鎌ヶ谷八幡神社 鎌ヶ谷1丁目 鎌ヶ谷市

由緒(前書き)
奈良朝から平安朝にかけて全国的に沢山の山林や原野が拓かれた。「類聚国史」によると第53代淳和天皇の勅使で下総国でも7百余町と記されている。この拓かれた処に「延喜式」の官馬を放し飼いする下総小金の五牧が置かれた。これらの牧は「兵部省式」により毎年、左右馬寮、九州大宰府、伊勢神宮の斎宮に定められた数の馬牛を充し送った。当地区は野付村(牧場の管理と牛馬の世話等に役務する村)として、小金五牧の内、大結(おおい)馬牧に属し、地区内にはこれら官馬の往還の便として上古から「かしま道」今の木下街道が通じ、野中の要衝として人馬の行交い多く、炊煙古くから豊かに上る処であった。  鎌ヶ谷八幡神社

百庚申


庚申道標








百庚申は、天保12年(1841)年11月から13年(1842)3月にかけて建てられたもので、青面金剛像を彫った刻像塔10基と「庚申塔」と文字を彫った文字塔90基で構成されています。百庚申は江戸時代後期におこり、数量により多くの功徳を願う数量信仰の影響を受けて生まれたもので、下総地方を中心に流行したものです。 平成2年3月 鎌ヶ谷市教育委員会 庚申道標は、正面に「青面金剛王」、右側に「寛政7卯年」、左側に「11月吉日」と陰刻文字で書かれています。台座左右にそれぞれ「東さくら道」「西こがね道」と書かれており、道標を兼ねていたものです。現在は境内に建てられていますが、寛政7年(1795)11月、日光へと続く日光東往還へ通じる小金佐倉道と木下・行徳を結ぶ、木下街道の交わる十字路(現在の大仏十字路)塚上に建てられていたものです。 平成2年3月 鎌ヶ谷市教育委員会