行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永9年(1632)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当所16艘であったが、寛文11年(1671)には53艘となり、嘉永年間(1848〜54)には62艘にふえた。
これらの船は明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで江戸小網町から、ここ行徳新河岸の間を往復したので、行徳船と名づけられ、その間3里8丁(12.6km)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。
行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡邊崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化、文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は非常に賑いをきわめたのである。
今に残るこの常夜燈は、文化9年(1812)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して新勝寺に奉納したものである。高さ約4.5m 現在の位置は堤防構築のため、多少移動はしているが、かって繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。  市川市教育委員会
 常夜燈 行徳4丁目 市川市 千葉県