない。

随心院は真言宗善通寺派の大本山で正歴2年(991)仁海僧正の開基による古刹である。境内には小町が住んでいたという屋敷跡に残る化粧井戸がある。竹垣にかこまれ小粒の石積みは整いすぎて情緒に欠ける。それよりも寺を囲う素朴な土壁の築地塀に沿った「小町庭苑」のほうが鄙びた野趣に富んで風情があった。薄暗い木立の中に小町塚侍女の塚、そして深草少将の手紙を埋めたとされる文塚などが休んでいる。

全国にある「小野」と名の付く土地にはなんらかの小町伝説があるが、さしずめここは京の郊外でもあるし本場といってもさしつかえなかろう。小野梅園をみて小町の故郷をあとにした。

大津街道にもどり
勧修寺に向かう。すぐ北の小野小学校ちかくに旧東海道線山科駅があった。明治13年京都・大津間の鉄道が開通してから大正10年に現在の東海道線に付け替えられるまで、線路は馬場(膳所)、大谷、山科(小野)、稲荷(現JR奈良線稲荷駅)を経て京都駅に至った。JR奈良線稲荷駅には当時の遺構であるランプ小屋が残されている。

勧修寺橋で山科川をわたり突き当たった勧修寺門前に文化元年(1804)の「南 右大津 左京道」「北 すくふしみ道」と刻まれた
道標、愛宕常夜燈など古い石碑が並んでいる。「右大津」が今来た道で、「すぐ伏見」とあるのはこれからゆく道である。京道とは丁字路を右(北)にとる道であろう。もとはどこに建っていたのか、南北の位置関係はよくわからない。

勧修寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇の創建による門跡寺院である。白壁がまぶしい長い築地塀の先に入り口がある。山門からして寺というより平安時代の宮廷の香りが漂う空間である。
宸殿、書院は明正天皇の旧殿を下賜されたもので、清楚にして品のある建物である。開けた芝生庭には氷室池がひろがり中島の樹上にアオサギが巣を作っていた。池のほとりに建つ観音堂は昭和に建立された新しいもので、中をのぞくと雪のような白い肌をした観音が薄目をあけてニヤッとしているように見えた。かって池はさらに南に広がっていたが秀吉が伏見城築城のさい、新道建設のために埋められた。その新道こそが伏見から小野で奈良街道に合流して東海道につうじる大津街道だったのである。

勧修寺の南側をまわりこむようにしてゆるやかな坂を西に向かうと名神高速にぶつかる。高速道路沿いに進み長い坂をのぼりきったところで山科区から伏見区にはいり、街道は高速道路をはなれて左へ曲がって竹薮の間を下っていく。


京都ピアノ技術専門学校の先で、右斜めに入って行く。わずかながら連子格子、虫籠窓、犬矢来など京町家の家並みが残っている。深草谷口町交差点で府道に合流する。手前の橋袂に「仁明天皇御陵」、「桓武天皇陵」と刻まれた石標があった。

府道を100mほどすすんで左の路地に入り、つきあたり丁字路を鍵の手に右・左とまがり、天理教会前でJR奈良線をわたる。JR藤森駅前で右折して京都教育大、藤森神社参道入口を通って本町通りの伏見街道に出る。ここが
大津街道の伏見起点である。この後、伏見街道から伏見の町をジグザグに対角線上に通り抜けて竹田街道の終点、京橋にでる。ここが東海道54番目の宿場伏見宿の中心地であった。

(2008年4月)

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