玄武仏は、宝暦から寛政(1751〜1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武坊のことです。小石川白山門前に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延享(1744〜47)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年3月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。臨川寺は、承応2(1653)年、鹿島根本寺(茨城県)の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3(1713)年「瑞甕山 臨川寺」という山号寺号が許可されました。延宝8(1680)年、深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。   平成5年3月   江東区教育委員会
玄武仏碑 臨川寺 清澄3−4−6