佐原・香取・鹿島街道



寺台−吉岡−佐原香取横利根川潮来鹿島


成田街道から佐原・香取・潮来・鹿島といった利根川水郷地帯に集中する交通・観光・信仰の一大センターへ行くのに二通りの道があった。一つは成田街道酒々井宿から東に折れて成田三里塚から成田空港南端をかすめて千葉宗家終焉の地多古経由で佐原に出るルートで、他の一つは成田街道の延長として成田寺台から吉岡、伊能を経て佐原に至るルートである。前者は
多古(街)道とよばれ千葉県歴史街道としても登場する。後者は成田からどこを目指すかによってさまざまに呼ばれているが、最短は佐原であり、究極は鹿島神社である。街道名として今も使われているのは旧佐原宿内の旧道で、香取神社までの約3kmほどの道が香取街道として定着している。佐原から鹿島までは利根川、霞ヶ浦、横利根川、常陸利根川、前川、鰐川、北浦などの水系が複雑につながっていて、現在の国道51号のように一本の陸路で結ばれていたわけではない。さらに細かく開発された運河網を利用すれば佐原から鹿島までいかようにもたどり着けた。ここでは佐原までの最短ルートとして国道51号に沿った旧道を探索しつつ、その延長として引き続き国道51号の道筋をたどって鹿島神宮に詣でることにしたい。潮来より以東は芭蕉鹿島紀行の旅を兼ねるが、月見よりもあやめの季節を優先した。



寺台

成田山の南山麓をぬって東参道をすすんでいくと国道51号線にでる手前に寺台宿があった。今は宿場の面影はなく、普通の商店街である。永興寺入口角に祠が二つ並んであり、手前には素朴な大日如来石像と庚申塔が祀られて、その奥の祠には延命地蔵がいた。

14世紀末創建の古刹、
永興寺は幼稚園を経営しているのか、本堂前は園児と保母さんたちの甲高い声が響き渡っていた。その裏山に一刀流小野忠明、忠常父子の五輪塔があるという。それぞれ二代将軍秀忠、三代将軍家光の剣術指南役を勤めた剣の達人である。

道はかるく左にカーブする。手入れされた庭の奥に火の見櫓が背を伸ばしている。このあたりは商店街をぬけて落ちついた家並がみられる。保目神社をすぎると道は二手に分かれる。その手前左手に
「寺台城址」の標識を見つけて、細い路地を入っていった。

右に曲がって民家につきあたる直前で「寺台城址100m←」の標識がある。民家にはさまれた細い山道を上っていくと台地の鞍部で道が左右に分かれる。少しくぼんだ道は空堀の遺構であろう。右の道を50mほどすすむと台地の縁近くに祠と「海保甲斐守三吉遺址」の碑、そして寺台城址の標柱があった。今は藪で見晴らしが効かないがかってはここに物見台が築かれて台地の南麓を走る佐原街道を見下ろす位置にあった。

寺台城は、千葉氏の族臣馬場氏代々の居城で、秀吉の小田原攻めで亡びた後海保甲斐守三吉が引き継いだ。城跡のある台地は細長く西は永興寺の裏山に続いている。

成田街道はここで終わる。道はこの後三叉路を右に折れて、吾妻橋で根木名川をわたり国道51号に合流して北上する。佐原から香取神社に詣でる旅人、さらにそこから東に道をとって銚子に向かう商人、または利根川を渡って潮来、鹿島に向う人たちはこの道を行った。人によりそれは佐原街道であり、又は香取街道であり、あるいは鹿島街道であったりした。


寺台城台地の麓をめぐるようにして三叉路をまっすぐ行く道がどうしても旧道のように思われて、近所の古老に聞いてみた。
「どこへ行きたいの」
「佐原まで。できるだけ古い道を・・・」
やはり右に折れて国道に乗るルートが旧道筋であるとのこと。そのあと「インターを越えて川をわたったら最初の点滅信号のところで右にはいってくねくねいくのが旧国道。国道にもどるとすぐにこんどは左に旧道が残っている」という貴重な情報を得た。私にとって旧国道は旧街道である。


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吉岡(きちおか)

「川」とは取香川のことである。香取川かと思ったが考えすぎだった。手押し信号で右の農道にはいる。JR成田線をくぐり、森の東側をめぐるように道がついている。

国道にもどって400mくらい行くと左斜めに上がっていく山道があった。切通しを国道がいく低い峠である。墓地を通り抜ける陰気な林の中にラブホテルがあった。その先の森閑とした林の中に棄てられた寺が見えた。入口には台石に「十五夜念仏開眼」と刻まれた石仏が孤独に立っている。元文3年(1738)の銘があった。どんな寺だったのだろう。

その隣りにある神社も三間の扉をぴったりと閉め切っていて無人の社だ。空気までもが澱んでいる。建物は白木の清楚な造りで、それほど古くない。のちほど地図で社名を知った。
「鎮守皇神社」という。

国道にもどる。野毛平工業団地を通り過ぎ東関東自動車道をまたいで十余三に入る。このあたり一帯は古くからの牧場で、平安時代朝廷所有の官馬が放牧されていた。明治維新になって牧は廃止され、開墾されて新しく生まれかわった土地には開拓入植順に縁起のよい地名がつけられた。1番目が初富で、最後の13番目の開拓地が十余三である。

コンビニのある丁字路角に稲荷社にならんで石地蔵がいる。石仏の両側に道しるべらしき文字が刻まれているのだがどうしても読めなかった。どこが集落の中心なのかよくわからないままに十余三を通り過ぎると、突然トンネルが現れた。山でも川でもない平地に作られたトンネルである。振り返って初めてわかった。最近開通した成田国際空港B滑走路をくぐったのだ。さすがに空港はひろくて、北は佐原街道の十余三、南は多古街道の三里塚をまたいでいることになる。県道115号から脇道にはいって十余三の
牧原風景を偲んできた。

国道51号は吉岡にはいる。寺台と佐原の間に設けられた宿場ということだが、どこが宿場跡なのか沿道の風景からは分かり難い。「吉岡十字路」をわたる。四隅を点検したが道標はなかった。「大栄工業団地入口」信号を過ぎ、緩やかな峠にさしかかる手前に左の台地にあがる道跡がある。入口1mほどに舗装の痕跡が残っていた。上がっていくと台地の縁に設けられた柵伝いに堀状の窪地がつづいていて、林の中ではっきりとした旧道の形を整えて国道へ降りていた。その出口付近左手に小さな白木の鳥居がたっている。奥をみると祠はなく、三猿青面金剛が旧道の証人のように立っていた。

出口に立つ「大栄町歴史の森公園入口50m先左側」の看板に従っていくと、鬱蒼とした森の中に
大慈恩寺があった。鑑真開基と伝えられる古刹である。残念ながら本堂は周囲の景色にはそぐわないモダンな造りであるが、重文の梵鐘といい、多くの板碑といい室町時代に遡る歴史を伝えている。

国道にもどると八坂神社をみてすぐに吉岡を出て津富浦にはいる。結局宿場だったという吉岡をみないままに通り過ぎた感じがしている。どこかに宿場の面影をのこした家並みがあったのか、未練を残しながら進んでいくと津富浦はまたたくまに通り過ぎて松子の成田市役所支所前に来た。ここでヘアピンカーブ状に右の旧道におりていく。支所がある台地上に
馬洗城があり、その東側崖下に沿って旧街道が延びていたというのだ。ちょうど寺台城下の旧道と位置関係が似ている。

台地の南縁をまわりこんで東側にでると南北に伸びている旧道が認められた。南に遡ってみると旧道らしい道が延々と続いている。途中、田中の人を見つけて旧道の道筋を訪ねてみると、この道は大栄中学のために作られた通学道路だという。台地以南の旧道はなくなったようだ。北に向っては琴平神社から大須賀川を渡り国道にもどる。なお国道からすぐに左にはいって伊能集落に入っていくのが旧道だと教えてもらった。

大栄中学への別れ道に
道標がある。4面を舐めるように読んでみたが磨耗の上にまだらなカビがはびこってよくわからなかった。なんとか「西」の一字と、別面に寛政年間の銘が読み取れた。

その先二又を左にまがり、次の二又左手に琴平神社の鳥居がある。石段を上がってみると藪の片隅に小祠があった。雑然とした環境の中に痛ましい姿である。中を覗くと千羽鶴を飾った意外に清潔な屋根宮が安置されていた。金色の「金」文字が印象的である。

その二又を右に曲がったところの三叉路に
道標があった。こんどはひらがなで刻まれたかりやすい道しるべである。上部は双体道祖神が浮彫されている。「伊能 佐原」がこれから向う道、「吉岡 成田」はこれまでの道。「奈土 神前 阿波」は西に向う道である。

すし屋の前を通って馬洗橋で大須賀川をわたり左にまがって国道51号に合流する。「馬洗」の名はこの大須賀川の渡しに馬の洗場があったのだろうといわれている。

国道を300mほどいった「伊能」信号の手前で左に入る。坂をあがると伊能の落ちついた集落に入る。伊能忠敬の養子先である佐原伊能家の祖、伊能氏の祖地である。戦国時代は大須賀氏に属していたが後伊能景常の時佐原に帰農した。

右から上がって坂道との合流点にブロック塀に囲まれて大きな寄棟屋根が目を引いた。「佐藤」の表札を掛け薬医門を構えた堂々たる居宅である。中庭の植え込みも充実していた。

右手の石橋商店も立派な千鳥破風を乗せた玄関であった。
集落の中程、左手に道標がある。「南なりた道」「香取大神宮」の刻字を認められた。成田から香取に通じる道であることがわかれば十分である。

右手「伊能」バス停脇に大きな石碑がある。「
佐藤喜和蔵翁頌徳碑 明治33年産業組合法発布云々」と冒頭にあった。佐藤家は伊能の名門であるらしい。先に見た家が本家か。

突き当たりの二又に
大須賀大神がある。神社の由緒書きを探していたらかわりに「伊能歌舞伎」の説明板があった。4月の例大祭に奉納される農村歌舞伎で元禄時代から伝承されているという。

神社前の道を右にとって国道に合流する。東関東道大栄インターの西側を通り過ぎて街道は香取市に入る。

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佐原

沿道の風景から緑が少なくなって店の数が多くなってきた。香取市にはいって4kmほどいったところの信号交差点右手に「香取神宮」、「ケーヨーデイツー」の看板が出ている。ここから佐原宿を通って香取神宮に至る旧道が始まる。山裾をたどり鋭角に左に曲がって道なりに北進すると、観光客が散策する賑やかな通りに出る。ここから通りに沿って東西1kmほどの佐原宿が延びている。

宿場街に入る前に左手の小高い山にのぼることにする。東薫酒造の手前の丁字路を左折して歩いていくと諏訪神社の鳥居の先の佐原公園に
伊能忠敬の銅像が建つ。佐原は伊能家がつくった町といってもよい。大須賀氏に属する武家だったが16世紀末佐原で帰農することに決め、以来佐原村の開発に尽力した。

公園南側の坂道を上がっていくと頂上ちかくの左手に
諏訪神社、その奥に荘厳寺がある。諏訪神社は新宿(佐原宿の小野川以西)の鎮守、氏神である。伊能家が佐原開発にあたり、大須賀荘伊能村から奉遷したのが始まりと伝えられる。丘の片隅にあって境内は広くないが白木造りで気品ある社殿である。唐破風に施された龍の彫刻が貴重な装飾になっている。高覧の擬宝珠はひびがはいり黒墨がところどころ剥がれている。老いを隠そうとしない貴婦人の気高さがあった。

荘厳寺はかって諏訪神社の別当寺であった。現在は国重要文化財である11面観音像を安置する観音堂しか残っていない。この道向かいに展望台があり、佐原の町を一望できる。

香取街道にもどり「小江戸めぐり」をもとに佐原宿散策を始める。東薫酒造の先にある馬場酒造は天和年間の創業、勝海舟が逗留した酒蔵だと書いた看板があった。煉瓦煙突は足場が組まれ補強工事中だった。あやめ祭期間中は解放されているようだ。佐原は酒造業が盛んだった。

その前で南に折れ
旧下新町にはいる。白壁土蔵が続く美しい町並みである。左手の亀村本店は享保3年(1718)創業、現在11代目を数える老舗で、建物は明治のもの。

その先の千本格子が見事な
与倉屋は元造り酒屋で、現在は倉庫業を営む。主屋の裏側には重厚な石造りの倉庫が並んでいる。

小野川に出て川沿いに北に向う。伊能忠敬記念館あたりから観光客の数が急増する。古い建物が建ち並ぶ両岸に新緑の柳が垂れ下がり小野川をゆったりと遊覧船がめぐる。水郷情緒あふれる景観が残されている。

佐原のシンボルともいえる
樋橋(ジャージャー橋)をわたる。その名が示すように元々は川を横切る樋だった。木製の樋だから水は盛んに漏れて川に落ちる。その音をとっていつしかジャージャー橋というニックネームがついた。現在はコンクリトー造りになって水は漏れない。観光用に30分ごとに5分間だけ漏らす仕掛けになっている。その音を合図に橋下から観光船が出ていく。


樋橋(ジャージャー橋)をわたった所に伊能忠敬旧宅がある。思ったほど建物に古さを感じなかった。書院に展示されている測量器具類が江戸時代のものとは思えない艶を帯びている。

佐原宿は忠敬橋を境としてその西が新宿、東が本宿と分けられていた。本宿は中世からの町で新宿は天正年間(1573〜1591)に新しく開かれた地域である。伊能家は代々本宿の名主であった。本宿は八坂神社を鎮守とし、新宿は諏訪神社が鎮守である。両宿には互いにライバル意識が強く、祭りも本宿八坂神社の祇園祭は7月に、新宿諏訪神社の秋祭りは10月と、それぞれ独立して行われる。

歴史的建造物は皮肉にも新宿に多い。忠敬橋の袂に建つ
中村屋は安政2年(1855)の建物。道路に沿った変形の敷地に応じた設計がなされている。香取街道沿いの家並みは川越のような重厚さはないものの、狭い間口にそれぞれ意匠をこらした商家の装いを競っていて見ごたえがある。

正文堂書店はカーテンが閉まったままで、店内をうかがうことはできないが黒漆喰土蔵に取り付けられた屋根つき看板は竜の彫刻で飾られて魅力的である。

小堀屋本店は天明2年(1782)創業という老舗蕎処。ここの板看板も素朴で味わいある風味を醸している。

福新呉服店も文化元年(1804)創業の老舗で、間口の広い店蔵である。

街道の南側にも明暦3年(1657)創業の
虎屋菓子舗と明治7年創業の紀の国屋が並んでいる。羊羹でしられる虎屋とは関係なさそうだ。丁字路正面に佐原町道路元標があった。我孫子からの銚子街道が佐原宿に入ってくる地点で、ここで香取街道に合流する。

小野川沿いにも二階の窓格子が美しい
並木仲之助商店、旅芸人がよく利用したという木下旅館、対岸の柳の後ろに見え隠れする正上など、風情ある商家が残っていて散策する人を飽きさせない。そのまま川小野川河口まで足をのばして雄大な利根川の流れに目を休めるのもよいだろう。


忠敬橋までもどり、街道を東にとって本宿を歩く。ここにも伝統的建造物が保存されている。黒々とした
中村屋乾物店は明治25年の大火直後に建てられたもので当時の最高の防火構造が取り入れられた。2階の観音開きの土戸に「勝男節(鰹節のこと)」「祝儀道具」「松魚○」「諸国乾物類」と書かれた木彫りの看板をはめ込んだ粋な店蔵である。「松魚」とは鰹、鰹節、鰹節うす削りを意味する。最後の文字が読めなかった。

植田屋荒物店で思わぬ発見をした。案内札に創業者は近江蒲生の出身だとある。しかも宝暦年(1759)と古い時代のことである。畳表を営んだとはいかにも近江商人らしい。蚊帳とともに、八幡商人が得意とした商品である。

赤レンガ造りの洋館は
旧三菱銀行佐原支店である。木造、土蔵の町並みに異彩を与えている。中に入ったがガランとした空間で、もぬけの殻といった感じを受けた。

町並観賞はそこまでとして、本来の街道歩きにもどる。本宿の鎮守、八坂神社が佐原宿の東端にあたる。香取街道は「香取神宮入口」信号で県道16号と交差する。南から来る県道16号が多古街道で、ここで香取街道に合流している。なお、佐原町道路元標があったところで合流した銚子道はこの交差点を左折し、最初の信号を右におれて一路利根川縁の津宮に向って進んでいく。

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香取

香取街道(県道55号)を東にすすむと大きな交差点の先に香取神社の一ノ鳥居と社碑が現れ、やがて「歓迎」ゲートに迎えられる。草餅を売る店が参道の両側を埋める。

朱塗りの二ノ鳥居をくぐると左手に
要石道の石標と説明板がある。細い山道をたどっていくと玉垣の中に丸い石が置かれてある。大きさも形も変哲ない。これが神代の伝承を伝える要石である。鹿島神社にも同じ由緒を伝える石があって両者で凹凸の一組をなしている。時代は下って水戸黄門がこの石を掘り起こそうとして成せなかったエピソードが伝わる。黄門の命令といえども神聖な石に鍬か鶴嘴をくわえることが許されたかどうか。

そのまま道なりに行くと旧参道にでる。本宮に向う参道は神の森にふさわしい清潔な静寂に包まれていた。豪華な楼門をくぐると拝殿、本殿が威厳ある佇まいを見せている。共に元禄13年(1700)造営の姿である。簡素ならず華美ならず均整の取れた美しさが目立つ社殿であった。

香取神宮は下総国一ノ宮である。常陸国一ノ宮鹿島神宮と並んで東国三社(他の一社は息栖神社)として崇められた。香取と鹿島の両神宮はペアとして扱われることが多い。天照大神は芦原中国を平定するために経津主命(フツヌシノミコト)と武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を使わした。前者は香取神宮の、後者は鹿島神宮の祭神となった。奈良に春日大社が造営されると、両神が勧請された。香取・鹿島は春日大社の先輩格にあたる。香取の要石は凸で、鹿島の石は凹形である。両石は地下でつながっているという伝承がある。

両神宮は利根川、常陸利根川、北浦などで遮られており、陸路ではいけない。佐原宿経由の参道は別として、利根川水系を利用してくる参詣客は利根川の津宮河岸で下船し、そこから約2kmの参道をたどって香取神宮の森に至った。これからその旧参道を逆にたどる。

駐車場東側の道を北に向う。県道253号を横切りJR成田線踏切をわたり右手にちいさな沖宮神社をみて国道356号をわたると利根川の堤防につきあたる。土手の手前側に「香取宮」と刻された常夜燈が、土手の川側斜面に鳥居が建っている。かってはこの津宮河岸が香取神社への入口であった。その意味で津宮の鳥居は香取神社一の鳥居である。後でみる大船津の鹿島神宮一の鳥居に対応するといえる。

かっては津宮河岸から対岸の篠原口へ渡しがあった。船はそのまま運河を通って与田浦へ、さらには常陸利根川を横切って潮来の前川に入ることができ、ついでに言えば鰐川にでて鹿島の大船津に着くことができるのである。これが香取と鹿島の両宮をつなぐ最短コースといえよう。

陸路でいこうとすれば今は大きく西に迂回して国道51号で水郷大橋を渡るしかない。

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横利根川


国道51号の旧道は横利根川に寄り添った県道11号である。水郷大橋を渡って右の堤防にむかって降りると横利根川と利根川の合流点に至る。横利根川が県境になっていて東側は千葉県香取市、西側は茨城県稲敷市である。

横利根川は徳川家康による利根川東遷とそれに伴う佐原・香取水域の治水、新田開発の結果できあがったものといわれている。ともかく江戸時代初期には現在の横利根川にあたる水路が存在していたわけで、芭蕉が鹿島紀行で布佐から船に乗りこの川を通って鹿島に向かうことは可能であった。

横利根閘門大正3年(1914)から7年かけて造られた大事業で、赤煉瓦で築かれた美しい水門である。

のどかな横利根川の流れを眺めながら北に道をたどる。川岸には釣を楽しむ人が多くみられた。小型造船所らしき町工場も見受けられる。川船による水運は今も続いているようだ。

やがて旧道は国道51号に合流して北利根橋を渡る。

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潮来

右に折れて県道5号から一筋南の川辺の道を行く。北利根橋の向こうが霞ヶ浦だ。かっては季節風の吹く夏から秋にかけて、霞ヶ浦からこのあたりまで、大きな純白の帆を膨らませた帆引き船がみられた。今は観光用に日曜日限定で一定の場所で運行されているという。

ここ牛堀は霞ヶ浦、常陸利根川、横利根川が合流する水運の要衝として栄え、また水郷情緒豊かな土地として多くの文人墨客の訪問を受けた。葛飾北斎もその一人で、遠くに富士山を望む「常州牛堀」を描いている。現在は
北斎公園として整備されている。河岸跡と思われる船着場から若い男女が水上スキーを楽しんでいた。

夜越川を渡りほどなく県道5号の北側に
長国寺がある。そこに本間道悦(向って右側)と2代目道因二人の墓がある。本間道悦については後述する。

県道5号は上戸交差点で国道51号と接する。国道に移ってすこしいった左手の山すそに「浅間神社、浅間塚」の立て札がある。近くからでは全容がつかめないが、この小山は全長84mの前方後円墳で、4世紀から5世紀初めの築造と考えられている。山道をあがっていくと鳥居があり頂上には小さな祠があった。

そのまま国道を東にすすむと稲荷山信号に出る。右に折れると稲荷山公園に入る。潮来の町を一望できる展望台地である。展望台の脇に大きな歌碑があり野口雨情の「船頭小唄」が刻まれている。野口雨情は相馬岩城街道の宿場町北茨木市磯原の生まれである。利根川をモチーフにしたもの悲しい歌が流行った大正12年、9月に関東大震災が起こった。雨情はこれを予知していたのではないかという噂が飛び交った。

稲荷山を下ると魅力的な茅葺の本堂をもつ
長勝寺がある。文治元年(1185)源頼朝の開基と伝わる臨済宗妙心寺派の古刹である。 徳川幕府から朱印十石並びに寺領地を与えられている。境内に鹿島紀行の帰路自準亭で詠んだ主人松江(本間道悦)と客芭蕉、それに曽良の三人による連句の碑が建てられている。

塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すずめ     松江 潮来、(自準亭)
あきをこめたるくねの指杉          桃青 (芭蕉)
月見んと汐引きのぼる船とめて        ソラ (曾良)


長勝寺の東方、西円寺に
遊女の墓をたずねる。入ってすぐ左手の墓地を奥に進むと、「衆生済度遊女之墓」と刻まれた3層石塔の供養塔があり、脇に建立碑がたっている。4面一杯に刻された全文を読むのは一仕事だが、遊女の墓は由緒あるものではなくて個人が昭和54年に建てた最近のものだとわかった。

宿場や港町に遊郭は付き物だが、潮来の遊女は古くから知られた存在であった。延宝7年(1679)2代水戸藩主水戸光圀(黄門)が江戸吉原にならって水戸藩で初めての遊郭を許可した。遊郭があった旧浜町には
黒門が復元されていて、柳の木と共に往時の風情を伝えている。門の近くに最近まで「阿や免(あやめ)楼」があったが焼失した。なお川辺の阿や免旅館はその経営筋にあたる。

潮来観光の中心地あやめ園に向う。毎年6月があやめ祭りが開催され多くの人出で賑わう。特に日曜日は嫁入舟が見られ人気がある。さらに日曜日の特別イベントとして常陸利根川で帆曳き船が運航されていたが一昨年から中止になったらしい。観光船が行き交う
前川は潮来の町を横断して常陸利根川と鰐川を結ぶ重要な水路であった。前川筋には河岸がいくつも造られ仙台藩や津軽藩は専用河岸に蔵屋敷を建てた。

思案橋の付近には大門河岸があった。
大門河岸蔵が近くの小公園に建てられている。ここから前川に沿って東へ移動する。JR鹿島線の東側に架かる橋が天王橋で、海鼠壁の土蔵と常夜燈が河岸跡の面影を伝えている。天王橋から前川を見下ろすとサッパ舟にのったオバサンたちが晴れやかな表情で空に向って手を振ってくれた。思わず気分が高揚してVサインで答える。

天王橋の北詰めに石鳥居が建つ。右に新築の御仮殿がある。天王山に鎮座する素鵞熊野神社のものだろう。鳥居の真前に
本間自準亭があった。現在は松田国助宅になっている。西側の路地を入ると裏庭入口に「本間自準亭跡」の標柱が立っている。フェンス越に見た庭に屋敷跡の痕跡は見当たらなかった。あるときこの庭の一画で火災跡らしい焦土の中から本間家の家紋のついた瓢箪が発見されたという。

道悦(1623〜1697)は近江膳所藩主戸田左門に仕えていた本間資勝の三男として生まれた。戸田家の大垣移封に伴い本間家も随行、道悦は大垣戸田藩に藩医として仕えていた。江戸で医院を開業した後、延宝10年(1682)江戸から潮来に退き診療所「自準亭」を開く。江戸時代に芭蕉と知遇を得、松江と号して俳諧もよくした。自準亭跡の標識には芭蕉はここに15日も滞在したとある。その間に『鹿島紀行』を書き上げた。

潮来散策はこの辺にして、最終目的地鹿島に向う。陸路でいく場合、県道5号が旧鹿島道である。東西二か所に枡形の名残がある。曲松で国道51号に合流し、そのまま神宮橋を渡って鹿島市大船津に入る。

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鹿島

最初の神宮橋東交差点で右折して鰐川堤防にでる。すぐ北に新旧の神宮橋、鹿島線鉄橋が架かり、その向こうに北浦が延びている。那珂川から那珂湊−涸沼経由で陸路を通り、再び巴川−北浦の水路を経て潮来を通り利根川に出るルートは危険な太平洋航路を避け、那珂川水運と利根川航路をつなぐ重要な奥州物資輸送路であった。

大船津船着場のすぐ南に建つ鳥居は鹿島神宮一の鳥居である。北浦を横切る橋がなかった時代、鹿島詣ではこの大船津で船を降りて、ここから参道が始まっていた。香取神宮の津宮河岸に相当する。

右手に大船津稲荷神社をみて、県道238号を横切り国道51号を斜めに横断すると左手にがっかりするほど小さな祠の鎌足神社がある。藤原氏の始祖、鎌足は常陸の生まれだという。

その先を右に入っていくと
根本寺がある。根本寺は聖徳太子による勅願寺と伝わる古刹だが、幕末の天狗党の乱で兵火にあい堂塔のほとんどを焼失した。現在の本堂は昭和56年のものである。山門をくぐると左手に平成9年に建てられたばかりの新しい句碑があり、寺に寐てまこと顔なる月見哉 と彫られている本堂右手には宝暦8年という県下最古の芭蕉句碑があり、こちらには
月はやし梢は雨を持ちながらと刻まれている。

貞享4年(1687) 8月15日(新暦9月7日)芭蕉はここに隠居していた仏頂和尚を訪ねた。月見に誘われたものの、その日は昼からの雨で残念ながら仲秋の名月を見ることができなかった。翌明け方には雨上りの空で雲の切れ間に見え隠れする有明の月を観賞することができた。

根本寺から鎌足神社前の道路にもどり、そのまま東に進むと鹿島高校の北側をかすめて県道18号の「鹿島高校北」信号に出る。そこから真っ直ぐな参道を500m歩くと鹿島神宮二の鳥居(大鳥居)が出迎える。鹿島神宮は常陸国一ノ宮である。下総国一ノ宮の香取神社と並んで東国三社(他の一社は息栖神社)として崇められた。

朱塗りの
楼門は寛永11年(1634年)に水戸初代藩主徳川頼房が奉納したもの。楼門を入り茅の輪をくぐると右手に鳥居が建って、その背後に拝殿、本殿などの社殿がある。元和5年(1619)二代将軍徳川秀忠によって奉納されたものえ、楼門とともに国重要文化財である。楼門と社殿は一直線でなくL字形の珍しい配置だ。鹿島神宮は北方の蝦夷に対する防衛拠点としての位置づけであったため、社殿は北向きにしたらしい。

拝殿の奥に見える二人の巫女にむけてさかんにビデオやカメラで撮影する人たちがいた。普段は遠慮するものだが私もドサクサにまぎれてカメラで覗いた。奥の中央に白無垢綿帽子衣装に身を包んだ花嫁の後姿がみえて両脇には親族らしいグループが並んでいた。はじめて見る神前結婚式であった。格式からしてその大衆性が意外感を与えた。

日光街道杉並木を思わせる奥参道をすすんでいくと鹿園があり子供に人気がある。その先に常設売店があってここでも庶民性を発揮している。売店の脇に目立たない石柱があるがこれが芭蕉句碑である。明和3年(1766年)の建立で、茨城県の芭蕉句碑としては根本寺の句碑に次いで2番目に古い。芭蕉が神前で詠んだ句が刻まれている。

此松の実生せし代や神の秋

右手にある奥宮は小柄ながら品格を備えた社殿である。慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納したもので、14年後秀忠の本殿造営によりここに引退した。

杉の巨木が聳え立つ境内の奥地に要石が玉垣に囲まれてあった。香取神社にも要石があって、その解説が要を得ている。鹿島と香取の両神宮はペアとして扱われていることがよくわかる。天照大神は芦原中国を平定するために武甕槌命(タケミカヅチノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)を使わした。前者は鹿島神宮の、後者は香取神社の祭神である。奈良に春日大社が造営されると、両神が勧請された。鹿島・香取は春日大社の先輩格にあたる。香取の石は凸で、鹿島の石は凹形である。二つの石は地下でつながっているという伝承もある。

佐原・潮来という水郷の町、香取・鹿島という神の町を訪ねた。入梅直前のさわやかな旅であった。

(2010年6月)
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