哲学の道 


いこいの広場
日本紀行


京都東山に「哲学の道」とよばれる小路がある。2km足らずの短い散歩道で、街道となづけるほどの道幅もない。そもそも江戸時代にはなかった道で、明治時代の半ば、琵琶湖疏水の建設にともなってうまれた小径である。

この道を哲学者西田幾太郎や経済学者河上肇などが歩いて思索にふけったことから「哲学の道」とよばれるようになった。ドイツ最古の名門大学都市ハイデルベルグを流れるネッカー川の向こう岸にゲーテやニーチェも散策したという元祖「哲学の道」があって、ドイツ哲学にあこがれた京大生たちが名付けたともいわれている。

いずれにしても、思いをめぐらすためには観光客の少ないオフシーズンでしかも平日の早朝に歩くのがよい。いまや桜の名所となっていて、花見の季節は人ごみで歩けないほどの混雑ぶりだといわれている。哲学の道自体は若王子神社から銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋までの1.8kmの疎水べりの散策路であるが、もうすこし下って南禅寺あたりまでを含めた道を歩いてきた。

四条烏丸から錦市場を見て京極通りを三条まで上り、そこから東に向かって高瀬川、鴨川を渡り、平安神宮参道の次の中之町信号交差点を北に入る。入口に「三条通 東大津道」「左 動物園 真如堂 黒谷道」と刻まれた道標が立っている。この辺りは京七口の一つ粟田口があった場所で、東海道・中山道への出入り口であった。

京都はおよそ40年前、5年ほどを過ごした町である。地下鉄が整備されたほかは余り変わっていない。大きな町全体が超一流観光地で、路地の隅々まで千年の古都を偲ばせる洗練された雅が残っている。古さにおいて奈良にかなわないが、スケールの大きな極上の優雅さにおいて京都をしのぐ町はないであろう。ローマが奈良なら京都はパリである。

京懐石美濃吉本店「竹茂楼(たけしげろう)」の前を通りすぎその先の四辻を右に折れる。南禅寺に通じる門をくぐると閑静な屋敷町に入り、左側には長い竹塀と黒板塀の囲いが続く。竹塀越しに見事な赤松がその肌をみせるのは懐石料理瓢瓢亭で、その隣の武家屋敷を思わせる白壁黒板塀をめぐらす広大な敷地は、明治の元老山県有朋の別荘
「無隣庵」である。黒板塀がつきると南禅寺前交差点に出る。

琵琶湖疎水インクラインが交差点を横切っている。琵琶湖からトンネルを潜って蹴上まで引かれた疎水は、蹴上発電所取水口から動物園前の船溜りまで水路に沿ってレールが敷かれ、船を台車に乗せて引き上げた。その軌道の終点に琵琶湖疎水記念館がある。琵琶湖疎水はいくつかの水路を経て鴨川、宇治川にでて大阪の土地をも潤している。

参道をすすむと
南禅寺の黒々とした巨大な三門が立ちはだかっている。知恩院、久遠寺とならぶ日本三大門の一つで、楼上から見渡す京の景観は石川五右衛門に「絶景かな絶景かな」といわせたほど素晴らしい。南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、文永元年(1264)、亀山天皇の離宮が起こりである。室町時代に隆盛を極めた。卒業旅行の季節であろうか、制服姿の学生集団と引率の教師、バスガイドの光景があちらこちらに見られた。修学旅行団体は京都の風景の一つに組みこまれている。 

境内の奥、右側にはいったところに赤レンガを積み上げた美しいアーチ型水道橋がたたずんでいる。近代土木構築物と中世の寺院建築物が違和感なく共存する一見奇妙な空間である。橋の上を琵琶湖疏水が流れる。南禅寺は敷地の一部を提供した見返りとして寺域内に疏水の水を取り入れた。
水路閣で写真を撮りあう観光客の数は三門よりも多かったように思う。特に若い二人連れに人気があった。

三門前の道にもどり「哲学の道」の案内標識にしたがって鹿ヶ谷通りを北に歩く。寛永12年(1635)創業というゆどうふ総本家「奥丹」、野村美術館を左に見て、右手はレッドソックス岡島投手の垂れ幕がかかる東山高校と禅林寺永観堂の前を通る。若王子神社入口の辻を右に入って突き当たりに熊野若王子神社があり、その前を流れる琵琶湖疏水分線に沿った小路が哲学の道である。

岸壁はほぼ垂直の緻密な石積みで、水は浅くて清らかな流れである。桜並木は寒々として静かであった。もう2週間もすればすれ違うのも困難なほどの人出になるのだそうだ。思索をめぐらせて歩くのもよいが、頭を空にしてうつろに歩くにもよさそうな道であった。


水路の幅は狭いため、車道のほかに数歩でまたげるほどの歩道橋が気軽に架けられていて、両岸の生活域の間に距離を感じさせない。ある小橋をわたるとしだれ梅が咲き誇る水辺があった。その先の橋もとに信楽狸をおいた和菓子店は安政2年(1855)創業の茶店からはじまったという
五建外良(ういろ)だ。

哲学の道の東方にはいくつかの寺社がるが、是非寄ってみたいのは
法然院であろう。鎌倉時代の初め法然上人が建てた草庵で、江戸時代になって知恩院の38世万無心阿(まんむしんあ)上人が再興した。趣ある茅葺の山門をくぐると狭い境内に白砂壇、本堂、方丈、湧水、苔庭などが寄り添うように配置されて庵にふさわしい愛らしさをたたえている。

参道の山側にある墓地は著名人の墓で知られ、谷崎潤一郎の他哲学者九鬼周造、経済学者河上肇などの墓をみた。九鬼周造といえば『「いき」の構造』で知られる。上品−下品、渋み−甘み、派手−地味、意気−野暮、の4組の対立概念とそれらの相関関係を図示した四角柱は有名である。意気は派手ながら上品で渋くなくてはならない。地味に下品な甘さを見せる男は最低ということである。

高校時代、社会科の先生が青年の必読書として5冊の哲学書を黒板に書き上げた。
西田幾太郎『善の研究』、九鬼周造『「いき」の構造』、和辻哲郎『風土』、阿部次郎『三太郎の日記』、そして倉田百三『愛と認識の出発』。

哲学の道は銀閣寺橋で終わる。食べ物屋、みやげ物屋が立ち並ぶ。プロだろうか、学生アルバイトだろうか、人力車夫が愛想をふりまいている。橋のたもとに西田幾太郎の石碑が建っていた。碑には
「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」の文字が刻まれている。のちに伏見を歩いたとき、寺田屋にあった坂本龍馬の歌碑をみて、おやっ、と思ったものだ。世の人はわれを何とも云はばいへ わがなすことは我のみぞ知る  龍馬

十代の龍馬が土佐城下でバカ呼ばわりされていたころの歌だという。西田幾多郎の人生哲学と同じではないか。有名人にしては映画のタイトル
Going my way(我が道を往く)」になるくらいのありふれた言葉である。

散策の打ち上げに、賑やかな参道商店街をぬけて
銀閣寺をみた。あいにく銀閣そのものは大修理中で鉄パイプに囲まれていた。


(2008年3月)
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