奥州街道(3)



小山−新田小金井石橋雀宮宇都宮大谷
いこいの広場
日本紀行

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小山(おやま

間々田を過ぎて粟宮会所前交差点角に「近江屋ラーメン」が立派な店を構えている。近江屋ラーメンは背後に陣取る西堀酒造の経営であること、西堀酒造は蒲生出身の三方よし企業であることを知った。

朝早すぎてラーメン屋はまだ開いていなかった。酒造会社の大きな木戸がわずかに開いていて、中庭にレンガ造りの煙突がそびえ建っている。偶然、年配の紳士が出てこられたので身を明かして話し掛けた。
「滋賀のどこですか」
「八日市といいまして。八日市インターで降りて、八日市CCに行く時に家の前を通ります。ご存知ないと思いますが…」
「よく知っています。私は蒲生の大塚です。日野から二駅手前の。ご存知ですか?」
「八日市から近江八幡行きにはよく乗ったのですが、貴生川行きは乗ったことがなくて…」
「今の社長は5代目です。私は会長の弟でして。つまり社長の叔父です」
「故郷に帰られることはありますか」
「法事ぐらいで…」
旅先で八日市を知っている人にであったのはこれがはじめてだった。

旧道はすぐ先の二又道を右にとる。町に入る。大きそうだ。「祝甲子園出場」の幟が道の両側を飾っている。駅に近づくにつれ数が多くなった。今年、栃木代表として地元小山高校が9年ぶり4回目の出場を果たし、10日ほど前の1回戦で負けたところだった。気のせいかなんとなく町に高校生の姿が目立つ。プラザで談笑中の高校生に地図を示して聞いた。
「本陣跡へ行きたいんだけど、この通りでいいんですか?」
ミニスカート制服姿の女の子が日焼けした顔を見せて、
「……わたし、ちょっと―……」
「小山高校の人?」
「私たち、静岡から来たんです」

駅ビル内の観光案内所で詳しい市街地図をもらった。部屋に結城紬が展示してある。茨城県結城とは隣り合わせの関係にあり、30分も東に行けば「結城の道」があるはずだ。

本陣跡の撮影をすませ、近くの名水を見に行った。民家の傍らに屋根つきの井戸があって、トタンでしっかり蓋をしてある。「利用する方は鈴木までご連絡下さい」とあり、勝手に試飲できそうもない。自家用井戸に名水が湧き出たものか。

車を止めた空き地の隣りは「近江屋」と書かれた酒屋である。誰もいない店先に入って声をかけた。
「3代までは近江の人でした。私は5代目。先祖は滋賀の甲賀とかいってました。水口…??」
「ええ。水口は甲賀です」
彼女は壁に掛けてある「藤田新太郎醸造」印のある額や、創業100周年の賞状を示して、いろいろと昔話をしてくれた。
「昔は造り酒屋でしたが、今は売るだけで」
棚に「近江や」の文字が焼き付けられた大きな徳利がいくつもならべてある。
「売っておられるのですか」
「記念においているのです。みんなにあげましてね」
1つ欲しかった。

旧道沿いの市役所の駐車場に
小山評定跡があるという。一回りしても見当たらない。ようやく見つけた標柱の後ろの石に由来書が彫られている。
慶長5年(1600年)7月、徳川家康は会津の上杉影勝を討つべく小山に到着。このとき石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌日この地で軍議が開かれた。これを「小山評定」という。評定には家康、秀忠を中心に、本田忠勝、本田正信、井伊直政、福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らが参集したという。関が原の戦いの1年2ヶ月前のことであった。

市役所から
祇園城址にいく。

公園の西側を
思川が流れる。観晃橋にたつと川幅は意外に広い。思川は黒川、姿川を支流とし、古河市三国橋の上流で渡良瀬川に合流する。思川と日光街道に挟まれた祇園城は平安時代、藤原秀郷によって築かれた。城の守り神として祇園社を祭ったことからその名がある。15世紀ごろから小山氏歴代の本拠となり、江戸幕府成立後は本多正純が3万石で城主となったが、元和5年(1619)に正純が宇都宮に移封となったことにより廃城となった。

入口に石垣だけが残る
城跡公園で、石段を登ると思川の眺めがよい。ハンバーガーをほおばる2人の女子高生、木陰で休む数人の中年男性、そして朱色の祇園橋が十分な距離をおいてそれぞれの領分の安寧をむさぼっている。あたり一帯は蝉の天下だった。

花垣町の小山高校入口付近に白壁の美しい創業嘉永年間という「八百忠」海産物問屋があった。店先に
「醤油漬発祥の地」と書かれた標が建てられている。あいにく定休日で、老舗の商い振りを見ることができなかった。

JR踏切りを越えて大きな交差点の北西角地奥に
観音堂がある。堂の右手前にならぶ地蔵の台座に彫られた「右奥州海道、左日光海道」という文字を撮るのが目的だった。ここでいう「日光海道」とは、芭蕉が通った「日光壬生通り」(=「日光西街道」)のことをいう。この地蔵はもともと喜沢の追分にあった。

街道をしばらく行くと静林幼稚園の向かい側に日枝神社に通じる参道がある。国道4号を横切って続く草深い道を50mほど分け入ったところに樹齢400年以上、高さ30mを超すという3本の巨大なケヤキが現存している。幹の皮は象の肌に似ていた。

このすぐ先の5差路で奥の細道は西に曲がって壬生通りをたどって行く。どちらを通っても日光へはたどり着けるが、芭蕉は室の八島を見たかった。

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喜沢

大きな5差路にさしかかりようやく
喜沢の追分にやってきた。左にすぐ国道4号の十字路が続いている。日光街道は5差路を直進し(渡った直後に右の細道にはいっていくのだが)、左斜め前に進んでいくのが日光壬生通りである。鋭角の分岐点にいくつかの石碑が置かれている。先に見た観音堂の地蔵菩薩も前はここにいた。

追分の三角地帯は元禄8年創業という、和菓子の老舗蛸屋の敷地である。水を打った店先がすがすがしい。左奥にはなにやら美術館がある。店の道路脇に黒大理石の道標があった。こんどははっきり
「奥州街道」と読み取れる。店にはいり、「みかもの月」とか「黒どら」などの甘そうな菓子を一つずつ4個買った。

蛸屋の東向いから枝別れしている細い道が本来の旧街道だという。車一杯の道幅を恐る恐る入っていくと、住宅と雑木林に挟まれた空き地に出た。林の中を覗くとこんもりとした塚が認められた。なんの標識もないが、資料にはこの辺に
「喜沢一里塚」があるという。通りがかったおじさんに訪ねると、その人こそボランティアでこの一里塚を管理しているという人物だった。
「これが一里塚ですか」
「そう。本にも載っていて、よく人が来るよ。市に標識くらい立てるように働きかけているんだけどね。そこも少し盛りあがっているだろう。両側に塚があったのだよ」
おじさんは車をとめてある空き地を指差した。

一仕事を終えた満足感を味わいながら、細い道を進む。唐突に住宅地と薮の間にラブホテルが出現する。こんなところ、車で来れやしないと思いながら住宅街を抜けると新幹線の高架下の道に出た。しばらく北上し、やがて国道4号にでて新田宿へ向かう。

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新田 

新田宿は羽川町にある。規模としては小さい町だ。古い道が残っているわけでなく国道4号を車で素通りしてしまうことはたやすい。町の中央付近に駐車して1kmたらずの宿場街を歩いてみた。

本陣跡を示す立派な四脚門が残っていた。標札には「青木」とある。内側は広い庭と畑で、住宅は新しい。庭木の手入れも行き届いていて、富裕農家の典型を見た感じがした。

宿場の終りに
橿原神社がある。昔は「星宮」と呼ばれ周辺九ヶ村の総鎮守だったが、明治になって村人の意向で、遥か九州の宮崎神宮から神武天皇の神霊を勧請し、「橿原神社」と改称した。参道の両側に並ぶ朱色の燈柱が桜並木の緑と鮮やかなコントラストを描き出している。


銅市金属工業(株)の横道を左に入って、すぐ右に曲がる細道の右角に、
石仏や石碑が集められて保存されている。道しるべになる文言を探し求めたが、一つ「左○○○道」とある石碑を見つけた。どうしても読みきれない。端の石仏の台座には三猿がいじらしく彫られていた。この細道が旧街道だったと思われるが、資料には「途中で道は消失する」とあった。国道にもどって小金井に向かう。

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小金井

左手に、一目でそれとわかる
小金井一里塚が出てくる。日光道中の一里塚で唯一国の史跡に指定されているものというだけあって、左方に2つの大きな塚が残され、何代目のものなのか、榎は2本とも雄大である。街道は実際、その間を通っていた。ここが小金井宿のほぼ入口にあたる。小金井宿は国分寺町にある。国分寺町はかって下野国(栃木県)の中心地として栄えたところで、昨年奥の細道で壬生街道沿いに古墳や国分尼寺跡などを見て回った場所はここから西に3kmほどいったところにある。一里塚の隣りのマグドナルドで、久しぶりにハンバーガーとコークを楽しんだ。

宿場の中心地域には古くて立派な建物が多く残っている。タバコの看板を掲げた旧家は土壁と白壁の二軒をつなぎ合わせたような横長の旧家で、繊細な格子の垂直線が美しい。
慈眼寺は、建久7年(1196)鎌倉時代の豪族、新田氏が祈願所として建立された古刹である。江戸時代は将軍の日光社参時に小休所や昼休所が設けられた。境内の大きなイチョウの木がギンナンの実を鈴なりにつけている。肌色をした丸い実であった。法事であろう、黒い正装をした家族の一団が入っていく。

本陣跡は大越家住居で、大谷石のブロック塀を両脇にして重厚な木門が構えている。門は閉じられ塀は高く、中の様子を窺うことができない。役場前通りとの交差点右奥にある
蓮行寺は、背後に新幹線の高架をひかえて心持窮屈そうに見える。こじんまりとした境内の石庭に、なぜか脚の長い置物の鶴が二羽、同じ方向にならんでいた。


自治医大駅前の通りを左にはいると旧道が国道に並行して残っている。のどかに大きく開けた田園風景を左に見て、右には道沿いに雑木林が続く、絵に描いたような田舎道の景色である。林が途切れ田畑の向こうに姿よい松並木がみえている。
「あれっ、これは単なる農道で、向こうが旧街道かな?」
進路を右にとって並木の本体を見極めることにした。国道4号に沿ってその右側が松並木道になっているようだ。日光街道のように、車道に沿った並木遊歩道にしてあるのか。国道から並木道の中へ入り込む横道がなくて、結局実態はわからなかったが、とにかく立派な松並木であった。最寄りのバス停は「祇園原」という。

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石橋

石橋町に入り、国道352号線との立体交差の手前左手に石仏が並んでいる。かって街道沿いにあったものを国道敷設の際一ヶ所に集めたのだろう。全部が国道に背を向けて並んでいた。      

この小さな町のキーワードは干ぴょうと孝謙天皇とグリム童話である。1番目は土地の特産、2番目は昔のいいかげんな話、3番目は現在のまじめな話。

最初に、どうでもよさそうだがちょっと気になる話から。

今から1200年も前の天平時代のこと、京の都で太政大臣禅師という最高位にあった弓削道鏡が政変により下野薬師寺の別当に左遷された。孝謙女帝は愛する道鏡を慕ってひそかにこの下野の国石橋まで追ってきたという。女帝はこの地で没し、神社に祭られた。

ところで、歴史によれば道鏡の左遷は神護景雲4年(770)、称徳天皇(孝謙天皇再祚)の死に伴う措置であった。下野の国に流された道鏡は2年後の772年、あっけなくこの地で没している。
孝謙天皇神社は、道鏡が女帝の遺髪や遺品を持参しこの地に祭ったものとも伝えられている。その可能性はある。だが、死んだはずの称徳天皇が彼を追っかけてきてここで又死んだというのは腑におちない。ああ、それこそがロマンか。

称徳天皇が病に伏した原因には諸説があるが代表的なのは、「『日本紀略』に引く藤原百川伝によれば」からはじまる有名な孫引きである。

クウォウト:『日本紀略』に引く藤原百川伝によれば、「(称徳天皇は)朝を視ざること百余日」道鏡との性交に耽り、陽物が抜けなくなったためという。:アンクウォウト

ところで、女帝と権力を握った僧侶との男女関係は、ロシア帝政最後のアレクサンドラ皇后と怪僧ラスプーチンが世界的に知られているところである。東西の男女二組の縁を結んだのは、共に密教呪術による病の治癒であった。

本町交差点の北西角に愛宕神社がある。このあたりから石橋宿がはじまり、次の石橋駅前交差点が中心地のようである。脇本陣だったという伊沢写真館はモダンな造りだが、筋向かいの
伊沢本家は長大な奥行きの敷地をもった大屋敷である。大谷石の塀に囲まれた内部をうかがうと、和風の屋敷の後に庭がつづき、庭の中にはお堂が建ち、庭続きの畑の奥は林になっていた。京都の商家を思わせるうなぎの寝床状の敷地ではあるが、かっては奥行きとおなじ、あるいはそれ以上の長さの幅をもった広大な屋敷だったものが、左右を処分していくうちに今の縦長方形になったものと想像される。

近くの右手にあるという開雲寺が見つからず、駅前の交番で聞くことにした。駅前通りにはいるや事前の資料には書いていなかった光景が現れて驚いた。急にテーマパークに飛びこんだかのような錯覚さえおぼえる。商店街は「
グリムの里」の旗で飾られ、駅前にはメルヘンチックなカラクリ時計塔が駅舎から陸橋でつながっている。錯覚ではなく、町にはれっきとしたグリムの森があり、そこにはグリムの館が建っているという。石橋町はドイツのシュタインブリュッケン(合併後ディーツヘルツタール町)という、小さいが美しい町と姉妹都市の関係を持った。縁をとりもったのは壬生町獨協医科大学とミュンヘン大学の留学生交換であった。シュタインとはストーン、ブリュッケンとはブリッジ。つまりドイツの石橋町である。そこに何らかの事情でグリムに結びついて町おこしのテーマとなった。

警察官は丁寧に、
開雲寺へは国道から直接車で入れないことを説明してくれた。駅前から人家を抜けて寺の駐車場にたどりついた。寺は781年に下野薬師寺に縁のある寺社として創建され、中世になって宇都宮氏によって現在地にうつされたという名刹である。江戸時代、将軍の御殿所となった格式ある寺院で、葵の紋入りの湯釜や家光の書などが保存されているという。建物は概して新しい。庭も剪定が行き届いて整頓された寺院である。仁王の石像が気に入った。

宿場の終り近く、右手奥に小さな
御堂がある。天授6年(1380)、下野の両雄と言われた宇都宮基綱と小山義政の「小山・宇都宮合戦」で、宇都宮基綱軍が敗北し一族300余人が全滅した。このとき討死した兵の鞘を集めて埋め、小堂を建て地蔵を安置したものである。栗橋宿の焙烙地蔵の時と同じように、格子のすきまにレンズを突っ込んで中の地蔵を撮ってみたら、赤座布団の上に、赤キャップをかぶった自然石らしき物体の画像を得た。擬人化すれば、胴なし頭のようでもあるし、首なし胴のようにも見える。この辺りの土地を鞘堂という。

そのすぐ先左手には、鞘堂新田の鎮守の星宮神社がある。これも小さな社であった。星宮神社の東方、JR線路脇を日光東往還の旧道が走っていて、まもなく日光街道と合流することになっている。

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雀宮

左手に自衛隊駐屯地を見ながら国道を進むと、一里交差点を通過する。むかしこの辺りに一里塚があったのだという。

町にはいってほどなく、
安塚街道の起点となっている交差点で、警官の制服を着た交通整理のおじさんが登校中の小学生を誘導していた。角の駐車場に車をとめて警察のおじさんに話しかけた。信号の色を気にしながら、本陣跡の場所と安塚街道のことについて話してくれた。安塚とはここから西に4kmほどいったところの町で、東部宇都宮線の駅がある。県道安塚雀宮線184号という部分的なローカル街道だった。

雀宮駅前通りの交差点が宿場の中心だった場所である。バス停前に往時の建前を残した
脇本陣芦屋家がある。豪華な枝振りで電信柱をはるかにしのぐ高さの立派な松が炭黒の門の両側を固めている。屋根は寺院のように重厚である。黒と緑を基調としたこの素晴らしい一幅の絵を、バス停と傍に建てられた一本の赤々としたホテルの看板が無情にも台無しにしていた。電線も暴力的である。

本陣跡の石標は西松屋ベビー用品店の駐車場前にあった。説明抜きの碑自体も新しい。

すぐ先に
雀宮神社がある。赤ワイン色の屋根が印象的であった。長徳元年(995)、百人一首の歌人でもある藤原実方の妻綾女は、国司として陸奥に向かった夫の後を追って旅に出た。途中この地で病のため亡くなり、この神社が建てられた。その2年後、実方も陸奥の地で亡くなり、その霊魂が雀となってこの地に飛来し数々の奇跡を起したため、雀宮神社と称し、実方も合わせて祀ったという。道鏡も実方も奇しくも2年で女のあとを追うように死んでいった。雀の話は、孝謙−道鏡の物語よりも美しい。

雀宮神社のすぐ先に、現代のキロ標が建っていた。
東京から100kmやってきた。高速直線自動車道路でいえばわずか一時間余りの運転距離ではあるが、100km単位の標識くらい記念に撮っておいてもいいだろう。
この辺は旧道がのこっていないのか、石橋以来国道4号線を快調に走っている。

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宇都宮   


西原交差点で国道4号は東方に旋回して宇都宮市内を避け、他方旧奥州街道は直進して市中に入っていく。以降、二つの幹線道路は氏家で交差して左右(東西)の位置を変えるだけで、白河まで延々と別行動をとることになる。
        
不動前交差点で左斜め方向の道(不動前通り)に入り、東武線のガードをくぐったあたりから宿場町がはじまる。
              
新町2丁目の住宅地のなかに巨大なケヤキの木がある。案内板には「とちぎ名木百選 
新町のけやき」とある。樹高43m、枝張り東西34m、南北31mで、目通り周囲7.9mとある。道中で幾つもの大樹をみてきた。巨木信仰というものがあって、自然信仰のなかでも巨木は崇拝を集めた。喜沢で見た日枝神社のケヤキとの比較で言えば、樹高約32m、枝張り東西約22m、南北約29m、目通り周囲約6mであったから、すべてにおいて新町のケヤキが勝っている。高さにおいては10m以上も高い。ケヤキの前の鳥居が貧弱ほどに小さく見えることからも新町のケヤキの巨大さが想像できよう。

巨木の話になったついでに日本と世界のトップを見ておこう。
巨木の世界一はヨセミテの南にあるセコイア国立公園のシャーマン将軍の木だといわれている。高さ83.8m、
幹回り(目通り周囲に対応するもの)31.3mであるが、高さにおいてはレッドウッド(アメリカ杉)が107mで文字通り世界最高である。太さにおいてはメキシコ、オアサカにある糸杉で地上周囲が49.4mといわれている。

日本では環境庁が巨木の定義を定めていて、地上から1.3m(大体人の目の高さである)の高さで幹回りが3m以上の樹木を巨木という。最近の調査では山形県の戸沢村で幹回り18.5mの杉の木が発見された。ケヤキでは福島県猪苗代町の「天子のケヤキ」が日本一で、
幹周りは15.4mだそうだ。幹周りが世界共通尺度になっているようである。その基準でいくと、新町のケヤキは世界1の6分の1、日本1の半分ということになる。上には上がいる。    
 
近くには、山門前に子育て地蔵がある台陽寺、西原小学校入口の通りの奥には清楚な茅葦の山門が美しい
報恩寺がある。格子のきれいな旧家を通り過ぎたところで道は鍵の手に曲がっている。このあたり西原一丁目付近は城下の西端に位置した武家屋敷町で、芳賀(はが)伊賀守ゆかりの土地であったことから伊賀町といわれていた区域である。寺が多い。曲ってそのまま行くと光琳寺がある。住人は菊の花が好きと見えて本堂の前に大小さまざまな幾つもの種類の菊が育てられていた。誰もいない境内でゆっくり花の写真を撮れた。

追分  

道幅が広がりまっすぐな材木町通りにはいるとともに、風景は住宅街から官庁街に移る。大通りに突きあたり、裁判所前を東に折れたところが伝馬町で、宿場の中心地であった。右手歩道に
「本陣跡」の標識があり、「伝馬町本陣は200坪近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。」とある。路地をのぞくと確かに一本のイチョウの大木が濃黄色の葉を朝日に輝かせていた。

左手小幡郵便局角が日光街道と奥州街道の追分である。芭蕉は室の八島が見たくて壬生通り(日光西街道)を通って今市へ出たが、歴代将軍はここを曲がって今市へ向かった。日光街道にはいったところに、
株式会社上野と書かれた看板を掲げた古色蒼然とした商家が構えていた。大谷石の塀と蔵と格子窓の店蔵という、通行人を威圧するような店構えである。

裁判所から
二荒山神社ふもとを経て田川に至る大通りがメインストリートである。昔は本陣、問屋場、高札場などが集まり、人馬でごったがえした。町の雰囲気は官庁街から商店街へ趣をかえていく。どこでもそうだが商店街にはそれぞれ工夫をこらした名がつけられ、その名にふさわしい看板や旗などの飾り付けが道に沿って取付けられている。ユニークな例を言えば、南千住の「コツ通り」、根岸の「ウグイスの里」、石橋の「グリムの里」などだろうか。それぞれに所以がある。さて、ここのテーマもユニークだった。名づけて「ジャズの街」。黒人サクソホーン奏者のシルエットがアーケードの肩を飾る。城下町・門前町そして日光・奥州街道宿場町とギョーザとジャズ。宇都宮はいそがしい。

釜川という細い流れを越えたところで街道は馬場通りからアーケード商店街へはいっていく。通りを横断する歩道はなくて地下でつながっていて、二荒山神社石段下に出る。

二荒山神社の主祭神は下野を平定した豊城入彦命を祀ったもので、下野の一之宮となった。「うつのみや」は「いちのみや」が訛ったものだともいう。見上げるような石段を登っていくと、中ほど踊り場の左側に菅原道真関係の祠が3つ並んでいる。菅原神社、筆塚、針霊碑とある。女の先生2人が20名くらいの小学生を連れてきていた。ふざけ半分で手を合わせている子もいれば神妙な顔つきで拝んでいる生徒もいる。「これで頭がよくなるよ」先生がいがぐり頭を撫で回していた。神社境内は明るい。

アーケード商店街オリオン通りにもどる。車は入れない。テアトル宇都宮を過ぎたところで通りを横切り、街道は日野町通りと名づけられた商店街に続く。立て札があって、由緒が書かれていた。案の定、蒲生氏の所産である。宇都宮城初代城主となった氏郷の子、蒲生秀行が日野商人たちを連れてきた。会津若松では「日野町」が「火の町」に通じるという理由で一度つけられた町名を「甲賀町」に変えたが、ここはそれほど神経質にはならなかった。

「近江屋」が日野町通りの終わる手前にある。店におられたご主人と話ができた。本人は2代目で、母の実家が大田原にある鳳鸞酒造なのだそうだ。父親が鳳鸞酒造より分家して宇都宮に酒店を開業したとき、屋号を本家のルーツである近江屋とした。後に太田原で本家を訪ねることになるが、そのときの社長の話では鳳鸞酒造の分家はすべて「近江屋」を名乗ることになっているとのことだった。

街道は近江屋の先のT字路を左折し、一筋目をすぐに右にまがると、やがて大きな通りへ出る。北におれて幸橋で田川を渡り、博労町交差点を左にとる。道路向かいに、大谷石蔵を右に侍らせ黒々と威厳を誇示している重厚な商家が
旧篠原家住宅である。明治28年に建てられ、醤油醸造と肥料を商なってきた。川越の店蔵といい勝負である。定休日のため中を見学できなかった。

宇都宮の宿場町はここで終わり、旧街道は一路北へ向かって次の宿白澤をめざす。私は市中に引き返して
城跡を見たあと、さらに郊外6kmにある大谷石の故郷へ向かった。

宇都宮は905年、藤原秀郷が亀ヶ岡城を築いたのがはじまりとされ、その後藤原宗円が下野に拠点を構え宇都宮氏を名乗って以来530年に渡って下野の国の政治の中枢となった。現在、櫓の復元工事中で、あたり一帯を公園化する計画のようである。堀跡が残っているが底は石畳できれいに整備された、新しい城跡だった。形に見える物は少ない城だが、面白い話が残っている。


4代目宇都宮城主、本多正純は、事情があって三代将軍徳川家光が嫌いであった。そんなある日、家康七回忌の日光東照宮参拝で、家光一行が宇都宮に途中宿泊することになった。正純は絶好のチャンスとばかり、将軍暗殺のため城内に釣天井のからくり仕掛けをたくらんだのであった。
工事は完成し、携わった大工たちは皆闇に葬むられた。殺された大工の一人が無念のあまり怨霊となって、恋人に全てを語り告げた。娘は悲しみのあまり、その内容を書き残して自害してしまった。これを知った娘の父親は、書き置きと工事の見取り図を手に将軍の行列へ直訴し、将軍家光は難を逃れることができた。

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寄り道 大谷

大谷石


大谷石に関する情報は大谷資料館に詳しいが、概略以下のようなものである。

分布 大谷石の分布は、東西に約8km、南北に約37kmと、南北に細長く分布。地下200m〜300mの深さまである。
採掘区域は東西3km、南北6km。推定埋蔵量は10億トン。
生成 今から2000万年前の、新生代第3紀中新世の前半、日本列島の大半がまだ海中にあり、その一部がわずかに水面上に出ていた時代に、流紋岩質火山の爆発により噴出した、火山灰や軽石を含んだ火山灰質のものが、海水中に堆積し凝固して出来た凝灰石
成分 多量の浮石質ガラス、斜長石、石英と少量の黒雲母角閃岩輝石で構成されている。
大谷石のなかに含まれる褐色の
「みそ」と呼ばれる部分は、含水量の多い沸石と少量の不純物を含む。
採掘 「平場掘り」と「垣根掘り」という2つの掘りかたを組み合わせ、「露天掘り」、「坑内掘り」というような採掘場の形態がみられる。
昭和40年代の最盛期には,採掘事業場は約120ヶ所,年間出荷量も約89万トン
平成15年度の採掘事業場は約15ヶ所,年間出荷量は約3万4千5百トンまで減少
特徴 耐火性にすぐれている。石質がやわらかく、軽いため、加工が容易である。防音効果も高い。
他の石材に比べ、見た感じがあたたかく、しかも、やわらかさと優しさがある。
用途 住宅用石材(石塀・石垣・門柱等)、ガーデニング
約1,500年前頃に県内の壬生町車塚古墳。 大正11年旧帝国ホテル(建築技師ライト)

大谷寺

大通りを引き返し、日光街道追分前を通り過ぎて道なりに西へ進むと、半時間もしないうちに大谷町にたどりつく。沿道に石材店がめだつようになって、なんとなく山間に来た感じがする。大谷寺のある場所へは一気に勾配が高まり、両側にみやげ物屋が軒を連ねる。実際の採掘現場跡の広大な地下空間を見学できる大谷資料館や、周辺の奇岩群の散策コースなども行きたかったが、時間の関係で磨崖仏と、隣接してある平和観音をたずねるだけとなった。

弘仁2年(811)弘法大師によって開かれた。本堂は大谷石の岸壁の軒下をかりて建てられている。この窪みは古代の横穴式住居跡だ。事実、別館の宝物館には縄文人の骨や遺物が展示されていた。本尊である大谷千手観音も、大谷石の岸壁面に彫られた、日本最古の石窟仏として知られている。フラッシュなしでそっと一枚撮ろうと岸壁にカメラを向けたら「堂内では撮影禁止となっております」と、シャッターを押す寸前に天井から声がした。隠しカメラでモニターされていたと思うとゾーッとする。

中庭は切り立った大谷石の単調な岩肌に、木々の緑と色づいたツタの葉が色彩を施し、洞窟から流れ出たような深い池が沈んでいた。決して広くはない庭であるが、静かで落ちついた時間を楽しむことができる。石切り場、あるいは鉱山といえば、埃っぽくて騒然としたイメージがある。たしかに採掘現場へいけばそうだろうが、引退した採石場の故郷は情緒ある温泉郷のたたずまいであった。

大谷平和観音は昭和23年に大谷の石工が第二次世界大戦の犠牲者を弔うために着工をはじめ、昭和29年に完成した平和のモニュメントである。寺から大谷石の人工トンネルをぬけると27mという石仏が西日を受けて立っている。この土地は大地がすべて大谷石である。立ちはだかる岸壁を切り崩すも、平らな岩盤を掘り起こすも、大地という一枚板を相手に彫刻刀で削り取る作業である。この巨大な観音像もトンネルも、今立っているこの平らな広場も周囲の岩を削り取って作られた。

近くの民家の裏庭に出荷用の大谷石が並べられていた。岩肌のクローズアップ写真を撮ろうとしていたらおばさんが話しかけてきた。そこへ妻が加わると話は一気に盛り上がって、裏庭大谷石講座に発展した。
「露天掘りはもうなくなった。なぜ? 雨が降ると水がたまるだろ。仕事にならないんだ。コーリツが悪いから坑内堀りにしたの。これだと雨が降っても雪が積もってもだいじょうぶ」
「このちかくに採掘場はあるのですか?」
「ここではもう採らない。大谷以外のところで掘っている。昔はここだけが大谷だったんだが、合併して、みんな大谷石になったの」
「石の色がちがうだろ? ユーキブツの多少によって色がかわるの」
「茶色の斑点はミソといって、木が腐ったヤツ」
おばさんは家からビニール袋を持ち出してきた。海苔巻き大の石ころが詰まっている。
「これは宝もので、だれにもやらないんだが一つあげる。石味噌だ。これで昔は髪をあらったの。リンスしたみたいサラサラになるの。帰ったら風呂で使ってみな」
「味噌が石になったんですか。石だけど、使えば減っていくんですか?」
「そうだ!」
「そうか。軽石もへりますね」

まだまだ講義のネタはありそうだったが、暗くなってきたので勉強を辞退することにした。
「いろいろとありがとうございました」
「これからどこへいくの?」
「奥州街道を白河あたりまで」
「いい旅しな」

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