天心邸 大津町 北茨城市

明治37年(1904)2月、自らの設計を平潟の棟梁小倉源蔵に託し、天心はボストン美術館の仕事のためアメリカへと旅立った。天心が五浦の地を手に入れた際には、鮑料理の割烹観浦楼の建物がまだ残っていた。仮の住居に使っていたその建物の木材を使ったらしく、新居は豪華ではないが、風雅な趣となった。当初は62坪だったが、明治40年にさらに改築して拡張した。天心没後、西側にあった12畳の書斎や東側の浴室など一部が撤去されている。