いこいの広場
日本紀行
岩城相馬街道 1
岩城相馬街道 2

岩城相馬街道 3
岩城相馬街道 4
岩城相馬街道 5
岩城相馬街道(1)



水戸-枝川--石神-大橋-森山-大沼-下孫-助川

江戸時代には水戸までを「水戸街道」、その先奥州街道と合流する岩沼までを「岩城相馬街道」と称し、両者を合せて「浜街道」とも呼んだ。明治初期に「陸前浜街道」と改称され、現在の国道6号がその末裔である。ところで岩城相馬街道は水戸街道にくらべて資料のあいだで宿場の特定にあいまいさが見られる。とくに日立市域にめだつ。呼称についても中世の駅家時代から明治の間で、読み・表記が変わっている所が多い。以下の資料からすべてを拾った。

1 枝川 さわ 石神 大和田 もり山 まご 助川 をくつ あたご あら川 足洗 上をか
2 枝川 佐和 石神 大和田 大沼 下孫 助川 小木津 イシ 高萩 下桜井 神岡
3 枝川 さわ 石神 大橋 森山 助川 奥津 愛宕 荒川 足洗 神岡
4 枝川 大橋 大森 大沼 助川 田尻 小木津 川尻 伊師町 高萩 足洗
1.大日本行程大絵図 天保14年  2.古地図 明治12年  3.『陸前浜街道地誌』長久保光明  4.『日本の街道』講談社』  



水戸宿 

前回見残していた水戸城跡周辺を先に見ておくことにした。
JR水戸駅の北側に歴史的史跡が集中している。駅前テラスに水戸黄門、助さん格さん3人の像が立っている。黄門の手に握られているバナナを払い落とそうかと思ったが止めた。3人についての虚実入り混ざった数々のエピソードについては言及しない。助さん格さん両人ともに学問好きな武士だった。

駅前通りを西に向って歩き出す。明日から「水戸黄門祭り」が始まるとあって歩道の飾り付けや交通規制の立て看板など、準備は万端のようすであった。右側坂下に大イチョウが見える。左手に
東照宮の参道入口がでてきた。参道の奥はまるで飲み屋街の空気だ。
社殿は元和7年(1621)水戸藩初代藩主徳川頼房が東照宮の様式を取り入れて創建したもの。昭和20年の空襲で焼失したが昭和37年に復元された。赤い色がめだつ。

駅前通りの北側一帯が
水戸城三之丸跡である。県庁敷地の西側に空掘りと土塁が残っている。白壁をめぐらした広い三の丸小学校の敷地を東にまわりこんだところに弘道館正門があった。まだ午前7時を過ぎたところで近所の住民がちらほら散歩するほかは、どこからか迷い込んできたような同類の観光客にふたりほど出合っただけだった。

弘道館は江戸時代も終盤の天保12年(1841)水戸9代藩主徳川斉昭が藩士子弟に文武両道の修練の場として設立したものである。儒学、医学、天文学など幅広い学問を取り入れた。斉昭の6男で第15代将軍となった徳川慶喜も5歳のときから弘道館で英才教育を受けた。第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。敷地跡は弘道館公園として、800本の梅の木が植えられている。朝日の差しこむ梅林を通って孔子廟をみる。

弘道館の前方、切り通しに架かる大手橋を渡ったところに、初代藩主徳川頼房像が
大手門跡の土塁を背にして立っていた。向かいにも水戸城跡の土塁や石碑がある。水戸城は鎌倉時代、馬場資幹が館を築いたのが始まりである。天正18年(1590)佐竹義宣が常陸太田から進出して入城した。しかし佐竹義宣は関が原の戦いで西軍に味方したため徳川家康によって出羽国秋田に転封され、慶長14年(1609)家康の11男頼房を水戸城主とした。これが徳川御三家のひとつ、水戸藩の始まりである。頼房は五重の堀をめぐらせ、西方に武家屋敷を置き、東方低湿地を埋めて大規模な町人町を築いた。西方を上市、東方の町人町を下市とよんだ。

今回の旅はその下市の中心地、本町からはじまる。本町4丁目角にある県信組下市支店の職員が開店にそなえて歩道の植え込みに水をやっていた。ここから市内をぬけて那珂川を越えるまで、街道には
多くの曲尺手が設けられた。道中、特記すべき史跡があるわけでなく、直角の曲がり角に注意しながら道順をたどることが主な仕事となった。旧道を確認するのに、道端に設置された旧町名石標がおおいに役立った。

本町通りを東に向かう。本5、6、7町目(以上、現本町4丁目)とつづき、関内米穀店の先を左に曲る折れると、水戸本町郵便局の前に
「曲尺の手町」の標識がある。

直角に曲がっている道路が曲尺の角に似ていることからカネノテ町と呼ばれた。後にカギノテと呼びならわされた

その先、国道51号を東に折れる。「8町目(現東台2丁目)」、「9町目(現東桜川)」の標識が北側歩道に立っている。次の左折地点で迷ったが、東桜川交差点を越えて、一筋目を左に入ると
「10町目」の標柱にありつけた。

藩政初期の寛永2年(1625)ころに開かれた町の一部で岩城街道の道筋にあたる。藩政時代は、七町目までの本町に対し「通り(とおり)」を付けて「通十町目」と呼ばれた。

道は桜川にぶつかり堤防沿いを右に折れて新町に出る。

橋を越えて新町6丁目まで県道253号をまっすぐ北に向う。二つめの曲尺手をまがったところに秋葉神社があって夏祭りの準備中であった。路傍に
「旧町名細谷本郷町」の石標がある。

藩政時代は細谷村に属し岩城街道筋で両側に中間足軽の長屋があったので御中間町と呼ばれた

すこし行くと最後の旧町名碑が立っていた。
旧町名細谷町
藩政時代は細谷村に属し岩城街道筋の渡船場であり細谷通り町または新舟渡と呼ばれた

すぐに那珂川に突き当たり、堤に
「新舟渡跡」の石標がある。

はじめやや上流にあった舟渡は寛永の末年下町が開発されるとこの地に移されて新舟渡と呼ばれた。陸前浜街道は細谷からこの新舟渡を経て対岸の枝川に通じたので水戸藩時代は交通運輸の要所となり この西に藩の新御蔵 南には重臣の蔵屋敷が置かれ 枝川には宿屋が並んでいた。渡船は規定によって統制されていたが大正元年寿橋ができて廃止された

堤防に立って那珂川と対岸を眺める。手前の水辺に杭の残骸が、向こう岸には草むらの中に橋脚らしいコンクリートの構築物が見えた。10年ほど前水害で流失した寿橋が架かっていた地点だろうと思われる。

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枝川宿

水戸大橋で那珂川をわたり、ひたちなか市に入る。水戸藩時代には宿屋が並んでいたというかっての枝川宿をたずねる。河川敷に車を乗り入れようとしたが堤防に管理所があって、一般車両は通行禁止のようだった。車を止め岸辺まで歩いて下りる。鳴戸川の水門から川口にかけて、数艘の川船が潜んでいた。かっては鳴戸川だけでなく、宿場周辺の水田地帯には細流が枝葉のようにめぐっていたことから、「枝川」という地名になったということである。鳴戸川が那珂川に流れ込むあたりに、
寿橋以前の渡し場があり、水戸側の新船渡りを結んでいた。

枝川宿の町並みでひときわ目立つのが、昔ながらの
「塩販売所」の看板をかかげた軍司家だった。水戸で消費する塩は那珂湊から川を上り、ここで陸揚げされたのであろう。
 
枝川宿の先で国道6号と合流した街道は現代の国道風景にすっかり染まって何の情緒も感じさせない。レストラン、ガススタンド、カーディーラーの万国旗にまじって大小の工場が現れては通り過ぎていく。

田彦二本松から、下田彦南交差点を中心にしてS字型に旧道が国道6号と交差している。「田彦」は「旅子」とも書き、男色を売った旅まわりの少年役者のこと。旧街道筋とはいえ「どうしてここで」といいたい唐突さを感じないでもない。

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沢宿  

佐和下宿の地名がでてきた。江戸時代は「沢」と書いた。 
むかし、湧水が沢になり新川を経て真崎浦に注いでいた。佐和はその沢に由来する。
佐和中宿をすぎて、佐和上宿交差点の東角に道標を兼ねた馬力神がある。

「従是東 村松道」

村松は現在の東海村南部にあたり、古代官道が通っていた古くて情緒豊かな土地柄である。これからそこへ寄り道していく予定だ。国道の反対側に立派な内山家の屋敷がありその道沿いに黒光りした「一里塚の趾」碑が建っていた。

「陸前浜街道沢(佐和)の宿」   「家屋改新築記念昭和六十年五月塚元當主熊次郎孫内山亀太郎」

一里塚の敷地の所有者となったわけだが、内山家が佐和宿の役人だったことをうかがわせるものではなかった。

国道6号となった岩城相馬街道に昔の面影はほとんど無いが、その東方、かっての海岸線に沿いには常陸の国府(石岡)に通じる古代、
中世の古道が残っている。

国道6号の駈上丁字路を東に入って村松から石神外宿まで、その古道をたずねることにした。
一直線の道路を快適にとばし、アトムワールドの200mほど手前、新川と交わる地点に東海12景「真崎浦夕照」の碑が建っている。真崎浦は東海村の東端低地にあって、農民は重なる水害に苦しんできた。幕末から大規模な干拓がおこなわれようやく昭和になって美田に生まれかわったものである。白鷺が一羽人を恐れる様子も無く悠然と水辺を闊歩していた。

国道245号にそって東側の旧道を北にたどると中世の村松駅家集落に入り、その北端に村松空虚蔵(こくうぞう)堂と大神宮が控えている。

村松虚空蔵堂は日本三虚空蔵のひとつで大同2年(807)弘法大師の創建と伝わる古刹である。本堂の裏側にまわり、岡をのぼると三重塔と奥の院の間に芭蕉句碑があった。芭蕉の句は奥の細道で、黒羽から那須、高久に出る途中、馬上で詠んだものだ。

 
埜を横に 馬引きむけよ 時鳥

さらに山道をたどると松林のなかに
「村松晴嵐の碑」が建っていた。

この東に広がる村松海岸は白砂青松の景勝地で、天保4年(1833)水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。

虚空蔵からの帰途、国道245号の西側にもう一つの美田
「細浦田圃」が広がっている。真崎ヶ浦は田圃にまじってかなりの畑地もみられたが、ここはその名の通り一面やわらかな緑に覆われた水田ばかりである。この色が黄金一色にかわる秋の田園風景もさぞかし見事であろう。数学者藤原正彦が『国家の品格』で、イギリスの田舎の美しさを讃える一方で衰退する日本の田園風景をなげいていたが、新幹線や国道を離れた古い街道筋を歩いている限り、そんな危惧は思いもつかない。ついでにいえば、日本の田舎は農耕の地であるのに対し、イギリスの田舎は農耕・羊牧に加えて貴族の別荘地でもあったことを知っておく必要がある。

街道にもどり、
阿漕ヶ浦を見ようと、阿漕ヶ浦運動公園によってみた。阿漕ヶ浦のほとりにあっても、スポーツ施設の周辺は金網と木の繁みに閉ざされていて沼の姿を垣間見ることさえ出来ない。公園入口から分かれている旧道をすこし進み、原子力研究所の駐車場脇からほとりに出ることが出来た。禁漁の伝説のせいでもなかろうが、静まり返った沼である。

白方に古代の
石橋駅家跡があると聞いて、何度もその付近を歩いてみたが碑や説明板の類は見当たらなかった。コミュニティーセンターでもらった『ぶらら東海さんぽみち』に記されている道さえみつからない。近所のおじさんがついてきてくれて一緒になってさがした結果、常磐線が分断して旧道は線路の前後で消失していることがわかった。1500年ほど前、このへんの畑のどこかに駅家があったのだろうということにした。

石神内宿の長松院の北側を下る。坂道をおりた左手の公民館のような建物から女性の若い話し声が聞こえてきた。野菜のバザールの準備をしているようであった。台地の崖下に沿って街道をたどると城壁のように整った石垣が現れた。右におれて坂道をあがり台地上の町並みに出る。坂の途中左手に武家屋敷を思わせる白壁土塀をめぐらした家が、かっての
継ぎ所だった渡辺家である。門の入口に立つ樹齢300年というモチノキが見事だ。

街道をすこしそれて
石神城跡をたずねる。江戸時代にはすでに廃城になっていた古城で、堀と土塁の跡が残っているのみである。願船寺、住吉神社をみて石神外宿の集落を通り抜け、久慈川榊橋たもとにある石神社の前で古道と国道6号が合流している。

佐和上宿からここまで、国道6号にかさなる近世の浜街道を端折ったわけで、念のため国道を駈上丁字路まで往復してみたが、その間に見過ごした情報は大してなかったようである。

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大橋宿

久慈川をわたると日立製作所の町、日立市だ。

日立南太田インターチェンジの先で国道6号から左に入り旧街道を右折する。左にも旧道は伸びているがインターチェンジで途切れていた。立派な家並みの田中内集落の中を進み国道293号を横切ったあたり、前方には阿武隈山地の南端が立ちはだかるようにせまって見える。大橋の手前に
大内家の大きな長屋門がある。門というよりは一軒の家の一部をぶちぬいて通用門を設けたといったほうがふさわしい。隣に鬱蒼とそびえる榎の大木の懐に1基の石碑が建っていた。期待をふくらませて近づいてみたが一里塚の碑ではなかったようだ。

大橋で茂宮川をわたる。曲尺手状の道を進んで大橋宿にはいっていく。日立大和田郵便局あたりから宿場の面影が色濃くなって、米屋、塩屋、笹屋などの商店や立派な長屋門を構えた床屋が集まっている。白壁でなく板壁の蔵が多い。塩屋、床屋など、塙(はなわ)姓の家が多かった。


国道6号をくぐり、二叉路を左に旧道がつづいていく。ここからが昔の岩城相馬街道最大の難所といわれた
石名坂だ。かなりな急坂を登りきると「石名坂宿」のバス停があった。大橋宿と森山宿の間の難路につくられた休憩場所、間の宿であったのだろう。丁字路信号角に昭和15年建立の西行の歌碑が建っている。

  
世の人のねざめせよとて千鳥なく 名坂のさとのちかきはまべに

すこし行った右手のバス停隣空き地に
「石名坂の榎」と名づけられた若木が大切そうに植えられている。一里塚用の榎ではなく、72年に一度という気の遠くなるような間隔を置いておこなわれる神事に供される神聖な木なのである。説明版によると最近第17回の大祭礼がおこなわれたようで、1224年の実績があることを物語っている。72年間の途中で枯れるようなことは許されない。

道はなだらかな坂となってまっすぐに続いていく。石名坂交差点で国道に合流したのちすぐに「旧研入口」信号で右の旧道に入る。

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森山

国道と旧道にはさまれた三日月状の一画に
大甕(おおみか)神社がある。なんでも、神代の時代にこの地に陣取っていた悪神、甕星香々背男(みかほしかがせお)にまつわる伝説をもつ古社である。この悪神甕星香々背男といい、これを退治したという武葉槌命(たけはづちのみこと)といい、なじみのない名前で、由緒を読んでもピンとこない。

大甕神社の先で国道6号にもどり、森山町にはいっていく。古くから岩城相馬街道の宿駅が置かれていたところだが、森山町3丁目に立派な門構えの旧家を見かけたほか国道沿いの家並みに宿場の面影はほとんどない。ただ、国道の東側にわずかに旧道が残っており、その終点である森山町2丁目交差点の東北角にちいさな塚が作られて、まだ新しい御影石の「一里塚跡」石碑を見つけた。

日輪寺によってみた。真言宗の古刹で江戸時代は隆盛を誇っていたが江戸末期、天狗党の蛮行によって一切を焼失した。現在の本堂は明治中期建築のものである。駐車場につづく境内の一画に8体の石仏像が並んでいた。十二支守本尊というものだそうだ。如来と菩薩の違いくらいをぼんやりと知っているだけで、誰がどんな姿をしているのか気にもとめなかった。村松で名だけを知った虚空蔵菩薩がここにいた。獅子や象に乗った菩薩がいる。知識と認識が直結している好例だと思う。

金畑団地入口の先で大沼川を渡る。

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大沼

国道6号を進み「自動車学校前」で降りる。この周辺が大沼宿のあった場所で、ここにも国道の東側に沿って細い旧道が残っている。辺りには小泉姓が多い。宿場の問屋だったという土地の名士である。「小泉」家の墓地に1763年という古い延命地蔵がある。

助川海防城が築かれた頃、大沼にも海を見下ろす高台に
異国船御番陣屋が建設された。大沼小学校の南東、東山という地区にあったというが、跡地に碑や立札があるわけでなく、稲荷神社付近であったということをたよりに周りをさまよった。

住宅地と空き地と畑地が混在するあたりに海を向いて陣屋が建っていた。今は海風をうけて一基の風力発電機がのどかに羽根をまわしている。海はすぐ近くで、国道245号沿いに
(一里塚ロードパーク)望洋台が設けられており、太平洋が一望出来る。先日の大型低気圧通過の余韻が残っていて波のうねりが高かった。

陣屋に詰めていた4人の役人(海防役)のうち、一人の家が残っているという。大沼川南側の東大沼町3丁目4番だが、場所はわかりにくい。何度もたずねて
横山宅にたどりつくと、幟を掲げた「ふるさと再発見」グループが見学中であった。家は新しいが住人は5代目の横山氏である。

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下孫

「金沢三差路」を右に入って旧道を通っていく。小さな橋をわたってすぐの交差点を県道61号がよこぎって、河原子(かわらご)港に通じている。桜川がそそぐ浜辺にひょっこり一人たっているのが烏帽子岩とよばれる断崖の孤児だ。その中腹に津の宮が鎮座している。見渡すと淡いベージュ色の砂浜がひろがっている。江戸時代、この神社から眺める漁船の帰港風景は「津の宮帰帆」として河原子八景の一つに選定された。港、砂浜、史跡、風光を備えた
河原子海水浴場は環境庁選定「海水浴場百選」のひとつである。江戸時代の殿様は「八景」が好きだった。環境庁は「百選」にご熱心だ。三大○○、△△八景、□□百選の写真集でも企画してみようか。

旧道の香りがかすかにただよう商店街をすすんでいくと、「よかっぺ通り」と呼ばれる広い駅前通りにでる。金融機関が集まっていて町の中心らしいが、むかし宿場だったような形跡はない。観光マップを求めて駅によってみた。常磐線の常陸多賀駅である。明治30年(1897)常磐線が開通した当時の駅名は「下孫」だったが1939年に現駅名に改称された。駅前に大きな「下孫停車場記念碑」が建っている。かってはここに西行の歌碑も建てられていたが、最近多賀市民プラザに移された。

旧道にもどり、多賀郵便局横の共同墓地を通り過ぎる。ゆるやかな下り坂の向こうに道幅いっぱいに木陰を落とした大きな木がみえてきた。いかにも一里塚の榎風だ。左手には大谷石塀、右手には黒塀をめぐらせた立派な家がならんでいる。「宿場」の文字こそみあたらないが、バス停の名前が
「旧道下孫」で、周囲の雰囲気からおそらくこのあたりが下孫宿の中心であろうと思われた。

「桜川町3丁目東」交差点で国道6号をわたってまっすぐ進み、鮎川町6丁目で県道37号(梅林通り)と交差する。しばらく街道をそれて左に折れ、およそ1km行った諏訪町2丁目に村社諏訪神社と、その先右手に茅葺の
小野家住宅がある。道ばたに「骨董品売買」の看板をだしている。庭で洗濯物を乾している若奥さんの了解を得て、内へいれてもらった。どっしりとした曲り屋である。カメラを構えている間に縁側に残っていた洗濯物がかたづけられていた。

旧道までもどり左折して「鮎川三叉路」で6号と合流する。鮎川橋をわたれば成沢町だ。

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助川(日立)

助川は日立企業城下町の中心地である。1905年、山口県萩市出身の実業家、久原(くはら)房之助が赤沢銅山を買い取り日立鉱山を創業した。翌年日立鉱山の工作課長として入社した
小平浪平(おだいら なみへい)が国産初の5馬力モーターを完成させ、日立製作所を創業した。神峰公園に二人の顕彰碑がある。日立製作所は軍需品を生産していたこともあり、第二次大戦で町は壊滅的に破壊された。そのために市内には旧家、町屋など、宿場の面影は一切ない。

ところで、企業名
「日立」は国名「常陸」からとったもので、それを市名にしたと思っていた。とんでもないあやまりで、久原が来る前からすでに「日立」の町は存在していたのだ。なんでも「日立」は、水戸黄門徳川光圀がこの地方をおとずれ「日の立ち昇るところ領内一」といったという故事に由来するといわれている。一方、常陸風土記によれば、「常陸」の名の由来は、この国の道が沼や海を渡ることなく、陸続きに手軽に往来する事ができたので、「陸続きの道」という意味の直道(ひたみち)から「ひたち」という名称にされたということらしい。「陸続きの道」を直接「常陸」とよんでよさそうにも思える。

企業名と市名が同じであるために、「日立病院」「日立体育館」などという場合、その施設が企業立なのか、市立なのか区別がつかない不便がでてくる。そのため、この地方では「日立製作所」の略称を「日立」でなく、
「日製(にっせい)」と呼ぶそうだ。地図をながめてみるとその現象が読み取れる。

この町で唯一の史跡といえるものは国道沿い助川小学校の裏手にある
助川海防城跡である。学校正門に大手門跡碑がある。第九代藩主徳川斉昭は、天保7年(1836)、家老山野辺義親を海防総司という新設の重職に任じ、この地に城郭を築かせて異国船の無断侵入に備えた。大名の居住する城を築くわけにはいかず、海防城という新しい種類の城を考案した。

向いにある日立二高の裏門脇に
助川一里塚があった。正門をはいったところの案内板に同校歴史部による詳しい説明があった。

神峯(かみね)神社による。隣接する遊園地で昼食をとった。回転ブランコに一人、4歳位の男の子が神妙な顔をして乗っていた。楽しくないのかな。一人ではれがましくて恥ずかしいのかな。なんとなく物足りない宿場町だった。

10月8日二度目の訪問で、駅前のホテルに泊まったのだが、隣のシビックセンターで秋祭り「郷土芸能大祭」が開かれていた。雲ひとつない夜空に満月が浮かぶさわやかな夜だった。土臭い石見神楽。西馬音内盆踊りを踊る少女の指のしなやかさ。腹から搾り出すバチホリックのボーカル。いづれも秀逸であった。

(2006年8月)

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