富岡


県道244号の北田交差点から北上する。
常磐線竜田駅の西側、国道6号を挟んで
楢葉(ならは)町役場など町の主要施設が分布している。楢葉町の中心にも思えるがここには楢葉宿も竜田宿も存在せず、楢葉町を代表する浜街道の宿場は木戸宿であった。楢葉という地名自体は平安時代の土地の支配者に由来しているのだが、町名としては昭和31年に竜田村と木戸村が合併して生まれた新しいものである。楢葉は駅名にも宿場名にもあらわれない寂しい存在ということになる。楢葉町の中心が国道6号沿いにあるのも、その新しさの表れで、古い竜田村の中心は竜田駅のすぐ西側にあって、県道244号(旧国道)はそこを南北に通り抜けていく。

楢葉北小学校のそばを通り井出川にでる。新旧二つの橋がかかっていて、旧道にかかる井出川橋は通行禁止となっていた。橋を渡った五差路を左にとって小さな集落の端で道が尽きるところ、常磐線路の脇に
「井出一里塚」の案内板が立っている。線路の両側は竹やぶと草の生い茂る畑で、塚に見えなくもない盛土がいくつかある。そのうちのどれかだろうと、無責任な記録写真を撮って帰ろうとしたとき、死角になっていた民家の裏手に標識と共にしかと一里塚が残っていた。

街道に戻り、上繁岡という集落の丁字路角に道路改修記念碑と石仏群をみて、山道にさしかかる。「楢葉町細谷」の標識の脇から旧道が残っている。この旧道は明治時代の国道で、楢葉町細谷と富岡町太田の境をなしており、県道244号をまたぐ日照田橋で富岡町太田に入る。

県道に合流し、常磐線手前の道を右にはいると
八幡神社がある。苔むした石段をのぼると簡素な社殿の正面左半分を占めて、今年の干支である猪の大きな絵札が架けられている。すでに12枚用意されているのか、それとも毎年新調するのか。旧道は八幡神社の前を通り北に向かって四十八社山神社の前を通り、清水一里塚を経て再び県道に合流していた。現在は常磐線が道筋を分断しその向こうは旧道が消失しているが、紅葉川をわたった先の国道6号から北側に四十八社道として残っている。

農道の四辻角に「これより四十八社道」と刻まれた道標があり、その方向に進んでいくと
四十八社山神社の鳥居の脇に「見掛の松」が若々しい枝振りを見せている。樹齢150年のクロマツとあるが、背は年ほどに高くなく、何代目かの若松であろう。石段を上がって神社に寄った。忠犬ハチ公のように不動の姿勢でじっと前を見据えている赤い腹帯を巻いた狛犬がいじらしかった。

旧道は四十八社山神社の先、たどることができない。県道にもどる。国道6号との交差点から県道は244号から243号に変わっていた。道が右に大きくまがった先の清水集落の四辻を右にはいる。右手一軒目の民家の東側に細い道が南に延びている。上郡山字清水と下郡山字真壁とをわける字境が八幡神社から続いていた旧道である。民家の畑地を200mほどたどると道は杉林の中に消え、行き止まりの右手清水側に
一里塚があった。

旧道はさきに右折した辻よりもすこし北までつづいているようで、そこで県道にもどり、蛇行しながら坂を下り富岡の町にはいっていく。

町の入口にあたるところに
龍台寺がある。山門はあるが塀の囲いがなく、車道の内側が境内という開放的な寺である。山門の横に六地蔵がならぶ。門をくぐった右手に文政2年(1819)の芭蕉句碑があった。

  
時鳥 まねくか むき(麦)のむら尾花 

富岡の宿場街は短い。左手に一軒雨戸を閉め切った
旧家(庄野家)があるほか、町並みは新しく昔の面影は見当たらない。国道6号の手前の丁字路を左折し、富岡警察署の前で国道6号に合流する。龍台寺から、あっという間に富岡宿を通り抜けた。

国道6号で常磐線のガードをくぐり、本岡交差点で右斜めに出ている旧道にはいる。道は旧国道で、S字型に国道6号を横切っている。その横断点の前後にかけて、道の東側に街道時代の松並木が残っていて心なごむ風景を呈している。考えてみれば旧国道は、江戸時代の街道をそのまま上にアスファルトを敷いて固めて造られたようである。当時、沿道の住民にとって行き交う車の騒音はさほど苦痛でなく、車の運転者も少々の蛇行に不便を感じるほどに急いだ旅でもなかったのであろう。新国道は集落を避けてなるべくまっすぐな道筋に付け替えられ、新国道よりもさらに辺鄙なところをより直線的に現代の高速自動車道が造られた。

国道6号を斜めに横切った先の左手に江戸から数えて66番目の
「新田町一里塚」がある。松並木をすぎるとのどかな田園のなかを進みやがて国道に合流する。旧道はこの先再びS字状に一旦国道の右に出て「市の沢」交差点で左側に移って北上していたが、今では途中で消失していて、国道6号を「市の沢」交差点で左折してすぐ国道に併走する道を北に進むことになる。

境川をこえると大熊町である。

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熊川

大熊町の名は、昭和29年大野村と熊町村が合併し両方の頭文字をあわせて生まれたもので、「大きな熊」という意味でない。勢力は大野村のほうが勝っていたようで、大熊町の中心は現在の大字大野にあり最寄の常磐線駅名も「大野」のままである。

熊町村は明治22年に熊川村、熊村、夫沢村、小良浜村および小入野村の5か村が合併したものである。その結果、今ではこの地に、大熊、熊町、熊川、熊と、4つの熊がいる。

熊川宿は大熊町大字熊字熊町に属し、隣接する大字熊川には入っていないが、すぐ北に熊川がながれているため、自然の立地を優先して宿場の名としたのであろう。いずれにしてもこのあたり熊が多くてややこしい。

国道6号に合流したところから
熊川宿が始まる。新国道沿いに宿場をみるのは久しぶりだ。入母屋造りの家がならんでいるがみな新しそうである。街道右手の民家の庭に「大熊町史跡 相馬藩御殿屋敷跡」、「大熊町史跡 戊辰の役古戦場」と書かれた標柱がフェンス越しに見える。四角柱の一面に「大熊町教育委員会」とあり、他の一面におそらく説明書きがあるとおもわれるが、道からは見ることができなかった。

旧道は「熊町局」の交差点を右折する。初発(しょはつ)神社の東隣3軒からは元宿場の臭いが濃厚に漂ってくる。佐々木酒店の隣は二階に桟敷を設け、玄関をのぞくと帳場の仕切り格子が見えた。いかにも旅籠風の建物である。その二軒先で北にむかう細道は古道(東街道)で、熊川で途絶えている。古道は南側にも残っていて、角の太田家は四脚門を構えた旧家の雰囲気であった。

旧道は古道より一筋東の道をとり熊川をわたった後、西側の新国道と東側の旧国道の間、大字熊字熊町と大字小入野字向畑の境界を通っていた。現在は新町浄化センターの裏側から山中に消えている。その山中に
熊町の一里塚があるという。浄化センターの前を通って国道6号に出、北に100mあまり進んだ右手の山中にあった。ちょうどトミーの向かい側だが、樹木にさえぎられて国道からはみえない。そこと知ったうえで、ちょっとした切り通しの台地にかけあがると枝葉の向こうに塚上の標識が認められる。

国道6号を一路北上し総合スポーツセンターの入口で左斜めの旧道にはいっていく。100mほど県道252号にのった後北にむかって常磐線をくぐりぬける。左手に「東堂山」の鳥居をみてしばらくしばらくいくと左手に
「五郎四郎一里塚」があらわれる。木は植えられていないがススキの穂が孤独な頂上の標識に寄り添って、昔から手付かずに残された風の愛らしい塚である。

街道は常磐線に近づきつつ大熊町から双葉町にはいっていく。

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新山(しんざん)

ここでもさきに地名の経緯を記する必要があると思う。今回は郡のことまで触れなければならない。楢葉(ならは)郡はふるく石城郡より分かれた郡で、明治22年には広野村(現・広野町)、木戸村・竜田村(現・楢葉町)、富岡村・上岡村(現・富岡町)、川内村(現・川内村)、そして久之浜村・大久村・川前村(現・いわき市)の9村を擁する大郡であった。

一方、楢葉郡の北には相馬領の南部をなす標葉(しねは)郡があった。さらに大きく11村からなっていた。浪江村・請戸村・幾世橋村・大堀村・苅野村・津島村(現・浪江町)、大野村・熊町村(現・大熊町)、新山村・長塚村(現・双葉町)、そして葛尾村(現・葛尾村)である。

明治29年この両郡が合併する。共に「葉」がついているので新しい郡の名前を「双葉」とした。昭和26年、新山町(大正2年に新山村から新山町に昇格)と長塚村が合併して標葉町としたが、5年後双葉町に改称している。双葉郡の中心的存在ということだろうか。
これから入っていく宿場は旧新山村と旧長塚村の一部である。

宿場に入る前に、県天然記念物
「前田の大スギ」を見に行く。前田川を渡ってまもなく左手に稲荷神社参道の標識が出てくる。細い路地をたどっていくと神社の境内に、目通り幹周り7.7m、樹高21mの「浜通り地方ではもっとも大きいスギ」がそびえている。大枝が折れた跡が、腕を切り取られた肩の傷口のように生々しかった。

街道にもどり、常磐線のガードをくぐるところをまちがってそのまま進んで双葉中学校の前に出た。偶然、右手の山裾に
「新山城」の案内板が建っていた。このあたりがかっての城域の西端だった。双葉中学校は寂しい場所にある。

常磐線をくぐり国道288号(都路街道)に合流して街中にはいっていく。スーパーカメダヤ(亀田屋)で左折していくのが旧国道である。左手に
富沢酒造店の古い建物があらわれる。その先、一つ屋根のしたに「タケダクリーニング双葉店」と「雑貨・燃料 モトケンダン」と書かれた二つの看板が掲げられている。モトケンダンとは元検断ということだろうか。宿場の問屋を勤めていた家柄であろう。石蔵造りの佐々木薬局も年季を感じさせる店構えである。看板の「かぜにパブロン」、「リポビタンD」も懐かしい。

長塚

自性院
に寄ってから長塚宿に向かう。長塚宿は新山宿との合宿であった。合宿には上り、下りどちらかの継ぎ立てのみを行う機能的分業と、月を二分して本宿の役割を果たす時間的分業の二形態がみられるが、新山・長塚の場合は後者である。長塚の町並みは新山ほどの風情を持ち合わせていなかった。

なお、常磐線双葉駅は長塚側にあって、もとの駅名は長塚だった。新山と合併して双葉町になったとき、駅名も双葉に変えられた。同時期に竜田村と木戸村が合併して楢葉町ができたが、駅名は竜田のままにしたこと、大野村と熊町村の合併に際しても駅名は「大熊」とせず「大野」に据え置かれたことと面白い対照をなす。駅名は変えないのが原則なのであろうか。

戎川の先の十字路を左折して、越田街道踏切を渡ったところに
長塚陣屋跡がある。相馬領内の南標葉郷を統治するため陣屋を設け代官を置いた。

長塚宿をぬけ旧道は常磐線を横切って中田川をわたり鴻草(こうのくさ)の集落に入る。すぐ右手に重厚な門構えに繊細な格子造りの屋敷があらわれる。江戸時代の豪商
大黒屋で呉服問屋を営んでいた。大黒屋には及ばずとも、鴻草の街道沿いは立派な家が決められたようにそろった高さの塀を囲い、整然とした町並みをみせている。農村のなかの高級住宅街という感じがした。

集落の終わりの交差点を右に曲がって、常磐線の薬師堂踏切の傍にある
薬師堂によっていく。薬師堂自体は墓場の隣にある小さなものだが、その前の石段下にある道標は文政6年(1823)大黒屋が先の交差点に建てた古いものである。「十一面観世音 これよりにし ちゅうぜんじ(仲善寺) 東ハうけと(請戸)」と刻まれている。

ここにはまた、「鴻草磨崖仏」があるはずだが、堂の裏側をチェックしただけで、結局見つけられなかった。
街道にもどり、800mほどで浪江町にはいる。

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浪江(高野)

浪江町は浪江、請戸、幾世橋、大堀、苅野、津島の6村が合併して生まれた大きな町である。ここの宿場はもともと高野(こうや)宿と呼ばれ、現在の国道114号沿いに東西に伸びていた。幾度となく大火にみまわれ、寛政10年(1789)に宿場の名を水にちなんだ「浪江宿」に変えたが効果なく、安政6年(1859)の大火で町は全焼した。復興にあたり宿場を現在の県道253号に沿って南北に延びる町割に変更した。

したがってこの宿場町には二つの街道筋が残っている。
まず古いほうから。
高瀬川をわたる直前、県道253号との合流点までもどり、古道沿いにあったという
高瀬の清水をたずねることから始める。  

  
陸奥の 高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの 下にこそあれ

と、西行が詠んだ歌枕である。「あほいのくき」とは「葵岫」と書き、鴻の草と高瀬の間の丘陵のこと。

合流点を右折し常磐線を渡り、最初の道を左にはいる。水路をこえた交差点を右におれ500mほどいった左手民家の裏にある。田と林の境で屋根を設けてもらって静かに眠っていた。トタンに白ペンキを塗っただけの案内板がある。古道はここから浪江町の方向に、黄金色の田圃をこえ高瀬川をわたって対岸の牛渡(うしわた)に通じていた。そこには牛渡一里塚があったとのことだが、痕跡はなく、ただ「一里壇」の地名だけが残っている。市街地にはいり、NTT電話交換所の西側を北上して国道114号に出る。右手向かいは「福島民報社」だ。そこから左方に高野宿が始まっていた。右手に常福寺がある。西に歩くにつれ道の両側に空き地がみえ、建物は新しくなっている。国道114号の改良工事が進行中とみえる。

セブンイレブンのある交差点が高野宿と浪江宿の出会うところだ。そこを左折して、こんどは安政の大火以降の浪江宿を北から南にたどっていく。新町通りとよばれ、銀行、信金など金融機関が集まっている町の中心部だが、通りは静かなものである。宿場街のほぼ中ほどにある「新町ふれあい広場」はかっての火除地の名残である。隣のシェルGSは錦屋本陣跡。ホテル百足屋は新装開店前夜のようだった。経営が変わったのだろう、「百足屋」の名は消えていた。その先に昔の面影をとどめる建物が続く。杉玉を吊るした門に二階の格子が美しい商家は酒屋だろう。

街道を離れて二つの寺に寄る。

正西寺は分かりにくい場所にあった。広大な墓地に迷い込み、寺の裏口から正面にまわりこんだ格好である。正西寺は標葉家の菩提寺であった華光院跡で、境内には明応元年(1492)相馬氏によって滅ぼされた標葉清隆・隆成父子の墳墓がある。華光院は「古より窮鳥懐に入らば猟師もこれをうたず。他日雌雄を決するのが武士の道なり」の舞台となった場所でもある。詳しくは写真にて。

朝日を手でさえぎりながら国道114号を大きく東に向かい、古刹
大聖寺をたずねる。遠くてもわかりやすい場所にある。元禄14年(1701)相馬中村藩5代藩主相馬昌胤は、37歳で家督を養子である叙胤(のぶたね)に譲ったのち、大聖寺の後方に当たる場所に館を設けて余生をすごした。大聖寺の山門は昌胤の住んだ館の正門の遺構である。
 
山門にいたる石段からはじまり、境内にあるすべてがほどよい大きさで適度な空間を保ちつつここちよく配置されている。国宝の釣鐘も県の天然記念物であるアカガシも主張の度合いを心得ていて、さりげなくある。心憎いのは、重要文化財である茅葺の旧家が本堂の裏に隠されていることだった。朝一番の訪問で、心洗われた気分になって浪江宿を後にする。

新町交差点までもどりセブンイレブンで朝食のミックスサンドと一日分の野菜ジュースパックを買う。請戸川を渡ってすぐ右手に
権現堂城跡入口がある。坂をのぼっていっても墓地があるだけで城跡らしきものがみえてこない。彼岸の墓掃除にきていたおじさんに聞くと、民家の脇を崖づたいに降りていくと神社がある。そこだろうという。旧正月に裸まいりの神事があってその前に年一回の草刈をするのだそうだ。見晴らしのよい台地の際までいったがそこから先はとても歩ける道ではなかった。

城跡入口まで後戻りしてその先すぐ、二股を右手の旧道にはいっていく。富坂とよばれる短い坂だ。坂を下って県道120号(新町交差点で253号から120号に移る)に合流する。視界がひろがって秋の田園風景が展開する。遠景の山並みは阿武隈山系か。リュックを背負い日傘をさしたおばあさんが黙々と西の方へ歩いていく。カメラでずっと姿を追った。幸運にも、おばあさんは最初の農道を南に歩き始めた。しばらく一本道だ。写真は10枚ほど撮った中の一枚。正直、宿場歩きよりも楽しい。

街道をしばらくいくと十字路の先に左におりていく道がでていて入口に
「酒田の空堤(からつつみ)」の案内板が立っている。江戸時代初期に築かれたが文政年間(1818〜29)に大破してそのままになっている。下へ降りると街道が東の堤になっていて、その西側に南側の堤にまもられてきれいな水田が開かれていた。

その先、街道が右に曲がる十字路に
出口一里塚がある。十字路を右にはいると右手に立ち入り禁止の山道がでていて、そばに「木曽藪内通水記念碑」、「立野1号水路トンネル」竣工碑があった。この道が古道であろうか。

街道は一里塚から200mで南相馬市小高区にはいる。南相馬市は2006年、原町市と南の相馬郡小高町、北の相馬郡鹿島町が合併して誕生した。

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小高

出口一里塚をすぎて街道は山間の道をだどって行き、やがて「国指定史跡 薬師堂・観音堂石仏」の大きな標識があらわれる。右手の柏建設の両側に私道がのびていて、そこを上がっていくと常磐線の西側に沿って残っている古道に出られるらしいが、「私道につき無断通行禁止」の立て札をみてやめることにした。

左手の坂を降りていくと薬師堂前は「大悲山大蛇物語公園」になっていて、帯状のながい塀に大蛇の絵物語が描かれている。琵琶法師と大蛇の化身の物語だが省略する。山側に向かうと、薬師堂の石段下に樹齢1000年を越す
「大悲山の大杉」がそびえている。目通り幹周り8.6m、高さ約45mというから「前田の大スギ」の2倍以上の高さである。前田スギの説明板が「浜通り地方ではもっとも大きいスギ」といっていたのはウソとわかる。

堂内はセンサーライトが取り付けてあって、ガラス戸をあけてはいると眼前に8体の
磨崖仏が浮かび出された。線彫りなどを含めると10余体の仏像が刻まれているというが数体の座像のほかはわずかな痕跡が認められる程度である。座像も顔面の剥落がひどいが胸のあたりにマスタード色の彩色が残っており、1200年前の見事な浮き彫りの様を想像させるに十分であった。大分県臼杵、栃木県大谷とあわせて日本三大磨崖仏とされている。なお、大悲山とはこの地域を領していた相馬氏の支族大悲山(だいひさ)氏に由来している。

薬師堂をあとにして
観音堂の石仏をたずねる。こちらは像高5.5mの十一面千手観音坐像の磨崖仏であるが、磨耗剥落がひどくて本体の形状は殆どみとめられない。わずかに千手の数本と周りに彫られた化物座像を見分けることができた。大きな足場が組まれているのは修理中であろうか。


街道は泉沢をぬけ常磐線の線路にそって一直線の道を小高の町に向かう。線路から離れ左に曲がるところの二股で県道をはなれて左の旧道にはいり、道なりに右に曲がって駅前通りにでる。ここを左折して小高宿が西に伸びている。通り沿いに「馬つなぎ場」がある。宿場時代の史跡かとおもったが、町の共同駐車場であった。

「綿屋」の白壁蔵店をみて宿場のなかほどまで来ると重厚な蔵造りの建物が交差点の北西角を占めている。近づいてみると二軒つづきの蔵だった。蔵の間からゴミ袋をさげて出てきた奥さんに話を聞くと西側の蔵はもと和菓子作りの店だったそうだ。

この交差点を北にむかって、
小高神社をみていく。小高神社は相馬氏代々の守護神妙見を祀った社で相馬三妙見の一つに数えられ、相馬野馬追いの最終日、7月25日の野馬縣がここで行われる。社域は、南北朝時代建武3年(1336)相馬氏6代目重胤が次子光胤に命じて修築させた小高城(紅梅山浮舟城とも呼ばれた)の跡地である。相馬氏は下総千葉氏の一族で、千葉介常胤の次男相馬師常が行方郡(小高、原町、鹿島、飯館)の地頭となり、元享3年(1323)重胤の時に下総流山から移ってきた。慶長16年(1611)中村城に移転するまで12代285年間にわたって相馬氏の居城であった。神社境内の一部に土塁や空堀が残っている。

街道に戻って西に進む。右手郵便局あたりが宿場の中心地で、墨がなかば剥げ落ちた「鈴木運送店」の板看板を掲げるたばこ屋は
本陣跡である。宿場の西端、福島屋商店の角を右折して県道260号の下をくぐり、小高川と前川を渡って十字路を左折する。旧道はここを直進していたらしい。県道の手前の丁字路を右折し、畑地を通り過ぎて二股を右にとって山道にはいっていくと、「金華山遊歩道」の案内板がたっている。その先道はますます山深くなってきたので、切り上げた。

先の二股までもどり左にとって県道にでる。赤坂病院入口を通り過ぎて左に入る旧道がある。林の間をすすんでいくと見晴らしのよいゴルフ場の東端に出て、その先左手に
行徳神社があらわれる。旧道はすぐ先の二股を右にはいって山中に消えていた。県道にもどり先を急ぐ。すぐに小高区から原町区に入る。

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原町

鶴谷地区で長松寺によった後、太田川を渡って県道264号の分岐点手前で右斜めの旧道にはいり「大田兵衛屋敷跡」という標柱が立っている辻を東に折れて
太田神社に寄る。元亨3年(1323)相馬重胤が下総流山より下向してきたとき最初に住んだ館跡である。光胤による小高城の修築を待って嘉暦元年(1326)、小高城へ移った。太田神社は相馬中村神社、小高神社とともに相馬三妙見の一つで相馬野馬追祭りの祭場である。

街道にもどり、塩釜神社、羽山横穴古墳入口、羽山岳木戸跡を経て県道に合流する。
羽山横穴古墳は春秋の季節に4日だけ公開される。観光客にはまず用のない所だ。

原町宿の南はずれにあたる場所に松並木があり、その東側に
野馬追祭場がある。楕円形のトラックにスタンド席まで設けてあってまるで競馬場だ。相馬太田神社、相馬小高神社、相馬中村神社の連名で、「この土地は相馬野馬追祭事に使用するための三社飛地境内である」と宣言している。7月23日の宵乗祭と24日の野馬追祭、それに春と秋に野馬追振興競馬がここで行われる。

県道はそのまま原町宿にはいっていく。鉤の手もないまっすぐな宿場である。本町あたりが中心で、1丁目に蔵造りの
今村味噌醤油店が高い見越しの松を従えて堂々たる構えを見せている。2丁目にはやはり蔵店のがある。ここも味噌屋だ。その向かいの銘醸館内に観光協会をみつけ、中に入って本陣跡をたずねた。すぐ隣の七十七銀行と山本接骨院にはさまれた白い家がそうだという。小ぶりの二階建てで壁が真っ白に塗りこまれている。誰もいそうな気配はなくただ「小林」の表札が掛けられていた。

その先の交差点を左に曲がると市役所の敷地に
「中乃郷陣屋跡」の標識がある。近くの三嶋神社によって原町宿を去る。

街道(県道120号)を北上する。新田川を渡り、ゆるやかな曲がりを重ねて古代陸奥国行方郡の役所跡である
植松廃寺跡を通り過ぎ、道は比丘尼沢(びくにさわ)で左にまがって鹿島区に入る。



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鹿島


坂道を下り潤谷川の手前200mほどのところ左手に
塩崎一里塚跡がある。路肩の斜面に木杭が立っているだけで塚は畑に吸収されてしまっているようである。潤谷川を渡ったところに石仏群がある。「鹿島カントリー倶楽部」の道案内標識がいかにも不似合いだ。

江垂(えたり)地区に入ると右に旧道があり、山中の坂道をあがっていくと峠あたりに「史跡 中館」の案内板が立っている。この高台は
中館城跡で、今は日吉神社がひっそりとある。南北朝時代、奥州街道から羽州街道が分岐する宿場町、桑折からやってきた桑折五郎元家がここに住んで真野五郎と称した。日吉神社の近く街道の左手崖下名水「日吉神社のおみだらし」がある。瓦屋根つきの立派なものだが、薄暗いところで、飲む気になれなかった。

中館の旧道をぬけて県道に戻り
真野川にでる。街道からはずれ手前の堤防を西に進み万葉植物園で歌碑を見ていくことにした。川をみおろすと数人の釣り人が川にはいってじっと釣り糸を垂れている。川の中まで椅子を持ち出して座っている人もいる。これはいいアイデアだ。

真野川のながめにつられて堤防を行きすぎ、植物園がある桜平山公園にたどりつくのに苦労した。工場の前を通る細い道でまともな駐車場もないところに出た。どうやら裏道からきたようだ。ともかく植物園なるものをみる。入口こそ風情ある門構えだが、なかはかなりさびれた感じがした。当初の意気込みが続かなかったと見える。門に近いほうに斉藤茂吉の歌碑が、遠く公園の端のほうに
笠女郎の歌碑が立っている。

  みちのくの 真野のかやはら とほけども おもかげにして 見ゆといふものを (万3-396)

笠女郎は与謝野晶子のような情熱の歌人。大伴家持を熱烈に愛していた。彼はもう遠い人になってしまった。鹿島の真野ほどに。

県道にもどり鹿島橋を渡って宿場に入る。鹿島駅からでている通りとの交差点からすこし北に鹿島御子神社があり、社殿の横に樹齢1000年余の大ケヤキがそびえている。この辺りが宿場の中心だったのだろうか。例外なくみかける郵便局がこの町には街道筋になく真野川べりにある。区役所と共に移転したのだろう。町並みに宿場町を偲ばせる面影はない。

宿場をでて踏切の手前に
横手の一里塚跡がある。塚の残骸がのこっているがそれも木杭の標識が立っていなければ塚跡ともわからない。横手踏切を特急ひたちが通過した。踏み切りを渡って久々に国道6号に合流する。国道の左右に残る3、400mほどの短い旧道を縫いながら相馬市に入っていく。

(2007年10月)
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岩城相馬街道(4)



富岡−熊川(大熊)新山・長塚(双葉)浪江(高野)小高原町鹿島
いこいの広場
日本紀行
岩城相馬街道 1
岩城相馬街道 2

岩城相馬街道 3
岩城相馬街道 4
岩城相馬街道 5