浦島太郎伝説関係資料
横浜市神奈川区にも伝わる裏島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応4年(1868)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし、「江戸名所図会」「金川砂子」などの文献には縁起に関する記述がみられます。それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が20歳余りの頃、澄の江の浦から竜宮にいたり、そこで暮らすこととなった。3年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、300余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたとこを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って竜宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた連法寺(神奈川区七島町21番地)に残されています。慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が竜宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔とともに、浦島伝説を今日に伝えるものです。   横浜市教育委員会
 浦島寺碑 慶運寺 神奈川本町18−2