当山は浄土真宗大谷派として開祖に親鸞聖人をいただく。正西寺の開基は釈光善と称し、慶長年中は標葉家い臣従せる六旗衆の一旗なり。標葉家滅亡後は世の無常を感じ出家して一宇を大堀村に建て元和2年(1616)に正西寺の寺号を賜る。(以下略)
標葉清隆、隆成父子墳墓
当山の境内はもと涼しケ森華光院の旧地にて南朝の忠臣標葉家お菩提寺の跡なり。標葉氏は初め請戸に城を構えたが、嘉吉2年権現堂城を築きし際華光院をもって菩提寺とした。当時相馬氏と領土を接するをもって争闘が絶えなかったが明応元年(1492)遂に相馬氏のために亡ぼされ当院に葬られた。昭和8年(1933)村内有志が浄財を募り墓碑を再建した。
華光院(現正西寺)と伊達政宗
慶長5年(1600)夏豊臣秀吉の命を受けた仙台藩主伊達正宗が徳川家康と提けいし、上杉景勝を攻めんとする際、急ぎ帰国するため当山に陣をしく、折から宿敵相馬義胤は正宗を討つ好機なりと兵を起こさんとする折相馬氏の名家老水谷権兵衛の「古より窮
鳥懐に入らば猟師もこれをうたず。他日雌雄を決するのが武士の道なり」と進言し、かえって厚遇をもって政宗の相馬領通過を認めることにした。関ヶ原の役後家康の天下となり相馬氏は徳川方に組しなかったため取り潰しになるところ正宗はかっての恩義に感じて本領安堵を進言した。

 正西寺 南大坂 浪江町 双葉郡 福島県