平潟洞門の碑
この碑は平潟村民の懇請により水戸藩の地理学者長久保玄珠(赤水)が撰文をし、安永7年(1778)8月に建てられた碑である。この碑文によれば、平潟より九浦に通じる道は階坂(はしござか)といわれ、牛馬も通れないほどの急な坂道であった。そのため地元の人たちは相談をし、平潟・九浦間の交通の便を良くするため、洞門を作ることを棚倉藩に願い出た。工事は安永3年(1774)9月に開始され、翌年の6月、約10ヶ月を費して完成、洞門の長さは、27m、幅は、3.6m、高さ3mとある。この洞門の完成により、平潟・九浦間の往来は非常に便利になり、地元の人たちはもちろん、旅をする者にとっても大きな喜びとなった。そこで、この洞門掘削工事に関わった人々の誠意と努力を、永久に後世に伝えるため、平潟と九浦の境に建てられたのが「平潟洞門の碑」である。また、碑文の終わりには、京都1032里、水戸96里、大坂1068里、
仙台288里、江戸288里、南部576里と平潟よりの里数(この頃は1里6町制で1里約654mとなる)が記されている。  北茨城市観光協会

平潟洞門の碑・茨城-福島県境 平潟町北茨城市-勿来町九面鵜子