中村(相馬)


日下石(にっけし)川を渡ると道の駅そうまから旧道が残っている。街道は日下石立郵便局をすぎたあたりで県道121号となって一路相馬市内へ向かう。

途中、高根沢地区に土手造りの本格的な松並木が残っている。松の樹勢といい、土塁の高さといい、並木道の延長といい、陸前浜街道でみた松並木のどれよりも立派なものである。
「旧陸前浜街道松並木」の標識には相馬市指定天然記念物とあるが、県指定くらいに昇格させてもいいのではないかと思う。

「百尺観音入口」バス停の先で「石積地蔵」を通り過ぎる。
百尺観音は地図にも載るほどの名所らしいが、昭和6年に始め三代にわたって民間個人が手がけた未完の磨崖仏で、歴史物でも芸術品でもないようだ。

宇多川橋を渡っていよいよ中村城下にはいる。大町交差点で国道115号(中村街道)に乗り、左に折れて旧中村宿場街を西に進む。金融機関がならぶ
大町通りが宿場の中心だったようだが、ふるめかしい肥料店を見るほかは宿場や城下町の風情を感じさせるものはない。

街道は東邦銀行の角で北に直角にまがり、県道228号が始まる。銀行の前に
道路元標があり御影石の立派な説明碑が建っている。大町商栄会が建てたものだ。里程が彫られてあって、日本橋まで73里17町、福島県庁まで15里11町とある。最初の里程はいうまでもなく陸前浜街道で東京から300km近くきた。そろそろ国道6号の300km地点を意識せねばならない。二番目の距離は中村街道、現在の国道115号のものである。中村街道は南北朝時代、北畠顕家が拠点とした霊山を経て奥州街道の福島とを結んでいる。福島からは相馬街道とも呼ばれた。

ここで、街道を離れて、そのまま西に向かって中村城跡・相馬中村神社に立ち寄ることにする。東邦銀行の南向かいに立派な白壁の蔵付邸宅があるが、表札も看板も標識もなく、何なのだろう。 

中村城の唯一の遺構である
大手一ノ門から入って、二宮尊徳像の前を通り、石垣、空堀の残る城跡をあるいて、藤棚のある本丸跡にでる。平安時代の延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のとき、西館に菅原敬実を置いて守らせたのが、中村城(馬稜城とも呼ばれる)のはじまりと伝えられている。その後変遷を経て、慶長16年(1611)城を改修し相馬藩主利胤が小高からここに移ってきた。以来明治まで260年の間6万石の城として続いた。相馬氏は下総下向から明治までの600年あまり、一度も国替えを経験しなかった稀有な例である。本丸跡にある相馬神社は明治13年の建築で新しい。

城跡をおりるとほぼ隣接して
中村神社がある。こちらは国指定重要文化財の古社である。相馬利胤が小高から移ってきたとき、相馬の氏神「妙見」を祀るために建てられた。小高神社、太田神社に次いで、相馬三妙見の最後のものである。参道で、人見知りを知らない三毛猫が一匹、低く構えているカメラのレンズに向かって近づいてきた。数枚撮ったところで、なにもいわずに方向を変えて去っていった。警戒するでもなく、甘えるでもなく、飄々としている。モデルとしては最高だ。

南二の丸跡の道を続々と登校してくる相馬高校の学生とすれ違うのは少し恥ずかしかった。道路元標のある交差点にもどり、そこから広い大通りを北に向かう。右手に県無形民俗文化財
田代駒焼登り窯がある。元禄期以前に築造された登り窯で、相馬藩の御用窯だった。朝早すぎて開いていなかった。田代家の北側が枡形になっていて、ここが城下の北出口である。右に入ってコの字に街道に戻る。前方に水をたたえた外濠が残っている。街道を北にたどり黒木宿に向かう。

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寄り道

松川浦


松川浦に日の出をみたいと思った。松川浦は小泉川と宇多川の河口に広がる入り江だが、海への出口は北側の松川浦大橋が架かる100m足らずの水路のみで、南北に5kmにも延びる砂嘴(さし)でふさがれた潟湖(せきこ)である。平均水深がわずか1mという浅瀬で、引き潮のときは広大な黒い干潟が現出する。

朝5時前にホテルを出て、県道38号で尾浜に入り、松川浦大橋の手前で日が上り始めた。もう漁を終えた船が日の出の薄明かりを背に受け、誇らしげに大橋をくぐって凱旋してくる。

橋をわたり
鵜の尾岬のトンネルをでると左に橙色に光る太平洋が広がり、右手には松川浦の幻想的な風景がのびている。松川浦はまだ朝もやから覚めきらないおぼろげな面持ちで、凍てついたような沈黙の水面に、黒々と林立する竹ざおが垂直に陰を落としている。

松川浦は日本百景の一つで、古くは万葉集にも詠われた景勝の地である。

  
松ヶ浦に 騒ゑ群ら立ち 真人言 思ほすなもろ わが思ほのすも  万葉集

  
陸奥の 宇多の尾浜の 片背貝 合せてみせばや 伊勢の爪白  西行

朝日が差し込む松林の中をいく。海岸にでてみたが消波ブロックが白砂青松を台無しにしている。潟の南(磯部)を回り込み、西側の岩子の浜に来た。港に係留している小船には青い竹竿が積み込まれ、思い出したかのような間隔をもって100mほど先の潟に夫婦を乗せた船がでていく。逆行の光の中で二人は舟を下り、水中にたつ竿を取り替えるのである。水面はたかだか膝上までしかない。干潮を待って行う早朝の作業なのであろう。近場に設けられた
海苔の養殖場との間を小船が幾度となく行き交う。

黒光りした干潟に黒い突起が大粒のゴマを撒き散らしたように点在している。覗き込んでみると、黒ゴマは突発的に動きをみせて、やわらかい砂の上に細い水路をつけている。しばらくすると、その繊細で軟弱な砂上の筋は満ちてくる潮の中に溶けていった。

時計はまだ7時になっていない。朝一番の旅の仕事をおえ、丹下作善の碑台に腰掛けて、昨夜買っておいたロールパンでヨーグルトを掬い上げて食べてみた。パンが湿って食べやすい。なによりも、久しぶりのコカコーラがうまかった。

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黒木(岩井

再び県道38号で相馬市中にもどり、田町の大通りを北にむかう。沿道に「祝 相馬東高等学校創立100周年」の幟が立っている。「祝甲子園出場」ならわかるが、一学校の創立周年を公共の場に誇示するのは違和感を感じないでもない。

小泉川を渡ったところを左に折れ慶徳寺の前を通り、一ノ堰橋の先で二股を右にとって一路黒木に向かう。見晴らしよい田舎道をすすみ、川坊橋で再び小泉川を渡って黒木集落にはいっていく。

黒木宿は東西の家並みだったが、延享4年(1747)大火にあい、復興後現在の南北家並みにかえ、名を
岩井宿と改めた。浪江−高野宿とよく似たケースだ。火の見櫓が立つ丁字路を右折して宿場街を通るが、昔の面影は全くない。バス停の先に海鼠壁の立派な家がある。その路地を東に入ると、道沿いにJAや黒木公会堂があることから、宿場が東西に作られた当時の街道筋はこの道ではなかったかと想像した。

黒木を離れる前に、集落の西側にある
黒木城跡を見ていくことにする。民家の庭先をぬって林にはいると、土塁らしき土手が残っている。その先、車道に出て分からなくなってしまった。山の西側にまわってみると、濠跡らしいうねりが田と山の境を成している。「ぽっくり地蔵尊」の前に城跡の案内板があった。剥げてかなり読みづらい。

延暦2年(802)坂上田村麻呂東奥征伐の時に築かれたのがはじまりで、南北朝時代の建武年間(1334〜38)に黒木大膳亮正光が築き、北畠顕家霊山城の搦手として名城であったという。霊山落城後は相馬氏の配下に入ったが、16世紀中頃に相馬氏に滅ぼされるまでの200年間余、黒木氏はこの城を本拠とした。

街道に戻って、黒木宿を抜けていく。

大坪橋で地蔵川をわたった先に、旧道が右斜めに出ている。県道272号を斜めに横切って国道113号のガードをくぐる。手前に
境地蔵がある。昔ここが相馬藩と仙台藩の境で、藩境に土塁が築かれていた。西のほうには今もその一部が残っている。

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駒ヶ嶺

立田川を渡って右折すると駒ヶ嶺宿の町並みに入る。500mほどの短い宿場で、古い建物はみかけない。中ほどに「駒ヶ嶺城跡」の案内標識が立っている。細い路地を左にはいり段丘を右にたどっていくと「臥牛城跡」と書かれた立て札が倒れていた。

駒ヶ嶺城(臥牛(がぎゅう)城)は1570年代、伊達氏と対立抗争を続ける相馬盛胤が宇多郡北部を強化のため中村支城と新地蓑頸(みのくび)城の繋ぎ城として築かれた。しかし、天正17年(1589)、相馬義胤は伊達正宗によって攻略され、以後この地は伊達藩領になる。明治戊辰戦争のとき、ここを本営として西軍に対し徹底抗戦を続ける仙台藩と、西軍に降伏した相馬藩は再び越境戦を展開し、相馬藩は駒ヶ嶺城を奪回した。今でもこの地には仙台領民と相馬領民の子孫との間に感情的敵対意識が残っているという。

国道6号の手前の筋を左折する。反対方向にまがったところに残る海鼠壁蔵がこの宿場町でみた唯一の古い面影であった。北に向かう旧道の左手に戊辰戦争で亡くなった仙台藩士の慰霊碑と戦死塚が立っている。福島県相馬郡に眠る仙台藩士の心も複雑であろう。

旧道は国道6号に寄り添って新地の町並みに入っていく。

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新地

道は県273号にぶつかる。ここから西へ延びている500mたらずの家並みが旧新地宿である。右角にどっしり構えている海鼠壁の蔵は
黒澤家である。庭に歌碑道標があるというので、声を掛けて門内に入らせてもらった。庭にも別の蔵がある。その入口の両側に二つの半球形の自然石碑が向き合って置いてある。写真を撮っているとご主人が出てこられて詳しい説明を受けた。黒澤家は街道筋で雑貨を商っていたが、今はセブンイレブンのフランチャイジーである。

道路側にある碑はピンクのチョークで刻字を際立たせている。「東 東都八十里 仙城十三里」と彫られている。ここから江戸、仙台までの里程である。里程の両側に西行と芭蕉の句が刻まれているようだがご主人にもわからなかった。

庭側にあるのは、向かいの家の角にあったものを道路工事の祭、こちらに預かったそうである。「西 右なかむら 左津るし」と刻まれている。「津るし」は東海岸の「釣師」のこと。

旧街道は新地宿の西、医薬門をかまえ長いブロック塀をめぐらせた広い敷地の家の角を北におれて砂子田川を渡り、
新地城跡の前を通っていく。新地城は蓑頸(みのくび)城とも呼ばれ、相馬盛胤が永禄九年(1566)に、この地の東方に築いた谷地小屋城にかえて築いたものである。伊達氏に対抗する前線基地であったが、伊達政宗によって駒ヶ嶺城ともども攻略された。

旧街道はやがて三滝川に突き当たって消失する。県道103号で国道6号福田交差点に出る。「東京から308km」とあった。国道を8km分逆行して300km地点の記録写真を撮る。300kmを越える街道はそう多くない。

国道を北上して福島県から宮城県に入っていく。岩沼まで25km、陸前浜街道も第4コーナーを廻った。

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坂元

国道6号に合流してまもなく埒川の先で左手の旧道にはいり、十三奉行溜池を左に見つつ県境沿いの山道を通り抜ける。国道にもどってすぐ先の交差点をこんどは右の旧道にはいり上平集落を抜けていく。

途中の五差路を右折して寄り道することにした。
東南方向の海岸近くに伊達藩の
唐船番所があったという。現在の磯浜漁港近くである。県道38号を一路南にたどって磯浜に着いた。湊の南の小高い公園から太平洋をながめると意外な景色が飛び込んできた。ブロックのないきれいな砂浜がつづく海岸から100mほどの浅瀬に、小型の貨物船が傾いて寝そべっている。座礁船の実物をみるのは初めてだった。どこも錆びているようすはなく、船腹に「JANE」とある。港入口の管理所でたずねると、今年4月に座礁し、アメリカのサルベージ会社が撤去しにきたが今は中止して帰ってしまったという。唐船番所のことはしらなかった。JANEこそ唐船ではないか。番所跡はわからなかったが、半分の満足感をもって街道に引き返した。

国道沿いの「九州ラーメン」、「ドライブイン坂元」の先で国道を横ぎりそのまま坂元集落に入っていく。道は水路をわたった先で突き当たり、そこを左折してすぐまた右におれる。鉤の手のようだ。郵便局もみかけずどこが宿場の中心だったのか想像もつかない。わずかに
磐城屋旅館が宿場の名残をとどめているくらいだった。道は磐城屋前の交差点で県道44号となって橋を渡り、国道6号をくぐってのどかな里を北上する。戸花(とはな)川をわたってまもなく国道6号と合流する。

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山下・横山

旧道は国道6号を浅生原で左に分け旧道に入る。「山下駅」の矢印表示があるところあたりから山下宿が始まっていた。短い県道121号は山下駅からはじまって、ここで北に向きを変え、昔の宿場町を通り抜けて国道6号に合流して終わる。駅に通じる道でもあってか、旧道にしては交通量が多い。神社、郵便局、米屋、酒屋、豆腐屋、旅館、銀行など、典型的な昔の町場のメンバーがそろっている。必ずしも豪勢な家ではないが、大事に使っているようすがうかがえる古い建物がいくつかあって、心がなごむ通りである。

左手に当護稲荷神社があり、「江戸浜海道」の案内板がある。和英二ヶ国語の説明書きがあって、街道図をパネルで示してある。どこかで見たような気がして、奥州街道・岩沼宿を思い出した。

飯盛女のいそうな旅籠風の
鈴木屋に、墨で書かれた「上々ハナカウヂアリ 花麹製造販売所 みそ加工 鈴木屋」の古看板が趣を添えている。
肥料と米の看板がみえる「森忠治商店」は検断屋敷跡である。門扉全体に取り付けられた巨大な「長」の字は屋号だろうか。

街道は一度国道6号にもどるが境柳で再び右の旧道(県道224号)を通っていく。ここに山下宿と亘理宿の
間の宿横山があった。亘理と山下は間宿をおくほど離れてはいないが、ここに亘理伊達氏の足軽を住まわせていた。そのせいだろうか、山下宿が庶民の住む商店街だったのに対し、横山は整然と塀をそろえた家並みがつづく品格ある住宅街である。

沿道の家並みが尽きたころ、旧道と左手を通る国道6号との中間あたりに古道が残っていて、その一角に
「一里塚(一里壇)跡」の標識とそばに馬頭観音等の石塔群がある。


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亘理

街道は山元町から亘理町にはいり、国道6号に合流する。その先大坂で再び左の旧道にはいる。合流する手前に長井戸古墳群入口がある。

中条で左に300mほどの旧道を通り、南町交差点をそのまま直進して亘理宿にはいっていく。宿場は南から、南町・上町・中町・五日町・新井町と延びている。重厚な蔵造りの多い家並みは古い城下宿場町の情緒を醸している。中でも上町の老松永田醸造、中町の本場仙台味噌醤油醸造元山田屋、新井町の
金鶴酒店は亘理宿の代表格といってよい。

荒浜

宿内の街道は中町と五日町の境、および五日町から新井町に入った先にはきれいな鉤の手形を成している。五日町と新井町の境にある十字路は
「亘理の辻」とよばれていて、南北にのびる浜街道と、明治以後につくられた東西の街道が交じりあい、五日市が開かれた繁華街であった。新井町を出たあたりに、亘理宿の北出口であった「下木戸」の標識がある。

旧道は神宮寺信号の先で国道6号を斜めに横切って、石間神社の前で常磐線に分断され途絶えている。道筋としてはその先国道6号に吸収された形である。国道にもどって田沢信号で左斜めに復活している旧道に入る。落ち着いた逢隈集落がおわるところ、右手に
「胎蔵院」の表札があって、道路わきに石仏類が並んでいる。廃寺となって取り壊されたのであろう、敷地内にはなにもなかった。

旧道はその角を右折して国道にもどるが、そのまま進むと阿武隈川の土手にぶつかる。一年ぶりに
阿武隈川と再会した。製紙工場の白煙をたなびかせる煙突群のほかは、あいかわらず悠々としたよい眺めである。

国道にもどってまもなく細道が左下から右上に斜めに横切っている。右方の新旧国道に挟まれた三角地にある「ファミリーロッジ旅籠屋」が偶然インターネットで予約しておいた今晩の宿であった。旧道はこのまま北東方向に亘理の渡しまで延びていたのであろう。今はロッジの裏道として残っているばかりである。

広いダブルサイズのツインベッドに独り寝して、翌朝4時半にロッジをでた。阿武隈川河口の荒浜を見る前に、すこし先走りして
岩沼の貞山掘の日の出風景を撮りに行くためである。

塩釜から始まる貞山掘は阿武隈川に注いで終わる。その対岸の河口にかっての東廻航路の寄港地
荒浜がある。亘理大橋を渡って堤防沿いに河口に向かう。阿武隈川の流れが海に出る口は岩沼側によっていて、亘理側は長い砂嘴でふさがれている。洲の内側には漁船がならび浮かんでいて、汽水の魚場を提供している。外側では早朝のサーフィンを楽しむ若者が寄せ来る波と戯れていた。

現在の荒浜港は昔の阿武隈川河口がふさがれてできた汽水湖「鳥の海」の北岸にある。水深が浅く、大型船は出入りができない。港の東側は
「荒浜漁港公園」として整備されていて、「えんころ節記念碑」なるものが建っている。前に立つと太陽電池スピーカーが稼動する仕組みになっていて、宮城県三大民謡の一つといわれる祝い唄が流れてくる。

水際には朝早くから子供連れが釣りを楽しんでいる。

帰路は国道6号の阿武隈橋にもどらず、も一度亘理大橋で岩沼側にわたり、県道10号から川沿いの道を西に向かった。目指すは阿武隈橋の下流にあったという
藤場の渡跡である。まだ誰もいないヨークベニマルの駐車場に車をとめて、ここからは徒歩で最後の行程を結ぶことにした。

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岩沼


堤防に上がり、排水機場付近を散歩中の男性にたずねてみた。地元の人で、子供の頃からこの付近は遊び場だったそうだ。渡し場がこの辺りにあったことは知っていたがその跡が今でも残っているかについては否定的だった。旧街道はここから土手下の住宅地を通り、ヨークベニマルあたりを突き抜けて国道をよこぎり、竹駒寺から奥州街道にでていたという。河川敷についている道筋を川辺までたどっていくと、ちょうど排水路の出口西側にわずかな崩れた石積みが残っていた。これが江戸時代からの遺構なのか、なんかの際に寄せ集められたただの石の集まりなのか、疑えばきりがない。ともかく、ここから最終行程を歩き出す。

堤防の反対側に石仏群がならんでいる。これらは昔、堤防や河川敷に散らばっていたものだ。現在の奥州街道(国道4号)と陸前浜街道(国道6号)の合流点を確認する。道路標識が東京から333kmであると示している。旧街道の合流点はここより500mほど北西の位置にある。4号を北に進み、最初の信号を左に入る。平禄寿司が角にある。水路に沿った次の十字路を右に折れる。喫茶店の前の二股を左にとると
竹駒寺に出る。

格闘技の選手のような頼もしい坊さんが山門付近を散歩していたので声を掛けてみた。歴史に詳しく、竹駒神社の別当寺からの経緯を話してくれた。宿場の話に移って、ここは宿場の東南はずれで刑場があったこと、前の三角地は
「首探し場」とよばれていて、いまでも家が建たずに空き地になっていること、など。公園にするでもなく、駐車場にするでもなく、なんとなく空いたままに放置されている。「地主は誰ですか」、「この土地を買う者がいるとすれば、歴史をしらない外者でしょうね」と、つまらないことを聞こうとして止めた。

竹駒寺の前の道を西に進むと見覚えのあるところに出る。奥州街道の鉤の手を終わって宿場街に入ったところだ。
岩城相馬街道の終点・分岐点としてはあっさりしたもので、竹駒寺の寺標が建っているだけで、街道を示すものはなにもない。「これより浜街道」とでも書いた杭の一本くらい立ててほしかった。




寄り道

貞山堀

司馬遼太郎が仙台・石巻をたずねようと仙台空港に降り立ったとき、まず向かったのは目的地とは逆方向の阿武隈川河口であった。その道中で貞山堀を見て、改めて仙台平野の豊かさと伊達政宗の大きさに感じ入った。貞山とは政宗の諡名(おくりな)である。司馬遼太郎に仙台藩は『巨大な米穀商ともいうべき藩だった』といわしめるほど沃土にめぐまれた土地であった。政宗は有り余る米を江戸に売るため、搬送用に塩釜から阿武隈川河口の荒浜まで33kmにおよぶ運河を掘った。明治時代の開削をふくめると阿武隈川河口から石巻の旧北上川河口までを結ぶ50kmちかくにおよぶ長大な人工水路である。荒浜と石巻からは大量の仙台米が東廻航路で江戸に運ばれていった。

その偉大な遺跡の日の出の風景を撮りたかった。仙台東部有料道路を一区間走り、県道125号を東にとって県道10号を南下して
浦崎の田圃のあぜ道でカメラを構えた。朝霧が地表にただよう中を松並木の向こうに日が昇り始める。場所を移動して「新浜橋」に来た。最近NHKの衛星放送で見た景色はたしかこの橋からの風景であったと思う。松並木、運河、川舟、刈田、ススキ、朝もやと斜めの逆光。これだけあれば十分だろう。

(2007年10月)
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岩城相馬街道(5)



中村(相馬)−黒木駒ヶ嶺新地坂本山下亘理(わたり)岩沼
いこいの広場
日本紀行
岩城相馬街道 1
岩城相馬街道 2

岩城相馬街道 3
岩城相馬街道 4
岩城相馬街道 5