かって箱崎町と小網町・蛎殻町の間には、運河である箱崎川が流れていました。寛永9年(1632)、南葛西郡本行徳村(千葉県市川市)の村民が小網町3丁目の河岸地を幕府より借り受け、江戸と行徳の間で、小荷物や旅客の輸送を開始して以来、ここは行徳河岸と呼ばれるようになりました。江戸と行徳とをむすぶ船は毎日運航され、成田山新勝寺の参詣などで房総に向かう多くの人々が、この水路を利用しました。     平成14年3月   中央区教育委員会
稲荷堀(とうかんぼり)
小網町と蛎殻町1丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集まり、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入り口にあった行徳河岸は、寛永9年(1632)以来、この堀と下総行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。この堀は、最古の江戸図ともいわれる「寛永江戸図」にも、見られます。また、この堀に沿って酒井雅楽頭の屋敷があり、幕末までありました。姫路藩15万石の藩主として知られています。酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治6年(1873)10月まで西郷隆盛の屋敷となりました。なお、東華小学校(現、日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。  平成9年3月  中央区教育委員会
 行徳河岸跡

日本橋小網町1〜3番先、日本橋蛎殻町1丁目1番先