この城は、永禄9(1566)年頃、相馬氏によって築かれたもので海道の境の城として、伊達・相馬の抗争に重要な役割を果たした。 築城の経過は、相馬盛胤・義胤父子が、永禄年間に亘理の亘理元宗に加勢すべく出陣した帰り、盛胤が新地に泊まり、中島に谷地小屋要害を築いたが、平地館てあり、防御に難あがあるため、約1年後に新たに新地城(蓑首城)を築いた。最初、門馬雅楽助を、後に、泉田甲斐を城代とし、西館には杉目三河を置いた。
 天正17年5月、伊達政宗は相馬義胤が田村に転戦している留守をつき、新地・駒ケ峯を攻め落とした。この戦いで相馬方の杉目三河、木崎右近等が伊達陣に切り込み、はなばなしい戦死を遂げた。また、杉目三河の子を乳母が自分の子を犠牲にして肋けた逸話は、今も語り草になっている。政宗は新地城を亘理重宗に与え、坂本三河を城代として置いた。慶長初期には、大町三河を城代としたが、慶長5年に、坂元への引き上げが命じられた記録か残っており、その頃に廃城になったとされている。
 城の構造は、本丸を囲んで、西館、北屋形、東館があり、内濠及び、外濠の跡も見られる。虎口と見られる遺構が、本丸西南方、東館南方等に残っており、また、東側の熊野神社に抜ける北枝尾根は木崎方面への戦道と伝えられている。

新地城跡 館前 新地町 相馬郡 福島県