三国街道−1 



高崎−金古渋川金井北牧横堀
いこいの広場
日本紀行
三国街道−1
三国街道−2
三国街道−3
三国街道−4
三国街道−5
三国街道−6


三国街道は信濃(長野)・越後(新潟)・上野(こうずけ)(群馬)の三国が接する三国峠をこえることからその名がついた。現在の三県境界点は三国峠から10km以上も西に位置するが昔の国境は三国峠付近であったらしい。三国街道は中山道高崎宿と北国街道越後路の寺泊宿を48里(約192km)で結ぶ。信州は通らない。従って三国街道は上越街道である。さらにいえば、高崎−寺泊間を延長して中山道経由の江戸から日本海に浮かぶ佐渡島を結ぶ関越佐渡街道でもある。江戸と日本海を結ぶ最短路であった。佐渡からは金が送られ、佐渡へは罪人が送られた。越後からは米や越後縮みがもたらされた。また佐渡奉行をはじめ長岡・新発田(しばた)・村上・与板等越後9藩の大名が往来した。

三国峠を越えた越後側の南魚沼地方はコシヒカリ発祥の地として知られ、また戦国時代の武将、北条(長尾)景勝と直江兼続生誕の地でもある。2009年NHK大河ドラマ「天地人」はこの二人が主役となって、三国街道を駆け巡ることであろう。



高崎

高崎は古くから関東の西口として古代東山道、近世中山道が通る交通の要衝であった。高崎から北に向かって三国街道が分岐し、一つ南の倉賀野からは日光例弊使街道が分れている。高崎はまた城下町である。古くは鎌倉時代和田氏が城を構え、江戸時代になって井伊直政が築城しなおし城下町を整備した。

高崎駅西口から西に進み新町交差点で旧中山道である県道25号(高崎渋川線)をよこぎり高崎市役所前にでると、高崎城三の丸を囲っていた土塁と堀が残る
城址公園がある。堀沿いに北に歩いていくと音楽センター前交差点角に二層のが復元されている。明治になって民間に払い下げられ、取得者はこれを納屋に使っていたという。のどかさが伝わってきておもしろい。化粧しなおした立ち姿は小柄ながらも優美な佇まいである。

その横に復元され
東門も乾櫓とおなじく、当時の名主梅山氏が払い下げを受けたものである。梅山氏のおかげで高崎城は群馬県下で城郭建築物が現存する唯一の史跡となった。

新町交差点にもどって旧中山道をあるく。42年前、ここを歩いていたはずだが何の記憶も無い。写真をみると街道からかなりはずれた観音山公園で野宿している。地元の大学生にビールをおごってもらった。

中山道高崎宿は新町、
田町、元町の三町でなっていた。本陣も脇本陣もなく旅籠も少なかった。旅人、大名ともども城下町に宿泊することを敬遠したのだという。「お江戸みたけりゃ高崎田町 紺ののれんがひらひらと」と唄われた宿場の中心地田町には金融機関が集中している。明治・大正時代の由来書きを添えた建物が2、3あったほか宿場時代を偲ばせるものは見当たらない。

本町3丁目で左折する。左手に古い建物が残っていた。明治時代の黒漆喰の店蔵は
山源漆器店である。金澤屋は出桁造りの町家造りである。本町は商店街として繁盛していたのであろう。本町1丁目の大きな交差点に出る。

旧中山道はここを直進して赤坂を下り、常葉町で北に折れて烏川を渡っていた。常盤町界隈は往時の道幅のままに風情ある町並みが残っている。「日本一しょうゆ直売」の幟をかかげるのは岡醤油醸造、向かいの大きな屋敷を囲う赤煉瓦塀には「山田文庫」の銅板パネルが貼り付けてある。高崎経済界の重鎮山田氏居宅跡だという。

本町1丁目交差点にもどり北に向かって三国街道(県道25号)を歩き出す。交差点角には「中山道高崎宿」と記された標柱が立っているが三国街道の起点を示す標識類はみかけなかった。

信越本線の高架をくぐり飯塚町南信号の次の交差点の先で旧道が左に分れている。追分に道祖神と八坂大神の石碑が並んでいる。旧街道は車の往来も少ない下町の路地をいく風情である。


国道17号を横切り高崎環状線の下小鳥町西交差点を越えてすぐの五差路に高くて立派な
三国街道道標が立っている。「右越後」と深々と彫られその下につづいて「ぬまたxx いかほxx くさつxx」と平仮名で縦三列に刻まれている。

旧街道はここを右斜めに折れて住宅街をとおりぬけ、新幹線の高架をくぐり大八木町を抜けて井野川をわたる。新幹線の高架下には
笠付庚申塔が、井野川の右手ほとりには大八衛神と馬頭観音が祭られている(資料写真@、A)。大八衛神とはなんの神か知らない。

街道は福島町に入る。静かな住宅街で、土蔵を配し立派な塀をめぐらせた民家がめだつ。道端に多くの石仏をならべた民家の角を右折し次の十字路を左に折れる。金剛寺の東側を通って北に進みT字路を右折して直ぐに左折する。この角には一段と広壮な
畔見邸が構えている。黒塀に続いて海鼠腰壁にまぶしい白漆喰を塗りこめた櫓のような土蔵が角を占めている。どんな旧家なのだろう。

その先稲荷神社参道前を左折、すぐに右折してアパートの立ち並ぶ住宅街を通り抜け茂木鉄工所の前で左に曲がると県道10号に出る。そば処「桑風」に入った。メニューを繰っていると女将さんが「これだけです」とランチメニューを示した。みな2、3人分の量のそば定食で千円以下の品がない。招かれない客の気分でそのまま出てきた。

県道を横切り唐沢川に沿って北上する。「三ツ寺西」バス停の先に磨耗した
双体道祖神と道標(資料写真B、C)がある。道標は「右金x 左高x」としか読めないがおそらく「右金古x 左高崎x」で、xは「道」か「宿」であろうと想像する。

しばらくいくと
三ツ寺公園があり、左手の塚上には庚申塔が集められている(資料写真D)。街道は田園地帯を北に進み広い道と合流して東に向かい県道25号の棟高交差点に出る。次の足門交差点で右にとって国分寺跡へ寄り道した。

県道127号を東へ3kmほど行ったところの引間交差点を左におれ染谷川をわたったところに
妙見寺がある。空き地に車が数台とまっているが人影はみえない。静かで心安らぐ空間だ。

妙見寺前の分かれ道を国府公民館の案内標識にしたがって右にとり、公民館を通りすぎると上野国分寺館前にたどりつく。職員が開館前の掃除をしているところであった。

建物の北側に長い築地塀と堀が復元されている。その向こうには正方形の石組みの基壇上にかって優美な姿を誇示していたであろう七重塔の礎石が保存されている。脇に咲く彼岸花は手植えのものであろう。

ここから上野国府跡まではそう遠くない。共に古代の東山道が通っていた場所である。高崎は東山道の道筋からはすこし離れるが中世になって東山道の後継者である中山道が通ることとなった。

足門交差点に戻る。路地をすこし東にはいった群馬町中央公民館の敷地内に、かって三国街道と板鼻道の三叉路にあったと言う道しるべが保存されている(資料写真E)。文字は磨耗が激しくて読めないが、脇の説明板によると、正面に「元禄七年 向北 志ぶ川道」、左面に「左たかさき道」、右面に「右いたはな道」と刻まれているという。1694年の県内でも古い道標で群馬町重要文化財である。

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金古

染谷川の手前左手、レストラン「和膳」の駐車場端に小さな双体道祖神が置かれ、傍に金古宿の案内板が設けられている。誰が設置したものか、教育委員会ではなさそうだ。この辺りに
金古宿の南木戸があったという。その先の染谷川から金古町にはいる。

右手に残る
桜並木は街道の名残りだろうか、並木の中に宝暦三年の古い馬頭観音を見つけた(資料写真F)。並木の右側に残っている道は旧道のように見える。

金古下宿のバス停脇に庚申塔が集められている(資料写真G)
金古交差点あたりが中宿で宿場の中心であったのだろう。セガイ造りの古い民家が見受けられた。牛池川に架かる橋は土俵橋。南木戸前の案内板にあった土俵地区である。宿場の一番賑やかなこのあたりで勧進相撲が行なわれたのだろうか。

やがて左手に代官所としてつかわれた
神保家の表門が現れる。右側に付属する小屋は門番用の部屋である。金古の豪農神保家は旗本松田氏の代官を勤めていた。門の中にはいるとほとんど荒地の状態であった。道向かいの塀をめぐらせ大きな土蔵を有する建物も神保家の問屋跡である。神保家は上の問屋として、中の問屋(松岡家)、下の問屋(羽島家)と交代で月の前半を務めていた。

上宿交差点角にケヤキの巨木がそびえている。今年2月に市の保存樹木に指定された旨の標識が立ってあるが、種類はケヤキとあるだけで、樹齢、樹高、周囲等の情報はない。

南木戸からここまで、今の金古宿はところどころに往時の片鱗を残す町並であった。

街道は蟹沢川をわたると高崎市金古町から
前橋市清野町にはいり、重厚な土蔵が建ち並ぶ町並をとおりぬける。昔は野良犬という変わった地名の村で、三国街道の整備に伴い街道沿いに短冊形の集落を形成した。清野自体は宿場ではないが渋川宿の助郷を務めている。

蔵並のなかでも圧巻なのは江戸時代からの上州商人「虎屋」(木暮家住宅)である。おもしろいことに土蔵は街道の東側にしか建っていない。西側は蔵なしかといえばそうではないらしい。榛名山から吹き下ろす西風対策として敷地の西側に蔵を置き主屋はそれに直交する形でL字型に配置された。街道の西側でも同じ構成になっているため蔵は街道の東側にしか見られないのだという。

八幡川にかかる蟹沢橋をわたると前橋市から北群馬郡吉岡町にはいり、陣場とよばれる由緒ありげな地域を通るが特段の歴史情報はない。

田中交差点の先、田中バス停の東側に立派な
道祖神と二基の五輪塔が並んでいる(資料写真H)。豊栄工業の社屋とホース格納庫の死角になっていて街道からはみえない。道祖神は下野田に生まれた江戸時代の書家角田無幻の筆になるもので、五輪塔は桃井塚とよばれ吉岡町教育委員会による説明板がたっている。

桃井播磨守直常は、我が郷土が生んだ南北朝時代の武将である。下八幡の舘に生まれ長じて城山の麓に館を移したと云う。元弘3年(1333)足利尊氏に従い六波羅政めに参加し、その後播磨守に任ぜられ、越中国守護に封ぜられた。観応の騒乱には足利直義方につき直義亡き後は南朝方に味方し、貞治5年(1366)足利義政と越中に戦った。直常の終焉については判然としないが晩年は桃井荘に隠棲し、ここに没しこの地に葬られたと伝えられる。 この五輪塔は桃井直常の墓と言われ、地輪の上部と水輪の下部に穴があり、ここに納骨した墓塔と考えられる。左の五輪塔は直常夫人の供養塔と言われる。     平成3年4月1日  吉岡町教育委員会

街道は南下交差点で県道とわかれ左斜めにはいっていく。角に横倒れになった道標があった。大正7年のものだが読みづらい。「東 大久保 西北 下上野田」と刻されているようだ。西北 下上野田がこれからいく所である。

街道はまがりくねった田舎道をのぼり明治小学校のわきを通り過ぎて上野田にむかって下っていく。自害沢川をわたると家には野田宿当時の屋号が掲げられている。野田宿は三国街道の宿場ではなく、すぐ先で交叉している
伊香保街道(県道15号)の宿場である。三国街道と交叉する辺りは野田宿の東端にあたる。交差点には安永2年(1773)の自然石に掘られた素朴な双体道祖神が祀られている。

県道をすこしもどると家並みのはじまりに木戸風の野田宿案内板が建っている。伊香保街道(水沢街道)を1kmほど西にいくと
野田宿の本陣があるようだ。寄ってみると、通りは旧宿場の面影が色濃くのこる街並である。街道を挟んで本陣を勤めた酒造業者森田本家の屋敷が堂々とある。南側には「水沢街道野田宿 下宿・上宿」と相撲文字で書かれた柱が高々とそびえ前庭には道しるべと歌碑を兼ねたような石碑があった。

北側が本陣の建物のようで海鼠壁の長屋門の前には「伊香保街道野田宿旧問屋人馬継立」の石柱、「野田宿 酒造業 森田本家」と書かれた屋号札、「大庄屋森田宗家邸宅及回遊式庭園 幕臣大久保家采地上州武州八ヶ村大庄屋旧役宅」と記された標柱が建物の多くの肩書きを誇示している。塀には高野長英が逗留したという板書きが貼ってあった。

伊香保道と三国街道の交差点にもどり、北に向かう。左手田圃の端に出羽三山百番供養塔がたっている。そこから二軒目に
「野田宿 下宿 桃井館 森田」と記された屋号看板がたっている。中世に建てられた桃井氏の館跡である。書院造で江戸時代は大名の休憩所ともなった由緒ある建物だそうだが、今は民家(森田家)になっていて外観を覗った限りではで、昭和61年の説明書きにあるように「往古のまま」には見えなかった。

街道はこの先、角にドラム缶を背にして双体道祖神(資料写真I)が立つT字路にぶつかり、右折してすぐ左にまがっていく。広々とした田園がひろがるなか、やがて左に榎と庚申塔を従えた
野田の一里塚が現れる。高崎から4里、三国街道で最初に出会った一里塚である。榎は現在二代目だがすでに半世紀以上も経つ堂々とした大木だ。樹下の庚申塔も正徳4年(1714)と万延元年(1860)銘の立派なもので庚申塚とも呼ばれている。

旧街道は広く開けた田園の中をS字状にのびて吉岡町小倉地区にはいっていく。右手はるかに長く裾野をのばした
赤城山の稜線が美しい。道は県道26号に出、右折してすぐ次の十字路で左折し再び旧道に入る。十字路角に天明時代の馬頭観音が祀られている。両手を合わせた姿は優雅で気品に満ちている(資料写真J)。なぜか台座にタイヤが噛まされている。

旧道にはいり、最初の十字路の左手に
「旧三国街道」の標識と百番供養塔が道をはさんで建っている。百番供養塔とは江戸時代に西国33ヶ所・坂東33ヶ所・秩父34ヶ所を巡礼してきた人達が記念に建てたもの。これまでにも街道沿いにいくつか見てきた。ここから北群馬郡吉岡町から渋川市有馬地区にはいる。

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渋川


旧道は道なりに集落の中を下っていって「(有)群馬ケーアイ」の看板がある門構えの民家の前を左折する。角に道標があるがどうしても読めなかった。西隣の家は赤さびたトタンで屋根が覆われているが造りは大きな
長屋門を構えている。道に面してガラス窓が切ってあり左右は部屋になっていることがうかがえる。時代劇のセットのような趣があっておもしろかった。

すぐ西側に区画整理された田圃に通じる道がでている。田圃の十字路に立つ
高い立派な庚申塔(資料写真K)の傍を通り過ぎ川をわたって左に折れバス通りにでると上有馬バス停付近に有馬の延命地蔵(L資料写真)がある。ここから先はショッピングセンター沿いの真直ぐな道を北上する。

道は台地を上ってゆき行幸田(みゆきだ)集落にはいる。なかほどで
「中筋遺跡」の標識が目にとまり寄って行くことにした。街道からすこし西にはいった民家脇に古墳時代の村遺跡が保存されている。竪穴式住居が復元され、祭祀場には土器が並べられている。榛名山の大噴火で一瞬のうちに埋もれてしまった。

街道にもどり坂を下り川を渡って左に折れ蛇行しながら台地を上っていく。十字路角にガードに守られるようにして双体道祖神が潜んでいる。傍にある「国指定需要文化財 石造笠石塔婆」の標識に対応するものが見当たらない。民家の敷地内になっていて、どこかに移設されたのであろう。

その次の辻角に馬蹄形の車止めを入口にした
馬頭公園があり、奥に4頭の馬に守られた馬頭観音を祀る石祠が建っている。江戸時代個人によって寄進されたもので、珍しい石造物である。一角に馬頭観音を集め、児童公園として整備された。街道のこの場所は馬頭峠とよばれ、この先一気に坂を下って広い伊香保バイパスの「法務局西」交差点を対角線状に横切る。

道路から一段下がった路地を北に進み、市役所通りの「高源地」交差点をわたって直進すると渋川女子高校と渋川南小学校の間の交差点に出る。小学校の敷地内に大きな石とその上に小さな石祠が祀られている(資料写真M)。説明札が校舎に向かって立てられていて、道からはみえない。構内に入るには許可が要って、結局内容を知らずに写真だけ撮って去った。公の歴史文化財は学校の敷地外に設置すべきである。

平沢川を渡り川原町の県道33号に出る。この通りが渋川宿のメインストリートだった。渋川は吾妻川と利根川の谷と平地を結ぶ河岸段丘に作られた町で伊香保からの道と、三国街道・佐渡奉行道がまじわる交通の要衝であった。宿場は西から、裏宿・川原町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と東に延びていて、上・中・下ノ町には交互に市が立って賑わいをみせた。特に下ノ町の
四ツ角(三国街道新道である県道25号と県道33号の交差点)はかって宿場の中心として賑わった辻だが、今は周辺を含めた四ツ角周辺土地区画整理事業が進行中で、辺りは家屋が撤去されて空き地が目立っている。一筋北のかっての路地裏は今や手前の空き地で明るみに出てしまったが、長屋風の建物や岸家の土蔵とケヤキの巨木は往時の面影を残している。

上ノ町の北、並木町を散策する。古い建物が残る静かな住宅街である。
渋川北小学校の南に位置する
真光寺は中世応永年間(1394〜1428)に白井城主長尾景仲によって創建されたと伝えられる。

墓地の脇にひときわ目立つ石塔は上に聖徳太子が、下の角石には願主である武蔵屋梅八の坐像が彫られた
「壱銭職の聖徳太子塔」とよばれるもので、壱銭屋とは床屋のことで、髪結いなどの代金が1銭だったことによる。本堂は寛永7年(1795)の建物で品格をただよわせるたたずまいであった。梅雨の季節は境内が紫陽花でみたされ「あじさい寺」として親しまれている。

県道にもどり、西に向かう。

中ノ町にある
旧渋川公民館は昭和6年(1931)に建てられた3階建て鉄筋コンクリート造りである。石や赤レンガタイルの外壁にはうっすらと色づき始めた蔦が屋根までのびてレトロ風情を醸している。

その斜め向かいには黒々とした店蔵が保存されていた。
堀口家の表札が架かっていた。ただ「登録有形文化財」の青銅パネルが貼り付けられているだけで寡黙な佇まいである。

道が右に折れるところに創業100余年というそば処「けむりや」が店を構えている。看板の脇に明治10年の渋川村里程元標がたっている。もともと石標だったと思うが木の柱に白ペンキ書されている。「伊香保村へ2里7町12間1尺 金井村へ25町○5間3尺」と里程は厳密であった。

中に入って昼食にカレー南蛮そばをたのんだ。入口にそば製粉機がおいてあって実際に運転している。粒が自動的にすこしずつ石臼の穴にそそぎこまれ、引き回して粉になったそばは一回転ごとに集められて下に落ちる仕組みになっている。見ていて飽きなかった。

旧道への入口をこえたところの右手建設会館脇を通り抜けると裏宿にでる。左折して県道35号に合流して吾妻川の河岸段丘を北に向かう。
元町を通り過ぎると金井宿である。


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金井

街道は渋川を後にして金井南町あたりから吾妻川の河岸段丘へと上っていくと、街道の両側に作られた金井の集落にはいっていく。金井本町バス停近くに赤いキャップと前掛けをした
延命地蔵が建っている。

金井宿はなだらかな坂に5町(約540m)にわたって下之町、中之町、上之町からなっていた。5町(300間)を30等分し1戸をおよそ間口10間(約18m)奥行20間と宿割りし東側29戸、西側24戸を下金井及びその周辺より移住させたという。

下之町と中之町の道端には屋根付きの
共同井戸が残っている。下之町の井戸は手汲みポンプだが中之町のはツルベ井戸で、中を覗くと薄暗い穴に緻密な石組みが残されていた。家並みは大きな農家の屋敷がならびときどき白壁の土蔵が垣間見られる。

中之町、八坂神社の向かいの児童公園が
金井宿本陣岸忠左衛門宅跡である。建物はなく、佐渡送りの罪人を留置したという地下牢の跡だけが残されている。周囲は金網で保護されており中へ入ることはできないが、間口3m、奥行き4m、高さ2mの石造りの部屋であるという。そこに何人詰め込まれたものか、さぞかし6畳の穴倉には汗垢にまみれた異臭が充満していたことであろう。

公園の交差点角に
道標があった。「東至 吾妻橋 西至 伊香保町」とある。彫がするどく比較的新しいものとみえる。

左手の庭木を植え込んだ民家は
脇本陣跡で、金網の背後に「旧三国街道 脇本陣跡」と刻まれた石碑があった。金井宿の構成などが記されている。

金井信号交差点は上之町で、すぐに金井宿の家並みをぬけて南牧(なんもく)地区にはいる。吾妻川をはさんで南が南牧、北側が北牧とよばれて、北牧には金井の次の宿場があった。吾妻川の増水や洪水で川留めにあった旅人はここ金井宿で待機した。

南牧にはいりすぐに道が大きく左に曲がるところで、右手に下る旧道が残っている。分岐点に「右 南牧渡船道」と刻まれた道標があった。舗装されていてかっては車道だったと思われるが、現在はその先400mほどいったところに坂を下る新しい道路がつけられ、旧道を通る人はいない。

旧道の坂の途中左手の民家裏斜面に弘化4年(1847)建立の芭蕉句碑が建っている。

  
このあたり目にみゆるもの皆涼し

貞亨5年(1688)「笈の小文」の旅の帰路、岐阜長良川の岸辺に立つ高殿から鵜飼を眺めて詠んだ句である。句碑の後ろに建つ段丘上の民家から吾妻川を見下ろせば同じ風情を感じられたのであろう。

坂を下り右折してJR吾妻線「南牧(なんもく)」踏切手前に南牧の由来を記した石碑が建っている。

南牧の地名は「延喜式」にある上野国御牧*の中に見られる利刈牧から名付けられたという。地名の初見は、長享2年(1488)に白井城を訪れた僧万里集九の紀行文「梅花無尽蔵」に、「吾妻し駿馬目之橋」がある。また天正6年(1578)の北条家禁制文書に「もく」が見られ、寛永8年(1631)の年貢割付状には、「牧村」とある。南牧は佐渡奉行・新潟奉行・越後の諸大名が旅人が通行した三国街道と吾妻の温泉郷・長野善光寺詣りの旅人や吾妻地方の物資が往来した吾妻道が通る。 

三国街道を通行する旅人が船や橋で吾妻川を渡るこの南牧に、江戸城の守りとして、川を要害とした杢ヶ橋番所が元和年間に設置された。寛永8年に関所に改められ、目付一人、与力二人、定番三人が勤番し、中山道の碓氷の関所に次ぐ重要な関所であった。入り鉄砲と出女を厳しく取り締まり、享和3年(1803)に幕府測量方の伊能忠敬が要害内の測量を申し入れたがこ断られている。以下略 平成12年3月吉日 建之 渋川市

 *御牧とは勅旨牧の意味で、皇室の料馬を供給するのを目的とする公牧である。
上野国には利刈牧、有馬牧、沼尾牧、坪志牧、久野牧、市代牧、大藍牧、塩山牧、新屋牧の9牧があって信濃国の16牧についで多かった。、

踏み切りをこえたところで左手に藁葺きの民家が見える。「田中博」宅が
杢ヶ橋関所跡である。元和6年(1620)番所として置かれ寛永20年(1643)関所に昇格した。田中氏は地元から選ばれた関所定番役の一人であった。関所は吾妻川と三国街道を行き交う人や物資を監視した。

家の前の路地を進み畑と竹薮をぬけると吾妻川の川原にでる。川幅は10mほどで思ったほど広くはなかった。

中世には舟橋が両岸を結んでいたが江戸時代になって関所が設けられ対岸に北牧宿場が整備されると、杢ヶ橋とよばれた刎橋が架けられた。

刎橋(はねばし)とは深い谷を越える橋をつくるとき、桁の片方を岸の岩盤や土の中に埋め込み、他方を張り出してその上に桁を乗せていく工法で、甲州街道猿橋に唯一現存している。しかし度重なる洪水で刎橋は流され、結局は渡し舟になって昭和22年まで続いた。今も河原には四角の
穴が穿たれた大石が残されている。

吾妻川をわたるには県道を下川島まで下って北群馬橋をわたるしかない。国道353号をすこし東に戻ったところに北牧宿がある。

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寄り道 榛名山

対岸に渡る前に一ヶ所寄って行きたい所があった。榛名山である。榛名山は中央火口丘の榛名富士とカルデラ湖の榛名湖を有し、最高峰の掃部ヶ岳をはじめとする外輪山に囲まれた山々の総称である。

県道35号をそのまま岡崎までつっぱしり、そこから県道155号で伊香保温泉を迂回して榛名山へ直行する。伊香保温泉は徳富蘆花や竹久夢二ゆかりの地で、旅情豊かな温泉地であるらしいが、時間の制約上、ここは将来の
伊香保街道歩きにのこしておこうと思う。

吾妻町岡崎から伊香保町にはいると収穫をむかえた黄金の稲田の向こうに
二ツ岳の峰がまろやかな稜線をえがいて現れる。途中の高根展望台からは伊香保の温泉街を眼下に、270度のパノラマを楽しむことができる。県道は高原の道を真直ぐに通り抜けやがて湖のほとりに着いた。


榛名湖の西岸からみる
榛名富士(1391m)の姿は美しい。榛名山この地を竹久夢二はこよなく愛した。湖畔には高さ2mもある大きな夢二の歌碑が建っており、商店街には竹久夢二のアトリエが復元されている。

  
さだめなく鳥やゆくらむ青山の  青のさびしさかぎりなければ

榛名湖は昭和15年に発表され高峰三枝子が歌って一世を風靡した「湖畔の宿」の舞台になった場所でもある。
山の淋しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心 胸のいたみに たえかねて 昨日の夢と 焚きすてる 古い手紙の うすけむり

水にたそがれ せまる頃 岸の林を しずかに行けば 雲は流れて むらさきの 薄きすみれに ほろほろと いつか涙の 陽がおちる

ランプ引きよせ ふるさとへ 書いてまた消す 湖畔の便り 旅のこころの つれづれに ひとり占う トランプの 青い女王(クイーン)の さびしさよ

榛名湖西岸から県道33号をたどって南面中腹にある
榛名神社に向かう。

榛名神社は延喜式のなかで上野国十二社の群馬郡小社として位置づけられている式内社である。中世にさびれたが江戸時代になって天界僧正により復興された。

隋神門からはじまる参道は幾多の石段を登りつつ鬱蒼とそびえたつ千本杉、朱塗りの、塩原太助が奉納した石玉垣、矢立杉、双龍門をみて本殿に至る。道のりは500mとあるが実感は1km以上あった。社殿は文化3年(1806)の再建で、
御姿岩と接続していて神体は岩内に祭られている。本社を右に回り込んで御姿岩をみあげると、肩に首が乗るように巨岩が上方でくびれてあやうく乗っている姿である。今までの地震によく耐えてきたものだと思う。頭の部分がいまにも落ちてきそうで、そのときは社殿もペシャンコにつぶれるだろうと、余計な心配をせずにはいられなかった。。

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北牧

北群馬橋交差点から国道353号を東に600mほどいった北牧バス停の南側に、用水をはさんで旧北牧宿の家並みが続いている。北牧宿は寛永20年(1643)、南牧に杢ヶ橋関所が開設されたと同時に対岸に設定された。

吾妻川渡場から道は三筋に分かれ、東から芝宿・古宿、そして中央に用水が流れる
新田宿となり、この3宿は中宿(国道353号沿い)の通りと交わる。宿の中心は中宿と新田宿の交差点近くにあった。今そこに北牧宿の案内板がある。

鍵の手状に中宿を西に50mほどすすむと北の方向に道場宿が延びている。両宿の角を占め長い塀をめぐらせた屋敷が
本陣兼問屋を勤めた寺島家である。道場宿側には塀越しに白壁土蔵が旧本陣の風格をにおわせる。

街道はそのまま北に進み郵便局前のT字路で再び鍵の手状に左・右と曲がって白壁の塀を連ねる民家をぬって坂道を上っていく。往時のままの道幅を残した旧街道を偲ばせる道である。

道なりに坂を上りきると広い市道1号に合流し、角に明和3年(1766)銘の
道標を兼ねた石仏が立っている。浮き彫りの仏の右には「右江戸道」と一方向だけが示されている珍しい道標である。

街道は市道を左にとって広々とした丘陵地を北西に進んでいく。Y字路を右にとると横堀に入る。

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横堀

二つ目のY字路を左にとって坂を下ると葦の沢のほとりに
横堀下宿の地蔵が祭られている。安置されているのは二体の首なし地蔵で、由緒書きによると中山宿から来た男が馬荷のバランスをとるために地蔵の頭を取って重しとしたところ、その後災いが続いたので新たに地蔵を安置したという。駆け上がって堂内をのぞくと一体の首付き地蔵が立っていた。新しい地蔵か。

旧道は地蔵の脇を通り過ぎて県道36号(渋川-下新田線)に出る。北に向かってながい坂道が延び、両側に
横堀宿の家並みが続いている。横堀宿は下・中・上宿とわかれているが宿場の機能は下宿と中宿が受け持った。

街道の右手、宿の中央辺りにりっぱな石垣に塀をしつらえた家が
本陣兼問屋の飯塚家跡である。現在は佐藤家が酒屋を営んでいる。石垣脇に横堀宿の大きな説明板が立っている。


佐藤酒店の北側の路地を入っていくと、横堀宿の鎮守大山祇(おおやまつみ)神社がある。横堀宿をおそった幾度もの大火を免れて一度も火災に遭わなかったと言う。

坂を上り上宿にはいると右手に塚上の一角があって、大きな欅の木と樹下には石碑と野仏が集められている。何の説明板もないが
一里塚のようである。

横堀の集落をぬけると街道の風景は徐々に山深くなってゆき、三国街道最初の難所中山峠をめざして北上する。

街道は白水ゴルフ場の先で左の旧道にはいる。県道と合流したのち
八木沢林道入り口の先あたりからヘアピンカーブをくりかえし四方木で再び部分的な短い旧道を経る。

最初の旧道は県道から左にはいって、道端には花が咲き乱れ牛舎からはのどかな牛の鳴き声がもれるスイスの小村をおもわせる魅力ある小道であった。

県道をよこぎりすぐにふたたび右側の旧道にはいる。坂を上がっていくとみはらしのよい高原に出た。ここから真直ぐに降りる古道があったのだろうが今は跡形も無く、舗装された新しい道が旧街道を県道に誘導していた。

県道はまもなく渋川市をでて吾妻郡高山村中山に入っていく。

(2008年10月)
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