竹田街道 



東洞院塩小路−竹田−伏見京橋

いこいの広場
日本紀行



竹田街道は、江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つである
竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた。同じく京と伏見を結ぶ伏見街道の西方にあって、伏見街道が名所旧跡に富んだ観光ルートであったのに対し、竹田街道はもっぱら牛車による物資の輸送を目的とした産業道路であった。

「口」とは出入り口としての土塁の切れ目である。豊臣秀吉が京に聚楽第を建ててその権力の頂点にあったとき、京都を土塁と堀でぐるりと囲った。土塁は
御土居(おどい)とよばれ洛中、洛外の境界をなした。現在の京都駅付近の御土居は七条高倉から高倉通りを南下し、塩小路と八条通りの中間付近で西に折れ、油小路を南下して九条通りで再び西に延びていた。この前半の部分、七条高倉からセンチュリーホテルの南側にかけて逆L字形のいびつな形をした東塩小路向畑町がある。この区画が御土居の築かれた場所であろう。東塩小路向畑町の西端、現在の京都駅ビルに接する所に御土居の竹田口があった。その南北の通りを東洞院という。

現在の竹田街道(府道115号)はJR京都駅の南側、東洞院八条の竹田街道八条交差点から始まっている。京都駅が現在地より北寄りの塩小路通り近くにあったころ、竹田街道は八条からそのまま東洞院通りを上がって塩小路交差点に通じていた。ここが近代の竹田街道起点である。明治28年(1895)ここから我国最初の電気鉄道(後の京都市電)が伏見に向けて出発した。交差点の南西角に
京都市電発祥の地の石碑が建っている。

南に向かって歩き出す。すぐに駅ビルに隣接する建物にぶつかる。JR忘れ物センターがある。このあたりが御土居の竹田口があった場所だ。線路に沿って高倉通りにでて、陸橋を迂回して竹田街道八条交差点にでる。

九条大石橋交差点を東にはいった陶化小学校の正門内に、竹田街道に敷かていた
車石が残されている。伏見港と京との物資輸送を担う牛車がぬかるみで立ち往生しないように、わだちを削った敷石で街道に牛車専用レーンを設けた。鉄道線路のように厳格でなくとも、牛車の車輪幅は一定だったということか。分厚い石で、これを延々6kmも並べるのはさぞかし大変な工事であったろう。

隣に立つ
「石敢当」(せきかんとう)と刻まれた常夜燈は安政元年(1854)建立のもので、鴨川に架かる勧進橋に建っていたものである。

竹田街道札辻交差点にさしかかる。オフィスビル街からはじまった竹田街道だが、ここにきて「札辻」の地名といい、煙り出しを乗せた大きな屋根に虫籠窓、格子、駒寄せを添えた風格ある町家のたたずまいが旧街道の趣をみせはじめた。四つ辻の角に「宇賀神社参道」と刻まれた石標がたっている。100mほど東にはいっていくと左手奥に小さめの宇賀神社が鎮座している。藤原鎌足ゆかりの宇賀塚の地で、神社は東九条村の産土神として崇敬されてきた。このあたり東九条一帯は藤原家の名門九条家が屋敷を並べたところである。神社の道向かいにも、白壁土蔵に格式ある門塀をめぐらせた立派な屋敷が構えていた。

街道にもどり、米俵に福助看板が愛らしい
広瀬米穀店を右に見て、竹田街道十条交差点で国道24号と合流する。旧道は交差点のすぐ先で国道とわかれて町工場の脇を右にはいってすぐ左折し、久世橋通りを横切って公園横の堤防に出る。この辺りに旧勧進橋が架かっていた。陶化小学校でみた石敢当もこの辺にあったのだろう。旧街道は橋を渡って対岸の勧進橋東公園に続いていた。

南区と伏見区を分ける
勧進橋を渡り、勧進橋東公園を斜めに抜けて国道24号沿いの緑地帯の西側を下っていく。歩道橋のところで国道と合流するが旧道はまもなく、東高瀬川を渡り竹田久保町交差点の手前(京都高等技術専門校の標識が目印)で、右斜めに入っていく。民家の間の狭い道をぬけると東高瀬川に沿った道がつづく。左手は畑地になっていて行き交う人もいないひっそりとした細道だ。

東高瀬川は角倉了以が開いた伏見と京都を結ぶ運河のうち鴨川以南をよぶ。かっては鴨川をよこぎる一本の水系であったが昭和になって鴨川で分断され、南北で二つの独立した水流となった。鴨川以北の京都木屋町をながれる情緒あふれる高瀬川とはちがって、伏見区を縦走する東高瀬川は雨水を集めた排水路と化している。川幅もせばめられたのであろう、とても高瀬舟が行き交う流れではない。

やがて旧道は広い通りを横断し、名神高速の下をくぐってまもなく川から離れて城南宮道の手前で国道に合流する。十条交差点からここまで旧道をあるいてきたが、旧跡も旧家もなく、ただ道順をたどっただけだった。城南宮道入口には「城南宮参詣道」と深く彫られた石柱が建っている。この道をまっすぐ西にいけば白河上皇院政の地、城南宮に至る。地理的には
鳥羽街道に近く、そのときに訪ねよう。

竹田街道は深草加賀屋敷町交差点で国道とわかれ、近鉄京都線のガードをくぐりそのまま南に向かう。七瀬川をわたった先が
棒鼻交差点で、ここは竹田村と伏見領の境界であった。駕籠の立継場所があったことから棒鼻の地名が生まれたとされる。現在の竹田街道がここで東西二手の一方通行道路に分れているが、真直ぐに続いている南一方通行の道が旧街道である。このあたり沿道に旧街道らしい雰囲気が漂ってきた。玉乃光の酒蔵を通り過ぎ、濠川(ほりかわ)に架かる「 土橋」をわたる。濠川は豊臣秀吉が伏見城を築いた際、外堀を兼ねて築城用物資の運搬水路として掘られた。

土橋の先の信号で鍵の手におれて南へ下っていく。竹田街道大手筋交差点を越えるといよいよ伏見宿の中心地にはいっていく。右手に焼板壁の
長屋風木造家屋が連なっている。倉庫のようにみえて、屋敷のようでもある。気になる建物だった。

油掛通り交差点角に「駿河屋の羊羹」で知られる老舗京菓子店、
伏見駿河屋本店が昔ながらの店を構えている。寛正2年(1461)岡本善右衛門が伏見で「鶴屋」と号する饅頭処をひらいたことにはじまる。羊羹は天正17年(1589)4代目善右衛門が創案した。

その店先に
「電気鉄道事業発祥の地」の記念碑が建っている。東洞院塩小路の碑と対をなすもので、明治28年(1895)日本で初めての営業電車が京都駅前からこの伏見油掛通りまでの約6kmの区間に開通した。その路線はここまで歩いてきた旧竹田街道の道筋そのものである。

伏見城の外堀である宇治川派流に架かる小さな橋が
京橋で、ここが伏見港の中心をなした。旧竹田街道の終点である。京橋の東側は公園化された船溜りで、かっては宇治川・淀川水運の担い手であった10石船や30石船で賑わった。このあたりはまた東海道伏見宿の中心地でもあって参勤交代をする西国大名が投宿した。京橋を中心に「南浜」付近には本陣、脇本陣のほか数十軒の旅籠が軒を連ねた。さらに角倉了以が高瀬川を開削し京都と大阪が水運により結ばれるようになると、高瀬舟が加わって伏見港に舟が集中するようになった。京橋界隈には問屋、廻船問屋、船宿が立ち並び、京橋北詰には高札場、南詰には船番所、船高札場などがあったという。

当時の面影を伝える建物は薩摩藩が定宿にしていた船宿
「寺田屋」のみである。。京橋北詰を東にはいったところに軒提灯を吊るした旅籠が建ち東側の庭(元来の寺田屋敷地)には歴史を刻んだ石碑が集められている。ここで幕末二つの事件が起こった。

文久2年(1862)の寺田屋騒動。薩摩藩急進尊皇派の9名が公武合体をもくろむ島津藩主の父島津久光によって粛清された。薩摩藩九烈士殉難の碑が立つ。

慶応2年(1866)の坂本龍馬襲撃事件。恋人お龍は風呂から裸で飛び出して危機をしらせ、龍馬は危うく難をのがれた。このあと二人は九州へ日本人初の新婚旅行にでかけていった。庭には龍馬の小さな像がたち、人から馬鹿にされていた十代の頃に詠んだ歌碑がある。

「世の人はわれを 何とも言はばいへ わがなすことは我のみぞ知る」 
要するに「他人のことは気にせず、自分の思うとおりに生きる」というありふれた内容である。哲学者西田幾太郎も「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」と、同じようなことを言っていた。

寺田屋から蓬莱(ほうらい)橋で中書島にわたり東柳町を川に沿って長建寺までの道は両岸に柳と桜と紫陽花が植え込まれた情緒ある散歩道である。対岸に立ち並ぶ建物は
月桂冠の酒蔵で、裾の黒ずんだ板壁に漆喰の上部壁と窓縁の白さが一段と目だって清楚な上品さを醸している。

橋の手前に、赤い土塀と竜宮門がなまめかしい
長建寺がある。本尊の弁財天は水の神であり、また遊女の守り神でもあった。三方を川にかこまれたここ中書島は元禄のころに遊郭ができ、近代になっても新地として名を馳せた関西屈指の歓楽街である。

川には
十石舟サイズの舟がつながれている。オフシーズンでブルーシートに覆われているなかで一艘だけ龍馬号が顔を見せていた。

対岸にわたり月桂冠酒蔵の正面にでる。
月桂冠大倉記念館は酒の博物館として酒造りや日本酒の歴史、昔の酒蔵用具を展示している。建物は虫籠窓、格子、犬矢来を備えた厨子二階で典型的な京町家造りである。正面からみると白壁虫籠窓、木格子、竹矢来が織りなす縦線構造が実に美しい。

月桂冠の旧本店社屋を活用したおみやげ処
伏見夢百衆は壁から直線の犬矢来まで黒基調のの落ち着いた建物である。寺田屋からこのあたりまでの南浜(浜の南が川に面している、つまり川の北岸)が伏見港の中心であった。

京橋にもどり、伏見港公園に寄って竹田街道を締めくくる。濠川(ほりかわ)が宇治川に流れでている。現在の竹田街道、府道115号は京都外環状線(府道79号)との合流点、「竹田街道外環」交差点で終わる。

(2008年4月)

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