立木神社・道標 草津4丁目 草津市 滋賀県 
24cmx17.5cmx213cm 江戸時代(延宝8年=1680年)
「刻銘」
(南面)   伊勢太神宮 延宝八庚申年
(カーン)七ヶ年中履行月参詣願成就所  みぎハたうかいとういせミち  山城愛宕山 十一月吉日
(西面)                        京みぶ村
       ひだりは中せんたうをた加みち   万宝院
                          あしだの行者
 刻文よりこの道標は、東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分に建てられている文化十三年銘石道標(1816年)の前身のものと推定されます。道標の建立年代は、「延宝八庚申年」(延宝八年=1680)と刻銘にあり、滋賀県下で最も古いものです。 建立の背景については、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人物が、伊勢太神宮と山城愛宕山(愛宕神社)への7年間毎月の参詣成就を記念・感謝して建てられたものと推定されます。  草津市教育委員会
立木神社由緒 祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 創立と由来
称徳天皇神護景雲元年(767年)六月二十一日命、常陸国鹿島を立ち給い(旅立つことを鹿島立ちというのはこの縁による)この地に着き給う。よって里人新殿を創建して命を斎祀し奉ったのが、当神社の起源であると伝えられる。この時命、手に持つ柿の杖を社殿近くの地にさし給い「この木が生えつくならば、吾永く大和国三笠の山(今の春日大社)に鎮まらん」と宣り給いしが、不思議にも生えつき枝葉繁茂す。人々その御神徳を畏み、この木を崇め社名を立木神社と称し奉る。
崇敬と神徳
 光仁天皇宝亀八年(777年)大旱魃にて琵琶湖の水涸渇す。ために天皇中臣諸魚を以て勅使とし、当社に遣わし雨乞いの祈願をせしめられしところ、忽にして霊験ありて大雨沛然と降り万物蘇生す。天皇殊の外嘉し給い殿の造営を命ぜられ、立木大明神の勅願を下し給う。桓武天皇延暦五年(786年)正一位の神階を授け給う。征夷大将軍坂上田村麿(田村神社祭神)東北鎮圧するにあたり当社へ大般若経一部を寄進して道中安全を祈る。室町時代には将軍足利義尚は武運長久を立願して四脚門を奉建し、江戸時代には膳所城主尊崇あつく、代々社領を寄進し、また社殿の造営にも力を尽せり。かくの如く当社は古来より朝野の尊敬厚く、又五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁昌、交通安全、厄除開運、火災鎮護並びに勧学の大神として新徳高く広く庶民の信仰を蒐め来る。

以下略 昭和51年10月吉日記  立木神社社務所