坂を下って左が大師道(写真左下)、右が東海道(写真下)

万年横丁・大師道  川崎歴史ガイド
かって万年横丁と呼ばれたこの辺り。明治22年の新道完成まで、人々はここを抜け、医王寺、若宮八幡経由で大師に参詣した。縁日には沿道に果物を並べて売る農家も多かった。  

国道高架をくぐって西側に出る。

新宿という町 川崎歴史ガイド 本町交差点 
東海道の他の宿場より遅れてつくられた川崎宿はいわば新宿。後に中心部だけをこう呼んだのか。あるいは、宿を設ける際、新たにできた町並みをこう呼んだものか。このあたりが新宿だった。

田中本陣と休愚 川崎歴史ガイド  本町1丁目4番
田中(兵庫)本陣は、寛永5(1628)年に設けられた宿内最古の本陣である。ここ出身の休愚は宿の財政再建に尽力した人物で、当時の農政を論じた『民間省要』の著者としても知られる。

助郷会所 川崎歴史ガイド 本町1丁目 東照ビル
宿駅に常備するで伝馬人足の不足を補う助郷制によって近在農村より徴用された人馬は、助郷会所に集められた。助郷制は、川崎宿周辺の農村の労働負担となり、窮乏を招く要因となった。

中の本陣 川崎歴史ガイド 砂子1丁目
この付近にあった惣兵衛本陣は、佐藤・田中両本陣の間に位置することから、通称「中の本陣」とも呼ばれたが、江戸後期に至り廃業した。

問屋場 川崎歴史ガイド 砂子1丁目交差点東北角
伝馬人足、飛脚、本陣の休泊などの宿場業務を監督する問屋場。川崎宿では、約30名の問屋役人が昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめた。

佐藤惣之助碑 砂子2−11
詩人佐藤惣之助は明治23年12月3日に生まれ、昭和17年5月15日に52歳で世を去った。生家は川崎宿の上本陣佐藤家で、現在位置の北隣の砂子2丁目4番地がその旧地である。(中略)歌謡作詞では「赤城の子守唄」「人生劇場」「新妻鏡」「男の純情」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生の並木道」「すみだ川」など、人びとの胸をうち、心に通う歌詞の故に今なお愛唱されている不朽の作品が多い。「六甲おろし」(阪神タイガースの応援歌)も彼の作。
川崎宿京入口  
宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道、土居内は832間、このなかに小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する4つの町があった。江戸時代後期における人口は770戸、3100人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで19ヶ所に設けられた。関門番所には、宿役人2名、道案内3名などが詰めて警戒にあたり、非常の際は半鐘を鳴らし、隣の番所と連絡をとったのである。  川崎市          写真右上: 教安寺山門前にある常夜燈は元、京入口に建っていた。
川崎宿 旧東海道