長延寺跡(オランダ領事館跡) 「神奈川宿歴史の道」の起点である神奈川通り東公園は、寛永8年(1631)から昭和40年までの330年余の間、浄土真宗長延寺が所在した場所である。長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。昭和40年の国道拡幅に伴なう区画整理によって、長延寺は緑区に移転し、跡地は公園となった。今は、わずかに旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。     

神奈川宿の江戸方の入口に当る長延寺前にも土居を互い違いに突き出した枡形があった。旧本陣の石井家に伝わる「神奈川宿入口土居絵図」には、街道両側に高さ2.5mほどの土居が築かれ、その上には75cmほどの竹矢来を設けている。
良泉寺 
本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648)入寂したこの寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。 開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、
幕府の命令を断ったといわれる。
笠のぎ稲荷神社(のぎ=禾へんに皇)
笠のぎ稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938〜947)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当っては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄2年(1689)に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され明治2年に現在地に遷座された。
能満寺
能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるという伝承がある。
東光寺
東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。
金蔵院
金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後徳川家康から10石の朱印地を許された。
金蔵院参道松並木
熊野神社
熊野神社は平安末期に紀伊の熊野権現を祀り「権現様」として親しまれている。もと権現山にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれた。
熊野神社舞殿
成仏寺
成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。安政6年の開港当初は
アメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。
慶運寺
慶運寺は、室町時代に芝増上寺第3世音誉聖観によって開かれた。開港当時は
フランス領事館に使われた。また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。
淨龍寺
淨龍寺は妙湖山と号し日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は当時の政治の中心地であった鎌倉に向う途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遭った。法尼は聖人の人格にうたれ、自分の庵を法華経の道場とした。開港当時は
イギリス領事館に充てられた。
神奈川の大井戸
この井戸は江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また開港後には宗興寺に滞在したシモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。
宗興寺とヘボン博士
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」で知られ、後に明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。
洲崎大神 
洲崎大神は、建久二年(1192)、源頼朝が安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝えられている。「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かっての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護の当たる陣屋も造られた。
大綱金刀比羅神社と一里塚 
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。
神奈川台の関門跡 
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
神奈川宿 旧東海道