桃井播磨守直常は、我が郷土が生んだ南北朝時代の武将である。下八幡の舘に生まれ長じて城山の麓に館を移したと云う。元弘3年(1333)足利尊氏に従い六波羅政めに参加し、その後播磨守に任ぜられ、越中国守護に封ぜられた。観応の騒乱には足利直義方につき直義亡き後は南朝方に味方し、貞治5年(1366)足利義政と越中に戦った。直常の終焉については判然としないが晩年は桃井荘に隠棲し、ここに没しこの地に葬られたと伝えられる。 この五輪塔は桃井直常の墓と言われ、地輪の上部と水輪の下部に穴があり、ここに納骨した墓塔と考えられる。左の五輪塔は直常夫人の供養塔と言われる。 平成3年4月1日 吉岡町教育委員会 |
南牧の地名は「延喜式」にある上野国御牧*の中に見られる利刈牧から名付けられたという。地名の初見は、長享2年(1488)に白井城を訪れた僧万里集九の紀行文「梅花無尽蔵」に、「吾妻し駿馬目之橋」がある。また天正6年(1578)の北条家禁制文書に「もく」が見られ、寛永8年(1631)の年貢割付状には、「牧村」とある。南牧は佐渡奉行・新潟奉行・越後の諸大名が旅人が通行した三国街道と吾妻の温泉郷・長野善光寺詣りの旅人や吾妻地方の物資が往来した吾妻道が通る。 三国街道を通行する旅人が船や橋で吾妻川を渡るこの南牧に、江戸城の守りとして、川を要害とした杢ヶ橋番所が元和年間に設置された。寛永8年に関所に改められ、目付一人、与力二人、定番三人が勤番し、中山道の碓氷の関所に次ぐ重要な関所であった。入り鉄砲と出女を厳しく取り締まり、享和3年(1803)に幕府測量方の伊能忠敬が要害内の測量を申し入れたがこ断られている。以下略 平成12年3月吉日 建之 渋川市 |
山の淋しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心 胸のいたみに たえかねて 昨日の夢と 焚きすてる 古い手紙の うすけむり 水にたそがれ せまる頃 岸の林を しずかに行けば 雲は流れて むらさきの 薄きすみれに ほろほろと いつか涙の 陽がおちる ランプ引きよせ ふるさとへ 書いてまた消す 湖畔の便り 旅のこころの つれづれに ひとり占う トランプの 青い女王(クイーン)の さびしさよ |