京橋跡史跡 東海道
「江戸歌舞伎発祥の地」
寛永元年(1624)2月15日、元祖猿若中村勘三郎、中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐ。これ江戸歌舞伎の濫觴也。茲に史跡を按じ斯石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す。 昭和32年7月建立  江戸歌舞伎旧史保存会
「京橋大根河岸青物市場跡」
寛文4年(1664)に水運のよい京橋川に野菜の売り場が設けられ、昭和10年に築地に市場が移されるまで、庶民の台所を支える青物市場として栄えました。冬になると10本ひとまとめにしたたくさんの大根が舟から下ろされ、まるで大根の花が咲いたようだったため、大根河岸といわれたといいます。  ボランティアサポートプログラム
右:京橋親柱  大正11年

左:
煉瓦銀座の碑
明治5年2月26日、銀座は全焼し、延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京都知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建築し、政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。 昭和31年4月2日

京橋の親柱 所在地 中央区京橋3丁目  銀座1丁目
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。橋は、昭和34年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。
橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造の橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎぼし)の形で、詩人佐々木支陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。
一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922)にかけられた橋のものです。京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。 平成4年3月  中央区教育委員会