轟地蔵旧跡と轟橋 現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文1806年)には、この場所に画がかれている。平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池・・・」と歌われ、その轟にあやかって名付けられた。轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。慶応元年(1865年)の福生寺の絵図には轟地蔵の記載がなく恐らく明治以後橋改修時に移したものと考えられる。往時轟川の川巾は挾く三枚の石橋が架かっていた。轟橋と呼ぱれ、その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。 近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首 堀川百首 わきも子に近江なりせばさりと我交も見てまし轟の橋 兼 昌 夫木集 旅入も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし 覚 盛 古歌 あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋 読人不知 この案内板及び轟橋の欄干は「創意と工夫の郷づくり事業」で設置されたものである。 平成12年1月吉日 東老蘇町づくり実行委員会 |