勿来関

平潟洞門跡の切通しをすぎて坂を下ると、トンネルをくぐり抜けたばかりの国道6号に合流する。郵便局向かいの渡辺家はおそらく局長を勤める旧家であろう。薬医門に板塀、建て格子の重厚な二階建て住宅である。切通しの国道を進勿来港が見えてきた。小さな漁港である。地名は九面九浦町(ここづらくうらまち)という。五浦(いづら)の例からして九浦は「ここづら」と読むのではないかと思ったが、九面も「ここづら」ではややこしくなるので、九浦が犠牲になったのではないかと想像する。もともと九面は九浦の当て字だったのではないか。そんなことを考えているうちに、右に勿来海水浴場がでてきた。夏休みとあって家族づれで賑わっている。沿道は個人の敷地を臨時駐車場にした呼び込みが盛んだった。

関入口手前の駐車場脇に細い道が出ている。民宿やまへいの前を通って、「勿来切り通し」に通じる古道である。江戸時代、神岡宿と関田宿を最短距離に繋ぐ道として、標高50mの山頂付近の洞門を貫通させたが、刀、槍がつかえるほど狭く、承応元年(1653)庄屋酒井平左衛門が洞門を切り通しとしたものである。明治30年の常磐線開通と共に南側が通行不能になり、夏草の生い茂る古道跡として生き長らえることになった。

 
背丈ほどもある草は踏み倒された形跡もなく、蜘蛛の巣が不意に襲ってくる。マムシはいないだろうか。旅には長靴を用意しておくべきだな。そんなことを考えながら急な坂を昇っていくと足元がやや道らしくなって、前方に開口部が現れた。たしかに洞穴の上部が崩れ落ちたような切通しである。ここが昔の国境、現在の県境をなしている。峠の向こうは広くひらけて、道は人里に続いていた。右手は深い谷がきざまれていて、常磐線のトンネルが隠れている。古道はかって八坂神社のよこに出て、神岡宿につづいていた。消失した道を訪ねるのは街道歩きの醍醐味である。

国道に戻り関入口から勿来関跡を訪ねる。入口に石碑が4基。整備されたドライブウェイを昇っていくとやがて大きな駐車場にきて、その向こうに寝殿造りかと見間違うほどに立派な建物が完成間近な姿で控えていた。工事中の前庭は浄土庭園風である。遠くから見たときは関所か番所の復元かと思ったが、とんでもない場違いな公共施設を建てたものだ。なにを体験しようというのか、施設の公式名称は
「体験学習館」だという。白河の関よりもうらびれて古びた史跡をおとずれようとした素朴な旅情はこの晴れやかな建造物でかき消されてしまった。

すぐ先に、近代的な「勿来の関 文学歴史館」があり、その後に歌碑がずらりと並ぶ詩歌の道が続いている。遊歩道のおわり近くに
「勿来関址」碑と源義家像がある。付近には義家にちなんだ弓掛けの松や弓弭(ゆはず)の清水があった。勿来の関は5世紀の初めごろ、白河の関、鼠ヶ関とならんで奥州三関の一つとして、蝦夷の南下を防ぐ目的で作られ、菊多関と呼ばれていた。朝廷の勢力が北上するとともに関の必要性がうすれて平安時代には廃止された。同時に和歌の隆盛時代にあって、歌に「(蝦夷よ)来ないで」の意味で「勿来」と使われ、歌枕として有名になった。

なお、白河関でも古関の所在地について熱い論争があったように、古代の菊多関址についてもこの場所ではないという説がある。勿来関址から北西に4kmほどの距離にある勿来第一小学校の東、国魂神社付近が菊多郡衙跡と比定されており、菊多関もその辺りにあったのだろうと考えられている。
街道を離れて窪田馬場までより道をした。国魂神社の社務所からでてこられた男性に聞いてみた。
「『郡衙跡』とか『旧菊多関址』とかの碑など、残っていませんか?」 
私としてはなにか証拠写真が撮れればよいのだ。
「裏参道にも土塁跡がのこっていてこのあたりに郡衙や関所があったといわれています。標識でも立てようかという話はあったのですが、東に既に立派な勿来関址がありますからね」
宮司らしき男性は遠慮深い口調で苦笑いをみせた。せっかくこられたので、と社務所に引き返して神社のパンフレットをくれた。10月10日はどぶろく祭りとある。パンフレットには郡衙や旧関所のことは一言も触れていなかった。

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関田

国道6号の関田南二股路で旧道は右にそれる。地図でみるかぎり、この地点から常磐線西側の関田御城前を通り国民宿舎勿来の関荘に至る線はかって道がつながっていたような印象をうける。関山から低地に降りてきた街道のどこに関田の宿場が設けられていたのかはっきりしない。駅から東にはなれて北上する旧道をたどると、関田南町、関田北町、須賀の集落を経て水鳥の浮かぶ蛭田(びんだ)川をわたる。南町と北町の間あたりが宿場だったのであろう。

その先を右折して安良(あら)町に入ると、落ちついた家並みをみせこちらのほうが宿場町にふさわしい雰囲気がある。集落の入口に
中田八坂神社があって境内に「江戸期中田村絵図」が掲示されていた。町の南北を水路にはさまれており、南には番人所橋、北側は北宿橋が架かっているのも宿場をおもわせる絵図である。石仏群を右手にみて、左にまがり用水路にかかる北宿橋をわたってみちなりに国道6号をよこぎり、県道56号錦町で現代の陸前浜街道に出る。

鮫川の手前の細道を左に入り狭い常磐線踏切をこえて進むと幼稚園のとなりに旧菊多郡73ヶ村の総鎮守、
御宝殿熊野神社が鎮座している。静かで古めかしい社だ。7月31日、8月1日の祭礼時に行われる稚児田楽・風流は稲米儀礼の古舞で、国重要無形文化財に指定されている。
鮫川橋の南西袂に「鮫川晩照」の大きな石碑が立っている。さては「勿来八景」かと漢詩の下の説明文を読むと、鮫川橋架設に関わった政治家3名の顕彰碑であった。途端に興が醒めた。

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植田

橋をわたり植田町本町(うえだまちほんちょう)にはいる。旧道は右にそれて県道20号に出る。番所下バス停近くの三浦生花店の軒先に慶応2年(1866)の古い小さな道標があって、「右すか(須賀)川松川 左江戸水戸道」とある。元は奥州街道と浜街道を結ぶ道の追分に建っていたものであろう。県道20号を西にとると仁井田、山田を経て根岸で御斎所街道に合流する。
さて植田宿の浜街道は広い通りを右折して、伊勢屋商店、東邦銀行のある交差点にくる。東邦銀行は旧
中根本陣跡地で、植田宿場の中心地である。鷲酒造の清楚な白木板塀の前をとおり植田町交差点で左折して駅前に向う。

ここで街道から左にそれ常磐線のガードをくぐって
植田八幡神社によった。康平5年(1062)前九年の役で安倍氏を討伐した源頼義は勅命を奉じて鎌倉の鶴岡を始めとして街道5里ごとに神社を建立、石清水八幡の分霊を勧請して浜街道の鎮護を祈念した。いわゆる「五里八幡」の一つである。ひっそりとした境内におばあさんと散歩に来ていた幼い女の子が左手の親指を吸いながら微動だにせずに一方向を見つめていた。彼女がようやく位置を変えたのは、誰もいないと思っていた小さな社殿の中に人影が動いて、中から嬰児を抱いた若夫婦と、兄になったばかりの活発な男の子が出てきたときだった。

街道は線路の西側に出て、渋川に沿った旧道を北上する。塙橋で
江畑川をわたり、刈り取りを待つ黄金色の稲穂が広々と展開する。東に県道56号、西には緑をたたえた低い丘陵がのびている。添野町清水の里山だ。車を降りて輝くような稲穂に向けてカメラを構えているとき、通り合わせたトラクターのおじさんがしきりに「鶴亀?;写真x△」と、手を山際の一軒家に向けて振った。なまりがきつくてよく聞き取れなかったが、ようやく前庭の手入れされた二本のツゲの木に案内されて合点した。ここまでつくりあげるのに18年もかかったのだという。写真を撮るならここをみのがすべきでないという趣旨だった。

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新田

一台のトラクターと出合っただけの鄙びた旧道はまもなく県道56号にもどり、いわきグリーンヒルズCCの裾を常磐線にそってすすんでいくと、カントリークラブの入口付近に頭巾平踏切が現れた。踏み切りの向こうには細い道がつづいて山あいに消えている。車幅一杯の微妙な幅だったが車両通行禁止の標識で旧道を行く望みは断たれた。未練がましく踏み切りの写真を撮っていると遠くに電車の音が聞こえてきた。線路と道路と柿の実とススキをとりこんだ盛りだくさんの背景を準備して構えたファインダーに姿のよい特急が飛び込んできた。

常磐線大平山トンネルの入口あたりで先の踏切から出た旧道が県道に合流している。トンネルの上から南を振り返ると三つの筋がよくみえる。ふと林の窪みに目をむけると更に古い道(古道と呼ぼう)への入口が残っていた。「これより浜街道新田坂」と書かれた標識が立っている。トンネルの上をいく山道は当時険しい難所であった。

新田坂を下ったところで県道から右にそれて旧街道は新田宿に入っていく。途中左手に
八幡神社がある。釜戸川に架かる高橋を渡ると渡辺宿の家並みがはじまる。ブロック塀の家が並んでいる。すぐ先の鉤の手左角に道路元標が、右折後左折したところに渡辺郵便局がある。他宿の例にもれず、郵便局の辺りが宿場の中心だったようだ。ここまでが渡辺宿でこれからの初田宿とあわせて新田宿とよんだ。渡部村と初田村の境に宿場がつくられたため、渡部村と初田村が半月交代で人馬役を担当した。

初田宿の北口で県道の240号(釜戸小名浜線)と56号(陸前浜街道)が交差している。56号をすこし行った左手の民家の前に
追分道標があるが、もとはこの辻にあった。「馬頭観世音 右いつミをな 左ゆもとたいら」とあるように、240号を東にすすむと泉町に至り、そこから県道15号(小名浜四倉線)にのり継いで小名浜の湊に通じている。さらに小名浜から15号を北にとると車で15分ほどで塩屋埼に行けるという。その順に寄り道をすることにした。

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寄り道



初田から2kmほどで泉の町に着く。広い駅前通りを南にくだると右手の市役所泉出張所横の広場に
泉城跡の碑が建っている。寛永11年(1634)、磐城領主内藤政長の次男政晴が平藩から分家独立して初代泉藩主となった。落ちついた雰囲気の小さな城下町である。藩主はその後板倉、本多と代わり幕末まで続いた。特に本多家二代目忠籌(ただかず)は藩政改革で実績をあげ寛政2年(1790)には老中に就任して寛政の改革の推進役となった。碑の上部に乗っている赤い御影石の玉は
「赤玉本多」とよばれ、忠籌が登城の際に行列の先頭に素槍の先につけさせた「朱天目」をあらわしたものである。

小名浜

泉から約7kmほどで太平洋岸の
小名浜港に到着する。
ありふれた漁村だったが寛文10年(1670)河村瑞賢による東回り廻船の寄港地として整備され、延享4年(1747年)には幕府の代官所が置かれ、磐城各藩の納付米積み出し港に定められて港の基礎が築かれた。明治以降は、常磐炭鉱から産出する石炭輸送基地として発展した。現在は7つの埠頭をもつ国際貿易港である。三崎公園のいわきマリーンタワーに上ってみるのが目的であった。360度の展望がすばらしく、小名浜港の規模の大きさがよくわかる。公園内にはなぜかメキシカンのレストランしかないというので漁港まで降りて、魚屋兼食堂の店で昼食をとった。日替わりランチ定食に「
目光(めひかり)のフライ」が出てきた。聞いたこともない魚だが、「いわきの魚」だという。淡白な味の白身魚で、頭から骨ごと全部食える。昔は肥料にしていた魚だそうだ。

塩屋埼

小名浜から海岸沿いに県道15号を北上すると10分ほどで観光名所の塩屋埼灯台に着く。大型観光バスが出入りするのを見るのは五浦海岸以来のことだ。凛として建つ美しい灯台の下に二つの記念碑がある。ひとつは海と灯台を背にした一等地を占める美空ひばり記念碑で、他の一つは灯台への上り口にある木下恵介監督映画「喜びも悲しみも幾歳月」の記念碑だ。この燈台守の妻の手記が映画となった高峰秀子主演文部省特選映画である。観光客の記念写真は圧倒的にひばり記念碑の前だった。

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湯本

初田宿から県道56号の現浜街道を北に進む。途中左手の歩道奥に立派な「陸奥国菊多郡泉田郷 岡部城之碑」が建っている。表題と説明文をわけて二基の石碑にしつらえた懲りようだ。岡部氏一族の歴史が延々と述べられたあとに「常陸岡部氏発祥の地にこの碑を建つ」と結んでいる。撰文と書丹を茨城大学教授に頼んで、岡部氏一族末裔の衆議院議員が建立者として最後に名を連ねていた。鮫川のほとりで見た政治家自己碑の類だ。

矢板坂を下り御斎所街道(県道14号)バイパスを横切って、湯本の市街地に入っていく。常磐下湯長谷町の磐崎郵便局の前に磐崎中学校入口の標識がある。鉤の手状の細い坂道をあがっていくと白壁に板塀の家が続く、武家屋敷町のような品のある一角を通っていく。小学校の前でもう一度ジグザクにまがって道なりに坂をのぼると台地の頂上に磐崎中学があって、そのグラウンドに湯長谷藩館址の石碑が建っている。ここに湯長谷藩主内藤氏が館を構えていた。

上船尾宿

街道にもどって志座バス停をすぎたあたり、左右に長いブロック塀をめぐらせた立派な家がつづく。「薄羽」という姓が多い。そのうちの一軒はブロック塀に家紋のパネルをはめ込めていた。ここから関船町あたりまでが旧上船尾宿で、温泉街の湯本宿と人馬役を半月交代で勤めていた。志座から関船の金毘羅神社まで、県道の西側に裏街道がついており、そちらが旧道かと両方を歩いてみたが裏道の両側は新しい住宅地で、どうやら深読みだったようだ。

湯本駅前をとおりすぎて温泉神社前の三叉路に至る。浜街道はここを右折して温泉通りを北に抜けていく。他方、そのまま道なりに西にむかうのが
御斎所街道で、峻険な御斎所峠を越えて石川を経て、芭蕉が奥州街道から回り道をしておとずれた乙字の滝を通る街道である(石川ー須賀川間を石川街道ともいう)。角のホテル旅館古滝屋脇に「御斎所街道 至白河・須賀川宿 15里」の道標と、「奥州岩城湯本温泉 旧湧出地跡」の碑が、また神社参道入口には「湯本町道路元標」があって、この三叉路交差点が湯本町の中心であることをうかがわせる。

温泉神社
は天武天皇2年(674)の創建で延喜式内社という古社である。入口の石碑には絶え間なく湯が流れおちてムッとする硫黄の臭いが立ち込めている。湯本は道後、有馬と並ぶ日本三古泉のひとつで、開湯は千年以上も前にさかのぼる。「三箱の湯」として知られていた。境内に草野心平の筆による「拾遺集」の歌碑があった。
 
  
さはこのみゆ よみ人しらず
   あかすしてわかれしひとのすむさとは さはこのみゆるやまのあなたの


御斎所街道をしばらく西進し市立病院歩道橋で左に折れ長谷寺に立ち寄る。参道入口の石柱に刻されているように「大同二年(807)徳一大師開山」の古刹である。おそらく四国における空海のように、東北において徳一の名はあまねく知られていたことだろう。徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子という血筋に加えて興福寺の秀才であった。時代は奈良仏教が衰え、最澄と空海がもたらした密教が花開こうとしていたときである。徳一は最澄との5年間に亘る理論闘争で勝利した。東北が坂上田村麻呂によって統一されて間もない頃、20歳半ばの新進気鋭の青年僧は都を去りフロンティアの東北に移住した。常陸国の筑波山に中禅寺を開き、また陸奥国の会津に恵日(えにち)寺を、石城に長谷寺を開いて最澄、空海の進出を阻んだのであった。

温泉神社の前の温泉通り浜街道にもどり昔の湯本宿を歩いていく。左手に立派な門塀に見越しの松を配した
松柏館が品格のある佇まいを見せている。湯本宿の本陣を勤めていた由緒ある老舗旅館に素泊まりもできる。温泉街の朝はどこも気が抜けたように空疎なものだが、ここは街道筋だけあって、集配のトラックや通勤の車で忙しい通りであった。

湯本の町は常磐炭鉱で栄えた町でもある。近くに「石炭化石館」や「スパリゾートハワイアン」などの観光施設も有るが、旧街道の旅からははずすことにした。街道は常磐線の踏切を越えて、勿来でわかれた国道6号に再会する。

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平(いわき)


国道6号「内郷七反田」交差点を左折して2kmほど西にある国宝白水(しらみず)阿弥陀堂による。正式には願成寺阿弥陀堂といい、永暦元年(1160)、奥州藤原清衡の娘であった岩城の国守岩城太夫則道公夫人徳姫(夫の死後徳尼御前と呼ばれた)が、夫の死後平泉の中尊寺金色堂をまねて阿弥陀堂を建立し仏像を安置した。両側には広大な浄土庭園が造営された。白水という地名は徳尼御前が故郷平泉の泉という字を上下に二分して名付けた。徳姫の懐郷の念は強烈であった。もとは極彩色の堂であったというが、いまの清楚な白木調のほうが優雅なこというまでもない。

国道6号にもどり平町内に向う。もとは平市だったが勿来から久ノ浜までをとりこんだ広域市となり、面積では(最近の再編成以前までは)日本最大の市であった。その際、名をいわき市と変えたもので、平はいわき市の中心部である。労災病院交差点で
「東京より200km」地点にであった。奥州街道の200km地点は矢吹であった。矢吹の緯度を浜街道にもってくると広野の手前あたりになる。水戸街道での100km地点の差異をそのまま引き継いでいる形だ。

平市街地の長橋町交差点を左折して旧道に入る。紺屋町ワシントンホテル角の鉤の手を通り、市内繁華街を東に直進する。3丁目交差点で磐城街道(国道399号)と交差する。この磐城街道を北にたどると高麗橋の左右の台地上に飯野八幡宮と平城跡がある。飯野八幡宮は既にみてきた五里八幡の一つであるが、岩城4郡の総社として格は数段上にみえる。朱の大鳥居をくぐり石造りの円月橋をわたると、楼門・唐門・神楽殿・本殿と、すべてが国指定重要文化財という充実振りである。彩色をおさえた木造建築コンプレックスが本殿等のこけら葺きの屋根とあいまって質実な雰囲気を醸している。   

平の町は平安末期好嶋(よしま)荘を開発した土豪岩城一族によって開かれた。岩城、佐竹両家が関が原の戦いで西軍についたため秋田に転封になってから徳川家譜代の鳥居忠政が入封し、現在の地に
平城を築いた。磐城平城は鳥居氏の後、内藤−井上−安藤と続き幕末に至る。城跡公園と城跡自体は別物で、城跡と思われる場所は個人の敷地になっており入ることができなかった。石碑がたっており、鉄筋をいれたコンクリートの礎台と土塁が残っている。復元工事途中で止めたものか、中途半端な景色だ。

宿場は紺屋町から1−6丁目を経て鎌田町あたりまで。火災、空襲に遭って古い町並みは焼失し、今は駅に近い銀座通り商店街に生まれかわっている。街道は宿場東口の鎌田町で鉤の手状に南方に移り、歩行者専用の鎌田橋で夏井川をわたる。橋の袂に首切り地蔵の小祠がある。元文3年(1738)、藩主内藤政樹の永年に亘る悪政に対し磐城4郡181ヶ村の百姓2万人が総決起した。一揆の代表者は後日捕らえられ鎌田河原で斬首された。内藤政樹もその責任を問われ日向国延岡に移封になった。格子扉の隙間から覗いて見ると本当に首のない地蔵だった。

四ツ倉に向わずにまた寄り道をする。岩城の国の故郷のような場所を訪ねる。

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寄り道  

陸奥の国に編入されるまで、ここは石城の国であった。「岩城」、「磐城」、「石城」と気まぐれに使い分けているようだがこのなかでは「石城」が一番古い。養老2年(718)、菊多(常陸国)と石城・標葉(しねは)・行方(なめかた)・宇太・亘理郡をあわせて一国とした。陸奥国に編入された後は石城郡となる。その中心部が夏井川下流地方にある。奈良飛鳥のようなところである。

鎌田の枡形の最後の角をそのまま真っ直ぐに、国道6号五色町交差点を横切って南に進むと県道229号に出る。この道、甲塚古墳線を東にたどってゆく。

専称寺

専称寺は応永2年(1395)の開創で、浄土宗名越派奥州総本山である。1490年後土御門天皇の勅願所の一つとされた。梅福山の中腹に江戸初期の簡素な造りの本堂と茅葺の庫裏が残っている。崖淵に建つ腰袴付の鐘楼も昭和の復元ながら清楚で優美な姿をみせている。境域内には600本の白梅が植えられていて、「根が傷むから立ち入るな」との立て札が多かった。古代の里の名刹は人気の少ない山里の奥座敷のような環境にあって、深閑とした趣に囲まれてあった。


甲塚古墳と大国魂神社

専称寺から1kmあまり行ったところの石城夏井局の先を右にはいっていくと左手田圃の真ん中に円錐形の小塚が見えてくる。石城国造建許呂(たけころ)命を葬ったと伝えられる。後ろに国道6号バイパスが見える。あぜ道を歩いて塚の後ろにまわると、国道近くの田圃で、二人の女性が手作業で稲を刈っていた。

反対の方向をながめると鬱蒼とした丘陵が見える。その端に延喜式内大国魂神社が鎮座している。古代の石城国造や岩城郡郡司、中世にあっては国魂村の地頭などが奉斎した神社である。本殿だけでなく、白木に銅板葺きの鳥居が古色を強めている。昭和8年に神木の大杉に落雷のあったことが記されていた。


夏井廃寺塔跡(根岸遺跡)

甲塚古墳から県道299号にもどり国道6号バイパスをくぐると県道15号の小名浜四ツ倉線に合流する。夏井小学校をすぎてまもなく、右手にでてくる舗装された農道を入って田園の中を進んでいくと、突き当たりの田圃の中に白い案内板が立っていた。土盛りされた草むらに一個の礎石が置いてある。背後の低い丘陵に石城国衙、磐城郡衙があったと考えられている。

なお、ここから1kmほど東に美しい白砂青松100選の新舞子浜が南北に続いている。
県道15号を一路北上し、国道6号を横断して常磐線草野駅近くの旧街道に入る。

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四倉

四倉の町中にはいると左手に薬医門に墨書の看板を打ち付けた趣きある屋敷が現れる。年季を経た看板文字はかなり薄れてきているが
「渡金醸造」と読み取れた。雨水を受けている大きな五右衛門風呂釜が愛嬌だ。

愛宕地蔵をすぎ駅前通りをこえたところに三本のクロマツが街道の面影を伝えている。元は数十本あった松並木のうち三本だけが生き残った。間隔をあけず互いに寄り添うようにたっているのは苗木の時に植えられたままの状態で300年以上の年輪を重ねた結果である。
三本松の後ろに構える家がまた立派で、塀越しに覗き込むと二階建ての蔵や畑や植え込みのある、あたかも本陣をおもわせる屋敷つくりであった。

町は街道をはさんで東西1丁目から4丁目まで続く。3丁目あたりが中心らしく木造の古い家にまじって大正時代風のハイカラな石造りの店も見かけられる。北の端で大通り(県道41号)にでて、鉤状にすぐ北に折れて5丁目にはいると、左手に如来寺がある。店先一杯に獲りたての肌色をした魚を
天日干しする魚屋の前を通る。勿来いらい内陸を通ってきたが四倉からは再び浜沿いの道をゆく。

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久ノ浜

四倉宿から久之浜宿にかけての道筋は、「四倉切通し」といわれる難所であった。浜沿いをはしる国道6号に対し、旧道は山中の道を北に進む。横内で右におれていわき三薬師の一つ、波立寺(はりゅうじ)薬師堂によっていく。徳一大師の開基といわれる波立(はったち)薬師は、岩城氏や代々の岩城平藩主の祈願所で、一般の人々の信仰も厚かった。朱色の柱に「浜街道十二薬師霊場第7番」の札が掛けられている。

国道を歩道橋で渡ると眼前に岩礁弁天島がある。橋でつながるほどの近さだが先日の悪天候で、海岸の一部が崩れて通行止めになっていた。日の出の名所だそうで、朝日の逆光を受けた奇岩のシルエットが絵になるのであろう。歩道橋から眺める
波立海岸も美しい。来た道を横内までもどり北にしばらくすすむと国道に合流し、浜辺に細長い西行法師の歌碑が立っている。



この辺は古好美(こぬみ)が浜といわれ、街道が松並木の海辺を通り風光明媚なところとして知られていた。

  
陸奥の古奴美の浜に一夜寝て明日や拝まむ波立の寺


街道は中浜付近で国道から右にそれて久之浜宿場町へ入る。久之浜は古くから漁業の町として栄えた宿場である。自宅横の空き地で魚を干す風景がよく似あう。南町、中町、北町、東町と合理的な町割になっている。中町の高木旅館あたりが宿場の中心であったのだろう。どこからでも右手にでてくる路地を入るとすぐに防潮堤にでることができる。街道に潮の香りと魚の臭いが漂う宿場町であった。

町の北口に小久川と大久川が流れる。大久川の
代ノ下橋は華麗な木橋で、もちろん車は通れない。橋の下流では自転車でやってきた地元の釣り人がそれぞれのスタイルでのんびりと時間を過ごしている。旧街道の保存手段として粋なアイデアではないかと思った。足元をたしかめつつ橋を往復したのち、国道6号を北田で左にでて、常磐線を跨いで右手の旧道に入っていく。

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久ノ浜−広野道順 

久ノ浜から広野まで(それ以降も)は旧街道と常磐線と国道6号が三つ巴で、くぐったり跨いだり、あるいはトンネルで近道したり峠をこしたりと、複雑な関係をつづけていく。しばらく道順を追って行こう。

県道246号をすぐ右に降りて、北田の集落の中を大きく右にまがり、左側を走っている国道6号バイパスに沿ってしばらく進む。やがて右に曲がってトンネルで国道6号をくぐり、線路に接近した後
金ケ沢鹿野の集落を通り過ぎる。金ケ沢第一トンネルの手前で国道6号を横切り、左から右に大きく旋回するかたちで静かな山道をぬっていく。ところどころに小規模な棚田も見え隠れして気持ちよい旧街道である。

塩民集落をすぎて国道6号と常磐線のガードをあいついでくぐって、末続(すえつぎ)の集落にはいる。駅は無人で、隠れ里のように静まり返った山里だ。家並みがとぎれたところで二股を右にとって進むと
「末続陸前浜街道踏切」に出る。

右手にトンネルが二つ見えた。左が常磐線で、右のほうは車が通っているようだ。古道かとも思ったが地図でみるとトンネルの向こう側も線路と同じ場所で出ており、旧道の道筋よりもはるかに海に近い所を走っている。その先は地方道と交差した後山中に消失していた。

踏み切りをわたってまもなく道が二股にわかれて、右の道は下長沢隧道を経て衛生センターに至り、浜街道は左の
末續隧道をくぐって行く。

途中の枝分かれを無視して北の方角をめざしてすすむといわき市から双葉郡広野町に入り、国道6号のガードをくぐったところで右手のそば屋「鈴芳」を介して国道と結ばれている。トラックや自家用車のドライバーで繁盛している店で昼食をとった。

国道6号はそば屋のすぐ先で長さ100mほどの短い
夕筋トンネルをくぐっていく。旧街道もすこし進んで同じ山をトンネルでぬけていく。その先で一瞬国道と接触して左にはなれた後結局国道6号のガードをくぐる。間もなく今度は常磐線に急接近して夕筋踏み切りをかすめる。夕筋踏切は閉鎖されていたが、海岸に降りる細道がついており草むら越しに断崖下の海が見えた。

そこから国道と常磐線にはさまれた格好で北上すると十字路に出る。左手の国道6号から降りてくる道が古道で、十字路を右にまっすぐ下っていって常磐線「折木浜こ道橋」をくぐる。地図にもない古い道筋であるはずだが、実際は広くてガードレール付のきれいな道路である。最近整備されたのだろう。

折木川を高萩橋で渡る。秋の田の美しさに惹かれて橋の袂に車をとめた。田圃の果てにはうっすらと青い海がのぞいてみえる。

高萩集落の手前で県道391号に突き当たる。まちがって左折し、常磐線「東禅寺踏切」の前に来た。右手にレンガ造りの短いトンネルが見える。車が通れる幅だが、つかわれていそうにない。実はこれが旧常磐線トンネルで、唱歌「汽車」のモデルになった由緒あるものだった。

  
今は山中、今は濱、今は鐵橋渡るぞと、思ふも無く、トンネルの闇を通つて廣野原

濱とは久ノ浜で、このトンネルの向こうはこれから行こうとしている広野である。Uターンして県道391号を道なりに高萩集落のなかを通って峠を越えていく。

坂を下ると視野が開け、浅見川にかかる坊田橋をわたると広野の町だ。

雑感

水戸を出て以来感じていたことだが、今までの他の街道とちがって、岩城相馬街道は宿場で過ごす時間よりも、宿場間の道のりのほうにはるかに多くの時間を割いているように思えてならない。時間だけでなく情報量(=写真数)にしてもそうだ。宿場町の密度が濃い東海道と好対照をなしている。このような街道は、現代の幹線道路をとばして宿場だけを見て歩く旅では意味をなさない。ますます、「道」(正確には旧道)自体を旅の目的としなければならない。そんな思いを強くしている。

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広野

浅見川の河口に「安寿と厨子王」伝説にまつわる
日の出松があるというので農道をたどって行ってみた。広野は乳母竹の生地である。海に面した向こう岸に貧素な松が数本潮風にあえいでいる。かっては優美な曲松として日本三名松の一つに数えられていたという名所であった。今は釣りの名所のようで多くの人が川に入っていた。「何が釣れるのですか」「イワナ」。会話が続かない。海水が混ざるところにもイワナがいるのか。彼はだまって証拠を見せてくれた。

広野の町は線路の西側、国道6号の両側に開けていて旧街道の通る東側は昔に取り残されたかのような鄙びた田園地帯である。その中心ともいうべき本町は落ち着いた佇まいの家並みをみせている。中でも笹を結わいだ塀の長いアプローチの奥に長屋門がひっそりとのぞく
鈴木家は由緒ありそうな家であった。広野宿場の本陣かとも思ったが、宿場はずっと北の、線路を渡った国道近くにある。

右側が東町、左側が西町となっていて、「大和屋」をはじめ大屋根の切妻、入母屋造りの立派な家並みがつづく。

広野宿の北口、下北迫(しもきたば)の変則十字路角に、遠くからでも目立つ赤い頭巾をまいた石地蔵がある。
下北迫地蔵尊で、台座に「天明」の文字が読める。天明大飢饉の餓死者を供養するために建てられた。地蔵の脇にならぶ石碑の中に「島田帯刀(しまだたてわき)尊公碑」がある。陸奥代官であった島田帯刀は天保の大飢饉(1833〜36)に際し、独断で年貢米を救助米にあてた。このほかにも島田代官の善政を感謝する碑は浜街道筋に多く残っている。

街道は国道6号に戻り、広洋台の新興住宅地をすぎたあたりの左手に
楢葉八幡神社がある。源頼義・義家が勧請した五里八幡の一つで、植田八幡神社飯野八幡宮に次いで五里を隔てたこの広野に建立された。社殿の裏に廻るともうひとつの小社が屋根付囲いの中に保護されている。本殿の瓦葺きにたいしこちらはこけら葺きであった。

楢葉八幡神社の国道を隔てて向かい側が
二つ沼公園になっている。ミニチュアゴルフコースを備えた人工の公園で、本来の沼は八幡宮の近くにあって沼のほとりに万葉歌碑があるということだが、みつけられなかった。

  
沼二つ 通は鳥が巣あが心 二行くなもと なよ思はりそね 

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木戸(楢葉)

国道6号で楢葉町にはいってまもなく二股を右に分かれ、沼の東側を通って県道162号に合流する。すぐに左に入って駅方向にすすむと、木戸宿上町にはいる。左右の家は品格のある整った佇まいである。常磐線踏切をこえ木戸郵便局の前で県道244号に移ると木戸宿下町で、右手に徳林寺、民家(下小塙字町117)の軒先に楢葉町の道路元標、その先にJAがあるなど、宿場の中心部である雰囲気が強い。

地図に
「歴史国道浜街道木戸宿」と表示されている。建設省が、歴史上重要な幹線道路として利用され、特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路を24箇所選定したものである。幸か不幸か、ここが私にとって初めての歴史国道である。それにしては宿場での滞在時間が短すぎた。歴史的・文化的価値を有する建物がないことによるものだ。戊辰戦争のせいである

宿場の北口付近の左手に廃屋ながら赤レンガ塀を囲った趣ある民家をみて、
木戸川を渡る。



札幌本道「赤松街道」 北海道函館市、七飯町 若狭街道(鯖街道)「熊川宿」 福井県上中町
奥州街道(七戸)松並木 青森県七戸町、天間林村 竹内街道「竹内宿」 大阪府太子町、奈良県当麻町
羽州街道「楢下宿」 山形県上山市 熊野古道(なかへちみち) 和歌山県中辺路町
浜街道「木戸宿」 福島県楢葉町 出雲街道「新庄宿」 岡山県新庄村
三国街道「須川宿」 群馬県新治村 石見銀山街道「上下宿」 広島県上下町
中山道「追分宿」 長野県軽井沢町 岩見銀山街道「天領石見銀山」 島根県太田市、温泉津町
北国街道「出雲崎宿」 新潟県出雲崎町 撫養街道 徳島県脇町
北陸道「倶利伽羅峠」 富山県小矢部市、石川県津幡町 梼原街道 高知県梼原町
東海道「岩淵間宿-由比宿」 静岡県富士川市、由比町 日田往還 大分県日田市
東海道「藤川宿」 愛知県岡崎市 長崎街道「日見峠」 長崎県長崎市
東海道「関宿」 三重県関町 薩摩街道「大口筋(白銀坂)」 鹿児島県姶良町、吉田町

北田の交差点に大きく「スポーツ公園」の標識がでてくる。右に折れて指示にしたがっていくと門前の参道さながらの灯明が沿道を飾っている。たどり着いたところは太平洋を見下ろす天神岬公園で、そこに古色ゆたかな北田神社天神山城跡、その背後の整備されたスポーツ公園には太古の天神原遺跡があった。

日が落ちかけた西方は灰緑のグラデーションで描かれた幾重にも重なる山並みがある。古代文化が凝縮されて絶景に囲まれている。

「ここが一番よかった」と妻が言った。

(2006年11月)
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岩城相馬街道(3)



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