鹿島紀行

貞享4年(1687) 8月14日(新暦9月6日)



深川-行徳・八幡-鎌ヶ谷・白井-大森・布佐-(利根川)-鹿島潮来


芭蕉は月見が好きである。月が一番美しいのは大気が澄んだ仲秋(旧暦8月15日、新暦秋分の日あたり)の時期である。毎年この時期になると芭蕉はそぞろ月見の名所へでかけるのであった。信濃の姥捨山までもいとわない観月狂である。

貞亨4年(1687)8月14日、深川の芭蕉庵に移り住んで7年目、奥の細道の旅に出かける2年前、芭蕉44歳の時であった。日ごろ親しくしていた仏頂禅師から、月見にこないかと誘いを受けた。仏頂和尚は、常陸国鹿島根本寺の住職で、鹿島神宮との寺領争いを寺社奉行に提訴して江戸深川の臨川庵(左地図の右端、後の臨川寺)に滞在していた。近所に移ってきた芭蕉と知り合い禅を教えた。天和2年(1682)、訴訟に勝った禅師は根本寺にかえり同時に住職を辞して山内に閉居した。その後も鹿島根本寺と深川臨川庵の間を行き来して芭蕉との親交を保っていたようである。なお、2年後の奥の細道の旅路で芭蕉は禅師が若い頃修業していたという黒羽雲巌寺に寄っている。

尊敬する禅師から好んでやまない月見の誘いを受けた芭蕉は仲秋の前日、嬉々として曽良と宗波を伴い鹿島に旅立った。



深川-行徳航路

資料1

洛の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、「松かげや月は三五夜中納言」と云けん、狂夫のむかしもなつかしきままに、此秋かしまの山の月見んと、思ひ立つことあり。伴ふ人ふたり、浪客の士ひとり、一人は水雲の僧。々はからすのごとくなる墨の衣に三衣の袋を衿に打かけ、出山の尊像を厨子にあがめ入てうしろにせおひ、拄杖引ならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩して出ぬ。今ひとりは僧にもあらず俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳と云処に至る。

芭蕉庵は隅田川と小名木川の合流点近く、万年橋の袂にある。芭蕉が参禅した臨川庵は川向い、清澄庭園の北側にあった。臨川寺には芭蕉のゆかりの石碑が保存されている。芭蕉は目の前の旧船番所跡あたりから乗船したのであろう、船は行徳河岸から出る行徳船であった。小名木川は徳川家康が小名木四郎兵衛に命じて開削させた運河で、行徳塩田から塩を運ぶためのものであったが、やがて奥州の藩米輸送や成田詣にも利用されるようになった。

小名木川橋の北詰めに三本ほどの松の若木が植えられている。かってはここに五本松として親しまれた老松があった。特にそのうちの一本が枝を小名木川に差し出すようにのばしており、江戸の名所の一つになっていた。元禄5年(1692)の秋、芭蕉は五本松に船を出して名月を楽しんでいる。

  
 川上と此川下や月の友 

丸八橋に出る。橋を回り込んで堤防下におりると大島稲荷神社があり、その境内に芭蕉句碑と芭蕉像があった。元禄5年芭蕉は深川より小名木川近在の門人桐奚(とうけい)宅の句会に行く途中、神社に立ち寄った。

   
秋に添て 行ばや末ハ 小松川  

小松川とは現在の旧中川と荒川の間にある大島・小松川公園を横切っていた川で新川の西端部分にあたる。行徳船は小名木川から小松川に入り船堀川へ進んでいった。荒川放水路がなかった当時は一本の川で新川とよんだ。

日本橋からきて、小名木川最後の橋である番所橋の北詰めに中川関所とも呼ばれた船番所があった。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)中川口へ移ってきたものである。ここで旧中川(元の中川本流)と小名木川、小松川が交差する。

対岸をながめるとかすかに南にずれて、水門跡の建物が見える。近くに見るには、中川船番所資料館の東に架かる中川大橋で、中洲のような大島小松川公園に渡らなければならない。ここは江戸川区だ。荒川放水路が開削されるまでは、この公園は中川に面する船堀の東端にあたり、小名木川と新川(船堀川)が東西から中川に合流する水の十字路であった。広重の「江戸名所百景」にも「中川くち」として四方に行き交う船の様子が描かれている。

新川に沿って船堀地区を東に向かう。住宅街をながれる物静かな川だ。

新渡橋を左折して一筋北の陣屋橋通りに出る。一之江境川親水公園の入口が陣屋橋交差点で、かってここに陣屋橋という橋が架かっていた。近くの八幡神社に由来碑が建っている。

新川に架かる橋は篠崎街道筋の新川口橋で最後である。旧江戸川への出口に新川東水門があった。ここから船はしばらく旧江戸川(かっての江戸川本流)を遡上し、対岸の行徳新河岸へと進んでいくのであった。徒歩でそこまで辿るには、途中左手に熊野神社をみて、川沿いを1kmほど上り、瑞穂大橋で新中川をわたり、児童公園の縁をまわって旧江戸川にかかる今井橋に出なければならない。

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行徳
 

行徳新河岸跡に立派な常夜燈が立っている。この常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して新勝寺に奉納したものである。ここが日本橋小網町との間を往復していた行徳船の発着場である。堤防越しに旧江戸川をのぞきこむと、近くに船着場跡らしき接岸場所を見たような気がした。芭蕉はここで船をあがり、陸路利根川に向かう。

船からおりて行徳街道に向かう人、船の出発時間を待つ旅人の多くが利用したという「笹屋うどん」の店が街道沿いに残されている。江戸時代といわず、古くは源頼朝が安房に逃れてきたときに寄ったという伝えもあるほどの老舗だった。古川柳が伝わっている。

 行徳を下る小舟に干しうどん

 
さあ船が出ますとうどんやへ知らせ

行徳3丁目バス停隣はかっての行徳塩田所有者であった塩場師(ショバシ)田中家の邸宅である。繊細な格子が美しい旧家だ。田中邸の軒先に芭蕉句碑があった。鹿島での一句である。

 
月はやし梢は雨を持ながら

この辺の本行徳地区(街道筋バス停でいえば行徳4丁目から北へ1丁目まで)が宿場の中心地だったようだ。

交差点の角に「寺町通り」の標識がとりつけてある。行徳ルートの成田街道はここからスタートして、寺町通りをすぎ行徳バイパスを越えたところを左折して妙典地区を北上する。寺町通りの寺をいくつかたずねてみた。

すぐ右手に長松禅寺の入口がある。案内板に、山号の別称「塩場山」とあった。塩焼き労働者の信仰を集めていたという。

大きな通りが交差する。この通りの歩道の下を「内匠掘」の水が流れている。
国府台の合戦以後、行徳が北条氏の支配下にあったころ、その家臣の中に、この地に定着して土地の開拓に献身的な働きをした者がいた。一人が
浦安の田中内匠(田中重兵衛)で、他の一人は欠真間に住み着いた狩野新右衛門である。二人はこの地に農業用水を確保しようと、鎌ヶ谷を水源とする水路の開削に着手し、八幡、行徳を通って浦安まで、全長約12kmに及ぶ用水路を完成させた。二人の名を取って「内匠掘(たくみぼり)」、または「淨天(じょうてん)堀とよばれた。狩野新右衛門(淨天)は仏教に帰依し、私財を喜捨して源心寺の堂宇を建立した。

交差点を内匠掘跡に沿って一筋南に下る。「本塩1」に所在するのが
法善寺で、寺号の別称は「塩場寺」。地名が示す通りここはかっての塩田地帯である。地図には「本塩」につづいて「富浜」、「塩焼」という地名がみえる。法善寺に寄ったのは芭蕉の句碑を見るためであった。「塩塚」ともよばれている石碑が本堂の前の木陰に休んでいた。

 
うたがふな潮の華(はな)も浦の春

芭蕉が伊勢国の二見ヶ浦で詠んだ一句を寛政9年(1797)、芭蕉の百回忌を記念して行徳の俳人戸田麦丈等が碑に刻んだ。

行徳街道に戻り下新宿(しもしんしゅく)、河原を通って江戸川(放水路)にかかる行徳橋に出る。左手下の民家の壁に、愛嬌ある魚の絵柄を染めた暖簾がのんびりとゆれていた。魚屋かと思ったが、その餌になる虫を売る店のようだった。 

橋を渡る。

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八幡-鎌ヶ谷-白井 

資料2

舟をあがれば、馬にものらず、細脛のちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐国より或人のえさせたるひの木もてつくれる笠を、おのおのいただきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるる。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありと聞えしは、廬山の一隅なり。

 
雪は申さずまづむらさきのつくば哉

と詠しは、我門人嵐雪が句なり。すべて此山は日本武尊のことばをつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくば有べからず、句なくば過べからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

八幡

行徳街道は橋の上流側200mほどの場所を通っていた。北側の堤防に上がると橋北詰バス停から旧道が稲荷木(とうかぎ)地区の中に延びているのがよく見える。街道は双輪寺参道入り口、稲荷神社の前を通り、やや左に曲ったあと一本松で大きな通りに合流する。徳川家康の時代、伊奈備前守忠次が上総道の改修にあたったさい、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道をつくって、その分岐点に松を植えたと伝えられている。

その一本松の切株が今も残っている。そばの庚申塔には
「これより右やわたみち これより左市川国分寺みち」と刻まれている。国府台、松戸をめざすには左の市川国分寺道を行き、成田街道・木下街道に向う旅人はこの新道を通って本八幡にでるのが近道だった。八幡新道は行徳街道の延長となった。

京葉道路の高架下を潜り抜けてすぐ左手に、平将門の兜を祭るとも源義家の兜を祭るともいう甲(かぶと)大神社がある。行徳街道は総武本線本八幡駅の西側を通って国道14号線の成田街道に合流して終わる。

都営新宿線本八幡駅のあたりから市川市役所をすぎて真間川までが八幡宿だったらしいが、街道筋の家並みに宿場の面影をもとめることはできない。本陣、脇本陣はなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという記録がのこっている。

八幡2丁目の歩道橋の手前に
葛飾八幡宮の案内板が立っている。京成線の踏切を越えると銀杏並木のうしろに朱色の随神門があらわれる。元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に門の名前もかえられた。葛飾八幡宮は9世紀末の創建で、下総国総鎮守の古社である。伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。境内には多数の樹幹が寄り集まった「千本公孫樹」とよばれる銀杏の大樹が、目通し周囲10mをこす重量感で他を圧倒している。

道は真間川をわたり鬼腰2丁目のT字路にさしかかる。左に木下街道(県道59号)が分岐している。芭蕉はここを左折した。右手に煉瓦造りの蔵をかまえる古い屋敷は
中村邸で、木下街道に立ちはだかるようにある。

木下街道沿いにある
市川市立中山小学校の構内に「道しるべ」がある。道標の南面にある「中山道」とは北方三丁目の十字路から中山法華経寺へ通じている道のことである。県道180号号と交差する北方十字路の東に中山競馬場がある。駐車場の紅葉した並木がきれいだった。

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鎌ヶ谷

法典地区をすぎ馬込十字路をこえて鎌ヶ谷市に入る。鎌ヶ谷の宿場はそこからさらに1kmほど行った東部小学校入口あたりから、鎌ヶ谷大仏にかけての500mほどの小さなものだった。この宿場に7軒の旅籠があったというが、今は明治時代の建物として残っている
丸屋(野々山家)だけが昔の面影をとどめている。

新京成の鎌ヶ谷大仏駅を越えたところの左右に
大仏と八幡神社が向かい合っている。大仏は座高1.8mのかわいらしい銅像で、親にしかられた子供が神妙に反省している図に見えた。真向かいの八幡神社の境内は充実している。参道の左側には庚申塔がずらりと並んでいる。数えはしなかったが100基あるらしい。

神社由緒書きの序文が木下街道の地域特性をよく説明している。線でなく面として、この地域一帯は古くからの牧場で、平安時代朝廷所有の官馬が放牧されていた。元服した義経が平泉を訪ねる途中、小金牧の長者の家にしばらく逗留して、そこで乗馬をならったという話をどこかで聞いたことがある。武家政権になってからも幕府直轄の牧場として、野生の馬を確保し軍馬として供給する役割を担っていた。下野、中野、上野、高田台、印西は下総小金五牧として知られている。

芭蕉も
かまかいが原と云ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、目もはるかに見わたさるると、その広大さを特記している。筑波山の二峰も見えたとあるが、秋で空気が澄んでいたのであろう。残念ながら私には見えなかった。

大仏十字路を越えてすぐに現れる二又に、
魚文の句碑が建っている。魚文とは芭蕉の高弟嵐雪の高弟のそのまた高弟だったという人物である。明和元年(1764)の碑で道しるべも添えてある。
 
 
ひとつ家へ人を吹込む枯野かな

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白井

資料3

萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都のつとに持せたるも、風流にくからず。きちかう・女郎花・かるかや・尾花みだれあひて、小男鹿のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、処えがほ(得顔)にむれありく、又あはれ也。


「牧場入口」信号で白井市に入る。「開拓」というバス停が出てくる。それらの名が示すとおり、明治維新になって小金牧は(隣接する佐倉牧とともに)廃止され、牧場は旧下級武士の失業対策として開墾事業にあてられた。新しく生まれかわった土地には、開拓入植順に縁起のよい地名がつけられた。芭蕉が歩いた8月14日は中秋の前日、今で言うと9月中旬にあたり、鎌ヶ谷から大森にかけての広々とした牧場には秋の七草が咲き乱れてしみじみとした趣にあふれていた。

市役所入口交差点の手前に、道路工事でとり残された旧道が残っている。交差点を直進すると白井第一小学校の前にいくつかの石碑が林の一角に集められている。国道16号を越えた辺りから白井宿に入り、本白井郵便局あたりが宿場の中心だったらしい。明治7年(1874)の大火で宿場の大半を焼失した。神崎川に下っていく坂の手前右手に冠木門の庭を配した町屋風の立派な家がある。

神崎川の白井橋のたもとに、大きな神崎川土地改良記念碑とともに、小さな「伊勢宇橋の碑」が遠慮がちに建っている。江戸時代ここに江戸浅草の醤油酢問屋の伊勢屋宇兵衛が架けた石橋があった。

家並みがとだえて「神々廻木戸」バス停をすぎたあたりの左手に道標を兼ねた馬頭観音碑がある。手前にある馬頭観音ではなく、「高千穂鉄筋」の看板の前にナンテンの小枝に半ば隠れているヤツだ。「左ひらつかみち 右うらべみち」と書いてあった。平塚も浦部もともに布佐と松戸を結ぶ鮮魚(なま)街道沿いの集落である。

すらりとのびた白肌の大根が200本以上もずらりと並んでいる農家の前を通り過ぎ、「十余一平塚道」バス停にくる。11番目に開拓された小金印西牧があった地域にきている。すだれを垂らした簡易小屋の中で数人のおばさんたちが談笑していた。直販所なのだろう。鉄パイプに大根をつるし、手押し車にはとれたての白菜が乗ったままである。まもなく印西市に入る。

清戸道信号で旧道は、左に曲がる県道とわかれ右に入っていく。その曲がり角右手に他の石仏などにまじって一段と大きな寛政11年(1799)銘の「一億供養塔」がある。三段の台石に立つ石塔の右側面には
「大も里むらみち」、左側面には「ふさむらみち」と、しっかりと刻まれている。「大も里」は「大森」で、白井と木下の間にある木下街道の宿場である。他方、「ふさ」は鮮魚(なま)街道の起点である「布佐」で、「ふさむらみち」は途中白幡・浦部・亀成・発作(ほっさく)を通って布佐の観音堂裏に出る。そこに布佐河岸があった。芭蕉が
鹿島にむけて船に乗りこみ利根川を下っていった場所である。

私はここで一つの決断をしなければならない。芭蕉は左へいったか、右に曲がったのか。後者だとすれば、木下までいきながらなぜ当時人気が高かった木下茶船に乗らず、わざわざ遠くの布佐までいったのか。いずれの道も途中に難所はない平坦な道である。この点どの資料をみても触れていない。通説通り木下街道を行こう。

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大森

木下街道の旧道はここから先、千葉ニュータウンが生まれて大きく分断された。はじめに戸建の木刈地区がひろがり、中層住宅の小倉台地区があらわれる。イチョウ並木が美しかった。高層オフィスビルの林立する大塚地区のとの交差点に「牧の木戸」の地名が残っている。千葉ニュータウンは印西牧の大規模開発プロジェクトだった。


広い県道189号はビジネスモールを右に見て、まもなく県道61号に突き当たる。すこし北側に迂回して草むらの向こう側にでると、泉集落の旧道が復活する。入口に
「泉新田大木戸野馬堀遺跡」の解説板が立っていて、「牧」の理解をおおいに深めた。泉はニュータウンの近代的な町並が砂漠の蜃気楼だったように思えるほど、対照的に古風な家並みを見せる魅力的な集落である。

カメラをはなさず一軒一軒庭先を覗きながら歩いていくうち集落の終わりに近づいた。県道に出る手前の丁字路の右手路傍に、小さな道標がある。
「北 大森 六軒 木下 布佐 道 大正十一年」
「西 武西 戸神 十余一 白井」
「東 草深 船尾 宗像 佐倉 道」

北に向かい県道4号にでてしばらく行くと、昔の牧が現出したかのような風景が広がる。芭蕉が鎌ヶ谷でみた広野とはこれ以上の光景だったか。原野の左方に鹿黒(かぐろ)の集落を通っている旧道があるはずなのだが、時々でてくる道は住宅都市整備公団の工事中で「関係者以外通行禁止」となっていて入れない。2、3見過ごして、マルキンパーラー手前の土道を左に入ることができた。右に曲がって旧道が復活する。原野を開いて生まれた農村が昔のままにある。

旧道は鹿黒集会所の十字路を右に折れて県道4号に出る。集会所の柵内に石仏にまじって道標がある。
「東・大もり木下道、南・泉新田道、西・和泉、小倉道、北・かめなり、ほっさく道」
亀成、発作は鮮魚街道沿いの集落である。ここからでも木下を通らずに布佐に向かうことができた。

県道4号を北に向って亀成川を越え、小高い台地を上ったところが旧大森宿である。淀藩の飛び地として、藩主稲葉家の大森陣屋があった。少林寺拳法道場を営む宮島家の屋敷裏にあったらしい。大森坂上バス停付近が宿場の中心のようだが、気付いたころには宿場が終わっていて、台地を下り国道356号を横切っていく。いよいよ木下の町に入ってきた。

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木下

旧街道は「印西署入口」の変則4差路を右斜めの細道に入る。かってはこの辻に、現在中央公民館前に移されている道標があった。寛政元年の十九夜塔で、三面に「南江戸道」
「左布佐布川道」「右木下銚子道」と刻まれている。芭蕉が清戸道信号で左の布佐直通コースをとらずにあくまで右の木下街道を辿ったとすれば、彼はここで木下街道と分かれて、左(というよりは
まっすぐ)の布佐道を行ったはずだ。

ここから
木下河岸まで1.7km。一方布佐河岸までは、なんと1.7km。距離的にはどちらでもよかった。
しかし布佐からだと利根川を2km余計に下ることになるわけで、なぜ木下河岸から乗船しなかったかの疑問は解けていない。鮮魚の積み降ろしこそ布佐の方が賑わっていたが、江戸からの観光客相手の船運は木下茶船という名が示すとおり圧倒的に木下河岸が人気高かった。

次の丁字路右手に近江屋酒店をみて、
JR成田線踏切を渡る。線路沿いに柴崎味噌醤油店の蔵が建つ趣ある踏切である。その先の十字路で国道356号と合流して北に向かう。この界隈にも五十嵐倉次郎商店鍋店元酒店の古風な佇まいを見せる商家が残っている。いずれも整った瓦屋根が美しい。

国道356号は我孫子で水戸街道の国道6号から分かれて利根川右岸を銚子にいたる92kmの街道であるが、
銚子道とよばれた古い街道筋でもある。特に我孫子-布佐間は水戸街道の最初の道筋であった。また、安食から南下して成田へ通じることから、成田道北回りともよばれた。現在のJR成田線と重なっている。

弁天橋を渡る。
弁天川とこのさきの六軒川は手賀沼の水を利根川に排するために掘られた水路で、江戸時代初期から営々と続けられてきた治水・開拓事業の成果である。橋の袂に小船がつながれている。週末に運行される遊覧船らしい。

西方向に歩いていくと六軒の「弁天様」として親しまれている
水神社、厳島神社がある。延宝3年(1675)六軒箱新田を開発した大森の大庄屋宮島勘右衛門が安芸の宮島より勧請したものといわれている。布佐に通じる街道(我孫子からは成田街道、銚子道等)はもともと厳島神社の前を通っていた。当時の弁天橋は現在の水神橋の場所にあった。地図をみれば、国道356号との合流手前でやや左に曲がった県道4号を交差点から直進方向にのばした位置に水神社があることがわかるであろう。

国道にもどる。陸路と水運の要衝であった弁天橋から六軒橋にかけては、街道筋に煙草、塩・油問屋、川鮮料理屋、青物屋、団子屋、材木店、呉服屋、金融業者など多種多様な商家が立ち並び、その繁栄ぶりは船橋に匹敵するとまでいわれた。今もその面影を感じ取ることができる。

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布佐 

資料4

日既に暮かかるほどに、利根川のほとりふさと言処につく。此川にて鮭のあじろと云ものをたくみて、武江の市にひさぐものあり。宵のほど、其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるままに、夜ふねさし下して、鹿島に至る。 ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。

六軒橋をわたり北千葉揚排水機場の東側を通り過ぎると布佐である。左手十字路角にやまつね食品の大きな味噌樽が目を引く。その十字路を右にはいり突き当りの利根川土手下を左におれると路地角に鮮魚街道起点のシンボルとされる観音堂がある。水戸街道古道、銚子・成田道の宿場として、また利根川水運の拠点河岸として布佐には多くの駄馬荷運送関係者が集まっていた。馬頭観音を本尊とする観音堂はこうした継立問屋や馬主が
駄送馬慰霊のため建立したものである。境内には古い石仏・石塔が並んでいる。

土手にあがると滔々とした利根川の流れが見渡せる。観音堂の裏側あたりに「その味利根川随一」と言われた布川鮭漁場の
網代場があった。利根川は鮭遡上の南限といわれている。佐原あたりまでは海水が入り込み、また我孫子より上流になると鮭は痩せて味が落ちる。布佐あたりの汽水域で捕れる鮭が一番美味いのだそうだ。銚子から鮮船(なまぶね)で運ばれくる鮮魚にくわえ、ここで取れた鮭は布佐河岸から陸路松戸あるいは行徳まで運ばれた。最盛期には一日100頭以上の馬で送り出したといわれている。

観音堂の裏から「江戸みち」と呼ばれる
鮮魚(なま)街道がでている。今は車も通らない生活道だが、当時はここを魚籠をのせた駄馬がひっきりなしに出て行った。江戸に至るに、高西新田の二股で右におれて鮮魚街道経由で松戸にでるか、真直ぐ進み木下街道に合流して行徳経由とするかの二法があったが、木下街道の宿場での積み替えを嫌って鮮魚街道が主流となった。

土手を西の栄橋に向かって歩いていくと、土手下の民家に沿った道がついている。これが布佐河岸の道であった。今も板蔵と白漆喰土蔵が河岸問屋の風情を残している。なお、その先の鬱蒼とした森は松岡鼎(かなえ)邸屋敷である。医家の長男として生まれ、東京帝大卒業後利根川対岸の布川で開業していたがまもなく布佐に移ってきた。その弟が柳田国男で学生時代一時兄の松岡宅に居候をしていた。傍を通ったが高い塀と庭木の繁みに視野をさえぎられてようやく屋根の部分を覗き見できた程度である。

国道にもどり、旧水戸街道を逆にいくつもりでもうすこし我孫子に向かってあるいてみた。栄橋高架をはさんで、往時の面影をのこす家並みがみられる。このあたりが布佐宿の中心地であったのだろうか。木造二階建てのビジネス旅館布佐も昭和レトロ調で趣がある。街道の両側にある勝蔵院と延命寺を見て布佐の町並を抜けたあたり、東消防署入り口の丁字路先左手に、
布佐一里塚跡碑がある。昭和9年に設置されたものだが街道名が記されていない。旧水戸街道のものか、銚子道のものか、ともかく、一里塚が設けられるほどのみちであったことが確認できて嬉しかった。

布佐の散策をここでおわる。芭蕉は河岸近くの漁師の家に泊まろうとしたが、魚の臭気に耐え切れず夜中に宿を抜け出して布佐河岸から鹿島行き夜行便に乗った。日本橋、深川と、魚くさい場所に住んでいた芭蕉にして耐えられなかったというから、よほど臭かったのであろう。枕元に翌朝出荷予定の魚が積み上げられていたのかもしれない。まともな旅籠にとまればよいものを。

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鹿島 

資料5

麓に根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此処におはしけると云を聞て、尋ね入て臥ぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけん、しばらく清浄の心をうるに似たり。暁の空いささかはれ間ありけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、只あはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、時鳥の歌えよまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。

 おりおりにかはらぬ空の月かげも  ちぢのながめは雲のまにまに  和尚

 
月はやし梢は雨を持ながら     桃青

 
寺にねてまことがほなる月見かな  桃青

 雨にねて竹おきかへる月見かな   曽良

 月さびし堂の軒端の雨しづく    宗波

布佐から利根川を下ったのはよいが、鹿島の船着場である大船津までどのような水路をたどったのか、定かでない。最も近道で途中の景色を楽しめそうなのは、佐原まで利根川を下り
横利根川を北上して霞ヶ浦南出口にある牛堀に出て、常陸利根川を下って潮来大橋の下流で前川に入り潮来あやめ公園を眺めながら東に下って鰐川に出るコースではないかと思われる。このコースは国道51号(成田から鹿島への幹線道路。佐原道・鹿島香取道などと呼ばれる街道である。旧道は茨木県道11号-5号)にほぼ沿っていて陸路で芭蕉を追うには都合がよいのだ。

あえて夜船を選んだ芭蕉にとっては途中の航路、風景はどうでもよく心は翌日の月見に移っていた。この間の行程は
佐原・香取・鹿島街道に譲ることにする。

ともかく芭蕉はおよそ60kmの夜間船旅を敢行して15日の昼近く大船津で下船した。鰐川土手に朱色の鹿島神宮一の鳥居が建つ。すぐ北に神宮橋が架かり、その向こうに北浦が延びている。那珂川から那珂湊-涸沼経由で陸路を通り、再び巴川-北浦の水路を経て利根川に至るルートは危険な太平洋航路を避け、那珂川水運と利根川航路をつなぐ重要な奥州物資輸送路であった。

一の鳥居から出ている参道を歩きはじめる。右手に大船津稲荷神社をみて、県道238号を横切り国道51号を斜めに横断すると左手にがっかりするほど小さな祠の
鎌足神社がある。藤原氏の始祖、鎌足は常陸の生まれだという。

その先を右に入っていくと
根本寺がある。根本寺は聖徳太子による勅願寺と伝わる古刹だが、幕末の天狗党の乱で兵火にあい堂塔のほとんどを焼失した。現在の本堂は昭和56年のものである。山門をくぐると左手に平成9年に建てられたばかりの新しい句碑があり、寺に寐てまこと顔なる月見哉 と彫られている本堂右手には宝暦8年という県下最古の芭蕉句碑があり、こちらには月はやし梢は雨を持ちながらと刻まれている。

芭蕉一行はここに隠居していた仏頂和尚を訪ねた。月見に誘われたものの、その日は昼からの雨で残念ながら仲秋の名月を見ることができなかった。翌明け方には雨上りの空で雲の切れ間に見え隠れする有明の月を観賞することができた。和尚、曾良、宗波が一句ずつ、芭蕉が二句、根本寺月見の作である。

清々しく晴れ上がった秋日の午後、仏頂和尚と別れた一行は鹿島神宮に参詣した。


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資料6

  神前

 
此松の実ばえせし代や神の秋    桃青

 ぬぐはばや石のおましの苔の露   宗波

 膝折やかしこまりなく鹿の声    曽良

   田家

 
かりかけし田面の鶴や里の秋    桃青

 夜田かりに我やとはれん里の月   宗波

 
賤の子や稲すりかけて月をみる   桃青

 
芋の葉や月まつ里の焼ばたけ    桃青

   

 ももひきや一花すりの萩ごろも   曽良

 花の秋草にくひあく野馬かな    曽良

 
萩原や一夜はやどせ山の犬     桃青


根本寺から鎌足神社前の道路にもどり、そのまま東に進むと鹿島高校の北側をかすめて県道18号の「鹿島高校北」信号に出る。そこから真っ直ぐな参道を500m歩くと鹿島神宮二の鳥居(大鳥居)が出迎える。鹿島神宮は常陸国一ノ宮である。下総国一ノ宮の香取神社と並んで東国三社(他の一社は息栖神社)として崇められた。

朱塗りの
楼門は寛永11年(1634年)に水戸初代藩主徳川頼房が奉納したもの。楼門を入り茅の輪をくぐると右手に鳥居が建って、その背後に拝殿、本殿などの社殿がある。元和5年(1619)二代将軍徳川秀忠によって奉納されたものえ、楼門とともに国重要文化財である。楼門と社殿は一直線でなくL字形の珍しい配置だ。鹿島神宮は北方の蝦夷に対する防衛拠点としての位置づけであったため、社殿は北向きにしたらしい。

日光街道杉並木を思わせる奥参道をすすんでいくと
鹿園があり子供に人気がある。その先に常設売店があってここでも庶民性を発揮している。売店の脇に目立たない石柱があるがこれが芭蕉句碑である。明和3年(1766年)の建立で、茨城県の芭蕉句碑としては根本寺の句碑に次いで2番目に古い。芭蕉が神前で詠んだ句が刻まれている。

此松の実生せし代や神の秋

右手にある
奥宮は小柄ながら品格を備えた社殿である。慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納したもので、14年後秀忠の本殿造営によりここに引退した。

杉の巨木が聳え立つ境内の奥地に
要石が玉垣に囲まれてあった。香取神社にも要石があって、その解説が要を得ている。鹿島と香取の両神宮はペアとして扱われていることがよくわかる。天照大神は芦原中国を平定するために武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)を使わした。前者は鹿島神宮の、後者は香取神社の祭神である。奈良に春日大社が造営されると、両神が勧請された。鹿島・香取は春日大社の先輩格にあたる。香取の石は凸で、鹿島の石は凹形である。両石は地下でつながっているという伝承がある。水戸黄門の発掘が失敗におわったのも無理はない。ニューヨークマンハッタンは巨大な岩盤上にあるので地震がないのだという。鹿島も地震がないそうだ。

三人は本殿、鹿園、要石と、それぞれに境内の主だった見所を句にしたためて神の森を去った。

『鹿島紀行』では鹿島神宮から潮来まで、句の羅列があるだけで文章がない。参詣の後、のんびりと鹿島の田園風景を愛でながら帰路途上の潮来に向った。どこの田家か野なのかはわからない。月の描写があるからもう夜にかかっていたのか。

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潮来 

資料7

帰路自準に宿す

 塒せよわら干宿の友すずめ     主人

 秋をこめたるくねのさし杉    客

 月見んと汐ひきのぼる舟とめて   曽良

 貞享丁卯仲秋末五日 

16日は潮来の本間自準亭を訪ねることになっていた。北浦に架かる神宮橋は昭和4年に開通した。江戸の時代にこんな長い橋は架けられなかったろう。大船津から船で対岸の前川に入っていったのではないか。
前川は潮来経由の水運拠点であった。奥州方面から太平洋を南下した廻船が、那珂湊から涸沼に入り、陸路を経て再び北浦から前川に入って潮来に出る。潮来からは常陸利根川から横利根川を通って佐原に出て利根川を溯り、関宿から江戸川を下っていった。前川筋には仙台藩・津軽藩などの専用河岸が設けられ蔵屋敷が建てられた。

芭蕉一行は前川の
天王河岸で下船する。川岸には海鼠壁の土蔵と常夜燈が往時の面影を今に伝えている。天王橋から前川を見下ろすとサッパ舟にのったオバサンたちが晴れやかな表情で空に向って手を振ってくれた。思わず気分が高揚してVサインで答える。すぐ下流のあやめ園であやめ祭りが開かれていて、賑やかさがここまで伝わってくる。

橋を降りた先に石鳥居が建つ。右に新築の御仮殿がある。天王山に鎮座する素鵞熊野神社のものだろう。鳥居の真前に
本間自準亭があった。現在は松田国助宅になっている。西側の路地を入ると裏庭入口に「本間自準亭跡」の標柱が立っている。フェンス越に見た庭に屋敷跡の痕跡は見当たらなかった。あるときこの庭の一画で火災跡らしい焦土の中から本間家の家紋のついた瓢箪が発見されたという。

道悦(1623~1697)は近江膳所藩主戸田左門に仕えていた本間資勝の三男として生まれた。戸田家の大垣移封に伴い本間家も随行、道悦は大垣戸田藩に藩医として仕えていた。江戸で医院を開業した後、延宝10年(1682)江戸から潮来に退き診療所「自準亭」を開く。江戸時代に芭蕉と知遇を得、松江と号して俳諧もよくした。自準亭跡の標識には芭蕉はここに15日も滞在したとある。その間に『鹿島紀行』を書き上げた。本間家はその後も名医を輩出し、とくに8代目の本間棗軒(玄調)は華岡青洲に師事し麻酔医術を修得、水戸藩医として活躍する一方で弘道館教授に就き近代医学を築きあげた。水戸三ノ丸には本間棗軒の銅像がある。

山王鳥居前の通りを川に沿って西にたどるとあやめ園脇の
大門河岸に出る。おそらく芭蕉はここで帰路の船に乗ったのではないか。帰る前に二か所寄って行こう。

大門河岸跡から北に延びる路地をたどるとそのまま
長勝寺に至る。優美な茅葺の本堂境内に自準亭で詠んだ連句の碑が建てられている。主人松江と客芭蕉、それに曽良の三人による連句である。

寄り道にしては少々遠いが、長勝寺から県道5号を3kmほど北西に行った上戸の
長国寺に本間道悦(向って右側)と2代目道因二人の墓がある。三代目道仙が建てたものである。

さて、船はすぐ常陸利根川にでる。霞ヶ浦方面に遡行して横利根川に入り利根川に出る。さてそこからどうしたか誰もしらない。はるばる関宿まで利根川を上がって江戸川をくだったか。木下/布佐まで上がって来た道をもどったか。私なら目の前の佐原で下船して、香取神社、成田山、佐倉など道草を喰いながらのんびり陸路を帰るだろう。

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(2010年6月)

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日本紀行