岩城相馬街道(2)



田尻-小木津-川尻-伊師町-安良川(高萩)-足洗-磯原-神岡-平潟


1 枝川 さわ 石神 大和田 もり山 まご 助川 をくつ あたご あら川 足洗 上をか
2 枝川 佐和 石神 大和田 大沼 下孫 助川 小木津 イシ 高萩 下桜井 神岡
3 枝川 さわ 石神 大橋 森山 助川 奥津 愛宕 荒川 足洗 神岡
4 枝川 大橋 大森 大沼 助川 田尻 小木津 川尻 伊師町 高萩 足洗
1.大日本行程大絵図 天保14年  2.古地図 明治12年  3.『陸前浜街道地誌』長久保光明  4.『日本の街道』講談社  



田尻

神峰神社の先の「山下町十字路」で左の旧道に入る。滑川町の並木が美しい住宅街をとおりすぎ、滑川丘で県道10号(日立いわき線)に合流する。田尻町2丁目ローソンの手前に自然石の馬頭観世音が立っている。左手は阿武隈山地の東端にあたる崖で、その裾を縫うように県道がゆるやかな坂を繰り返している。

田尻2丁目交差点あたりが旧宿場だろうか。それらしき案内板や標識は見当たらないが、
中之郷酒塩店の門と白壁土蔵は問屋場でも勤めた土地の名主の風格を感じさせる。向かいの家も長い板塀をめうさせた立派な屋敷である。

田尻は江戸時代の古地図に宿場として記載されていないが、古代9世紀には田尻駅家が設けられていた。江戸時代は助川−小木津間の合いの宿であったかもしれない。

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小木津

県道が小木津駅手前で左にカーブしたところの小木津町交差点を右に折れて旧道は小木津宿にはいっていく。「小木津宿」というバス停があり、確かな宿場町の手ごたえを感じさせる。立派な家並みがつづくなかで、白壁の土蔵にかわって板壁の蔵が目に付く。これは大橋宿でも感じたことだった。日高郵便局あたりが中心にあたる。西隣の塙家は海鼠壁に重厚な門を構えた寄棟造りの豪壮な屋敷である。

郵便局の正面、道の奥まった深閑とした森の中に澳津説(おくつせ)神社が鎮座している。「おくつ」は「小木津」の古名であろう。天文13年(1544)の創建で、事代主命と宇賀御魂命を祀っているが、詳しい由緒はわからない。

郵便局で二又に分かれる道の左が旧道で、日高中学を通り過ぎ小さな富士神社のある四辻をこえると道は車幅一杯の細道となり、国道6号の切り通しに向って下ったところで、正面は歩道橋が国道をまたぎ、車道は南にそれて国道へ降りていった。橋をわたり、まっすぐに進むと右手に現れる広い道路に合流する。旧道は合流地点から再び左にそれて短く続いているが、数軒の民家の前庭を通り抜けていくようではばかれた。

街道が海に近づくにつれ、町並みに開放感がみなぎってくる。水戸以来、
浜街道といいながら現在の海岸線からは内陸にあった街道がいよいよその魅力を発揮しだした。

海がみえる最初の浜が
小木津浜だ。東連津(とうれんつ)橋からの眺めが素晴らしい。道で切り裂かれた断崖の断片にも松が密に根を張って枝は海にこぼれんばかりである。浜に下りて海を眺めていると犬をつれた散歩の二組にであった。男性は犬を海に入れて波とたわむれている。小柄な黒茶色の犬をつれた婦人は静かに目の前を通り過ぎて行った。

街道の左手崖下に墓地がありその奥に小さな最上神社の祠があって、その背後の崖面にほとんど磨耗した磨崖仏の痕跡が残っている。

断崖の切通しをすぎると
川尻港が見通せる海岸線が現れる。

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川尻

川尻も田尻と同様、江戸時代の地図に宿場としては記載されていない。小木津から海岸に沿って折笠町を通り過ぎ川尻町中にはいってくる。沿道には古い商家の家並みがみられていかにも昔の宿場町の趣を湛えているが、それを確認するものは見当たらなかった。通りを三筋東に移動すると高い防波堤にでる。浜への出入り口は二、三ヶ所に限られている。

午後もふけて海で泳ぐものはいず、談笑する数人の若者がたくましい背にかたむきかけた日をあびていた。町の北端で
十王川が海に注いでいる。断崖の下部には波に穿たれたトンネルが見える。


旧街道は川尻町交差点で国道6号を横切り、川尻町4丁目の静かな住宅街を通り抜ける。日立電線の大きな工場につきあたり、右におれて十王川に沿って北上する。途中に「十王前横穴」の史跡案内標識が立っている。古墳跡だそうだ。川沿いの道は桜並木がきれいな散歩道をなしていて、川の清流に釣り糸を垂れる人たちがいた。工場の北側で、街道は川を越え十王坂に向って藪の中へ入っていく。

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伊師町(十王町)

舗装がとだえて民家の私道に侵入する気分である。玄関先を曲尺の手状にかすめて薄暗い林道の坂を上がっていく。ここから1キロ余りのみちは
十王坂越えとして歴史の道百選にえらばれている。深い藪の中につづく古道趣味溢れる細道はわずかに50mほどで終わり、ふるめかしい道標の先は広々と開けた畑中をいく農道である。歴史の道をおえるまで誰一人出会わなかった。

バス通りに出て、「伊師町入口」バス停角に
一里塚が残っている。説明板によると「いわき相馬街道」は1604年に徳川家康によって「浜街道」から改称されたとある。民家の町並みにはいってきた。新しくはあるがながい板塀をめぐらせた立派な家が印象的だ。大きく左にまがっていく辺りが伊師町宿であろう。古代には藻島(めしま)駅家があった所である。左手に愛宕神社がでてきた。伊師町の宿場名にかわって愛宕宿ともよばれる所以であろう。

高萩に向う前にここで一旦国道6号に出て、「伊師工業団地入口」まで引き返すことにした。白砂青松百選に選ばれたという
伊師浜海岸とその南にある「鵜の岬」をみるためである。海鵜の飛来地として知られ、ここで捕獲された鵜が長良川の鵜匠に売られていく。海鵜は渡り鳥で春と秋に海辺にそそり立つ岩壁に飛来する。岬は国民宿舎「鵜の岬」の敷地内にあるためメインロビーを遠慮がちに横切って岬の望める浜辺に出た。鵜がいなくても絵になる風景である。

北側にまわると伊師浜海水浴場が眼下にみえて、白砂青松の海岸がはるかに続き、その背後に阿武隈山系が遠く青くかすんでよこたわる。街道あるきが目的なのか海岸めぐりが本題なのかわからなくなってきた。とにかく浜街道を楽しんでいる。

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安良川(高萩)

国道から再び伊師町の旧道(県道230号)にもどり、石滝団地口辺りでKDDの大きなパラボナアンテナの傍を通り過ぎる。高度成長時代の1963年、アメリカとの衛星通信実験のため茨城宇宙通信実験所が設けられ直径20mのパラボラアンテナが設置された。同年11月23日 (米時間22日)、初の日米間テレビ衛星中継の実験が行われ、アメリカから届いた最初の映像
ケネディ大統領暗殺を伝える悲痛な特別報道だった

びんずる坂の七曲りを下り高萩市内にはいっていく。旧道は安良川新町交差点の手前で二股道を右にとり、曲尺の手を経て国道461号にでて、そのまま県道298号に乗って北上する。市内散策の前に、ひとすじ西側の官庁区域内にある歴史民族資料館によった。元校長風の紳士が館内を案内してくれた。古墳遺跡からの出土品や松岡藩時代の武具などの豊富な展示品に囲まれながら、館長らしき紳士の説明は長久保赤水と松村任三(じんぞう)という高萩が生んだ二人の学者のことに終始した。

地図といえば皆伊能忠敬を思い浮かべる。忠敬に先駆けること42年にして正確な日本地図を完成したこと。忠敬の仕事が機密的であったのに対し、長久保の地図は外国で広く所有されているほどにグローバルな存在であったこと。住居が赤浜に残っていること。松村任三は日本植物学の先駆者で、東京帝国大学教授を務めた世界的学者であること。ソメイヨシノやワサビの学名をつけたこと。生家が松岡地区お屋敷通りにあること。

ところで、「松岡」は人の名前でもなければ土地の名前に由来するものでもないそうだ。慶長7年(1602)秋田角館から国替えした戸沢政盛が竜子山城領主となり、松岡城と改名したのが「松岡」の始まりである。正保3年(1646)水戸藩主徳川頼房の付家老、中山信正が松岡領主となり明治元年に松岡藩として独立した。廃藩置県で松岡県(同年に茨城県)になるまでのわずか3年間の藩名であった。高萩市教育委員会発行の『高萩市の史跡・文化財』を購入して辞した。オリエンテーションを受けてからの観光は心強い。宿場町は軽くながして、松岡地区に重点を置く計画を立てた。

高萩小学校のある高台に安良川宿の
総鎮守八幡神社がある。平安時代の寛和元年(985)に京都の山城男山八幡宮から移されて建てられた。前九年の役のとき、源頼義とその子義家は八幡宮によって必勝祈願したという。社殿の裏側に
国の天然記念物「爺杉」が千年をこす齢を重ねている。
高さ42m、幹回り約10mの巨木だが、幹の空洞化がすすみ、ワイヤーに引っ張られて姿勢をたもっている痛々しい姿だった。

安良川宿の南口あたりに板塀と黒瓦が端正な武家屋敷を思わせる家並みがある。駅前通り交差点を通り越し第一幼稚園の正門脇に
「北宿並木一本松」がある。慶長11年(1606)に岩城海道に植えられたものといわれている。かつては72本の松が植えられた松並木だったそうだが、いまではわずかにこの一本だけとなった。

総合福祉センターの向かいに建つ大正5年の巨大な馬頭観世音をみて行人塚をすぎると、「枡形」というバス停がある。旧街道の枡形に国道6号、常磐線、新しい県道が複雑に交差している。旧道は右斜めに続いていた。

三叉路を北西にとりお目当ての松岡城下町に寄って行く。松岡公民館の向かいに高橋家の長屋門がある。高橋家を東端としてここから西方の両側に中山家中の屋敷が松岡城まで続いていた。その中心が「お屋敷通り」として整備され、江戸時代の城下町風情を醸している。そのなかでも傾き気味の板塀に波打った茅葺の長屋門で他を圧倒する存在感を示しているのが、
松村任三の生家である。申し分なく古くて美しい佇まいを見せている。

松岡小学校の西側に整備されているのが松岡城跡で、土塁や掘割が残されている。やや公園化されすぎて趣きにかける嫌いがある。土盛に囲まれた芝生の空間はパッティンググリーンかと目を疑った。

道なりに県道67号にでて西にすこし進むと左手に
穂積家住宅が現れる。江戸時代の豪農住宅で、堂々とした茅葺屋根寄棟造り曲屋である。主屋だけでなく、長屋門、中庭、居間の造りも一級品と見受けられる。松岡地区散策の総仕上げにふさわしい旧家だった。

枡形にもどり国道6号を潜り抜け、ローカルの道を南東に向かい、高戸地区をたずねる。万葉の土地でもある。
 
 
遠妻し高にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし(万葉集巻九)

なかば出任せに景色のよい海岸に出た。
小浜海岸と立て札がでている。
松岡八景の立て札もあって「高戸の帰帆 帰帆遥かに臨む高戸の浜」と記されていた。水戸街道でもそうだったが、浜街道の藩主は「何とか八景」を選定するのが好きだと見える。狭い入江は岩礁でほぼふさがれ、岩には波が穿った穴が貫通している。そのうちの最大の穴に渡ってみた。楕円形のフレーム越しの景色も悪くなかった。

国道6号にもどり赤浜信号で再び海岸沿いの旧街道に入っていく。赤浜海岸にそったのどかな集落に偉大な地理学者長久保赤水が生まれた。気のせいか長久保姓が多い。左手に
「長久保赤水誕生地」の大きな石碑がある。民家が途絶え稲刈りのおわった田圃がつづく。気持ちのよい旧道をたのしんでいると、やがて生コン工場やラブホテルの看板があらわれて、急激に旅情をかき消された。国道6号との合流点に、館長が教えてくれた長久保赤水の旧宅を確認して、高萩の旅を終える。
 
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足洗(中郷)

赤浜から国道6号にでるとすぐに高萩市−北茨城市の市境を越え再び西の旧道に入る。旧道を境に北側、東側、西側という地名が残る中郷町小野矢指集落を通り過ぎる。

塩田川をこえたところで国道にもどり、しばらくいくと西側に常磐線が近づいてくる。右手にローソンがあるあたり、国道傍に石鳥居がたっていて線路によって分断された参道の西向こうに
塩釜神社が見える。足洗・小野矢指両村の鎮守で、奥州塩釜神社の分霊を祀っている。その先で踏切を越えると足洗いの旧宿場町に入っていく。

集落は大きな農家の静かな佇まいがつづくのみで、宿場関係の史跡がのこっているようすではなかった。人家がとぎれ、旧道が踏み切りをわたって国道にもどる手前の二又地点に、馬頭観音・馬力神とともにおおきな道標が建っている。南中郷村青年会足洗支部が昭和3年に建てたもので、東西南北の記載があることから、もとは近くの十字路に建っていたものだろう。それによると北に向う道がいかにも旧浜街道に思えるが、地図で見るかぎりこの地点から北方の道は人工的な方眼直線で、おそらく明治以降に開発された新田の農道ではないかと推測される。この道標とおなじ時代の産物ではないだろうか。 

国道に合流した浜街道はしばらく
松並木に迎えられる。特に消防署本部あたりの並木は美しい。路傍に数体の馬頭観音などの石仏が並べられていた。街道の西側、大北川の南側には瑞々しい緑の美田が広がっている。


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磯原

大北川をこえて磯原町に入る。北茨城市の中心であり、民謡・童謡詩人野口雨情の故郷でもある。JR磯原駅から数百メートル北方の旧磯原入口に
雨情の生家がある。徳川光圀が訪れその眺望を賞して観海亭と命名、村人からは磯原御殿とよばれている名家である。雨情は廻船問屋を営む旧家の長子として生まれた。代表作に童謡の「十五夜お月」「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」「雨降りお月」「兎のダンス」「あの町この町」「しゃぼん玉」など、民謡には「波浮の港」「枯れススキ」などがある。

磯原は温泉地でもあり、周辺には高級温泉旅館や観光ホテルが多い。旅館街の裏手、海岸に突き出た小山は天妃山で、山頂に
弟橘媛命神社がある。光圀がこの地に天妃神を祀ったもので、後に斉昭が弟橘媛命を祀って改名した。天妃山の北側には磯原海岸、海水浴場が広がっている。浜辺の海中には海水浴客を見守るように、取り残された断崖と小岩がならんでいる。二ツ島という名所の一つだ。

街道をすこし北に進むと道路脇にその二ツ島を背景にして、二人の子供が輪をつくるように手をつないだ像が立っている。作品は雨情の「あの町この町」からヒントを得て作られたらしいが、人は「通りゃんせ」のイメージをより強くして、いつしか
「通りゃんせの像」と呼ばれるようになった。

波打ち際に雨情の詩碑があった。藻で染まった碑の足元で、波と砂が戯れている。

  松に松風 磯原汀 磯の蔭にも波がうつ 

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神岡

国道6号「神岡上」三叉路の手前右手に神岡一里塚跡がある。沿道の雑木林にまぎれて見落としそうなくらいに控えめな塚である。石碑も新しそうだった。三叉路を左にとり、福島県にはいるまでしばらく旧道を行く。踏み切りを渡り神岡宿の町並みに入る。今日の宿は西に1km余りいった茨城パシフィックカントリー倶楽部にとっていた。丘陵にあるゴルフクラブの駐車場から大津港が見渡せる。

翌朝その足で港までおりてみた。まだ低い朝の光をうけてまぶしそうに目覚めはじめたかのような港町だが、魚市場はすでに朝の仕事を終えた後だった。港をみおろす唐帰山に9世紀創立の佐波波地祇(さわわちぎ)神社鎮座する。船神を祀り、5年に一度、春の祭礼「御船祭り」で神船が町中を渡御する。奉納された絵馬にその様子が描かれていた。


大津港から崖沿いに北側にまわる途中の海岸は、断崖絶壁の風光明媚な五浦(いづら)海岸として知られる。小さな半島の断崖に大小5つの入り江がきりこんでいるところから「いつうら」と名づけられたのだが、なまって「いづら」となった。日本美術院の創設者岡倉天心がこよなく愛する所となり、横山大観らをつれて日本美術院をこの地に移し新日本画運動の拠点とした。

天心らの活動拠点は現在、茨城大学五浦美術文化研究所として受け継がれている。長屋門から中にはいると天心が居住していた平屋の
天心邸、海に突き出た岩礁の上に小堂を建て、太平洋の荒波を聞きながら思索にふけったという六角堂、素直に読めない「亜細亜ハ一な里」の石碑などがある。研究所の向かい、道ばたには天心没年の大正2年(1913)、東京染井霊園の墓から分骨された天心の墓地がある。


県道155号にもどり、旧神岡宿の町並みを通り過ぎる。黒板塀や大きな門構えの立派な家が多い。土地は平らな田園地帯で、道をさえぎる近代の人工物もなく、旧道とは思われないほどまっすぐに延びた道がつづいている。関南町の神岡下から関南町関本下、関本町関本中の集落を通り過ぎる。地名にある「関」はすべて「勿来の関」である。

粟野で道なりに右にまがっていくと前方に踏み切りがみえてくる。その手前に
八坂神社がある。ここを左にまがって線路沿いにいく道は古道の道筋で、そのまま進むと勿来側から勿来の切通しを経てきた古道と結びつく位置関係にある。実際にたどることはしなかったが、地図で見る限り、途中で道は消失しているようだ。

踏み切りをこえ旧道をみちなりに東へ進み、国道6号をよこぎると、いよいよ常陸国最後の町平潟の港に下っていく。

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平潟


港町特有のいりくんだ細い坂道を下っていくと馬蹄形に湾曲した美しい自然港が現れた。目の前に「茨城観光百選 平潟港」と深く刻まれた石碑がデンと構えている。寛文10年(1670)伊勢国の大富商人河村瑞賢が奥州信夫郡、伊達郡の幕府直轄領の租米を江戸まで回送することを引受け、奥州荒浜(宮城県亘理町)から江戸までの航路(東回り廻船)を開発した。この際寄港地として整備されたのが小名浜・平潟・那珂湊・銚子・房州小湊等である。

港にはそれぞれ浦役人が置かれ、廻船の取締りが行われた。平潟湊の浦役人は村の庄屋であった鈴木主水であった。鈴木家の当主は代々「主水(もんど)」を襲名している。鈴木主水の茅葺の屋敷港を見下ろす高台に保存されている

湾の北側、鵜ノ子岬につながる岡の中腹に
八幡神社があり、後ろの崖壁に穿たれた穴には小さな祠が座っている。西方の境内には元禄2年俳句師運日上人が建立したという芭蕉碑があった。

  この辺り目に見ゆるものみな涼し


長良川の鵜飼に招かれて詠んだ句である。この辺りにも飛来する海鵜にかけての句碑だろうか。

平潟は福島県との県境にある町である。平潟より隣町九浦(くうら)に通じる道は
階坂(はしござか)といわれ、牛馬も通れないほどの急な坂道であった。そのため安永3年(1774)長さ27mの洞門が掘削され、平潟・九浦間の往来は非常に便利になった。県境に「平潟洞門の碑」が建っている。また、碑文の終わりには、詳しい里程が記されていて、ちょうどここが江戸・仙台から約190kmの中間点であることを示していた。
 

(2006年9月)
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