この住居は、もと浪江町大字幾世橋字荒井にあったもので、昭和48年に現在地に移築し、原形に戻された。口伝によれば相馬藩の在郷給人のもので、規損などもそれを裏付ける造りとなっている。 四室列型で、外縁をまわし、窓をつけない簡素な座敷構え、大い「だいこく」「えびす」の両柱、下屋とリ込みをしない架構など、江戸詩代後期のこの地方の上層農民の生活と住居とをよく表わしている。特に「えびす」柱上部の通しほぞの間には、文化8年(1811)2月22日の建築月日以下工人名などを記した墨書板が挿入されており、「なんど」境の柱のほぞ書きにも同年号がみられる。 移築復原にあたって、棟続きの「なや」および「うまや」が失なわれてはいるが、浜通り地方に比較的早期で建築年代を確定できる遺構が存することは、比較資料として貴重であり、また、この種の柱書きやその挿入技法の例としても貴重である。      福島県教育委員会

旧渡部家住宅 大聖寺内 北原 北幾世橋 浪江町 双葉郡 福島県