木下街道



行徳−八幡鎌ヶ谷白井大森木下

いこいの広場
日本紀行



まず。「きのした」でなく「きおろし」と読む。千葉県印西市にある利根川河岸の名前である。名の由来については、付近の雑木林から切り出した木を河岸から船に積み込んだとか、古く永徳3年(1383)に竹袋稲荷神社が造営された時、里見家より寄進された良木を筏に組んで運び河岸に下ろしたとか、いわれている。

それよりも。経済的には、銚子から運ばれてきた鮮魚を江戸川の行徳新河岸につなぐ中継地として、あるいは江戸から行徳船でやってきた鹿島・香取・息栖(いきす)三社詣の旅客が利根川を下る乗船場として賑わっていた。

この街道は木下から鹿島や銚子へと続いているため「かしま道」あるいは「ちょうし道」とも呼ばれる。起点は現在の木下街道である県道59号市川印西線の起点、鬼越2丁目丁字路とする考え方もあるが、ここではフルスケールの行徳新河岸とし、同様に終点は国道356号との交差点である「中ノ口交差点」ではなく、究極の終点木下河岸とする。




行徳

行徳河岸にシンボルである常夜燈が立っている。ここが日本橋小網町との間を往復していた行徳船の発着場である。船からおりて行徳街道に向かう人、船の出発時間を待つ旅人の多くが利用したという
「笹屋うどん」の店が街道沿いに残されている。江戸時代といわず、古くは源頼朝が安房に逃れてきたときに寄ったという伝えもあるほどの老舗だった。古川柳が伝わっている。

 
行徳を下る小舟に干しうどん

 
さあ船が出ますとうどんやへ知らせ


行徳3丁目バス停隣はかっての行徳塩田所有者であった塩場師(ショバシ)田中家の邸宅である。いずれも繊細な格子が美しい旧家だ。田中邸の軒先に芭蕉句碑があった。鹿島での一句である。

 
月はやし梢は雨を持ながら

この辺の本行徳地区(街道筋バス停でいえば行徳4丁目から北へ1丁目まで)が宿場の中心地だったようだ。

行徳1丁目のバス停近くに豊受神社がある。16世紀前半のころ
金海法印という山伏が建立したといわれている小さな神社だ。この山伏は徳が高く行いが正しくて人々から「行徳さま」と崇められたという。山伏の愛称がそのまま地名になった下新宿(しもしんしゅく)、河原を通って江戸川(放水路)にかかる行徳橋に出る。

橋北詰バス停から旧道が稲荷木(とうかぎ)地区の中に延びている。街道は双輪寺参道入り口、稲荷神社の前を通り、やや左に曲ったあと一本松で大きな通りに合流する。徳川家康の時代、伊奈備前守忠次が上総道の改修にあたったさい、新たに八幡と行徳を結ぶ八幡新道をつくって、その分岐点に松を植えたと伝えられている。

その
一本松の切株が今も残っている。そばの庚申塔には「これより右やわたみち これより左市川国分寺みち」と刻まれている。国府台、松戸をめざすには左の市川国分寺道を行き、成田街道・木下街道に向う旅人はこの新道を通って本八幡にでるのが近道だった。京葉道路の高架下を潜り抜けてすぐ左手に、平将門の兜を祭るとも源義家の兜を祭るともいう甲(かぶと)大神社がある。街道は総武本線本八幡駅の西側を通って国道14号線の成田街道に合流する。

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八幡

都営新宿線本八幡駅のあたりから市川市役所をすぎて真間川までが八幡宿だったらしいが、街道筋の家並みに宿場の面影をもとめることはできない。本陣、脇本陣はなく、わずかに数軒の旅籠があったのみという記録がのこっている。

八幡2丁目の歩道橋の手前に
葛飾八幡宮の案内板が立っている。京成線の踏切を越えると銀杏並木のうしろに朱色の随神門があらわれる。元は仁王門だったが、仁王が左右大臣に入れ替わった時に門の名前もかえられた。葛飾八幡宮は9世紀末の創建で、下総国総鎮守の古社である。伊豆から安房に上陸して下総国府に入った源頼朝も参詣にきた。境内には多数の樹幹が寄り集まった「千本公孫樹」とよばれる銀杏の大樹が、目通し周囲10mをこす重量感で他を圧倒している。

参道にはこの地に梨栽培をひろめた川上善六(1742〜1829)の
「川上翁遺徳碑」が建っている。18世紀の半ば、善六は岐阜から良種の梨を持ち帰り梨園を開いた。江戸市場で人気を得て、八幡一帯には多くの梨園がひろがった。後ほど白井地区から印西大森にかけて木下街道沿いに多くの梨園をみることになる。

街道にもどる。道の反対側に広がる竹薮は
八幡不知森(八幡の藪知らず)として古くから全国に知られていた。いったん入り込むと出てこられないという伝承があるが、その理由については諸説があって定まっていない。

道は真間川をわたり鬼腰2丁目のT字路にさしかかる。左に現在の木下街道(県道59号)が分岐している。右手に煉瓦造りの蔵をかまえる古い屋敷は中村邸で、木下街道に立ちはだかるようにある。芭蕉が鹿嶋神社に詣でたときもこの道筋を歩いていった。

木下街道沿いにある
市川市立中山小学校の構内に「道しるべ」があるという。門は鍵がかかっていてインターホーンで理由と名前を告げて開けてもらった。写真を撮り終わったころに女性の教頭がでてきて、「不審者対策として、名前を記帳してもらっています」と、教務室まで連行された。電話番号と名前、理由(写真撮影)を書き入れた。記帳が終わるとこんどは、「名札をつけてもらうことになっています」と、箱から一つ取り出そうとした。「もう帰るだけだから」と一蹴した。この道標はもともと北方三丁目の十字路にあったものである。それほど心配なら教育委員会に提案して道標を正門の外に移設すればよい。

道標の南面にある「中山道」とは北方三丁目の十字路から中山法華経寺へ通じている道のことである。県道180号号と交差する北方十字路の東に中山競馬場がある。駐車場の紅葉した並木がきれいだった。十字路をこえると市川市から船橋市に入る。左手にある小さな白幡神社の境内に「従是左中山法華経寺」と刻まれた恰幅のある道標がある。このあたり法華寺の存在が大きい。

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鎌ヶ谷

法典地区をすぎ馬込十字路をこえて鎌ヶ谷市に入る。鎌ヶ谷新田郵便局の手前に1715年の古い
道標地蔵があると聞いていたのに見落としてしまった。教育委員会の解説全文を資料として載せておく。

  道標地蔵

正面 いんざい道  かしま道  正徳5年    左面 かまがい道     右面 じんほう道

市川から鎌ヶ谷・白井・印西へと通じる現在の木下街道は、江戸時代には「かしま道」とも呼ばれ、重要な交通路でした。この道標地蔵は、初めに建てられた場所は不明ですが、木下街道から神保(船橋市)へ行く道の分岐点にあったと考えられ、鎌ヶ谷宿を示す道標として、また鎌ヶ谷と近隣との関係を解明する上で貴重な資料といえます。正徳5年(1715)銘は道標として市内最古で、地蔵に道標が刻まれているのは市内唯一のものです。        昭和61年10月   鎌ヶ谷市教育委員会

鎌ヶ谷の宿場はそこからさらに1kmほど行った東部小学校入口あたりから、鎌ヶ谷大仏にかけての500mほどの小さなものだった。この宿場に7軒の旅籠があったというが、今は明治時代の建物として残っている丸屋(野々山家)だけが昔の面影をとどめている。

新京成の鎌ヶ谷大仏駅を越えたところの左右に
大仏と八幡神社が向かい合っている。大仏は座高1.8mのかわいらしい銅像で、親にしかられた子供が神妙に反省している図に見えた。真向かいの八幡神社の境内は充実している。参道の左側には庚申塔がずらりと並んでいる。数えはしなかったが100基あるらしい。

神社由緒書きの序文が木下街道の地域特性をよく説明している。線でなく面として、この地域一帯は古くからの牧場で、平安時代朝廷所有の官馬が放牧されていた。元服した義経が平泉を訪ねる途中、小金牧の長者の家にしばらく逗留して、そこで乗馬をならったという話をどこかで聞いたことがある。武家政権になってからも幕府直轄の牧場として、野生の馬を確保し軍馬として供給する役割を担っていた。下野、中野、上野、高田台、印西は下総小金五牧として知られている。

境内の奥に庚申道標がある。寛政7年(1795)のもので、「東さくら道 西こがね道」とあり、すぐ先の大仏十字路を東西に横切る県道57号の両方向を示している。

その大仏十字路を越えてすぐに現れる二又に、
魚文の句碑が建っている。魚文とは芭蕉の高弟嵐雪の高弟のそのまた高弟だったという人物である。明和元年(1764)の碑で道しるべも添えてある。
 
 
ひとつ家へ人を吹込む枯野かな


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白井

「牧場入口」信号で白井市に入る。「開拓」というバス停が出てくる。それらの名が示すとおり、明治維新になって小金牧は(隣接する佐倉牧とともに)廃止され、牧場は旧下級武士の失業対策として開墾事業にあてられた。新しく生まれかわった土地には、開拓入植順に縁起のよい地名がつけられた。

初富 はつとみ 鎌ヶ谷市 小金牧内 中野牧
二和 ふたわ 船橋市 小金牧内 下野牧
三咲 みさき 船橋市 小金牧内 下野牧
豊四季 とよしき 柏市 小金牧内 上野牧
五香 ごこう 松戸市 小金牧内 中野牧
六実 むつみ 松戸市 小金牧内 中野牧
七栄 ななえ 富里市 佐倉牧内 内野牧
八街 やちまた 八街市 佐倉牧内 柳沢牧
九美上 くみあげ 佐原市 佐倉牧内 湯田牧
十倉 とくら 富里市 佐倉牧内 高野牧
十余一 とよいち 白井市 小金牧内 印西牧
十余二 とよふた 柏市 小金牧内 高田台牧
十余三 とよみ 成田市 佐倉牧内 矢作牧

白井新田をすぎ競馬学校入口前を通る。天才騎手武豊もここを卒業した。二又に分かれる道の右側をとり、国道をよこぎり白井大橋で北総鉄道をまたいでいく。白井新田からこのあたりにかけての地名は「根」という一字の珍しい名前である。

農家の庭をのぞくと純白の絹布のような肌をした大根が行儀よく並んでいた。奥の方でおばあさんが採りたての大根を洗っている。声をかけて写真を一枚撮らせてもらった時、向かいの母屋へかえる息子さんらしい若主人に「この花撮っていかない?」と、誘われた。ついていくと、絵になりそうな農家の庭先に、大型のムクゲに似た花が咲いている。何の花か本人も知らなかった。
「こっちから撮った方がいいよ」「なるほど。日が当ってきれいですね」
彼も写真が好きそうだった。

直ぐ先の七次入口丁字路角に
「○○記念」と刻んだ大正5年銘の石柱が建っていた。南面が道しるべになっていて4方面を一挙に書き込んでいる。「東 白井木下 南 富ヶ沢 豊富方面  西 鎌ヶ谷中山 北 七次中木戸松戸 」

市役所入口交差点の手前に、道路工事でとり残された旧道が残っている。交差点を直進すると白井第一小学校の前にいくつかの石碑が林の一角に集められている。国道16号を越えた辺りから白井宿に入り、本白井郵便局あたりが宿場の中心だったらしい。明治7年(1874)の大火で宿場の大半を焼失した。神崎川に下っていく坂の手前右手に冠木門の庭を配した町屋風の立派な家がある。

神崎川の白井橋のたもとに、大きな神崎川土地改良記念碑とともに、小さな「伊勢宇橋の碑」が遠慮がちに建っている。江戸時代ここに江戸浅草の醤油酢問屋の伊勢屋宇兵衛が架けた石橋があった。

橋をこえると神々廻(ししば)という集落にはいる。この街道筋には変わった地名が多い。佐倉・船尾方面に出ている丁字路からゆるやかなS字カーブを上っていく。右手に小さな祠をはさんで、それにあわせたかのようなサイズのイチョウの若木が二本、葉を黄色に輝かせていた。左手の一段高い林の中に、血だるまになった庚申塔がのぞいてみえる。かけ上がってみると、木立にかくれて8基ものいろんな年代の庚申塔が一列にならんでいて、いずれもが赤レンガ色に染まった異常な光景を見せていた。悪質ないたずらか、拓本に最近はこんな色を使うのか。

神々廻バス亭のあたりが集落の中ほどだろう。手入れが行き届いた農家の家並みが心地よい。葉を落とした梨畑もまた一興だ。赤い新枝を四方に発散させた珍しい木をみつけて、庭の手入れをしていたおばさんの了解を得て、近くまで入らせてもたった。黄色のモミジ葉をつけている。まちがいなくモミジの木だそうだ。

家並みがとだえて「神々廻木戸」バス停をすぎたあたりの左手に道標を兼ねた馬頭観音碑がある。手前にある馬頭観音ではなく、「高千穂鉄筋」の看板の前にナンテンの小枝に半ば隠れているヤツだ。「左ひらつかみち 右うらべみち」と書いてあった。平塚も浦部もともに布佐と松戸を結ぶ鮮魚(なま)街道沿いの集落である。

すらりとのびた白肌の大根が200本以上もずらりと並んでいる農家の前を通り過ぎ、「十余一平塚道」バス停にくる。11番目に開拓された小金印西牧があった地域にきている。すだれを垂らした簡易小屋の中で数人のおばさんたちが談笑していた。直販所なのだろう。鉄パイプに大根をつるし、手押し車にはとれたての白菜が乗ったままである。まもなく印西市に入る。

清戸道信号で旧道は、左に曲がる県道とわかれ右に入っていく。その曲がり角右手に他の石仏などにまじって一段と大きな寛政11年(1799)銘の「一億供養塔」がある。三段の台石に立つ石塔の右側面には「大も里むらみち」、左側面には「ふさむらみち」と、しっかりと刻まれている。「大も里」は「大森」で、白井と木下の間にある木下街道の宿場である。他方、「ふさ」は
鮮魚(なま)街道の起点である「布佐」で、「ふさむらみち」は途中白幡・浦部・亀成・発作(ほっさく)を通って布佐の観音堂裏に出る。そこに布佐河岸があった。芭蕉が鹿島紀行で船に乗りこんで利根川を下っていった場所である。

鮮魚街道は布佐の観音堂から布佐村道を逆にたどり、白幡から平塚を経て松戸に向う。江戸時代、銚子から運ばれてきた鮮魚を、木下街道を通って行徳河岸へ送ろうとする木下と、布佐で積み替えて鮮魚街道で松戸まで送ろうとする布佐とは、鮮魚をめぐって生臭い競争をしていた。「一億供養塔」の道標がある清戸道信号の三叉路は、木下街道と生街道がニアミスする重要な分岐点だったのである。

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大森

木下街道の旧道はここから先、千葉ニュータウンが生まれて大きく分断された。はじめに戸建の木刈地区がひろがり、中層住宅の小倉台地区があらわれる。イチョウ並木が美しかった。高層オフィスビルの林立する大塚地区のとの交差点に「牧の木戸」の地名が残っている。千葉ニュータウンは印西牧の大規模開発プロジェクトだった。

広い県道189号はビジネスモールを右に見て、まもなく県道61号に突き当たる。すこし北側に迂回して草むらの向こう側にでると、泉集落の旧道が復活する。入口に
「泉新田大木戸野馬堀遺跡」の解説板が立っていて、「牧」の理解をおおいに深めた。泉はニュータウンの近代的な町並が砂漠の蜃気楼だったように思えるほど、対照的に古風な家並みを見せる魅力的な集落である。

カメラをはなさず一軒一軒庭先を覗きながら歩いていくうち集落の終わりに近づいた。県道に出る手前の丁字路の右手路傍に、小さな道標がある。
「北 大森 六軒 木下 布佐 道 大正十一年」
「西 武西 戸神 十余一 白井」
「東 草深 船尾 宗像 佐倉 道」

北に向かい県道4号にでようとしたとき、道で自転車を組み立てているおじさんに出会った。黒いバッグが横においてある。
「自転車、これに入れてかついで歩いているのですか」
「そうだよ。仕事でこれが一番便利なんだ」
車の配送を仕事にしている人で、自分で運転して車を送り届けた帰りは自転車で最寄の駅まで行くのだという。これならリュックに背負って、どこの電車にでも乗れるそうだ。私も折りたたみ式自転車は買おうと思っていたが、あくまで車に積んで、目的地を散策するときに使おうと思っていた。車の運転を避けて、最初から自転車で遠くまでいく手段があった。ただし、かなり小さくたためる高級車だろう。

県道4号をしばらく行くと、昔の牧が現出したかのような風景が広がる。原野の左方に鹿黒(かぐろ)の集落を通っている旧道があるはずなのだが、時々でてくる道は住宅都市整備公団の工事中で「関係者以外通行禁止」となっていて入れない。2、3見過ごして、マルキンパーラー手前の土道を左に入ることができた。右に曲がって旧道が復活する。原野を開いて生まれた農村が昔のままにある。

旧道は鹿黒集会所の十字路を右に折れて県道4号に出る。集会所の柵内に石仏にまじって道標がある。
「東・大もり木下道、南・泉新田道、西・和泉、小倉道、北・かめなり、ほっさく道」

県道4号を北に向って亀成川を越え、小高い台地を上ったところが旧大森宿である。淀藩の飛び地として、藩主稲葉家の大森陣屋があった。少林寺拳法道場を営む宮島家の屋敷裏にあったらしい。大森坂上バス停付近が宿場の中心のようだが、気付いたころには宿場が終わっていて、台地を下り国道356号を横切っていく。いよいよ木下の町に入ってきた。

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木下

街道は「印西署入口」の変則4差路を右斜めの細道に入る。かってはこの辻に、現在中央公民館前に移されている道標があった。
寛政元年の十九夜塔で、三面に「南江戸道」「左布佐布川道」「右木下銚子道」と刻まれている。

道なりに住宅街のなかをはいっていくと道は途中で消失していた。日本デキシー工場が大きく住宅街を分断している。工場の東側、駅前郵便局の十字路を左折し2筋北の路地が、旧道である。東にすすむと三叉路にぶつかり、右手上町会館のとなりに観音堂がある。境内の角地に石造物が集められていて、その一つの庚申塔には
「従是右江戸みち 従是東鹿島みち 従是左さくらみち」と刻まれている。ここを左折して、JR成田線「木下駅」東の踏切を越え、みちなりに右にまがっていくと、木下の旧宿場街にたどりつく。

黄土色の法衣をまとった数人の托鉢僧が歩いていった。しんがりをつとめる若ものは「天台宗全国一斉托鉢」とかかれた幟を掲げている。こんな風景をみるのは久しぶりだった。

往時からの屋号をかかげた店が宿場の面影をとどめている。「近江屋本店」は二階のベランダが酒屋というよりは旅籠の趣をみせている。蕎麦屋の「柏屋」は千本格子の美しい店構えである。料理旅館の「銚子屋」は建物こそ近代的だが昔からの老舗である。

そして通りの最後に、木下河岸の問屋を営んでいた
吉岡家の重圧感ある土蔵がモミジのそばに建っている。松戸の青木源内、布佐の石井源左衛門とともに、銚子―江戸間の鮮魚輸送を担った豪商である。明治時代には「銚港丸」という蒸気船を5隻も所有していた船問屋であった。蔵の裏側にまわると、レトロな雰囲気の「まちかど博物館」になっていた。裸電球はセンサーライトである。

木下街道は利根川の堤にでて終わる。旅館「銚子屋」の裏あたりが木下河岸であった。堤防の上に設けられた「木下河岸跡」の案内板が、絵入りで過去の栄光を詳しく説明している。最盛期には50軒余の旅籠や飲食店が軒を連ね、鮮魚荷物の扱いと
木下茶船で賑わったという。木下茶船は、8人乗りの和船で、香取、鹿島、息栖の三社詣でや、銚子磯めぐりを楽しむ遊覧船であった。河岸宿場だけでなく他の多くの宿場と同じく、鉄道が開業してそれまで水陸の交通をになってきた宿場町は衰退していった。いまはさらに鉄道から車社会へと進化し、鉄道の駅前商店街でさえ衰退の一途をたどりつつある。

 2006年11月
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