東海道−1 



日本橋銀座新橋・芝・高輪品川川崎神奈川保土ヶ谷


いうまでもなく東海道は五街道のうちで最もはやく整備され、最も利用され親しまれてきた道である。品川を第一の宿とし大津を最後の宿として、京都まで53の宿場を継いで492kmの街道を行く。日本橋たもとの里程標には京都まで503kmとある。ちなみに「国道時刻表」によれば現在の国道1号線は烏丸五条交差点まで518km、国道2号線との接続点である大阪梅田新道交差点まで565kmとある。

東海道は普通、日本橋から京都三条大橋までの53次をいうが、京都を迂回して直接大坂まで行く場合は、大津の追分から伏見にでて、淀、橋本(八幡)、枚方、守口を通る京街道で大坂高麗橋に出た。家康は西国大名の京入りを避けるため、参勤交代にはこのルートを指定したという。京街道は東海道の延長として考えられた。国道1号に沿うならこのほうが忠実ともいえる。


日本橋

五月晴れの日曜日、7つ立ちとはいかないが、7時半に三越前を立った。週末の早朝とあって、現代のお江戸日本橋は驚くほど静かだ。時の利をえて橋の中央、国道の真ん中に立って、足元に埋めてある
「日本国道路原標」の写真をとることができた。中央分離区域内にあっても時には車に踏みつけられるのだろう、「元標広場」の複製よりも丸みを帯びて味わい深い顔をしている。この地点はもともと「東京市道路元標」が立っていた場所である。市電の廃止とともに元標は日本橋北詰の「元標広場」に移設され、その跡に「日本国道路原標」のプレートが埋め込まれた。さらにその上空には「東京市道路元標」にそっくりな「道路元標地点」の標柱が二本の高速道路にかかえられて吊るし上げられている。高速道路をいきかう車のために、この真下が日本橋で、前は東京市道路元標が立っていて、今は日本国道路元標が埋めてある場所だよ、と教えるものだそうである。


日本橋の南詰め、東海道の起点周辺には近江商人の大店が暖簾を連ねていた。最初左手に見えるのは八幡商人西川甚五郎が永禄9年(1556)に創業した西川ふとん店である。

その南、日本橋交差点角にはかって白木屋が壮麗な近代的百貨店を構えていた。寛文2年(1662)
長浜商人大村彦太郎が日本橋に小間物屋を開いたのが始まりである。日本における百貨店第1号となった白木屋の2代目当主、大村彦太郎がここで井戸を掘ったところ清水が湧き出た。1711年のことである。塩分の多い悪水に悩んでいた付近の住民のみならず諸大名の用水としても用いられ、以後「白木名水」として知られた。昭和7年の大火災で和服事務員が多数墜落死、女性下着普及のきっかけとなった。昭和31年に東急・東横系列に入り「東急百貨店」となり、平成11年に幕を閉じた。その跡地に帆形をしたガラス張りの高層ビルが出現した。キーテナントは世界最大の証券会社、メリルリンチである。

コレドの斜め向かいにある柳屋ビルは柳屋ポマードで知られた柳屋総本店で、
日野商人外池宇兵衛が文政4年(1821)堀家の紅屋を継いだものである。国道1号はここで西に折れて皇居に向かい、東海道はここから国道15号に沿っていく。新橋までを中央通り、特にその後半である京橋―新橋間を通称「銀座通り」とよんでいる。

高島出身の近江商人飯田新七を祖とする「高島屋」百貨店をすぎ、東京駅八重洲口に通じる広い通り(八重洲通り)を横切る。中央分離帯の東京駅側に、1980年日蘭修好380年を記念して設置された「平和の鐘」が立ち、その足元に立役者ヤン・ヨーステンと「デ・リーフデ号」がレリーフされた記念碑がある。1600年、オランダ人ヤン・ヨーステン(耶楊子)とイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)が乗ったデ・リーフデ号が豊後沖で難破した。二人はそのまま日本に住みつき、耶楊子(ヤヨース)はやがて家康より和田倉門外堀端に屋敷を与えられた。この付近は彼の名にちなんで八重洲河岸と呼ばれるようになり、現在の東京駅東側の地名になった。なお、島田陽子の奥ゆかしいベッドイン・シーンでアメリカ人男性をとりこにした『将軍』の主人公、三浦按針ことウィリアム・アダムスは、三浦に領土をあたえられ江戸では日本橋三越の向かいの按針通りに屋敷を構えて住んでいた。

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銀座

老舗「明治屋」などをとおりすぎてオフィス街は京橋に至る。起点日本橋からみて、京よりにあるので「京橋」とよばれたという。信じられないほど単純な理由にきこえるが、西の大阪にも似たような話がある。大坂―京都をむすぶ京街道(京都からみれば大坂街道)の大坂側起点が、寝屋川にかかる京橋だった。その後起点は高麗橋に移され、そこに西日本向けの里程元標がある。高麗橋が日本橋なら、次の京都よりの橋は共に京橋であった。

外堀に通じていた京橋川は昭和34年(1959)に埋め立てられ、その時橋もなくなった。かっての橋の両側袂にいろいろな史跡がある。西北側にあるのは
「江戸歌舞伎発祥の地碑」と、その隣に「京橋大根河岸青物市場跡」碑、その間に大正期の京橋の欄干が二つ残されている。寛永元年(1624)、京都からきた狂言役者猿若勘三郎がこの地で猿若中村座をはじめた。

東北の高速道路の下には、下半身をつつじに隠して「京橋」と刻まれた明治8年建造の擬宝珠親柱がさみしく立っている。その南側には「煉瓦銀座の碑」と、隣に大正11年(1922)に造られた照明設備つきの親柱が残っている。発射台で待機するロケットのような豪華な橋柱だ。向かいのレンガ造りの小さな交番をみると屋根の形が橋柱と同じだった。
その隣には東北にあったとおなじ擬宝珠橋柱がすまして立っている。こちらは「きょうばし」と、粋なひらがな書きである。

京橋の南側が銀座通り入り口で、ここから1〜8丁目まで、日本の最高級商店街をゆく。江戸時代からの老舗に混じって外国の高級店が個性ある店舗を構えている。歴史に満ちた古い通りでありながら、英語文字が違和感を与えない不思議な街だ。明治5年の大火に懲りて、蔵造りならぬ煉瓦造りのアーケードつき洋風二階建ての商店街をめざした。文明開化の欧化政策に沿って、ロンドンの商店街をモデルにしたというから、はじめからハイカラな街だったのである。

銀座2丁目ティファニー前の植え込みに
「銀座発祥の地碑」がある。
慶長17年(1612)、徳川幕府はここに銀貨幣鋳造の銀座役所を設置した。金座がおかれていたところ(現日本銀行敷地)を両替町とよんでいたので、銀座の町名は新両替町とした。その後銀座は1800年に日本橋蠣殻町に移ったが地名としての銀座は残り、明治2年新両替町から「銀座」が正式な町名になった。金座は地名として残っていない。

銀座通りの歩道と車道が最新の技術を導入して、環境にやさしい道に造りかえられていた。排水性と遮熱性に富んだ特殊素材がつかわれており、水溜りや日の照り返しがないという。足の裏にも弾力を感じるのは気のせいか。

当時の銀座は1丁目から4丁目までであった。4丁目の南端に和光ビルと三越百貨店が街道をはさんで並び建つ。和光ビルの時計台と三越のライオンは銀座のシンボルで多くの人たちがここで待ちあう。この交差点が最近までは地価日本一の常連であった。

晴海通りを西に向かうと有楽町の映画館街に通じる。かって突き当たりの江戸城外堀に数寄屋橋が架かっていた。
「数奇屋橋」の名は付近に幕府の数奇屋役人公宅があったことに由来する。今は歌や映画でおなじみの男女が落ち合うデイティング・スポットとして名高い。「君の名は」の真知子と春樹もこの橋上で知り合った。現在は名残の柳を植え込んだ小公園になっていて、橋の石材でつくられた「数寄屋橋跡」の碑には菊田一夫の筆で「数寄屋橋此処にありき」と刻まれている。碑のそばには一目で岡本太郎の作とわかる万博太陽の塔の子供みたいな彫刻が建っていた。

「空襲」「橋」「出会い」「すれ違い」の4点セットは菊田一夫がロンドンでの出来事をまねて東京に持ち込んだものである。違いは東京が第二次大戦でロンドンは第一次大戦の時であったこと、そして橋の名は「数寄屋橋」に対してロンドンの方は「ウォータルー・ブリッジ」といった。「君の名は」の岸恵子と「哀愁」のビビアン・リーは甲乙つけがたく美しい。

数寄屋橋の近くには織田信長の弟で茶人の織田有楽斎(うらくさい)の屋敷があったところで、有楽町の名はそこから来たという。西銀座デパートにそって有楽町駅に向かうと「銀座の恋の物語」碑がある。声がわりして大人の低音にかわった時、「低音の魅力」ブームにあやかって、甘いソフトなフランク永井の「有楽町であいましよう」と、エコーをきかせた石原裕次郎の「銀恋」を何回も何回も練習したものだった。歌詞をあいまいに解釈しながらも、歌いながらメロディーから漂ってくる都会の香りにうっとり沈んでいた記憶がある。

東海道にもどって、銀座もおわる8丁目の御門通を西に一筋はいると金春通の案内板がある。江戸時代、能楽座金春座(世阿弥の娘婿、金春禅竹を祖とする。観世につぐ位を得ていた)の屋敷がこの辺にあった。明治時代のレンガ壁の一部に
金春屋敷跡の銘板がはめられている。明治以降、この通りは新橋芸者(金春芸者ともよばれた)でしられる花街となった。官庁街に近いせいもあって、政界筋をお得意にもつ新橋芸者は、町人旦那衆に人気のあった柳橋芸者と勢力を競った。

銀座8丁目の郵便局前に柳の木があって「銀座の柳二世」の立て札がある。柳の前には、
「銀座の柳」の歌碑があり、西条八十作、中山晋平曲の「銀座の柳」が音符付きで刻まれていた。戦前の歌で、個人的になじみは薄い。

「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けよ春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り」

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新橋−芝−高輪

銀座を抜けると新橋交差点に出て、中央通りはここで第一京浜にバトンをわたす。明治5年、新橋から横浜まで日本で初めての汽車が「汽笛一声新橋を」と、煙を巻き上げて走っていった。すぐ東は、海につながる汐入池をもつ浜離宮である。

街道の行く手にはいくつものJR線と地下鉄、ゆりかもめの
新橋駅が入り乱れ、それらをつなぐ陸橋、空中通路、高架鉄道が複雑に立体交差していて異様な都市風景を現出している。旧街道はどこを通ればいいのやらと不安に思っていると、果たせるかな第一京浜国道の歩道はすこし国道を離れて、赤レンガのガードをくぐっていった。JR新橋駅の高架下にはまだ昭和30年代の空気が臭っている。

新橋5丁目あたりから沿道の風景は落ち着きをとりもどし、街道は東に浜松町、西に芝大門のビル街をすすんで増上寺大門通りに向かう。一筋手前に
芝大明神への入口が出てくる。参道の突き当たりに近代的な社が見えてきた。午前中にも結婚式が予定されているらしく、招待客の晴れ着姿が鳥居の前を横切っていった。今見る限り境内はせまく社殿も大きくはないが、昔はもっと大きな神社だったのだろう。境内では相撲、芝居、見世物などの娯楽設備が設けられ、多くの参拝客で賑わったという。文化2年(1805)のこと、江戸っ子町火消し「め組」の連中と境内で興行中の相撲力士のあいだで大喧嘩が起こった。芝大明神はまた、10日間にわたって開催される例大祭「だらだら祭り」でも知られている。

大門通りの北側歩道を西に進むと、趣きある明治時代のガス灯をつけたソバ屋の前を通る。「芝大門更科布屋」という創業200年を越える江戸そば屋の老舗だそうだ。日曜日だからと、店は閉じていた。参道にたちはだかるように
増上寺の表門(大門)が現れる。元は江戸城大手門の高麗門だったが震災や空襲で焼失した。現在あるのは昭和12年に再建されたコンクリート製の高麗門である。右手に広度院の築地塀をみて日比谷通りをわたり、目も覚めるような朱塗りの三解脱門(中門)をくぐる。

浄土宗大本山増上寺は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖聖聡(しょうそう)上人によって開かれた古刹である。芝増上寺は上野寛永寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍が葬られている。五月晴れの青空に赤い東京タワーがくっきりと聳え立つ。社殿の背景としては似つかわしくないが、これだけ近くに堂々と立ちすくまれると視野から除くすべがない。

三解脱門を入ってすぐ右に
「グラントの松」が大きな木陰を作っている。明治12年(1879)、米国第18代大統領グラント将軍が国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣した記念に植えられた。松にしては姿が直線的で日本離れして見える。日本語の説明には単に「樹」とあるだけだが英語には「Himalayan Ceder」と書いてあった。ヒマラヤ杉はマツ科の樹だ。グラント将軍はリンカーン大統領のもとで北軍を率いて南北戦争に勝利した英雄である。第二次大戦後に大統領になったアイゼンハワー最高司令官みたいなものだ。引退後の世界周遊旅行で日本にも立ち寄った。日本にとっての国賓第一号だそうである。

右手に小旗を高くかかげ、青い帽子のガイドさんが高齢者の団体客を本堂のほうへ引率している。その列とは距離をおいて、本堂と東京タワーのツーショットを撮ったあと、右手の木陰に入っていった。保育園児のような小粒な地蔵が数え切れないほどに前掛け姿で整列していた。全員に色とりどりの風車が配られて、園児達は満たされた顔を並べている。風車は子供の遊び道具の象徴なのか。

プリンスホテルの庭をよこぎって日比谷通りに出、有章院霊廟二天門と、増上寺の裏門にあたる御成門をみる。将軍が増上寺に参詣するときは、江戸城に近い増上寺の裏門から入ってきた。御成門は色もあせた高麗門である。

旧東海道に戻り、古川にかかる金杉橋をわたる。
金杉橋がちょうど日本橋から1里の地点だが、1里塚があったようすはない。高速道路でぴったりと空をふさがれた古川にも、釣り船や屋形船がぎっしり浮かんでいるが、柳橋の風情にはかなわない。景色をさえぎるコンクリートの塊がいかに無粋なものであるかは日本橋だけではなかった。
このあたりから田町にかけて、JRの線路以東は江戸湾芝浦だった。


日比谷通りが合流する芝5丁目交差点の第2田町ビル前に
「西郷・勝会見地の碑」がある。海を背に薩摩藩島津家の蔵屋敷があり、ここで二人は歴史的会談をもった。勝は江戸城無血開城を申し出、西郷は江戸の戦火を避けると約した。碑の横路地をはいっていくと小さな本芝公園にでてすぐ後ろをJRが走っている。このあたりは雑魚場とよばれた漁師町で、線路の向こう側は海だった。JRのガードをくぐって見渡す景色は、埋立地とは想像もつかないオフィスビル地帯に変貌していた。

地下鉄三田駅をすぎ、広い桜田通りと交差する札の辻の歩道橋を渡る。ここは
高札場があった辻で、元和9年近くの刑場で50名の切支丹が江戸市中引き回しの上火炙りの刑に処せられた記録がある。高札場はその後高輪大木戸に移された。

札の辻を過ぎて1kmたらずの東側歩道に
「高輪大木戸跡」がある。一里塚のように一本の木が大きく茂っていて石塁の一部が残っている。

「お江戸日本橋七つ立ち 初上り 行列そろえて あれわいさのさー こちゃ高輪夜明けて提灯消す こちゃえー こちゃえー」

七つというから午前4時、まだ暗いうちに提灯をつけて日本橋を出発した行列は高輪あたりで提灯の火を消した。6時くらいになっていたろうか。距離にしておよそ7kmほどである。高輪の大木戸は江戸の町と外部の境界であった。高札場も札の辻からここに移された。伊能忠敬は海岸線であったこの場所を全国測量の基点とした。

東海道からそれて右折し、幡州赤穂浅野家の菩提寺
泉岳寺に道草する。門前の土産物屋には陣太鼓、木刀など忠臣蔵グッズが店先をにぎにぎしくかざっていた。黒い山門の右手に連判状を手にした大石内蔵助良雄が立っている。山門を入り境内の左手の一段と小高い一画に浅野内匠頭と四十七士の墓所が並んでいる。入口の売店で売っている線香の煙が絶えることがない。

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品川

いよいよ最初の宿場、品川宿に入る。
JR品川駅前を通りすぎ、八つ山橋交差点で国道15号とわかれて陸橋を渡る。橋上で京浜急行の線路をS字状に3回越えて北品川商店街に入る。3度目の踏み切り手前に旧東海道入口の案内板がたてかけてあるが、もっと早く八つ山橋手前で、旧道への渡り方を示しておいてくれたら道をまちがうことはなかっただろう。橋上はなにかの工事中のようだが、ともかくわかりにくい陸橋だ。

ここから旧東海道は北品川、南品川、青物横丁、鮫洲、立会川そして鈴ヶ森まで、およそ
4kmの旧道歩きを楽しむことができる。前半は下町風商店街で、南にいくにつれ住宅街にかわっていく。北品川の西方にある御殿山は、日光御成街道の飛鳥山と同様、7代将軍吉宗が大和吉野から桜を移植させて江戸市民の観光の地とした桜の名所である。春であれば高輪大木戸まで旅人を見送った人たちは足をのばして一日御殿山で花見を楽しんだことであろう。吉原につぐといわれた品川宿女郎街で泊まっていった男もいただろう。また、江戸をめざしてきた旅人が大木戸を前にしてここで長旅の疲れを癒し、最後の一夜を楽しんだであろう。「土蔵相模」は最大の妓楼として繁盛していた。遊興でないかぎり江戸をたった旅人は2時間あまりでこられる品川で泊まったりはしなかった。「土蔵相模」の跡地にはコンビニのローソンがはいっている。由緒を記した立て札があった。

旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼打ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。

商店街に入ってすぐ左手のすし屋角に「問答河岸址」の石碑がある。3代将軍家光が沢庵漬けを考案したとされる東海寺の住職沢庵和尚を訪ねた際、この路地で挨拶代わりにたわいない禅問答を交わしたと伝わっている。

「海近くして何がこれ東(遠)海寺?」(家光)   「大軍を指揮して将(小)軍というが如し」(沢庵)

街道をはなれて一筋東の八ツ山通りを下っていくと、左手に天王洲運河の行き止まりがみえて多くの屋形船が留まっている。北側の岸にはかっての船宿らしい木造の家が並んでいて、八ツ山通りの柳並木とあいまって情緒たっぷりの風景を作り出している。江戸時代このあたりが海岸線で、街道からは江戸湾にうかぶ白帆をながめることができたのだろう。

街道にもどる。日本橋から2里の地点に
「品海公園(一里塚公園)」がつくられ、一里塚に代えて品川宿の松が植えられている。道の向かいに「お休み処」という駄菓子屋があり、そこで「まち歩きマップ」をもらえると本に書いてあった。たまたまか、あるいは日曜日だからか、「今日はお休み」とあって、地図は手に入らなかった。

北品川商店街は日曜日でほとんどの店がシャッターを降ろしていた。そのシャッターには青色を基調とした広重の五十三次の錦絵が描かれていて宿場街の風情を醸している。また小さな空き地を利用して「○○宿の松」が植えられていた。土山、浜松、袋井、保土ヶ谷など、東海道宿場町から贈られた記念樹だ。

品川宿の本陣のあった場所が聖蹟公園として整備されている。地面には広重の「御殿山花見品川全図」がはめこまれている。明治天皇行幸時に行在所となったことから聖蹟公園と呼ばれるようになった。

新馬場駅前通りをこえると目黒川にかかる品川橋に出る。北品川と南品川の境をなし、江戸時代には「境橋」とよばれていた。橋の上はベンチがおかれ公園風に整えられている。南品川商店街は来週の祭りにそなえて川べりの提灯もととのい、街灯に宿場の旗を取り付ける作業に余念がなかった。

松岡畳店など、北品川には見られなかった古い商家がいくらか残っていて、南品川の町並みの方が趣あるように感じられる。

青物横丁駅近く、ジュネーブ平和通りをよこぎってすぐ右手に、大同年間(806〜810年)創立の古刹、
品川寺(ほんせんじ)がある。この寺の鐘は慶応3年(1867)のパリ万博に出展された由緒あるものだが、その後長い間行方不明になっていた。昭和5年(1930)になってスイス、ジュネーブの博物館からもどってきて、その縁で品川区とジュネーブは姉妹都市となった。さきほど横断した通りの名はその記念である。

寺をはいってすぐ左に座る地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵の第一番として宝永5年(1708)に建立されたもの。6地蔵のなかで品川寺の地蔵だけが笠をかぶっていない。江戸六地蔵は主要6街道の江戸市中出入り口付近に造置され、旅人の安全を守った。中山道は巣鴨真性寺に、甲州街道は新宿の太宗寺にある。

第1番(1708年): 品川寺 東海道    品川区南品川3-5-17
第2番(1710年): 東禅寺 奥州街道  台東区東浅草2-12-13
第3番(1712年): 太宗寺 甲州街道  新宿区新宿2-9-2
第4番(1714年): 真性寺 中山道    豊島区巣鴨3-21-21
第5番(1717年): 霊厳寺 水戸街道  江東区白河1-3-32
第6番(1720年): 永代寺 千葉街道   (地蔵は消滅)

門をくぐって境内に入ると右手に「品川寺のイチョウ」がある。目通り幹囲5.35m、樹高約25m、推定樹齢約600年という古木である。木の部分の名称として「乳」という言葉に初めて出会った。600歳にふさわしい垂乳根だ。

鮫洲(さめず)駅をすぎたあたりで、海側の路地をのぞくと「船宿いわた」の看板が目にとまった。二筋ほど入っていくと堤防につきあたり、上がれば京浜運河の支流である勝島運河の船溜まりであった。地図で確認すると、運河は旧東海道にそって50m東側を流れ立会川につながっている。海辺の見晴らしがよい青天の下に、京浜運河の上を東京モノレールと首都高速羽田線が走っている。道歩きをやめてこのまま土手に寝転んでいたい衝動におそわれた。

一つ深い息を吸って街道にもどる。どこからともなくパープーと、昭和の音が聞こえてきた。ステテコ姿のおじさんでなく、元気そうな若い女性が本物のラッパを吹いている。アルバイト学生だろうか、近所の豆腐屋の娘さんだろうか。物欲しげな視線を送ると、「写真撮ってもいいよ」と聞こえそうな笑顔を返して、角を曲がっていった。街道沿いの下町路地にはさわやかな潮風が流れていた。

創業130年の吉田家(そば屋)を見ながら立会川に来る。ここに架かる浜
川橋は、この先の鈴ヶ森刑場に送られる罪人と家族がここで涙を流して別れたというので涙橋とも呼ばれた。奥州街道南千住の小塚刑場手前にある涙橋は跡形もないが。ここの涙橋は立会川に架かる欄干をもった現存する橋である。

そこから1kmたらずで旧東海道が国道15号と交わる角地にある鈴ヶ森刑場に至る。当時の火焙り用柱の台石と磔柱の台石が残されていて、どのように使われたかが具体的に説明してあって生々しい空気がただよう。八百屋お七もこの石台に立つ鉄柱にくくられて火炙りにされた。


国道に合流して右側歩道を歩いていくと京急大森海岸駅をすぎてまもなく磐井神社の前を通る。9世紀に記録をとどめる古社である。通りに面した大イチョウに、恰好なアングルで間近に「乳」を観察することができた。

平和島口交差点で左側に移る。その先、大森海岸交番の前から
「三原通り」と呼ばれる1kmほどの旧道が残っている。「旧東海道」の石標の足元に三原のいわれが書かれている。宿場ではないが、旧道の雰囲気をのこした商店街で、歩道に設けられた腰掛石のいくつかには江戸、明治時代の風物を描いたタイルが張られていて歩行者の目を楽しませてくれる。なかでも海苔にかかわる絵が多かった。浅草海苔の供給元となった品川海苔産地の延長として、大森海岸でも海苔の生産は盛んであった。実際、三原通りで3軒の海苔問屋を見かけた。

植え込みの奥に漆黒のドアを閉め、壁には「三代目刺絵正元 彫虎」の金文字を浮かばせた異様な店構えに出合った。刺青師が正業としてまだ存在していたのだ。右手に享保元年創業という老舗「餅甚」が現れる。「大森名物あべ川餅」の紺旗が健康的である。
内川橋にさしかかる。橋を越えた左手に石標があった。左斜めにはいっていく細い通りが羽田に通じているらしい。

羽田道(するがや通り)羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれ「駿河屋」という旅館があったので、現在の「するがや通り」という名が残されている。

「第二松の湯」という銭湯も健在のようだ。旧道が終わる場所は高架道路への出入り口にくわえ国道15号から国道131号が分岐し、その二股の間に大森警察署が立っている大きな交差点である。信号を2回わたって国道15号の西側歩道に移動する。

高架工事中の京急「梅屋敷駅」を通り過ぎ、大田区体育館向かいに近江商人ゆかりの
「梅屋敷公園」がある。江戸時代、ここに旅の常備薬として人気のあった「和中散」を売る店があった。「和中散」とは食あたりや暑気によく効く道中常備薬として旅人に珍重された商品名である。近江で開発された。近江国栗太郡六地蔵村梅木で慶長年間(1596〜1614)に開業した大角家が本舗である。梅木は東海道の草津宿と石部宿の中間に位置し、休憩の茶店(立場)のある間の宿であった。

正徳元年(1711)、江州梅木の本家と縁のあった雲達が西大森村南原で開業、後に忠左衛門が譲り受け、文政年間(1818〜1830)の初め、久三郎の時に庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開いた。考えるに本家の土地名「梅木」にあこがれてのことだったと想像する。庭園は梅の名所となり、「蒲田の梅屋敷」として広重の浮世絵にも描かれている。園内は隣接する京急駅の高架工事の影響で、歌碑類のリロケ作業が進行中であった。「距日本橋三里十八丁 蒲田村 山本屋」と刻された里程標が復元されている。

国道をしばらく歩くと左手に六郷神社がある。旧道はそこから左に入り、神社の表参道を南下して東京都と神奈川県の境をなす
多摩川(旧称六郷川)の六郷渡しに出た。江戸の初期には橋が架っていたのだが、元禄元年に橋が流されて以来橋を取止め、船渡しにしたという。境内は社殿の裏にある六郷幼稚園用の駐輪場を兼ねていて、自転車がぎっしりだった。木陰に奥目で鼻のつぶれた愛嬌ある狛犬がじっと運命に耐えている。

道なりに多摩川の土手にぶつかる。上に上ってみると見晴らしがよく、眼下は野球場のある広々とした緑地公園で、その向こうに川崎の高層ビル群が見渡せる。その間は背の高い葦や雑草の繁みで、肝心の多摩川の流れがみえなかった。河川敷に降りて川岸にちかづいてみると、草むらのなかに適度な間隔を持って草を踏み倒した道がついている。その先には例のブルーシートが見え隠れした。ホームレスのサアンクチュアリになっているようだ。

広重の「川崎宿」の前景に描かれている六郷渡し場に出たかったのだが、あきらめた。渡し跡からはすこし上流になるが、橋下から上流対岸を望んで現代版広重川崎宿絵とすることとした。

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川崎 

六郷橋の左側歩道を下りていくと、橋のたもとの一画に「川崎大師の燈籠」と「明治天皇渡御碑」、そして「長十郎梨のふるさと」と題した「川崎歴史ガイド」説明板が立っている。

「多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。発見者当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ。」

その隣に
「六郷渡し跡」の碑が立っていた。見降ろすと、川崎側にはボートが連なり、向こう岸は深い葦で覆われそこの住民でなければ水辺へでられない状態になっている。

橋に沿って坂をくだり、最初の道の左角に「万年横町・大師道」の小さな道標がある。現在の大師道・国道409号の旧道である。その角を右に曲がるのが旧東海道の道筋で、橋桁をくぐったところに「旧東海道」の道標がある。以降、川崎宿を通り抜けるまでこの石道標が百メートルくらいの間隔で旧道を案内してくれた。

最初の道標の右手に「奈良茶漬け」で有名な茶屋、万年屋の図をはりつけた「川崎歴史ガイド」パネルが建っている。これを2番目として、駅前通りの「小土呂橋」まで10を越えるパネルが設置されている。宿場を概観するために、すこし先まわりして市役所通り川崎信金前の総合案内板を読むことにしよう。

川崎宿の由来
慶長6年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、39宿を定めたが、川崎は品川宿と神奈川宿の合いの宿で、元和9年(1623)家光の時に宿駅に追加制定され、いわゆる東海道53次となった。慶長5年(1600)江戸三大橋の一つとして六郷大橋(109間)が架けられたが、度々の洪水で破損し、元禄元年(1688)から船渡しとなった。川崎宿は、久根崎(くねざき)・新宿(しんしゅく)・砂子(いさご)・小土呂(こどろ)4町よりなり、「六郷の渡しを渡れば万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」と唄われた。徳川将軍の四代にわたるお大師様への厄除け参詣が、江戸庶民の大師詣でを盛んにし、大師には門前町ができて大いに賑わった。明治5年(1872)新橋ー横浜間に鉄道が開通したが、大師詣客のため、その中間に唯一川崎駅が設置されたことは、驚きに値する。しかしその後、東京ー横浜間の通過町としてさびれたが、明治末頃から六郷川を利用して川岸に産業が興り、大正・昭和には臨海部の埋立地に重化学工業が林立し、日本経済をリードする一大産業都市に発展した。当川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また、昭和20年4月(1945)の米軍B29の大空襲のため、江戸を物語る面影は全て焼失し、今では浮世絵や沿道の古寺の石造物から、わずかに往時の川崎を偲ぶのみである。
  川崎・砂子の里資料館  館長 斉藤文夫

古い建物が残っていないかぎり、案内板や新しい道標で位置を確かめ、その場に立って自分で往時の風景を想像するしかない。川崎宿の街道筋は雑多な種類の店や娯楽施設がたちならぶ駅前商店街で、パネルや道標がなければ通り過ぎるのにいくらもかからなかったであろう。パネルをたどってメモがわりの写真を撮るだけである。

国道409号との交差点角に一連の道標があつめられて、そこに「新宿という町」のパネルがある。次が川崎宿最大の本陣であった
田中本陣跡。しばらく歩いて右手に「宗三寺 遊女の墓」がある。昔だけでなく川崎は今も関東有数のソープランドである。昼時に歩いている限り、街道筋にそれを思わせる景色はなかったように思う。

砂子1丁目交差点あたりが宿場の中心であったのだろう。角に海鼠壁風の川崎・砂子の里資料館が建ち、その近辺に助郷会所、問屋場、中本陣の歴史ガイドパネルが集中している。市役所通りを越して小川町バス停あたりに上手の土居が築かれていた。宿場の西入口(京口)にあたり、一筋裏にある教安寺山門前の石製燈籠が川崎宿入口の目印として置かれていた。

ここから先はとなりの市場村まで田圃の中を8丁(約870m)の一本道がつづき、八丁畷とよばれている。八丁畷駅の踏み切り手前、右手線路脇にひっそりと
芭蕉の句碑があった。元禄7年(1694)5月11日、深川の庵を発ち郷里伊賀に帰る芭蕉は、見送りにきた弟子たちと八丁畷の茶店で別れた。その年の10月に芭蕉は大阪で没しているから関東で詠んだ最後の句となる。

  麦の穂をたよりにつかむ別れかな

旧道は芭蕉句碑あたりで京急線路のために消失し、踏み切りを渡ったところから復活している。左になおまっすぐな八丁畷がつづく。左道端に慰霊塔があった。この周辺から江戸時代のものと思われる人骨が多く出た。震災、大火、洪水、飢饉、疫病のためたびたび大量の死者がで、それらの遺骨をまとめて宿はずれのこの地に埋葬したらしい。

1kmほどして市場橋停留所そばに
市場一里塚がある。江戸から5番目の一里塚で、左側の塚だけが残っている。稲荷神社の前に新旧二本の石柱碑と、道路近くに「いちばゝし」の親柱が残っている。榎の大木こそないが、都市部の一里塚としては固有の敷地をもって現存している貴重なものだ。

一里塚跡をすぎると、すぐに鶴見川にかかる近代的なアーチ橋が見えてくる。1996年にできた新しい橋だ。橋の名は「鶴見川橋」で、国道15号(第一京浜)の「鶴見橋」、国道1号(第2京浜)の「新鶴見橋」と区別する苦労の跡がうかがえる。鶴見川橋を渡った左側に
「鶴見橋関門旧蹟の碑」がある。安政6年(1859)横浜開港当時、警備のため設けられた。元祖鶴見橋は第一京浜ができたときにその名を譲ったようだ。

JR・京急両鶴見駅に近づくにつれ沿道は駅前繁華街の様相を強めてくる。道が左にカーブする角に
「信楽茶屋」という民芸調のラーメン屋が目をひいた。江戸名所図絵にもでてくる立場茶屋があった場所だ。

京急鶴見駅の東側をまわりこんで、ベルロード商店街を通って行く。早朝で通りは閑散としていた。やがて国道15号をよこぎり住宅街をすすんでいくと
JR鶴見線国道駅の青いガードが見えてくる。鶴見線の前身は鶴見臨港鉄道という貨物専用の私鉄で、大正13年(1924)に設立された。昭和5年(1930)には旅客輸送も開始され、国道駅はそのとき国道15号沿いにつくられた高架駅である。国鉄に買収されたが赤字経営が続いている。そのためかどうか、駅は昭和初期の面影をとどめたままになっている。駅下のトンネルは暗くて過去を閉じ込めたような空間だが、アーチ状の下がり壁が美しく、西洋の寺院回廊をおもわせる優美さも備えている。高感度のISO値にして釣船店の名前が読み取れた。

ガードを越えたところから生麦5丁目の300mほどを「生麦魚河岸通り」という。昔の漁師町で、漁師たちは捕れた魚をここに軒を連ねて売っていた。道の両側は魚屋の連続で、そのなかにすし屋、てんぷら屋などが混じっている。どこの店も、買い付けに来る客と、その場で活き魚をさばく主人、帳場で勘定を読み上げる奥さんなどで活況を呈していた。たまたま通り過ぎた時刻が8時過ぎであって、魚市場から帰ってきた問屋が店を開いたところだった。客は町の魚屋や、すし屋・旅館の料理人だろう。鯛を一匹だけぶらさげて買っていくおじさんもいる。営業時間は8時から11時まで。水、日、祭日は休み。

魚屋がとぎれて、生麦4丁目に道念稲荷がある。説明は稲荷のことよりもっぱら「蛇も蚊も」のことであった。古いたたずまいの家がのこる道をすすみ、広い通りの県道6号を越え、生麦1丁目に入れば左側はすべてキリンビール横浜工場である。工場のおわるころに街道は国道15号と合流し、合流点のすぐ先左手に
生麦事件の碑が建っている。

文久2年(1862)8月21日、島津久光の行列の前を馬に乗って横切ろうとした無礼な英国人商人リチャードソンほか婦人を含む3名を薩摩藩士が殺傷した事件である。リチャードソンは死亡、イギリス商人2名が負傷した。この愛国的小事件は、翌年薩英戦争という歴史的事件へと発展したと同時に、「生麦」というめずらしい地名を全国的に有名にした。


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神奈川

神奈川宿の歴史
東海道53次の日本橋よりかぞえて3番目の宿場が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝の橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められた。開港当時、本覚寺がアメリカ領事館、長延寺がオランダ領事館になるなど、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、神奈川通東公園から上台橋に至るおよそ4キロの道のりとなっている。

生麦で国道15号とかさなった旧東海道は、子安地区をすぎて浦島町にはいっていく。他ならぬ浦島太郎の浦島である。この地域はあちこちに浦島伝説が伝わっていて、のちほどその一つをたずねる予定だ。

神奈川宿の旅は、浦島町バス停先の横道を右に入った神奈川通り東公園からはじまる。ここが
神奈川宿の下手土居跡で神奈川宿の江戸口である。旧長延寺跡で、幕末のオランダ領事館の跡でもあった。京浜急行神奈川新町駅の南側改札右手に神奈川宿の案内板がある。上記の「神奈川宿の歴史」は、総合案内板に記されたものである。寺が多い。横浜開港後、宿内にある寺院が諸外国の領事館にあてられた。

国道の一筋北側の細道を入っていく。外人嫌いの和尚がいた良泉寺、線路の向こう側に笠脱稲荷神社、南側に戻って能満寺、東光寺。京浜仲木戸駅とJR東神奈川駅前の、広い道を横切り金蔵院の参道に入っていく。松並木がのこる静かできれいな小道だ。金蔵院のむかいが
熊野神社で、南側入口に迫力満点の狛犬が睨みをきかせている。舞殿で二人の男性が剣舞の練習に余念がなかった。

左手松並木の通り沿いに横浜市神奈川地区センターがあり、「神奈川宿歴史の道」のパンフレットが手に入る。玄関前の床面には扇形の波模様(青海波)タイルが敷きつめられている。このデザインは神奈川宿のシンボルだそうで、浦島太郎伝説にかかわっている。街道沿いに実物大の
高札場が復元されていた。大きな立て札程度に思っていたが、想像に反して大きなものである。

成仏寺をみて、滝の川にでる。右折して京浜急行のガードをくぐると、開港当時フランス領事館となった
慶運寺がある。浦島伝説から浦島寺とも呼ばれ、本尊は浦島太郎が玉手箱とともに竜宮城から持ち帰ったといわれる観世音である。伝説関係資料の説明書を読んでみると、伝説はもっぱら玉手箱を開けてからのことであった。世間の関心は、竜宮城での乙姫様との夢のような生活にあると思うのだが、そのことには一切触れていない。

滝の川周辺が宿場の中心である。ガイドパネルでは
滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣が置かれたとあるが、位置関係でいえば、神奈川本陣(石井家)は橋の北西角の現小野モータースあたりに、青木本陣(鈴木家)は橋を渡った左側にあった。「現横浜銀行中央市場支店あたり」とあるが、同支店は街道をはなれた栄町の南側にあるので、いつかの時点で移転したのだろう。

橋を渡って100mくらいで右手にでてくる宮前商店街に入っていく。道の右側に寺社があつまり、かすかに旧道の香りを漂わせている。中央あたりにある洲崎大神は建久2年(1191)、源頼朝の創建になる。安房国より安房神社を勧請して創建された。6月上旬の例祭には「提灯祭り」の名で知られる「お浜下り」の神事が催され、安房神社の本霊と州崎大神の分霊が海上で対面する。

神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたりが、神奈川湊の船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護の当たる陣屋も造られた。

商店街をぬけると京急神奈川駅前の大きな
青木橋交差点に出る。国道1号(第二京浜)がJR線路に沿って降りてきて橋を渡って国道15号(第一京浜)を吸収する。ここまで旧東海道によりそってきた第一京浜は役目をおえ、これからは国道1号が名実ともに現在の東海道を代表する。旧街道は青木橋を渡って左に少し進んだところで右に入っていく。ややこしく思われるが、地図で確認すると旧道は宮前商店街からまっすぐの延長線上に続き、単に線路と国道で分断されただけだった。

大綱金刀比羅神社によってみた。参道入口にハングル文字での標柱もあったから、渡来系の神社かもしれない。社殿の脇で目を光らせている天狗のさらし首が不気味だった。

道はこの辺りから上り坂が顕著になる。
神奈川の台といわれるところで、広重の神奈川宿に描かれたスポットだ。両側にマンションが続く住宅街のなか、海側に滝川、田中家という料亭が広い敷地を占めて現れる。神奈川湊や袖ヶ浦を見下ろす絶景の立場に位置して、旅人で賑わっていた茶屋の末裔であろう。滝川のコンクリート塀には広重の絵がはめこまれている。

坂を登り切ったところに神奈川台の関門跡 があった。幕末の横浜開港後、攘夷過激派による外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府は警備のために各所に関門を設けた。ここはそのひとつである。
ここから下り坂で、坂を下ると広い道路を跨いで架かる上台橋がある。このあたりが神奈川宿の西の入り口で、
上方見附が設けられていた。

旧東海道はほどなく、神奈川区から西区に入り、首都高速の手前でいったん環状1号に出て浅間下十字路を斜め前方に横切って浅間神社下の旧道に進んでいく。交差点の南西角地を公園がしめているので、旧道へは公園の西か南側を廻ってはいっていかなければならない。


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保土ヶ谷

この宿場も総合案内図のほか個々の史跡に標柱をたてて簡単な説明が記されている。江戸寄りの最初の標識が八王子道との追分に立っている。横浜開港以後、日本からの主要輸出品目であった絹が八王子からこの道を通って横浜の貿易商社へ運びこまれた。俗称「シルクロード」とよばれる所以である。横浜市は西区から保土ヶ谷区に入っていく。

このすぐ先から歩行者天国になっていて活気溢れる商店街が始まる。洪福寺
松原商店街という。昔海岸沿いに松並木がつづいていた。通行止めは正午から6時までとあるが曜日の指定がない。歩行者天国は毎日のことかもしれない。客層は地元の人たちのようで、店の人とも顔なじみの気軽い雰囲気が満ちている。野菜・果物・惣菜などの食料や衣料・雑貨など日常品を扱う店が大半を占めている。保土ヶ谷宿の散策はここからはじめるが、まだ宿場のうちに入ってはいない。

国道16号で松原商店街はおわり、シルクロード天王町商店街がはじまる。左手に江戸方見附があり、ここから保土ヶ谷宿が始まっていた。右手に橘樹神社をみて
帷子橋(かたびらばし)に出る。子アザラシ、タマチャンが帷子川に迷い込んできて話題になったところだ。安藤広重の「保土ヶ谷宿新町橋」の絵にかさねてその現代版を写真に残した。新町橋は帷子橋の別名である。

道は相鉄線天王町駅に突き当たり、駅前公園に帷子橋のモニュメントがある。ここが本当の
帷子橋跡で、橋は昭和31年(1956)、川の付け替えと相模鉄道の立体化工事の際に消滅した。

ここから街道は広い通りを南下する。途中右手にいくつかの寺が集まっている。JR保土ヶ谷駅西口手前からはじまる西口商店街が宿場の中心地で、
高札場跡や問屋場跡の標柱が建っている。

商店街もおわりにちかづいたころ、左手に金沢横町とよばれる細い路地がでていて、角に4基の石道標がある。その一つに刻まれているようにここから鎌倉・金沢八景に至る道がでていた。

JR線踏切の脇から焼き鳥の煙がもうもうと噴出している。服にしみつくほどの勢いだが、全くけむたくはなく、むしろ食欲をそそる匂いが好ましいから不思議だ。線路をわたると日本橋交差点で別れて以来別行動をとってきた国道1号に再会する。この丁字路の真っ正面にある赤屋根の家が
保土ヶ谷宿本陣跡である。保土ヶ谷宿の本陣は、代々苅部(明治以降軽部と改姓)清兵衛を名乗り、本陣と名主を兼ねていた名家である。このあとも街道沿いに軽部酒店をいくつか見ることになる。

国道を西に進む。途中、格子戸が美しい
脇本陣が残っている。今井川と接する地点付近に外川神社、一里塚、上方見附が集まっていて、保土ヶ谷宿の上方出入り口をなしていた。松並木と一里塚を復元しようとよびかける地元有志の建て看板がある。

岩崎ガードの南脇に出羽三山供養塔などの石碑群をみて、保土ヶ谷2丁目の信号で右側の旧道に入る。郵便局をこえたあたり道の両側に酒・米を商う軽部商店がある。本陣軽部氏のネットワークだろう。元町ガードの信号を左折し元町橋で今井川を渡り、すこし先で右に入る坂道がある。この坂道が東海道最初の難所、
権太坂である。江戸時代は行き倒れが出るほどの急坂であったらしい。

かなりな坂ではあるが改修、開発が重ねられて、今は学校もあるほどの住宅街に変わっている。坂を登りきったところからは眺望がひらけて遠くに富士山がみえたらしい。台地上の住宅街を通る「富士見台商店街」にも軽部酒店があった。道なりにすすんでいくと境木中学校前で、保土ヶ谷区と戸塚区の境界をなす道路にぶつかる。そこを左に160m行くと、行き倒れを葬った
投込塚がある。昭和36年(1961)付近の宅地開発の際に多くの人骨が発掘され、戸塚の東福寺に改装されたのち、ここに供養碑が建立された。

街道は学校前を右に折れ200mほどいくと道路を挟んだ小公園広場に出る。ここが武蔵・相模の国境で、江戸側からは権太坂を、京側からは品濃坂・焼餅坂という難所をこえてきた旅人が足を休める峠の立場(宿場間の休憩所)だった。西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、「牡丹餅」は境木立場の名物として知られており、茶屋はたいへん賑わったという。立場茶屋のなかでも特に
若林家は本陣さながらの構えをもった建物で知られていた。今も武家屋敷を思わせる門塀をめぐらせた立派な佇まいである。

山側に
境木地蔵堂、その前に国境を示す標柱が立っている。これが境木(さかいぎ)である。
東海道はここで左に折れて焼餅坂を下り、戸塚宿への道をたどる。

(2006年9月)
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いこいの広場
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