今から263年程前の元文3年(1738)9月18日辰の上刻(午前八時)を期し藩主内藤候の永年に亘る苛斂誅求に耐えかねた領民の磐城4郡181ヶ村の百姓衆2万人が政令に反して18ヶ条の要求を掲げて総決起し平城下目指して怒涛のように押し寄せ一挙に城下町を占拠し藩当局を震駭させ一揆の前に領主権力を完全に屈服させ要求の大半をのまざるを得ない状態とした。 しかし農民大衆は結集したとはいえ烏合の衆であり、さしもの大一揆も数日にして指導者に一任されたので村々に離散するに至り一揆の代表者は後日捕らえられ投獄されて翌年8月23日鎌田河原で斬首された。(中略)一揆終了後内藤候は徳川譜代大名であったが幕府からその責任を問われ日向国(宮崎県)延岡に移封になった。一揆の指導者は何れも若く名主も多く地域の中心的な人たちであった。後年領民一同協議してお仕置になった鎌田川の河原に地蔵尊を建立し往来の百姓達が線香を供えて供養し義民の諸霊を慰めたが為政者の弾圧もあり供養もたち切れることもあった。  平成6年9月  志賀伝吉著 元文義民傳より  
 枡形・首切り地蔵・鎌田橋 鎌田町 いわき市